第11話 過去と未来

 小野市の警察署に務める巡査部長、三木遼磨。彼はこの地域で発生している、連続殺人事件について捜査を進めていた。


 犯人は黒いコートを身にまとい、鉈を使用して被害者の右腕を切り落とす。


 現在の死者は四名。その中には警察官も含まれている。極めて悪辣な事件であり、これ以上被害者が増えないためにもこれの早期解決が望まれる。


 しかし犯人の姿は捉えたものの、解決に繋がる重要な証拠は未だ掴めずにいる。




「ありゃ、須磨区で発砲かいな……」


 警察署で調べ物をしていた遼磨に、ふとそんな情報が入ってきた。


「はい。神戸市須磨区の住宅街で、銃撃音が聞こえたとの通報があり、近隣の住宅に穴が開く被害がありました。幸い、けが人は出なかったそうです。」


 遼磨に話しかけているのは、同じく警察署に務める巡査の恵比寿伸也だった。彼は周りに聞こえないよう、そっと遼磨に耳打ちした。


「まだ確実ではないのですが……川田製作所から支援を受けている犯罪組織が、もめ事を起こしたのではと噂が」


「なるほど」


 意外な名前が飛び出してきた。あまり表立って動くことが無かった川田製作所だが、最近は銃撃騒ぎ等、関連組織の事件が増え始めている。


 この小野市ではあまり実感の湧かない話ではあるのだが、注意を怠ってはいけない。


「向こうも向こうで大変なことになっているな」


 もし暴動でも起こされたら、と思うとゾッとする。


「三木さんは何か調べ物ですか?」


「ん、ああ」


 急に聞かれたため、遼磨は少し驚いた。


「小野東高校について少しね」


 小野東高校。神戸電鉄市場駅の近くにある高校で、比較的小規模ながら落ち着いた周辺環境から今も通う人をちらほらと見かける。


 純がかつて通っていた高校でもある。


「事件の解決に向けて、ここも調べる必要があると思ったんだ」


「事件?」


 少し、遼磨の言っていることが分からなかった。彼は困惑する伸也を見て、何故か首を傾げた。


「そうか、君は知らなかったな」


 尚も訳が分からないといった様子の伸也を見て、遼磨が続けた。


「今から七年程前、小野東高校で殺人事件が起こったんだ」




 そこで、伸也はようやく何度も頷いた。


「それについてでしたか。僕は詳しく知らないのですが、どのような事件ですか?」


 まだ配属されて間もない伸也は、事件の存在こそ知っていたが未知の領域だった。


「当時この高校に通っていた竹田葵たけだあおいという生徒が、高校の近くで遺体として発見された。その他にもこの高校の男性教諭が、校舎奥のトイレで死亡していた。凶器はどちらも、大型の刃物とされている」


「大型の刃物ですか……!?」


 伸也は聞き覚えのあるその言葉に、大きく驚いた。


 かつてこの警察署は、小野市の人口増加を踏まえて五年前に設置され、遼磨もその際に配属された。それ以前にこの地域を管轄していたのは、ずっと北にある加東市の警察署だった。


 そのためか、当時は捜査が行き届かずに解決ができなかった。


「ああ。遺体は右腕こそ切断されていないが、今回の通り魔事件と関係があるのではないかと考えている。実際住民からも関連を疑う声もあり、同一犯であれば被害者はかなりの数になる」


 今起こっている連続殺人事件の四人と、小野東高校の事件での二人。もし同一犯だった場合は、六人が犠牲になったことになる。


 どちらにせよ、今自分たちが見えているものは氷山の一角に過ぎないのかもしれない。遼磨はそんな、言葉に表せない嫌なものを感じていた。


「犯人は、高校の関係者でしょうか?」


 重苦しい空気を感じながらも、伸也は遼磨にそう聞いた。


「とも、断言はできない。当時、高校の辺りで不審者騒ぎもあったそうだからな」


 事件があった頃、夜な夜な高校付近の住宅街をうろつく不審者もいたそうだ。今でこそ閑静な住宅街として知られている市場駅近郊だが、以前の雰囲気はあまり良くなかったと言える。


「同一犯なら、時期が離れていることが不可解ですね。あと、右腕が切られていないことも」


「そうだな。だが男性教諭の遺体は、通り魔事件のそれよりも損傷が激しかった。と言うよりも……」


 少しの間があった後、遼磨の口から出てきた言葉は伸也を戦慄させた。


「首が無かったんだよ」


「なっ……!」




「あれ、資料が無いな」


 二人は当時の記録を探るべく、資料室に足を運んだ。しかし、いくら探しても小野東高校の事件についての記録が無い。


「加東の方に残ってますかね?」


 もしかするとここには無いのかもしれない。遼磨と伸也は、一旦資料室から出た。


「移転前の警察署か。あるいは、誰かが持ち出しているのかもしれないな」


「どうしましょう?」


 必要であれば、聞きに行って資料を見つけるべきだろう。だが、遼磨は首を横に振った。


「いや、それは後で良い。今優先するべきなのは事件についての聞き込みだろう」


 遼磨は廊下を歩き、とある警察官を探した。


「広野君!」


 呼び止められた警察官は、ゆっくりと振り向いた。


「この僕に、何か用事ビジネスですか?」


 伸也と同時期に配属された巡査、広野大和ひろのやまとである。


 ……ふざけたような喋り方をしているが、これは彼の流儀ポリシーなので、どうか温かい目で見守って欲しい。


「今から聞き込みに行くのだが、協力してくれないかな?」


 大和は遼磨とも関わりが深く、時折ともに事件の捜査を行うこともあった。


「分かりました、それが必要マストであれば」


「ああマストだよ。ありがとう、助かった」


 幸い手が空いていたので、彼も聞き込みに参加することになった。


「聞き込み、というのは?」


「まずは当時、殺害された竹田さんについて知る人たちを。彼女は美術部に所属していたらしいから、その線でも調べてみよう」


 つまり彼女の同級生、あるいは同じ美術部だった者から話を聞くということだった。


「この近辺アラウンドだと、誰がいますかね?」


 今度は大和が遼磨に聞いた。


「当時美術部の部長だったのは、佐渡満さんだと聞いている。恵比寿君は覚えているかい?」


「あっ、あのマンションの!?」


 以前、マンションで横田という男が遺体で発見される事件があった。純、紫音と共に遺体の第一発見者となった妊婦の女性が、小野東高校の生徒で葵の先輩だったのだ。


 まさか、伸也はここで名前が出てくると思っていなかった。


「同級生ということで、赤石君からも話を聞きたいね。それと、彼のご近所さんにも」


「ご近所さん?」


 当時の生徒となると、現在は二十代のはずだ。はて、純の近所にそんな人がいただろうか?


「最近、赤石君の事務所の隣に越してきたのさ。竹田さんの同級生で、美術部にも所属していた女性だ」


 その人は、紫音が移り住んできた後に引っ越してきた。穏やかな性格の美女で、純を含め周りからの評判も高い。


「斉藤真澄さん、といったかな」




 一方、殺人事件で四人目の被害者が出たことは清良にも伝わっていた。


「残念なことに、小野市で再び通り魔事件が発生したようです。そして今回は、現職の警察官が犠牲になったとの情報が入りました」


 芦屋市六麓荘に屋敷を構える芦屋財閥。地域の発展と保安を目標にしており、川田製作所の悪事を阻止すること。そして小野市の殺人事件を解決すべく、時には警察の力も借りながら活動している。


「警察官か、やはり被害者に接点が無いので通り魔の線が濃いな。せめて逮捕となる前に、一つ話が聞きたいところだな」


 一蔵も警察の面々が推測しているのと同じく、犯人には余罪があると考えている。まだ有用な証拠が集まっていないということは、犯人はこれからも殺人行為を繰り返し、そして恐らくは死刑となるだろう。


 一度犯人を突き止めると決めたのだ。ならばそれが叶わなくとも、この目で犯人の顔を見てみたい。


「やめておいた方が良い、と私は考えます。お言葉ですが、あのような者たちは総じて人間を辞めていますので、彼らの言葉に耳を傾ける必要性が感じられません」


 清良はあくまでも個人的な意見として……しかしはっきりと否定した。通り魔なら殺人に及んだ理由など目に見えている、日々の生活に腹が立ったからだろう。


 そんなことで人の命を奪い、住民に恐怖を与えて苦しめているのだ。当然許せることではない。


「それは話を聞いてからでも遅くはないと思うがね……おっと、今日は確か神戸空港に行く用事があったな」


 一蔵はゆっくりと席を立った。そう、今回は川田製作所絡みの用で神戸空港に行かなければならない。


「はい、私も準備をしてまいります」


 事件についても重要だが、まずは川田製作所を何とかする必要がある。清良は着替えるべく自室に戻った。




「今日は、少し人が少ないかもなあ」


「平日、それも日中なのが理由でしょう。日が落ちる頃にはもう少し賑わうはずです」


 今回も清良の運転で、芦屋の大きな坂を下った。神戸空港までは少し遠く感じるが、一蔵もいる中で公共交通機関を使うのは良い選択ではない。


 南に下った後の道が比較的分かりやすいのが幸いか。


「いつもすまないな。できれば、私が運転したいところだが」


「いえ、芦屋様はもうお年を召しておられますので危険ですよ」


「そういう意味ではないさ」


 その反応を、清良は少し疑問に思った。優しさの中に、寂しさも混じったような声。


「運転をすると、彼女が後部座席にいるように思うんだよ。だから……」


「伊織様、ですね」


 清良は、深くは追求しなかった。一蔵もこれ以上は聞かれたくないのだろう。


「失礼しました」


「君が謝ることじゃない。私が悪いんだ、私が……」


 途端に車内は静かになり、重たい空気が二人を包んだ。




 しばらく経った後、車は神戸空港に到着した。


「芦屋様、お足元にお気を付けください」


「ああ」


 神戸空港、愛称はマリンエアという。ポートアイランドの沖合に造られた人工島に建設され、国内線のみでコンパクトながらも、神戸からのアクセスが良い。


 そんな神戸空港であるが、警察から芦屋財閥に入ってきたのは驚きの情報であった。


「川田製作所が密輸、だったかな? 私には詳しい経緯がよく分からなかったのだが」


 二人が今いるのが一階で、到着ロビーや総合案内所がある。エレベーターに乗り込み、清良と一蔵は上層階に移動した。


「順に説明します。中国からの団体ツアー客が覚醒剤を掴まされていまして、既に新千歳空港に到着していることが確認されています。川田が関わるのはそこからで、新千歳より覚醒剤の入った荷物を受け取り、国内線で神戸空港に行くというものです。最終便に近いものですので、人目を避ける目的もあると思われます」


「団体、つまりモノも小分けだな。わざわざ羽田や関西国際空港を避けている辺り、川田も強い検疫を警戒しているようにも感じられる」


 二人が足を踏み入れたのは二階の出発階。ポートライナーの駅と直結しており、ここが出発ロビーになっている。


「そういえば、なぜそんな情報が?」


 一蔵は少し不審に思っていた。中国からそのような客が来たというところまでは分かるのだが、川田製作所が神戸まで運ぼうとしているという情報はどこから入ってきたのだろうか。


「先日須磨区で、川田から支援を受けていた組織の人物が発砲事件を起こしました。しばらくした後逮捕されたのですが、その者たちの情報です。新千歳までの足取りが掴めたため警察も確実な情報と判断したようです」


「そうか。発砲事件があったのは私も知っていたが、思わぬ情報だったな」


 清良は静かに頷き、広大なロビーを見回した。


「今回は川田を阻止するべく、神戸空港の下見をしていきます」




「屋敷の外なのだから、もう少し軽装でも……」


「いえ、芦屋様の傍にいる際にそのようなことはできません」


 今回の清良は、公共の場ということでスーツを着用している。一蔵は私服でも良いと言っているのだが、本人が一蔵の前でそんなことはできないと拒否しているのだ(あくまで名誉的な意味で)。


「土産屋か、少し立ち寄ってみよう」


 一蔵が見つけたのは、エスカレーター横にあるお土産屋である。スイーツやお菓子だけでなく、ちょっとした雑貨も売られている。


「有馬の炭酸せんべいがあるのは素晴らしいな」


 今まで険しい顔をしていた一蔵だったが、ほんの少しだけ表情が緩んだように見えた。また、清良も楽しげな様子だった。


「分からない、何故無いのですか?」


 と、清良が雑貨コーナーで何かを呟いていた。


「どうかしたのか?」


 一蔵が歩み寄ってその様子を眺めていると、彼女が何を探しているのかが分かった。


「御影お気に入りの、黄色いハトがおらんな」


 何も難しいことではない。売られているキーホルダーの中に、はばタンのものが無かったというだけの話だった。


「失礼ながら、はばタンはハトではなくフェニックスです」


「何、だと!? それは知らなかったな」


 もう一度付近の売り場を見渡してみたが、はばタンのグッズは存在しなかった。


「南京町の、名も知らぬ竜はいるのに……ぐすん」


「仕方あるまい、ここは観光系の商品が中心だからな」


 兵庫県内では人気のあるはばタンだが、他県ではあまり知られていない気がする。関東の人に見せても、地元のゆるキャラ程度の認識だろう。


 ほんの少し涙目になる清良に、一蔵は少し同情してしまった。


「というよりも、ここが目当てではないだろう。上に行って、滑走路を見てみるか」


「はい……」


 一蔵に促され、今度は展望デッキに上がることになった。




 三階の飲食店、カフェのあるエリアを通り抜け、屋外の階段を上がった。


「ほう……ここは広いな」


 展望デッキ。ここから滑走路を見ることができるため、家族連れや多くの人で賑わいを見せている。


 一蔵は一気に広がった景色に感動を覚えた。だが、清良はまだ不機嫌を引きずっているようだった。


「……誰です貴様は、はばタンを出しなさい」


 彼女が睨んでいたのは、柵に取り付けられたポスター。鳥のキャラクターが「むやみに触ると危ないよ」という旨のことを言っている。そう、はばタンではない謎のキャラクターである。


「趣旨が逸れているぞ」


「すみません。しかしこの空港は、兵庫県のことが嫌いなのでしょうか?」


 逆にこういうところにまで県を押し出したら違和感があるだろう、と一蔵は心の中で呟いた。気を取り直して、二人は滑走路の様子を眺めた。


 遠くに見える海と、そこから吹いてくる風が心地良い。


「芦屋様が仰る通り、滑走路や土地は広いですね。ただ何でしょう、寂しく感じます」


 広大な滑走路に反し、停まっている飛行機は一機だけ。国内線のみなので仕方ないのだろうが、何だか物寂しい雰囲気が漂っている。


「ここも国際線を開通させるという計画があるようだ。心配することは無いさ、神戸空港の歴史はここからだ」


 兵庫県の発展を望む芦屋財閥の人間として、地域の理想を捨てて諦めることはできない。一蔵は常に前を向き、自分がこの土地のためにできることは何か。それを考えているのだ。


「ええ、この空港はまだまだ発展し、交通の要となるでしょう。ですから……ここの未来は壊させません」


 川田製作所は、何としてもここで止めてみせる。清良がそう覚悟した時、ちょうど一機の飛行機が飛び立った。


「あっ」


 徐々にスピードを上げ、陸から離れる。轟音を立てながら誇らしげに飛び立つその姿は、とても誇らしい姿で美しかった。




 「よし、大方見て回ったな」


 二人は展望デッキの散策も終え、再び二階に戻ってきた。


「川田製作所が来る時間は?」


「夜の十時過ぎです。新千歳からの最終便で来るとのことですが、万が一の事態に備えて二時間前より待機します」


 警察も待ち伏せているため、実際に彼らが来た場合は即逮捕になるだろう。ただし相手が抵抗することも考えられる、そのための御影清良だ。


「最悪銃弾までなら素手で防げます。流石にライフルやグレネードランチャーは厳しいでしょうが」


 清良は自らの手を見つめた。綺麗な……だがしっかりとした力強い手だ。


「そこまでできるなら十分過ぎるだろう。では確保に備えて、この辺りで戻るとしよう」


 一蔵は足を進め、空港から出ようとした。


「待って下さい、芦屋様」


 と、清良に引き留められた。振り返ると、彼女はとある場所を指差した。


「見ていただきたいものがあるのです」


「ん?」




 そこには、様々な写真が貼られていた。見てみると、神戸空港の従業員と、当空港を利用した旅行客の写真だろうか。


「神戸の街か」


 その写真たちは集まり、一つの絵を形成している。ポートタワーがそびえ立つ横で飛んで行く飛行機。そしてそれを見守る人々がおり、「KOBE AIRPORT」の文字が描かれている。


「この神戸空港は、一人一人の思いと努力から成り立っている。それに気付かされる作品ですね」


「作品……ある意味、これに勝る輝きを持つものは無いのかもしれないな。」


 何だか、彼らからエールを貰ったような気がした。最後に一礼をして、清良たちはその場を立ち去った。




 川田製作所。現在は川田燗信かわだかんしんという男が会長を勤めている企業だ。しかしその前身は、どこにでもある小さな工場であった。


「父さん、毎日仕事頑張ってるなあ」


 燗信の父が設立した工場である。現在の川田は車両、航空機の部品を製造する企業となっているが、この時から既に自動車の部品製作、局所的な修理も行ったとようだ。


「えっ、俺の仕事を継ぐ?」


 ある日、高校生だった燗信は父に自身の夢を告げた。それは父の仕事を継いで、自身がこの工場を支えること。


「うん。俺がこの工場を、立派な企業にしたい。だから、俺はいつか2代目の会長になりたい」


 父はしばらく呆気に取られていた。息子は工場になんて、興味が無いと思っていたからだ。だが、彼は言葉にできない程嬉しかった。


「何言っとるんや。ここはまだ、会長がどうとか言える程でかくないわ」


 彼はそう言って笑った後、燗信の頭を優しく撫でた。


「ありがとう。いつか、ここが大きな企業になってからな」


「父さん……」


 工場は中々成果を出すことができなかった。だが父は燗信に工場を継がせるため、そして燗信は父の跡を継ぐために努力した。


「いつか、川田を世界一の企業にするために。俺は頑張って、父さんの跡を継ぐんや」


 しかし、そんな時にあの災害は来てしまったのだ。




 一九九五年一月十七日。阪神淡路大震災が起き、兵庫県は壊滅的な被害に見舞われた。


「そんな、まさか……!」


 身の安全を確保した燗信は、まず自宅から工場に向かった。不幸なことに、昨夜から仕事が立て込んでいた父は、朝早くに工場で作業の準備をしていた。


「父さん、聞こえてたら返事してくれ!」


 工場は完全に崩落しており、燗信が駆け付けた時には酷い有様となっていた。周りに助けを求めようとしても、余裕のある人間なんていない。


 みんな、崩れ去った家を見て泣いている。


「も、燃えてる!?」


 そして、工場は火災に遭った。


「どうしてだよ! 俺が、この工場を継いで、父さんに笑顔になって欲しくて……」


 水道が通っていなかったため、消防車は来ても意味がない。いったん燃えてしまうと、消火のしようがなかったのだ。


「あんまりやろ……! 父さんを返せよ、おいっ!!」


 だが、きっと崩落した時点で既に手遅れだったのだろう。


「ううっ……!」


 結局、炎は燃え尽きるまで止まらなかった。燗信はそれを見つめたまま、何もできなかったのだ。




 一年後、町は少しずつ元の姿を取り戻していった。大きな被害を受けた兵庫県南部だったが、人々の諦めたくないという思いが強かったのかもしれない。しかし……


「父さんは、もうここにはいない。そして、工場も」


 復興していく町を見るたびに、燗信の心は痛んだ。まるで、自分だけが時代に取り残されているような感覚だった。


「いや……父さんは生きてる。俺が父さんを忘れん限り、父さんは生きてるんや」


 燗信は工場を復活させるために、努力しようと決めた。だがそれは、まともな道、まともなやり方ではない。


「俺が川田を、世界一の企業にする」


 二十世紀も終わりに差し掛かり、一つの時代が終わりを迎えようとしていたその時。川田製作所二代目会長、川田燗信はここに誕生した。




「ようやく帰ってこれたな。御影、下見はどうだった?」


 一蔵と清良は、下見を終えて屋敷に戻ってきた。


「ええ、上手くいきそうです。川田製作所の好きにはさせませんよ」


 これから現地に行くのは清良だけだ。一蔵は屋敷で、彼女の帰りを待ち続ける。


「私は待つぞ、御影が帰るまで」


「そんな、良いですよ。きっと遅くなるでしょうし……」


 自分が帰ってくる頃には、もう日を跨いでいるかもしれない。清良は笑いながら遠慮していたが、一蔵は真剣な顔のままだった。


「行ってまいります、芦屋様」


 最後に礼をした清良は、再び神戸空港に向かった。


「ふう……」


 清良は、もういなくなっただろうか。一蔵は椅子に座り、机から写真を取り出した。


「伊織。お前がいなくなってから、随分とここも寂しくなった」




 一蔵の娘、芦屋伊あしやい織おり。病弱で部屋から出ることさえ少ない、そんな子供だった。だがそんな伊織にも、楽しみにしていたことが一つだけあった。


「パパ、今日もお出かけしようよ!」


「またか? ようし、仕方ないな」


 一蔵が車を運転する時、彼女はいつも後部座席にいた。


「あそこ、電車が通ってるよ! 紫色の」


 一蔵もいつしか、伊織とドライブに行くことが楽しみになっていた。


「あれはマルーンだろう。しかし最近は近代化とやらが進んでいるのに、阪急はいつになっても変わらんなあ」


 伊織といるとき、自分はいつもより笑顔になれる。彼女もきっと楽しいだろう。


「また出かけような、伊織」


「うん!」




 しかし、彼女は二十歳の時に亡くなった。元々病気がちであり、亡くなるまでの数年は外にも出られない状態だった。


「こうなるかもしれないと、私も思っていた。だが、私はせめて大人になった伊織の姿を見たかったよ」


 それ以来、一蔵は自分で車を運転していない。


 そして、一蔵は清良に一つだけ隠していたことがあった。伊織の顔についてだった。


「この写真を見れば、御影はどう思うだろうな」


 短い髪に、整った顔立ち。どういうわけか、伊織と清良は瓜二つの外見をしていたのだ。だから一蔵は清良と出会った時、迷わず彼女を傍に置こうと決断した。


 清良は伊織の存在を知っている。でも彼女の写真は見せていない。きっと、幻滅されるだろうから。


「伊織。私はいつまでも、お前の父でありたかった」


 病弱だった伊織と違い、清良は力強い。かつては清良を守りたいと思っていたのに、自分の方が助けられてばかりだ。


 そんな彼女に、一蔵は自分の最期を見届けて欲しいのだ。それが、今の彼の望みだ。




「しかし、上手くいくでしょうか」


 一方、清良はポートライナーに乗って神戸空港に向かっていた。反対側、神戸空港から三宮に向かう便は混雑しているが、こちら側はさほど混んでいない。


「お父様がいた頃は、あの人を目指すことが私の目標だった。しかしお父様からすべてを教わった今、私が強くなれる目標はどこに……」


 案外当然に思っている人もいるかもしれない。自分が達成すべき目標があること。だがそれが無くなった時、人は突然の孤独に襲われることもある。


「力を、貸してくれますか?」


 はっきりしない気持ちを抱えたまま、清良ははばタンのキーホルダーを握りしめた。そして、神戸空港が徐々に近付いてきた。




「さて、神戸に着いたな」


「ああ」


 それからしばらくした後、川田製作所の関係者四名は、当初の予定通り神戸空港に到着した。


「しかし向こうもカモだな、お出迎えはねえ」


 案外誰かが来るものだと思っていたが、ロビーには特にそのような人物がいない。


「油断するなよ。拠点にこいつを運ぶまではな」


「もちろんだ」


 そうは言っているが、四人は完全に油断し、緩み切っていた。少し大きな声で話し、彼らは空港を出ようとした。




「おやおや、加茂かもでしたら三ノ宮からJRに乗ると良いですよ。まあ、あなた方はここで終わりですけどね」


「誰だ」


 そんな時、椅子から女性の声が聞こえた。


「何時間も待たせないでくださいよ。そんな遅くに移動したところで無意味ですよ」


 椅子から立ち上がったのは、スーツを着た女性。


「芦屋財閥の御影清良です。皆さんを確保しにまいりました」




「ここは俺が止める」


 一人が前に出て、残りの三人を逃がした。


「分かった、頼んだぞ!」


 エレベーターに乗り込み、三人は下の階に逃げた。


「用心棒ですか。それでは、いきますよ!」


 清良は敢えて、逃げた者たちのことは気にしなかった。


「天地流奥義、明鏡めいきょう矢し垂すい」


 そして力をため込み、男に向かって走った。


「ふんっ!」


 だが清良の拳を、男は受け止めた。続けて蹴りを放つが、これも避けられる。


「やりますね」


 以前の強盗とは違う、清良はそこで強い相手だと確信した。


「今度は、こちらからだ!」


 間髪入れず、男は清良に殴りかかってきた。


「ぬうっ……!」


 ある意味、清良が若干苦戦するのは珍しいかもしれない。両腕でそれを止め、負けじと清良も男に立ち向かった。


「まだまだです!」




「やっぱり、見つかっていたか」


 その頃、残された男たちはエレベーターで一階に降りた。


「車を出すように伝えろ。まだ勝機はある!」


「ああ」


 男の一人が携帯を取り出し、仲間に連絡しようとした。


「おい待て、あれを!」


 しかし、出入り口にはパトカーが何台も停まっていた。そう、清良はこれに気付いていたからこそ彼らを見逃していたのだった。


「ちっ、いけると思ったのに……!」


 彼らが神戸空港に降り立った時点で、勝負は既に決していたのである。


「さあ、観念しろ!」


 パトカーから、複数の警察官が降りてきた。




「私は、私が正しいと思った者のために戦う! そう、芦屋様のために!」


 そして、清良は男を殴り飛ばした。


「何を為すべきかも見失い、力の使い方を誤った貴様に負けるはずがない!」


 清良は上に跳んだ。男の攻撃が届かぬ、はるか上へ。


「天地流奥義、竜虎醒遂りゅうこせいすい!!」


「うああっ!」


 かかと落としで、男の体は床に打ち付けられた。


「考え直しなさい、もう一度!」


 そして、男は気を失った。すぐに警察が到着し、この男も連行されることだろう。


「しかし、拠点とは何だったのでしょう」


 彼らは持ってきた覚醒剤を、「拠点」に運ぶと言っていた。こういう言い方をしていたということは、谷上の本社ではないような気がする。


「まだ、調べる必要があるようですね」


 ますます、謎は深まるばかりだった。




「何とか、帰ってこれました……」


 一時は不安になっていたが、ポートライナーの最終便で帰ることができた。とはいえ、やはり〇時は過ぎている。


「流石に芦屋様も眠っていらっしゃることでしょう」


 彼女は自室に戻ろうとした……だが、


「芦屋様、まだ起きていらっしゃいますよ」


 メイドの一人がこっそりと駆け寄ってきた。


「ええっ!?」


 驚いて、清良は執務室に向かった。


「遅かったな。使用人にも寝た方がいいと言われたが、待っていたよ」


 そこには、一蔵の姿があった。清良自身も大丈夫だと言っていたのに、彼女を待っていてくれたのだった。


「芦屋様……!」


 目標が見つからないことで、悩む必要なんてなかった。


 父の思いを受け継ぎ、一蔵と共に困難を乗り越えていく。それが誰よりも強くて心優しいメイド、御影清良の使命だったのだから。


「おかえり、御影」


 一蔵は穏やかな声で、清良に挨拶をした。そうだ、これを忘れていた。


「ただいま帰りました、芦屋様!」


 清良も、輝くような笑顔で返した。




 続く

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