第12話 互いに想い合う

「はい、もしもし」


 辺りは夜になり、暗い道を街灯が照らしている。


 純は真澄と神戸に出かけた帰り、紫音から留守電があったことを知る。不思議に思いながらも、彼は紫音に電話をかけたのだった。


「深山です。留守電、ちゃんと届いてて良かったです」


「ああ、しかし今時留守電なんて珍しい……」


 珍しいな、と言いかけた純の口が止まった。


 やはり紫音は機嫌が悪いように感じる。少なくとも、明るい話題ではない。


「……どうして電話を?」


「斉藤さんと、随分遅くまで遊んでたみたいですね。帰りも、荷物を持ってあげてて」


「見てたのか」


 どこまで見られたかは知らないが、紫音は恐らく誤解している。


 自分が真澄と出かけたのは、彼女がどういった意図で自分に近づいていたのか聞くためだ。結局、彼女は高校時代の恋人だった……らしい。


 そしてもう一度付き合わないかと迫られたが、断った。……いや、瀬名がいるのに一緒に出掛けた時点で、自分も悪いのだろう。


「こんなことを言っても信じられないかもだけど、俺は真澄さんのためにやったんだよ。別にあの人に対してそんな気持ちがあったわけじゃないんだ」


 恋人だったと伝えれば状況が悪化すると感じ、そこは隠した。だがそうすると、本当のことを言っても言い訳のような言葉になってしまう。


「馬鹿言わないでくださいよ! 高校の時、赤石さんは真澄さんのことが好きだった。でもあの人に彼氏がいるから奪いたくなったんでしょう!? しつこく付きまとうなんて……最低」


 紫音の放った「最低」という言葉は冷たいものではなく、むしろ必死に振り絞って出した言葉に聞こえた。だからこそ、純の心は一層痛んだ。


「はっきりしてくださいよ、赤石さん。事件を解決するのか、自分の気持ちを優先させるのか」


 ああ、「自分」はやってしまった。


「今の赤石さんは、よく分かんないですよ……」


 最後は紫音の言葉で、電話が切れた。


「分かってるよ、それは俺だって」


 もう何も言わない受話器を、純はそっと置いた。


 自分の不用意な発言と行動が、紫音を怒らせてしまった。彼女だって辛いはずなのに、これ以上傷つけてどうするんだ。


「あー、失敗した」


 気が抜けたような独り言で、自分を紛らわすのが精一杯だった。


(でも、どうして深山はあんなに怒ったんだろうか。今までのあいつなら、俺のことなんてそもそも無関心なのに。)


 それほど、紫音にとって自分が大切に思われているのか。まだ、純は何も分からなかった。




「私、どうしてあんなことを言っちゃったんだろう……」


 紫音は電話を一方的に切った後、ゆっくりと壁にもたれかかった。


 彼女は少し気になり、純と真澄がどんな様子か駅まで見に行ったのだ。何も話していなかったのが気になったが、純は真澄のものを含めて二人分の荷物を持ってあげていた。こんな遅くまで、楽しそうに。


(何か、不安になってくる。)


 紫音は別に嫉妬しているわけではないと、はっきり言える。


 でも孤独だった自分を救ってくれたのは純だった。そしてこれからも、ずっと純は自分を導いてくれると勝手に思っていた。


 だが純の中で、自分とはそんなに軽い存在だったのだろうか。以前の生活に逆戻りしたような気がした。


「赤石さん、もっと私を見てください。褒め言葉でも悪口でもいいから、私の目を見て何かを話してくださいよ……」


 紫音はただ、寂しいだけだった。以前なら、あの男に嫌われてもなんとも思わなかったのに。


「ああ。私は、赤石さんのことを大事に思ってるんだなあ」


 純と「相棒として」過ごす日々は、紛れもなく紫音の心の中に刻まれていたのだ。悲しい形であったが、それを初めて実感できた。




「紫音、ご飯ができたよー!」


 その少し後、凛子が晩御飯を作ってくれた。彼女は部屋にいる紫音を呼んだが、しばらく返事がない。


「今日は大丈夫」


 しばらくして、少し疲れたような声が返ってきた。


「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ」


「それはそうなんだけど……ごめん、何だかちょっとしんどいの」


 その声で、凛子は紫音が置かれている状況を察した。


「えー、もう紫音の分も作ってるのにな」


 そう言って彼女は、料理の一部をラップにかけた。


 深く追及するべきか、そっとしておくべきか迷った。でも、紫音の心の傷を悪化させることが怖かった。


「ごめんなさい」


 紫音はもう一度、凛子に謝った。




 紫音は何もせずに、椅子に座っていた。


 ご飯はちゃんと食べないといけない、歯を磨かないといけない。「やること」がどんどん、自分の心に重たくのしかかってくる。


「ああ、もう何もしたくない」


 今日の紫音は、何かをする気力も無くなっていた。


「もうどうにでもなればいい。探偵なんてもう知らない、事件なんてもう知らない……」


 紫音は布団に入った。いけないことだとわかっていながら、紫音は少しずつ目を閉じてゆく。


「私なんて、もう知らない」


 最後は少し涙声になっていたが、本人は知る由もない。


「はぁ……」


 少し乱暴に被った布団はまだ冷たかった。けれど、いつかは暖かくなって……




「はあ、俺ってどうしようもないな」


 一方、ひどく落ち込んでいたのは紫音だけではなかった。


 純は父の心配をよそに、机で考え込んでいた。時刻は十一時、これ以上起きてもどうしようもないだろう。しかし、純は部屋で眠る気になれなかったのだった。


(これで取り返しのつかないことになったらどうする。いや、そもそも取り返しのつかないことって何だろうな……)


 正直、今回のことは「純が高校時代の未練を引きずり、今の彼氏である瀬名を完全に無視して彼女にアプローチをした」と捉えられてもおかしくはなかった。


 確かに純も真澄に対して好意を抱いている、その気持ちは確かにある。ただ今回、誘いを断って彼女を悲しませたくないという思いに駆られ、後先を考えずに軽率な判断をしてしまった。


 結局瀬名が傷つくことを考えれば、真澄がどうであれこの誘いは断るべきだった。


「恋人、か」


 真澄はこう言った、貴方はかつて私の恋人だったのだと。かつて純は真澄のことが好きで仕方なかったのだ……それこそ彼女にその想いを伝えたくなる程には。


「どうするべきか、俺の気持ちを伝えないと」


 中途半端に迷っていれば、関係のない人まで傷つけてしまう。


 なら今の自分が。記憶を失って、一度人生を改めた自分こそが決断するべきなのだろう。


「ふうっ……」


 やはり考え事をしたからか、布団に入って休む気にはなれない。仕方ないので、いつかのように机に突っ伏して目を閉じた。




 静まり返った探偵事務所で、ドアが開く音が聞こえた。もちろん、鍵を開けたまま寝る程純たちは無防備ではない。


「フ、フ、フフ、フフッ……」


 そして何者かが、階段をこっそりと上っていった。




 紫音が目を開けると、もう朝になっていた。


「……もう朝? しまった、昨日寝ちゃったんだ」


 晩御飯も食べてなければお風呂にも入っていない。そういえば、凛子はどうしているのだろうか。


 ひとまず起き上がろうと紫音は体を動かした。


「ん?」


 すると、自分の手に何かの感触があった。


「黒い……これ何だろう」


 細長くて黒い、棒のようなもの。もやもやしたものではなく、しっかりと形はある。


「意味分かんない」


 さらに不思議なのがこの棒、手から離せないのだ。厳密には、ずっと持っていたいという感覚に襲われるため離す気が起きない。


「まあ、いっか」


 そして、紫音は部屋を出て食卓に向かった。


「紫音……! 大丈夫だった?」


 食卓には凛子が座っていた。不安と、安心両方の感情が入り混じった顔だった……棒を見ても無反応ということは、これは他の人には見えないのだろうか。


「おばあちゃん」


「大丈夫だよ」と答えようとした。しかし、紫音は何故かこう答えてしまった。


「ううん、全然大丈夫じゃないよ。心がしんどい…これもおばあちゃんがしっかり面倒見てくれないからだよ。どう責任取ってくれるの? 私とっても寂しいよ」


(えっ、どうして!?)


 どういうわけか、自分が言いたいことと違う言葉が出てきた。


「ごめんね。でも、私は紫音ちゃんのために…」


「私のために!? そんなこと、軽々しく言わないでよ!」


 自分の意志と関係なく、紫音は怒って叫び始めた。


「じゃあおばあちゃんは、私が死んでほしいって言ったら死んでくれるの? それが私のためだったら、何でもしてくれるの?」


 徐々に語気が強まっていき、心にもないことを言い続ける。悲しげな凛子の顔が、紫音の心に突き刺さった。


「もっともっと私のことを愛してよ……でないと!」


 そして、紫音は持っていた黒い棒で凛子を叩こうとした。


(やめて!)


 紫音の叫びが届いたのか、棒はほんの少し凛子の体を掠めただけで止まった。だが、




「う、ああっ!」


 凛子は叫び声を上げながら、黒い光となって消えた。


「何で……!?」


 力を込めたわけでもない、ただほんの少し棒が当たっただけだ。しかし、凛子は消えていなくなった。


「自業自得だよ。私のことを好きになってくれなかったんだもん。これも私が愛されるため、だから仕方ないよね」


 また、自分が勝手に喋り始めた。


(この棒に触れた人は消えるの? まずい、早く捨てないと!)


 すぐに黒い棒を捨てようとするが、体が動かない。いや、こんな魅力的で綺麗な物を、どうして捨てようと思ったのだろう?


(捨て、られない。)


 人の心とは恐ろしいものだ。ある時は、その人の行動さえ制限してしまうのだから。


 そうやって紫音が立ち尽くしていると、インターホンが鳴った。


「はい?」


 突然、体が自由に動くようになった。紫音は玄関に向かい、ドアを開けた。




「あっ!」


 そこにいたのは、紫音の両親だった。


「お父さん、お母さん。どうしてここに?」


 何か急な用事があってここに来たのだろうか。紫音がそう聞くと、母が前に出た。


「紫音、こっちに来て。お家に帰るわよ」


「お家って……ううっ!」


 母に手を掴まれ、紫音は引きずられるように外に出た。


「お前は出来損ないの子供だ。こっちの家でも、お前はおばあちゃんに暴力を振るった。帰ったら覚悟しろ。」


 父も、紫音を引っ張る母を止めようとしない。一瞬頭の中が真っ白となり、何も見えなくなった。


「ダメ……私は赤石さんと一緒にいたいのに!」


「赤石純は立派な大人、そして紫音はただの子供。もしかして愛しているの? はしたない、みっともない。」


「違う、そんなのじゃない! ただ私は赤石さんの力になりたいだけ!」


 必死に抵抗するが、母の手を振りほどけない。


「どうしたら良いの?」


 焦る紫音は、手に持っている棒が目に入った。そして、紫音は再び妙なことを口にし始める。


「どうして私に乱暴して引っ張るの? 私のこと、愛してないの? ねえお願い、私のことを好きになってよ」


「何を言っているんだ! 父さんや母さんはお前を愛している、お前は何も分かっていない……」


「何も分かっていない? 今、何も分かっていないと言ったなあ? 今、たった今、私の人生を馬鹿にしたな!?」


 急に紫音は、いや紫音を乗っ取っている「何か」は怒りを露わにした。


「私はね、常に愛に満ちて愛を求めて愛されているんだよ。それは一番近くにいる家族にもあまり話したことのない他人にも私は等しく優しく愛されるために私は常に努力しているの。それはもちろん私が優しく接していれば相手も私のことを愛してくれるからね。だって常識でしょ? 人に優しくしてもらったら自分も優しく接するって当然のことじゃないかな。誰かが愛してくれたら私もその人を愛する。そうやって愛というものは循環してこの世界にいる人たちは愛というものを心の底からそして流れる血の一滴一滴から愛を感じるんだよ、分からない? そうだよねお父さんとお母さんは愛の知らない可哀想な人だから。というか人じゃないよあんたたちは私の親に化けた何かだよね。あはっ図星だった? そうでしょ私って天才だもん何でも分かってるんだから。見て見て私ってこんなに可愛いよ。髪もお肌もつやつやでお姫様みたいに可愛い。まだ子供なのにね、愛というものを知り尽くして愛されるために努力しているという賢さもある。自分でこんなこと言うなんて気持ち悪いかな? ごめんなさい許してお母さんこの可愛い私を。おい許してって言ってるのになんとか言えよ親の皮をかぶった化け物めっ! あんたは異常だ実の家族に暴言を吐いた挙句自分が正しいと思い込んでる。病気か何かじゃないのあんたは。私はお姫様、深山紫音様なんだけど? そもそも私というお姫様があんたとかいう下等生物と同じ次元で話しているってだけで貴重で神々しくて尊いことなんだよ。おいいい加減その醜すぎてもう芸術作品のようになっているような顔をやめて私に頭を下げろっ!! 年齢を重ねれば何かが得られ、何の苦労もせずにエスカレーターのごとく偉い地位につけると思っている醜い汚物め。増えたのはシワと更年期間際特有の古臭い価値観とそこから溢れ出す醜悪さだけだったね。そして何の根拠もなしに自分のやってることは正しいと信じて疑わないからあんたってもうどうしようもなくて救いようがないよね。今まで私を見捨てて楽しかった?ああどうせ楽しくて楽しくて後々どういうことになるか見当もつかなかったんだろうね。散々に人を見下して欲求を満たして道徳や倫理感というものが欠片も無い。もうあんたのことはいいよゴミ。そういえばお父さんはさっき私のことを出来損ないなんて言ったよね? どうしてそんなこと言ったの? 私ってこんなに可愛いよ。可愛いだけじゃなくて貴方の考えてることもすぐに分かる。そうしてお父さんが望むことをすぐにできる。だって私はお父さんのことを心から愛しているからね。実の娘に愛されるのは嫌かな? でもさ、私は十四年間お父さんの傍にいたよ。ある時は一緒にお出かけしたり頭を撫でてくれたり一緒に寝てくれたりもしたよね。だからきっとお父さんにとって一番の女の子になれるよ。そこのお母さんの皮を被った出来損ないと違ってね。私は愛されているから愛に満たされているから。ねえ何か言ったらどうなの? ねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい答えてよ答えろって言ってるだろ耳あるだろ!! 私を捨てる気? あんたにとって私は喋るお人形さんか何かなの? もういいよ私は信じてたのに。あんたみたいな出来損ない第二号に愛想を振りまいた私が馬鹿だったよ。どうしてどいつもこいつも愛が足りないのかな。私が愛してやるって言ってるじゃないの。だったらどうして素直に私のいうことを聞いてくれないの?私がどっか行けと言ったらどっか行く、私が消えろと言ったら消える、私が死ねと言ったら死ぬ。愛されたら愛するっていうのが常識、そういう常識をどうしてわきまえないかなあ。だって私のために生きるのが愛なんじゃないの? 私の命令を聞くのが愛でしょ? 私もみんなのことを愛してあげるからおあいこってやつだよ。はあい私たちは愛し合ってます! 相思相愛ってこんなに綺麗で美しいことなんだね私感激しちゃった。私も愛されて私も愛されているから。完璧な愛じゃん。ああ私って完璧、どうして私ってこんなに可愛いだろうね? あんたたちには分かんないか。だって私を無理やりあっちの家に連れて乱暴しようとしたんだからね! 私は何も分かっていない馬鹿なんかじゃないよ。私はお姫様なんだよ! あんたたちの考え方で価値観で観点で見方で一方的な愛で私の気持ちを愛を侮辱するな! あんたたちは私が今まで積み上げてきた愛を、人生全てをありとあらゆる方向から侮辱して私を蹴落とした。どう考えても許されることじゃない、消えろ」


 もう人間の言葉とも思えないモノを発し、紫音は棒を振り上げた。


(信じ、られない。)


 もう、この暴走を止める気にもなれなかった。今の自分は、もしかしたら悪魔でも憑いているのかもしれない。


「えっ……!?」


「うわっ!」


 先程と同じように、棒で触れた両親は跡形もなく消滅した。


「ああ、愛が足りなくて寂しいなあ。赤石さんの所に行かないと」


 親を消し飛ばしたというのに、紫音を乗っ取っている何者かは気にも留めていない。そのまま、彼女は探偵事務所の方へと歩いた。




「赤石さん!」


 事務所の中では純が座っていた。紫音の姿を見ると、優しく微笑みかけていた。


(何なの、こいつ?)


 いや、紫音が最も違和感を持っていることは別にあった。今自分を乗っ取っている誰かは、両親に当たり散らした時とは別人のように幸せそうな様子だ。


 感情が全く読めない、心の底から気持ち悪かった。


「赤石さん赤石さん、聞いてくださいよー。みんな私に酷いことを言ってくるんです」


「そんなことがあったのか。大丈夫か?」


 さも当然のごとく、紫音は純の膝に乗っかった。


「私、寂しかったんです。お願いですから慰めてください」


 そして、純の体に寄り掛かった。彼女は上目遣いで、甘えたような声を出している。


「よしよし、大変だったな……これでいいのか?」


「ああ、私幸せ過ぎて寝ちゃいそうです……」


 純が頭を優しく撫でると、紫音は嬉しそうに目を瞑った。


(赤石さん、気づいて! それは私じゃないんです!)


 紫音は心の中で必死に叫んだ。純の行動にも違和感があったが、このまま放っておくと自分は何をするか分からない。


 すると、ドアをノックする音が聞こえた。


「純君、お昼ご飯余ったから食べない?」


 はっきりと分かった、真澄の声だ。


「あの女かあ。また懲りずに堂々と」


 紫音は立ち上がり、黒い棒を構えた。


「赤石さんは私を愛してくれる、つまり赤石さんは私の王子様なんだよ。この人に関わる奴らをみんな消して、私は赤石さんと二人っきりでお城に暮らす。そう、私は誰よりも愛に満たされたお姫様。それもまた愛なんだよね」


 紫音はドアを開け、真澄を襲おうとする。そこで辺りの景色が揺らぎ始めた。


「愛が、足りないんだよ」


 最後に、紫音はそう言った。




 再び、紫音はベッドで目を覚ました。


「えっ? 何だったの、あれ……」


 どうやら、あれは夢だったようだ。


 しかしあの時の光景、自分が喋った奇怪な言葉は今でも全て覚えている。思い出しただけで背筋が凍りそうで、紫音は恐怖を感じていた。


「あの棒は何? 私はどうして、みんなを消そうとしたの? 分かんない、分かんないよ」


 いや、あれは紫音の本心なのではないか。


「噓だ、そんなの!」


 自分は心の底では両親のことを憎んでいるのかもしれない、祖母である凛子のことを鬱陶しく思っているのかもしれない。


 私は、自分を理解してくれた赤石さんのことを独占して……


「私はただ赤石さんと一緒に事件を解決したいだけ。あの人はただの相棒、それ以上もそれ以下もない。そこから先?そこから先も一緒にいて、それで……」


 必死に自分の思考を押さえつけようとする紫音だったが、それで飛躍し続ける妄想が止まることはなかった。


 赤石さんと一緒にいたい。それは、あの夢の自分と何も変わらないのではないか?


「嫌だ、私があんなのになるなんて絶対に嫌!」


 純に対しての懐疑心が、いつしか自分自身に対しての恐怖心にすり替わっている。紫音の心は今もボロボロであり、今まで上手くいったと思っていた全ても綱渡りだったのだ。


 逃げるようにベッドから抜け出て、紫音はリビングまでよろよろと歩いた。




 夢とは違い、食卓に凛子の姿はなかった。


「そうだ、あれを飲めば……」


 ひとまず気を落ち着けるのが最優先だろう。紫音は錠剤を手に、飲み物を取り出そうとした。


「紫音」


 すると、後ろから聞き覚えのある声が耳に入った。


「いたんだ、おばあちゃん」


 そこにいたのは、紫音の祖母である凛子だった。彼女は食卓の椅子に座り、紫音を手招きした。


「こっちに来て、一緒に話さない?」


「えっ……」


 反射的に身構えてしまった。昨日、あのまま寝てしまったから怒っているのだろうか。


「大丈夫、怒ったりしないから」


 凛子の笑顔で、安心して警戒が少し薄れた。


「うん、分かった」


 紫音は頷き、椅子に座った。しばらく、無言で二人は向かい合った。


「何があったか、少しずつでもいいから聞かせて」


 そんなことを言われても、何をどう話していいか分からなかった。


「私、夢を見たんだ。そこには、いつもとは全然違う私がいたの」


 昨夜は何もせずに寝てしまったので、今はきっと酷い顔になっていることだろう。そんな関係のないことを心配しながら、紫音は続けた。


「まず、私はここで心配してたおばあちゃんに八つ当たりして、消えちゃえって。そしたらおばあちゃんは本当に消えて……」


「うん」


 そこで特に驚くことなく、凛子は真面目な顔で話を聞いていた。


「お父さんとお母さんが、私を連れ戻しに来た。私はたくさん、たくさん酷いことを言って二人を消しちゃった」


 まともに伝えられているかは分からなかったが、紫音は自分の言葉で、そして無我夢中で話した。


「赤石さんは私のことを分かってくれた。私はその時、とても嬉しそうだったと思う。だから、あの人に関わっている人をみんな消そうって……!」


「なるほど、怖い夢を見たんだね」


 凛子は笑うこともなければ、怖がることもなく話を聞いてくれた。


「でも、その子は紫音とは違うんでしょう。紫音は本当は、とっても優しい子なんだから」


「違うよ、おばあちゃん!」


 紫音は、涙で目が潤み始めた。彼女は必死に叫ぶ。




「あれはきっと、未来の私なんだよ! きっと私にはお父さんやお母さんなんて、いなくなった方がいいっていう気持ちがあったんだよ。そして、大好きな人とずっと一緒にいたいって気持ちもあった。だから私は、いつかあんなのになっちゃうんだ……!」


 そういえば、凛子の本心を告げたのは恐らくこれが初めてだった……もしかしたら、これが最後になるのかもしれない。


 そんなの嫌だな、大切な家族なのに。紫音は顔を俯けながら、凛子の返答を待った。


「じゃあ紫音ちゃんは、お母さんやお父さんのことが大嫌い? それこそ、消えた方がいいって思うくらいに」


 でも、凛子は紫音のことを怒ったりはしなかった。


「ううん。以前のことで、怖いなって思うことはあった。けど、嫌いだなんて思ってないよ」


 まだ両親と会って話をするのは無理かもしれない。けれど、仲直りしたいという気持ちははっきりとあった。


 それを聞くと、凛子は柔らかい笑顔になった。


「じゃあ、紫音はやっぱり良い子。あの人たちは紫音のことで、ちゃんと向き合えなかったこともあった。けど、紫音は前に進もうとしてる」


 前に進もうとしている、そうだろうか。でも、また些細なことで自分が壊れたら……


「大丈夫、私が支えるから。それに、きっとここには紫音のことが嫌いな人なんていない」


 凛子は棚を探り、何かを紫音に手渡した。


「いつか渡そうって思ってたんだけどね。それは、困ったときのお守り」


 薄い紫の、藤の花のヘアピン。凛子はそれを手に取り、紫音の髪に付けてくれた。


「それ、とっても似合ってるよ。見てくる?」


「うん」


 紫音は早速、鏡に向かった。




「わあ、綺麗」


 少し寝ぐせが残る髪と、疲れたような顔。だが、その藤の花はちゃんと紫音を輝かせていた。


「良かったね」


 これなら、不安なことがあっても乗り越えられそうだ。そんな紫音の様子を見ていた凛子は、彼女に一つアドバイスをした。


「紫音、純君とこれからも探偵をやりたいかい? もしそうなら、覚えておくべきことがあるよ」


「何、おばあちゃん?」


 凛子は紫音の肩を優しく叩きながら、言った。


「誰かと一緒にいたいからって、その人を束縛してはいけない。そんなことをしたら、向こうも困ってしまうからね。相手が大切だからこそ、相手の気持ちを考えることが大切だよ。それが愛ってものだよ」


「それが、愛……」


 愛、それは今の紫音には少し重く感じる言葉だった。だが自分の気持ちだけ優先すると、それは一方的なものになって相手を傷つけてしまうということだろうか。


「大丈夫。本当に相手を想っているのなら、その気持ちは離れていても相手に伝わってるはずだよ」


「そう……そうだよね。ありがとう、元気が出たよ」


 ふと言い終わって、紫音は考えた。さっきのアドバイスは……


「いや、別に赤石さんのこと、そういう意味で好きってわけじゃないからっ!」


 紫音は少し恥ずかしそうに、首を左右に振った。


「やっぱりそうだよねえ。ははっ、でも紫音が明るい顔に戻って良かった」


 そう言われ、紫音は鏡を再び見た。「お守り」の効果は、早速現れたのだろうか。


「さあ、まずは朝ごはんでも食べよう。昨日は食べてなかったからね」


「そうだね、じゃあ……」


 そういえば、すっかり忘れていた。凛子に促され、紫音は食卓に戻った。




「よし、事務所開けるか」


 その頃、純は始業の準備を進めていた。事務所兼自宅の鍵を開け、入り口に看板を立てる。


「まあ、こんなんしても依頼は来ねえけど」


 純は紫音とあってからの日々を思い出していた。自分なりの目標を掲げて探偵を目指したが、己の無力さに絶望したあの時。何をしても失敗してしまうと考えた彼は、努力することを諦めた。


 だが、それを変えてくれたのが紫音だった。


「昨日、結局ロクに寝れてなかったな……情けねえ」


 何かとつまらないことで揉めることも多かったが、やっぱり紫音がいたからこそ様々な事件を解決することができたのだろう。それはそれで情けない話だが……


「紫音、やっぱりお前がいないと何もできねえわ!」


 一応誰もいないだろうと判断し、純は大きな声で叫んだ。実際に届いたら恥ずかしいが、せめて紫音が再び心を開いてくれるように。


「このどうしようもないバカ探偵に力を貸してくれよ」


 そして付け加えるように小さく呟いたが、当然のごとく返事は無い。純が中に戻ろうとした、その時だった。




「何もできないわ、じゃないですよ! 仮にも立派な大人なんだったら、もっとちゃんとして下さい」


「紫音……」


 何だろう。さほど経っていないはずなのに、こんな風に会うのは久しぶりな気がする。


「あと、下の名前で呼ぶのはやめてくださいよ。いつも陰ではそう呼んでるんですか?」


「んなわけないだろ、つい呼んじまっただけだ」


 純の目の前に現れたのは、紫音だった。今度こそいつもの姿に戻った彼女は、喜びと呆れが混じった表情だった。


「おかえり、深山」


 きっと、今が謝るべき時だろう。


「その、昨日はすまなかった。俺は真澄さんにずっと伝えられなかったことがあったんだよ。それについては、後で詳しく話すから」


「なるほど、分かりました。その代わりちゃんと話して下さいね」


 少なくとも、純が瀬名を貶めようとしたとは考えづらい。それに、紫音自身も少し行き過ぎたところがあった。


「あの時それを隠してしまったせいで、お前に誤解を生んでしまった。あの時、やっちゃったなって思ったよ」


 純は紫音に、しっかりと頭を下げた。紫音はそれを静かに見つめていた。


 次は、自分の番だ。


「私もごめんなさい。変な妄想しちゃって、赤石さんだって斉藤さんと会ったのにはちゃんと理由もあったのに。私もやっちゃったなって思いました、すみません。だから、また探偵の仕事を手伝わせてください」


 紫音も頭を下げて謝った。もちろん、純の答えは決まっていた。


「もちろんだ。事件を解決するために、よろしく頼む」


 以前は、純が紫音のことを理解することで二人の絆が深まった。だがこれからは、お互いが気持ちを理解し合うことが必要となってくるのだ。


「ってか、同じこと考えてたのは意外だったな。それとその藤の花、似合ってるぞ」


 紫音が付けているヘアピンも、光を浴びて淡く輝いていた。


「ほんとですね、何かこういうのも相棒みたいで……」


 きっとこれは、二人がコンビとして成長した証なのだろう。


「ていうか、気付くの遅いですよ!」




「うーん、何だか想定外だったかな?」


 その様子を、真澄は笑いながら観察していた。


 今の彼女は水色の部屋着を来ている。スカートとトップスが一体になったようなもので、どちらかと言うとワンピースに近いものがある。


「お互いにやっちゃったって感じて、素直に謝れるって素敵。愛を感じたわ、ええ」


 そして、真澄はカーテンを手で握り締めた。


「ああ、とっても羨ましいわ。紫音ちゃんには後でちょっとお話でも聞こうかな」


「真澄ちゃん、何を見てるんだい?」


 すると、後ろから声をかけられた。


 瀬名だった。彼は首を傾げながら、真澄に聞いた。


「何でもいいけどさ。この状況はどれだけ続くんだい? 僕だって心配に……」


「ちょっと黙っててくれるかな、邪魔なんだけど?」


 彼の言葉を遮り、真澄はゆっくりと振り向いた。その表情は、さっきとは違って全く笑っていなかった。


「私は貴方のことを愛してる。じゃあ、瀬名も私のことを全部理解して、その愛に報いるべきなんじゃないの?」


「……すまない、余計なことを聞いた」


 瀬名は顔を背け、自室に戻っていった。


「愛が足りないのよ」


 真澄はそう呟いた後、窓の方に向き直った。


「よし、紫音ちゃんとはどこかで話せる機会を。ここから少し忙しくなりそうね。」


 笑顔で向き合う二人を、真澄は光の届かない暗い部屋から見つめる。


「まだまだこれからよ。よろしくね、私の王子様」


 その表情には、まだ余裕が溢れていた。




 続く

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