第10話 純の葛藤
純と出かける約束をした、その日の夜のことだった。
「瀬名、大丈夫?」
真澄はお粥を持ち、階段をゆっくりと上った。これは体調が悪い瀬名のためにと作った物だった。
「降りて食べれそうかな?」
瀬名の部屋の前に立ち、心配そうに真澄が声をかけた。
「……ううん」
そう答える彼の声は、明らかに弱々しかった。
「じゃあお粥置いとくね。食べ終わったら、ここに戻してくれればいいから」
「ありがとう」
真澄は部屋の扉の横に、お粥を静かに置いた。そして思い出したように瀬名に聞いた。
「それとさ。金曜に、神戸に行きたいんだ。ちょっと買い物にね……」
そこで一瞬だけ言葉に詰まった。静まり返るドアに向かって、真澄が続ける。
「お留守番、できるかな?」
意外にも、答えはすぐに帰ってきた。
「分かったよ」
真澄はほっとした。もし拒否されたらどうしようと思った……とはいえ向こうもデートとは思ってないだろうから、別におかしくはないか。
「真澄ちゃん。それって、一人でかい?」
そう感じたのも束の間、瀬名は不思議そうに真澄に聞いた。
「ええ、一人よ」
瀬名はその答えに満足したのか、それ以上は何も聞かなかった。
「それじゃあ、お大事にね」
真澄は扉に手を振り、階段を降りた。
「神戸かぁ」
翌日になっても、事務所で純は考え込んでいた。
(デートって言われても困るんだけどな……)
真澄は、昨日の夕方にとあることを頼んできた。金曜日に神戸に行くので買い物に付き合って欲しいということだった。
「いやー、どうしたものか」
何も神戸に行くのが久しぶりなので楽しみだとか、これが恐らく初デートになるだろうから緊張しているというわけではない。
そこには、瀬名の存在があった。
(何だか、よくよく考えるとおかしな話だよな。)
同居している瀬名とは、仲良くしているとかいう話を聞かない、高校時代に面識があった純自身とは頻繁に関わってくるのに、どうしてなのだろうか。
「何か、変な気分だ」
真澄は本当に、瀬名と上手くやれているのだろうか。余計なお世話かもしれないが、あの二人の関係が少し心配になった。
「赤石さん?」
「ん、どうした?」
そんなことを考えていたら、隣にいた紫音に不審がられた。
「それは私が聞きたいですよ。神戸がどうかしたんですか?」
紫音は二人が神戸に行くことは知らなかった。大して隠すことでもないだろう、というわけで純は答えた。
「金曜、真澄さんと一緒に神戸に行くんだよ。買い物に行きたいんだってさ、あの人が」
純はいつものように言ったつもりだった。ただ、紫音の反応はいつもと違った。
「それって、何か用事があるからですか?」
さらりと流す……わけではなく、珍しく聞いてきた。純はほんの少し意外に感じた。
「いや別に。これから事件解決に向けて動かにゃならんから、軽い息抜き程度だよ」
「そうですか……でもそういうの、やり過ぎたら良くないんじゃないですか?」
紫音の暗い顔を見て、純は不安に感じ始めた。今日は何か機嫌が悪いのだろうか。
「確かに、この状況下で楽天的になるのは良くないかもしれん。ただ、先が見えないのに無理に思い詰めたって……」
「そうじゃないです。あの人には日岡さんがいるんですよ?」
いつまでも話が進まないことに対し、紫音は苛立ちを募らせた。あるいは、いつまでも想いが伝えられない自分自身にも腹が立っていたかもしれない。
「いや、別に俺はそんな気持ちで真澄さんに接してるわけじゃないぞ」
「どうでしょうかね。あの人は少なくとも、赤石さんのことが気に入ってるみたいですけど」
本当は紫音だって、純や真澄、みんなと仲良くなりたい。
けれど不信感や不安がそれに勝ってしまって意地悪な言い方をしてしまうのだ。それは自覚していても、どうしても変えられない。
「とにかく、程々にした方が良いですよ」
つまり自分が間違っているというのを、認めるのが嫌なのだろうか。もしそうなら、私はどれほど自分勝手なんだろう。
紫音が一人悩む中、純もどうしていいか分からなかった。
(別に俺はただ……あの人に笑っていてほしい、ただそれだけなんだけどな。)
純でさえも分からない、真澄にとって自分は何なのか。ただ間違いなく、今の自分がいるのは真澄のお陰だった。
大切に思っていることと、パートナーとして愛していること。それは全く違うことだと純は思っていたのだ。
「深山、お前は……」
何かを聞こうとして、純は振り返った。だがさっきまでそこにいたはずの、紫音の姿はどこにもなかった。
その次の日の、夜のことだった。神戸行きを明日に控え、純も少し早めに眠っていた。
(ん、何だこの音?)
純は久しぶりに妙な夢を見た。
真っ暗で、辺りは何も見えない。でも何かの音だけが、純の耳に響いていた。
(誰か……来る?)
しばらくして、それが足音なのだと気付いた。誰かが純に向かって、近付いてくるような気がした。
「もっ、と……!」
(何だ?)
そして、荒い息遣いと共に何かの声が聞こえた。ここで意味があるのかは分からないが、純は耳を澄ましてその声を聞き取ろうとした。
「ああ、もっともっと……い! もっともっと……じたい! そうすれば、きっと……される!!」
何かに取り憑かれたような呪いの声。しかし大事な所がよく聞こえず、純は首を傾げた。
(変な声だな。まったく、訳わかんねえ。)
何故、今にもなってこんな夢を見るのだろう。こんな声は早く頭から消し去って、平穏な朝を迎えたい。
しかし、そんな純を馬鹿にするかのように。次の声ははっきりと聞こえた。
「おやすみ、純」
そして、純はウグイスの鳴き声で目を覚ました。
「ほー、ほけきょ」
寝起きの低い声で、鳴き声を軽く真似た。
主に春に鳴くのだが、この季節にもなってウグイスの鳴き声が聞こえるのは珍しいのではないか。
「まぁ、どうだっていいかぁ……!」
携帯で今の時間を確認し、欠伸をしながら呟いた。今日は金曜日、真澄と出かける約束をした日だ。
純は徐に起き上がって窓を眺めた。
(何だったんだ、あれは?)
あの夢のことははっきりと覚えていた、ただ声の主が誰だったのか分からない。
合鍵の件、四回目の殺人事件。そしてよく分からないが、様子がおかしい紫音。最近は何だか、妙なことばかり起きている気がする。
「また、記憶がどうとかってやつか。いい加減にしてくれよ」
心なしか寒気がするような気がして、純は気持ち悪かった。
腹立ち紛れに部屋を歩き回るが、そんなことをしても何も起こらない。分かっているからこそ、行き所のない思いは積み上がってゆく。
「昔の俺に、何があったんだよ……?」
「よっ、真澄さん」
家を出ると、真澄はすでに待っていた。
「日岡さんは大丈夫か?」
「ええ、すっかり良くなってたから安心よ」
真澄は以前と同じく白のブラウスを着ていたが、スカートには大きな変化があった。白黒のストライプで、上に付いている大きなリボンが可愛らしい。
「ってか真澄さんって、長いスカートが気に入ってるのかな?」
バリエーション自体は豊富なのだが、真澄はロングスカートを使ったコーデが多い気がする。純がそう指摘すると、真澄はどこか恥ずかしそうに言った。
「その方が、ちょっと大人っぽいかなって。それに短いのはあんまり穿いたことないから分かんないかも……」
「そっか。でも真澄さん綺麗だし、何でも似合うんじゃねぇか? 世の中トライして損はないぞ、知らんけど」
純は特に深く考えずに言ったのだが、真澄はより一層恥ずかしそうな顔をした。
「綺麗って、えへへ。純君にそんなこと言われると嬉しいかも」
純の目の前に、細い……しかし温かみのある綺麗な手が差し出された。
「手、繋いで歩かない?」
「ん?ああ」
断る理由も別に無い。真澄の手をしっかりと取り、純は駅への寂れた道を歩き始めた。
彼が抱いていた瀬名に対する心配は、無意識ながら目の前の優しさによってかき消されてしまった。
二人は粟生から新開地行き電車に乗り、神戸を目指していた。
「相変わらず良い景色だな……」
辺りは長閑な田園風景が広がっており、落ち着いた車内も相まって快適だった。窓を見つめて呟いた純に、真澄が微笑みかけた。
「良い所だよね」
「まあな。でももう少し買い物ができる所があっても良いな」
一面田畑のみということは、同時に何もないということだった。自然を楽しむには申し分ないが、もう少し商業施設が整っていれば更に便利になるのだが……と純は感じた。
「そこは私たちじゃどうにもならないわよ。あっでも、せめて粟生から出るコミュニティバスは増やして欲しいかな」
ちなみに真澄が言ったコミュニティバスというのは、粟生駅から出ているバスのことである。
イオン等便利な商業施設に通じている便利なバスだが、本数が少ない。結局買い物に気軽に出かけたいとなると車を使うことになるし、電車は高いので気軽には使えない。
「そうだな。俺なんか車持ってないし、そろそろバイクとかいるかなーって……」
二人は揃って、流れる景色に釘付けになった。
「この町が、もっと多くの人で賑わえたらな」
まだ上りきっていない太陽が、果てのない緑を明るく照らした。
「着いたよ、神戸に!」
電車は新開地を出てすぐに、高速神戸に到着した。
高速神戸駅、ハーバーランド前という案内がある。神戸の中心街といえば三宮を思い浮かべる人も多いかもしれないが、このハーバーランドもファッション・グルメ等の専門店が一通り揃っている。
また神戸電鉄方面からなら高速神戸の方がより近く、運賃も安い。
「お、凄えな」
阪急、阪神、そして山陽。様々な種類の車両が行き来する姿はあまり見られるものではなく、純もしばらくその姿を見つめていた。地下駅ながら賑やかさも感じる。
「しかし、一時間ちょいで来られるならそこそこ便利だよな。景色も良かったし飽きなかったかも。」
そう、粟生からは乗り換えが一回で済む上に、一時間程で高速神戸に着ける。これは粟生線沿線に住む大きな利点だった。
「純君、行こう」
先頭車側の階段を上って、西改札から外に出た。
二人が目指すのは商業施設「rumie」。ハーバーランドを代表するショッピングセンターで、北館と東館、「mozaic」の棟で構成されている。
地下通路を抜け、純と真澄はまず北館に向かうことにした。
「これ、珍しくないか?」
と、行く道でとある絵を見つけた。エスカレーター裏にある絵で、シェフらしき男がテーブルからリンゴを落としているように見える。
「じゃあさ、純がこう、下からキャッチしてるみたいな……」
「トリック写真ね、オーケー」
純はすかさず絵の横に駆け寄り、リンゴの下に手を添えた。
「いくよー!」
真澄が携帯のカメラを構え、純の姿を撮影した。
「笑って笑って。はい、チーズ!」
そして、撮影は完了した。
「撮れたか?」
「うん……あっ、ちょっと待ってごめん!!」
真澄は今撮った写真のフォルダを開こうとしたが、咄嗟に何かを隠した。
「えと、えっと……これだね」
何か不都合があったのだろうか。しばらく携帯をいじった後、真澄は写真を見せてきた。
「まあまあかな、悪くはない」
若干表情が硬めのように見られたが、気にする程のことでもなかった。
「行こうか」
少し緊張の解れた純が、今度は前に出て歩き出した。
「うん」
人混みを潜り抜け、ようやく二人はrumieの北館に入った。
「じゃあ、まずはここね」
真澄は建物に入ってすぐの店に走り、キョロキョロと辺りを見回した。
「何を探してるんだ?」
彼女はしばらく歩き回った後、ベージュのトレンチコートを手に取った。
「コートか、まだ九月なのに」
「これから寒くなった時用よ。ちょっとサイズを合わせてみよっと」
バッグを椅子に置き、真澄はコートを羽織った。もちろんよく似合っており、彼女は少し赤い顔で純を見つめている。
「どうかな?」
「可愛いと思うぞ。それなら寒い冬も安心だろう」
その後自身でも鏡で確認し、彼女は決断した。
「じゃあ買おっかな」
ここでは迷うこともなく、コートを持ってレジに向かった。
そこから真澄の買い物はしばらく続いた。次に入った店では、いくつかの服を持って試着室に入った。
「えっと、こんな感じ!」
試着室から出てきた彼女は、上は紐の着いた青いトレーナーで、下はレースの入った白いスカートに身を包んでいた。
(しっかし、ここは人多いな……)
よそ見をしている純の肩を軽く叩き、振り向かせた。
「ほら、ちゃんと見て!」
紐付きといえば男性が着るイメージがあるが、それをスカートで綺麗に落とし込んで可愛らしさを演出している……やっぱり長めのスカートからは離れられないわけだが、色や細かい柄、トップスとの合わせ方で別物のような差が出ている。
「今度は秋っぽいな。色合いも良い感じに決まってるし、その……」
と、ここで恐らく初めてであろう。純が顔を少し赤くし、目を逸らしながらこう言った。
「めっちゃ可愛い」
「ありがと」
真澄も嬉しかったのか、今までで一番の笑顔を純に見せた。
「純、大好き!」
「何だこれ、アロマ……ディフェンダー?」
「アロマディフューザーね。本体が家で寝てるから、久しぶりに使ってみようと思ってね」
その後一階に移動した純と真澄は、家具や衣料品、雑貨等様々な物が売っている店に足を運んだ。
今真澄が手に取ったのは、グレープフルーツのエッセンシャルオイル。彼女曰く様々な種類を試したのだが、これが個人的には気に入ってるそうだ。
「後はオイルクレンジングと……純、次は化粧品行くわよ」
「お、おう」
店に置いてあったソファに足を進めかけたが、真澄に止められてしまった。
次に入ったのは薬局。真澄は化粧品を買いに、奥の方へと歩いた。
(なんかこう……暇だな。)
しばらく真澄の買い物が続いてるため、純は少しだけ退屈になってきた。
「これでも買っとくか」
栄養ドリンクの瓶を数本カゴに入れ、真澄と合流した。
「あっ、純君。それどうしたの?」
「備蓄しとくやつ。こっから仕事が忙しくなったら要るかもだし」
これは冷蔵庫で冷やし、必要な時に飲むためのものだった。本当ならもう少し多めに買った方が安心なのだが、帰りに重くなるので断念した。
「そっか。お仕事頑張ってね?」
「ああ」
そんなことを話していると、突然純のお腹が鳴り始めた。
「あっ、あれ!?」
まだ十一時になったところだったが、早くも空腹が襲ってきたのだった。
「あっははは! 本当にお腹鳴らす人初めて見たわよ。漫画みたい、ふふっ……」
真澄は堪えきれなかったのか、笑い出した。そうやって笑われると、純も何だか照れ臭くなってきた。
「分かったわ。もう少しだけ買い物したら、お昼を食べに行きましょ」
今度はエスカレーターで上がり、5階の書店に入った。
「じゃあ私は雑誌の方見てくるから、立ち読みでもしてて」
真澄はそう言い残し、ファッション誌の方に歩いていった。
「立ち読みねぇ……」
純は行くあてもなく、小説のコーナーをうろついていた。すると、とある本の帯に目が入った。
「未解決殺人事件に刑事が挑む、か」
未解決殺人事件、という箇所が気になって仕方なかった。
「俺なんて、どれだけ頑張ってもアホだしな。推理も深山に頼りっきりで」
シャーロック・ホームズのようになれなくても、お前はお前にとって最高の探偵になればいい。純が尊敬する、恩師の言葉だった。
「俺にとって最高、それが何なのか分からないんじゃな……」
ちょうど、目の前にホームズの小説が見えた。
「俺は誰かの想いを守るどころか、自分の記憶すらはっきりしてない。そんな俺に、探偵なんて務まるのか?」
遠く遠くに見えるそれを、純は憧れと悔しさに満ちた眼差しで見つめた。
「おーい、純君!」
すると、後ろから真澄に押された。
「うわっ!?」
「そんなにビックリしなくても。ほら、買い終わったから次の店行くよ」
既に真澄の手には、雑誌が入った袋があった。
「りょーかい」
二人は三階に降りた後、渡り廊下から東館に移った。
「んふふ、楽しいな」
手を繋いで歩いているためか、真澄は上機嫌だった。
(というか、こんなことをしてて良いんだろうか……?)
純はふと我に帰った。紫音が言った通り、真澄には瀬名がいるのだ。
ここで突き放して真澄を悲しませたくはないが、彼女にとって何が正解なのかが分からない。結局後ろめたさを感じながら、与えられた優しさにただ甘えることしかできないのだろうか。
「どうかした、純君?」
険しい顔をしていると、隣の真澄に心配された。
「いいや。俺もさ、真澄さんと一緒にいれて楽しいなって」
間違いではなかった、ただ言いたいのはそれではない。
俺はここにいるべきじゃないし、お前もここにいるべきじゃないだろう。帰ろう……俺は探偵の仕事に、お前は日岡さんとの幸せな生活に。
そんな一言も言い出せなかった。
「ふふっ、私たち気が合うね」
「じゃあ、今度はここ」
次に二人が訪れたのは、東館の雑貨店だった。真澄はまず、ダイアリーのコーナーに目をつけた。
「嘘ん、もう来年の手帳かよ」
まだ九月なのに、売っていたのは来年分の手帳だった。
「うーん、来年はさ。これに純君との思い出をいっぱいに書くってのはどうかな?」
「いや、どう考えても気が早いって!」
そういえばクリスマスケーキの予約も始まっていると聞くが、何かにつけて急かし過ぎではなかろうか……と純は感じた。
「これは予備で購入。次はシャンプーかな」
実はこの万能な店は、シャンプーからスマートフォンのアクセサリー、文房具まで売っているのだ。最近ショッピングモールに増殖して、売り上げを着実に伸ばしているそうだ。
「そっか、じゃあ俺には関係な……もごっ!」
どこかに行こうとする純だったが、鼻にテスターを押し付けられてしまった。
「純はどれがいいと思う?」
「分かったから、自分で嗅ぐから」
自分が選んでもどうしようもないし、これは真澄自身で選ぶべきでは、と純は思った。
だが結局、辺りのテスターを一通り嗅ぐことになった。
「よし、ここは終わり!」
手帳とシャンプーを購入し、純たちは店を出た。
「次は靴だけど……この辺で切り上げて、お昼にしようかな?」
時間は十二時を少し回った辺り。昼ご飯を食べるには良い時間だった。
というわけで買い物は中断し、mozaicに向かうことを決めた。
このmozaicはレストランやアミューズメントが主体となっており、海に面しているという好立地も合わせてrumieの中でも特に人で賑わう。
「おっ、これは!?」
……そこに行く途中、二人が足を止めたのは渡り廊下前のエスカレーターだった。
「波みたいな形。神戸をイメージしてるみたいで、愛を感じるわね」
エスカレーターでは珍しく、踊り場が二つ存在している。真澄の言う通り、全体的な形は波のようになっている。
「レアなんじゃないか、これ? 乗ろうぜ」
二人は心を躍らせながら、エスカレーターに乗った。思わぬ所ではあったが、神戸への買い物がまた一つ楽しいものになった。
「純君、ここにしない?」
真澄はmozaicに着いた後、入り口付近にあるハンバーガー店を指差した。
この店は純たちが住んでいる地域に一店舗存在するが、そもそもの数が少ないからか大手ハンバーガー店と比較すると勢力面で一歩劣る印象がある。だが店、料理のクオリティは共に非常に高い水準を保っており、他ライバル店とも差別化を図れる特徴が多いので固定ファンがおり知名度自体も高い。
母体となっている企業が企業なので、一号店が日本、本社も日本だが韓国での店舗数が圧倒的である。
「海の見える場所でハンバーガーか、俺も良いと思う。じゃ、入ってみて何するか決めようぜ」
「そうね」
二人は特に迷わず店に入り、メニューを見て立ち止まった。
「ここは無難にいくか。俺はダブルチーズで良い」
「私は海老にするわ」
店から少し離れた海が見えるデッキで食べるため、テイクアウトとして注文した。
純がダブルチーズバーガー、真澄が海老カツバーガー。それぞれ単品である。
「純くんって昔からチーズ好きよね。最初に会った時は、ワイルドな人かなーって思ってたけど」
人の多い表通りからは離れ、外側を歩いてデッキを目指した。
「ワイルドかぁ、素直に喜んで良いのやら……」
「ほんじゃあ、いただきます」
「いただきまーす!」
デッキで向かい合わせに座り、買ったハンバーガーを食べ始めた。
「うまし。つーか、真澄さんこそチーズにしそうな感じなのにな」
世の女性の十割、と言わずとも七割くらいはチーズ好きだろうというのが純の勝手な偏見だった。
だから純がダブルチーズバーガーにすれば、てっきり真澄と被るものだと思っていたのだ
が……
「海老カツは偉大よ。まずこの海老の食感、これは言わずもがなプリップリね。それに衣を付け加えることによってサクサク感も合わさる、擬音ばっかりでごめんね。タルタルソース、これは店によって細かく味が変わるけど大手のハンバーガー屋さんのタルタルはどれも捨てがたい。マヨとは違う、酸味が抑えめになっている代わりにタルタルは素材の味が引き出されてるのよ。キャベツもタルタルと絡んで最高の味になるわね。ただ個人的に、Mから始まる店のエビバーガーはやめることね。タルタルの代わりにオーロラソースとやらが使われてるのも気に食わないけど、カツが他店比で薄い割に値段が高い、生意気な。リニューアルしたと聞いたけど、これらのことは変わってなくて残念だわ。とにかく、海老カツは海老と衣が絶妙なバランスで合わさり、タルタルの味がそれを引き立て、キャベツも良い活躍をしてくれる、そんな完璧なハンバーガーだわ」
「お、おう……」
予想外に語り始めた真澄に、純は若干驚いた。でも、彼はすぐに笑顔になった。
「すげえよ真澄さん。なんかこう、本当に海老カツが大好きなんだな、それがはっきりと分かった。」
「うん!」
否定はせず、彼女が好きなことをしっかりと認めた。
「この流れなら言うしかねぇか。えっと、俺がチーズ好きな理由はな……」
「おおっ、聞かせて」
昔からそうだった。これは些細なことかもしれないが、真澄が純のことを忘れられない、嫌いになれない。そんな理由の一つだった。
「昔っからクリームチーズが好きだったんだよ。そっから色んな種類を食べてみたいなあって、そんな感じかな。今はチェダーの方が好きだな」
それは何気ない、二人の好みの話だった。
「なるほど、カマンベールは? 私あれが好きなんだけど」
「あぁ、あれも捨てがたいな……」
でも、純も真澄も楽しそうだった。細かい関係は気にせず、ただこの瞬間を永遠に楽しめたら……けれど二人は帰らなければいけない、それぞれの場所へと。
「あっ純君、ケチャップ付いてるわよ?」
真澄はティッシュを取り、純の口の横に付いたケチャップを取ろうとした。
その仕草がまるで子供の面倒を見る母のようで、純は反射的に謝ってしまった。
「あっ……悪い」
改めて、真澄の手は細くて綺麗だった。自分の太くて不格好なそれとは違う。薄い紙を隔てて、それが自身の頬に触れている。
こんなことを言えば気持ち悪いのかもしれないが、心が熱くなった。
(ほんっと、俺って変だよな。)
心の中で自虐的な言葉が右往左往しているが、それはぐっと飲み込んだ。
「ありがとう。」
羨ましかった、自分の思うがままに生きていそうな真澄が。
聞き上手な一面もあるけど時折子供っぽくて、宝石のように美しくて、それでも放っておけないから守りたい。これは間違いなく、恋なのだろう。
「どういたしまして、純君」
けれどそれは口に出せない、感情にも出せない。
彼女は瀬名のパートナーなのだ。真澄がしていることは浮気、そして自分がしているのは悪辣な加担。けれど、それすら清々しく感じる自分がいる。
「病気だよな、こんなん」
「えっ?」
思わず口に出てしまった。それに慌てた純は、取り繕った。
「いいや、こんな歳にもなって子供みたいに」
嘘をついて自分を突き放した紫音を、純はその時訝しく感じた。
でも、嘘をついて甘える純は彼女と何も変わらない。本当のことを言えず、未熟な俺たちは嘘で妥協する。
「うーん、これは似合わないわね」
気を取り直し、純たちは買い物に戻った。
四階でピンク色がたっぷりの可愛らしい店を見かけたが、真澄はあまり食い付かなかった。
「可愛すぎるし、今の私にはなんかこう……恥ずかしいかもね」
「良いと思うけどなあ」
そこは入らずに素通りし、真澄は靴屋の方へ歩いた。
「私の靴、選んでくれない? このデートの記念にさ」
様々な靴を横目に歩く中、真澄はそう言った。
「ええっ? 俺、他人の靴なんか選んだことないぞ」
「いいの。純君がこれ! って思ったもので」
純は少し困惑したが、真澄がそう言ったのだから断れない。
「本当、直感で選ぶからな」
さて、スニーカーは辺りに様々なものが並べられている。でもこれは光る何かを持っていない、純の直感で選んだのは……
「これかな」
水色のヒールを取り、純は自信ありげに見せた。ツヤは抑えられているが鮮やかな色合い、それはとても綺麗だ。
「あ、ヒールは履けるか?」
「そこは慣れてるから大丈夫よ。まあ、頻繁に履いてるってわけではないけど」
真澄は純のくれたヒールを手に取った。
「ふふっ、何だかお姫様になれた気分だわ」
ヒールを履いてゆっくりと歩く彼女の姿は、本当にシンデレラのようだった。
「これ、可愛いじゃない。選んでくれてありがとね」
「そっか、それなら良かった」
純が勧めてくれた靴だ、大切に履いていこう。そう真澄は思い、購入を決断した。
「そういえば、何でヒールだったの? 他にもスニーカーとか、良いものはたくさんあったのに」
買い物は全て終わり、駅に戻ろうとする途中。真澄は思い出したかのように純に聞いた。
「その靴が輝いてたからだよ。他も良かったけどそれが一際」
純は最初にそのヒールを見て思ったことを、そのまま彼女に告げた。
「純君らしい答え。いつも正直だよね、貴方って」
「正直」、その言葉が純に突き刺さった。そうか、真澄からすれば自分は正直なのか。
(俺なんて、今も嘘ばっかりなんだけどな……)
帰り道、地下でふと見かけたカフェに立ち寄った。
「新開地から出る粟生行きは一時間に一本。向こうで時間を潰すより、ここで休憩してちょうどいい時間に出れば良いんじゃない?」
純はアーモンドミルクを、真澄は紅茶を頼んで椅子に腰掛けた。
「それ、どんな味なの?」
真澄がアーモンドミルクを指差し、そんなことを聞いてきた。
「主体はミルクの甘い味。けどアーモンドの風味が混ざって、より美味しいって感じかな」
「へぇ、主役はミルクなんだ……」
純は以前、パックのアーモンドミルクを興味本位で買ったことがあった。その味が個人的には気に入っていたので、今回こうして注文した。
「ん?」
純は何かに気付いて店の外を眺めた。どこかで、ピアノの音色が聞こえたのだった。
「子供が練習してるぞ。あれ何だっけ、ストリートピアノか」
地下の広間、その一角に置かれたストリートピアノ。そこには意気揚々とピアノを弾く子供の姿があった。
「めっちゃミスってるけど、楽しそう。俺もピアノ弾けねえけど、ああいうのは応援してあげたいな」
見ているこちらも癒されるような、微笑ましい姿だった。
「ほんっと馬鹿みたい。才能も無いくせに、大層に一人で弾いて恥ずかしくないの?分不相応な場所で、他人に愛してもらうように媚びる。そういうの、愛の侮辱だわ……」
「ん、どうした?」
真澄が低い声で何かを呟いた気がしたが、純はよく聞き取れなかった。
「ううん、何でもないわ。純君が言ってたように、あの子楽しそうに弾いてるね」
何だったのだろう、さっきの感覚は。あの一瞬だけ、純は恐ろしい程の寒気を感じた。
「何時ぐらいに出ようか?」
純は何も分からなかったが、話を逸らした方が良いような気がした。
「そうね、あと……」
真澄は何事もなかったかのように、今の時間を確認した。
「ふぅ、今日は疲れたわね……」
純たちは、新開地から無事に粟生行き電車に乗車することができた。
「重いなぁ」
純は網棚に荷物を乗せた。真澄に重い物を持たせるのも可哀想なので、買ったものは全て純が持ち運んでいた。
ただ、靴だけは持っておきたいと真澄が言った。
「降りる時に忘れないでね、それ」
よほど嬉しかったのだろう。彼女は今、靴の箱が入った袋を膝に乗せていた。
「ちょっと心配。だからずっと上向いとくわ」
「いや、そこまでしなくても良いけどね……?」
電車は扉を閉め、粟生に向けて出発した。
「……あのさ」
電車は志染を過ぎ、粟生に近付いていた。そんな時に、純が固く閉ざしていた口を開いた。
「俺はあの時、真澄さんに聞いたよな? お前は、俺にとってなんなのかって」
「……!」
真澄の顔色が、少しだけ変わった。その言葉を待っていた、そう言わんばかりに。
「けれど真澄さんはこう言ったよ。私は貴方の何でもない。ただ、貴方が困っていたから助けようと思った。それだけだって」
「まさか、記憶が?」
真澄は驚いた様子でそう聞いたが、純は首を振った。
「思い出せたのは、俺が初めて真澄さんと会った時のことだけだ。そっからはまだ何も思い出せない」
どこかで聞かないといけない、そう思っていた。純は深呼吸をして、真澄に「再び」聞いた。
「真澄さん。俺はお前と何をしてた? お前はどうして、俺にそんなに優しくするんだ?」
純は高校時代の記憶を失っている。理由は高校二年生の時、彼が自宅の2階から飛び降りて自殺を図ったからだった。
「純……! 良かった、生きててくれて!」
病院で目を覚ました時、純の父がそばにいてくれた。
「ここは?」
幸い致命的な後遺症は残らなかったが、代わりに記憶を失った。
最初は小学校・中学校の頃の記憶すら曖昧だったが、当時の写真を見て、父の話を聞くと段々思い出すことができた。それでも無理だったのが、高校時代のこと。
母が亡くなり、父は家を支えるために働きに出ることが多くなった。だからこそ純と関わる機会が減ってしまい、彼の心の傷に気付けなかった。
結局純は心のショックに耐えきれず飛び降り、こんな事態になったのだ。これらは全て父から聞いたことであって、純自身は何も覚えていない。
(無責任だよな。こんなに親父に迷惑かけて、俺は何も知らないなんて。)
しばらくして退院し、学校に復帰することはできた。だが元の生活には、当然戻ることはできなかった。
「これから俺は、どうやって生きていけば良いんだろうな。友達にもどう説明したら……」
机で頭を抱え、一人で純は悩んでいた。その時に、彼女は現れたのだった。
「純君、大丈夫?」
それは長い黒髪で、青い瞳が美しく輝く少女。
「私は斉藤真澄っていうの。昔、貴方と面識があったんだけど……覚えてないよね?」
どうやら、記憶を失う前の知り合いらしい。
「えっと……ごめん、全然覚えてない」
その言葉に、真澄は少なからずショックを受けたようだった。
「そっか。良いのよ、純君は悪くないもんね」
彼女は何か、自分にとって大切な人だったのだろうか。それすら思い出せない自分が、とても情けなかった。
「放課後、図書室に来てくれないかな?」
「えっ?」
何か用事があるのかと困惑する純に、真澄はこう言った。
「入院してた時、勉強できてなかったでしょ? ……教えてあげる」
記憶の無い純に、彼女は勉強を教えてくれた。それだけじゃなく、色んな時に面倒を見てくれた。
「なあ、真澄さん」
「どうしたの?」
ある時、純はどうしても聞きたくなった。
「どうして真澄さんは、俺にそんなに優しいんだ?」
彼女は黙ったままだった。聞き方が良くなかったのかもしれないと感じ、純は思い切って聞き直した。
「俺は知りたいんだ。記憶が無くなる前、俺と真澄さんに何があったのか。なあ、お前は俺にとって何なんだ?」
ただの知り合い、それならここまで優しくしてくれる理由が分からない。もし大切な人だったのなら、もっと真澄のことを……
「何でもないわよ、今はもう」
「えっ?」
けれど、真澄はそう言って純のもとを離れた。
「私は困ってる純君の姿を見て、助けたいと思った。それだけよ」
そこから、彼女は純と関わらなくなった。せめて、卒業式では会って話がしたいと思った……だが。
(いない、か。)
彼女とは、それ以来会っていない。
「あの後、俺は思い出したよ。真澄さんと最初に出会った時……キーホルダーを拾った俺が、真澄さんに届けた時のこと」
高校時代のことはまだ思い出せない。どんな人と関わってきたのかも。そして、純が記憶を失ったことを深く悲しんだ人がどれだけいたのかも。
それを想像しただけでも、胸が痛かった。そんなかつての自分のように、解けない謎で苦しむ人たちの力になりたい。
「シャーロック・ホームズのようになれなくてもええ。あんたはあんたにとって、最高の探偵になればええよ」
かつて自分が通っていたらしい喫茶店で、マスターにそう言われた。あの時の言葉が、純の背中を押してくれた。
「俺が探偵になれたのは、間違いなく真澄さんのお陰だ。それに、俺はお前の力になりたいんだ」
人が少ない地元で探偵事務所を造ったのも。
真澄がもしかしたら純のもとに再び現れ、あの時のように話をしてくれるかもしれないと思ったからだ。
「力になりたい、か。そんなことを言われるとは思ってなかったな」
真澄は真剣な顔で、純に念を押した。
「こんなこと言っても、信じないかもしれない。それでも私は本当のことを話すよ、いい?」
「ああ。これでも五年くらい、心の準備をしてたんでな」
ここで引き下がるという選択肢は、純には無かった。彼は静かに、真澄の次の言葉を待った。
「そう。じゃあ、どこから話そうかな?」
真澄は顔を赤くしながら、ゆっくりと話し始めた。
「私が落としちゃったキーホルダーを、純が拾って持ってきてくれたことは覚えてるのね? あれが私と、純との出会いだったわ」
明らかに、真澄の様子が変わった。少し吐息のようなものが混じった喋り方もそうだが、今までは純のことを君付けで呼んでいたのに、呼び捨てにしている。
「そこから友達になった私たち。純はある日の放課後、私を図書室に呼んだのよ。あの時も勉強を教えて欲しいって、そんな理由だったかな」
少し離れた距離に座っていた真澄が、徐々に純に近付いてきた。
「けど実際は、誰もいない廊下へ私は連れて行かれた。そこで言ったこと、私は忘れないわよ?」
まさか。ここで、流石の純も察しがついた。純の表情を読み取ったのか、真澄は少し笑った。
そして、純の目をはっきりと見つめた。
「付き合ってくれ、真澄。貴方は私にそう言ったの」
真澄は高校時代、純の同級生だった。そして、純の恋人でもあったのだ。
「変な話でしょう、いつもみたいに笑ってよ」
いつもみたいに。それは今の純のことを言っているのか。それとも、昔の純のことなのか。
「……いいや。何となく俺も、そうなんじゃないかって思ってた。そうでなくちゃ、記憶を失くした俺にあんなに優しくしてくれないもんな」
彼女がようやく本当のことを言ってくれたのだ。純は信じないはずがなかった。
「私はね、純と別れたことを後悔した。あんなことを言ったのは、きっと純に忘れられちゃったことが苦しかったんだと思う」
真澄なりに葛藤があったのだろう、と純は感じた。何故なら、あの時の真澄の顔は……
「瀬名と付き合っても、この気持ちは収まらなかった。私にはきっと、純しかいないって。もう一度純に会って、ちゃんと話がしたいって」
今のように、とても寂しそうな表情をしていたからだ。
「貴方と会えたことは奇跡だと思う。けれど私は瀬名のことも裏切れないし、純とも離れたくない。どちらかを選ぶことなんて、私にはとっても難しいことだった……」
真澄はまた言い淀んだ。きっとまだ、彼女の中で迷いがあるのだろう。
「じゃあ、はっきり言うよ」
そんな迷いを振り切り、遂に真澄は覚悟を決めた。
「純、私のことを好きになって。私はいざと言う時に勇気が出なかった、貴方の力になれなかったあの時とは違う。キレイになったよ、オシャレもちゃんとしてるよ?」
彼女の顔が近付く度、甘い匂いが鼻をくすぐった。
「もちろん今すぐになんて言わない。最初は見つめ合ってちょっとしたことを話して、そのうちたくさんおしゃべりして、今日みたいに一緒にご飯を食べてくれたら良いなって。少しずつでも良いから、私といても嫌じゃないって、純がそう思えるように頑張りたいな」
最後に、真澄は純の耳元で囁いた。
「純が辛い時は、私が抱いて慰めてあげる。そして、私を頼って。一緒に乗り越えようよ、これからを」
ほんの一瞬、電車の音が消えるような感覚に襲われた。
きっと自分も求めていたのだろう。こうして真澄に愛されて、彼女に全てを託せる時を。なら、ここで何もかも……
しかし純の心は、その寸前で立ち止まった。
「確かに、俺も思ってたよ。真澄さんがここで俺のことを好きになってくれたら、どんだけ嬉しいのかってな」
「えっ?」
真澄は驚いたような声を出した。この後に続く言葉が、分かったからだ。
「けれど、俺は真澄さんとは付き合えない。日岡さんがいるからな」
「ううん、あの人とはもう……!」
真澄が何かを言いかける前に、純は結論を出した。
「日岡さんは間違いなく真澄さんのことが好きだったよ。俺はそんな人を蹴落として、お前と一緒にいたくない。ごめん、俺は無理だよ」
真澄はそこで顔を俯けた。表情が見えない、泣いているのだろうか。
「日岡さんのことも、少しは考えるべきだと思うよ」
純は自身の欲望ではなく、「本当の自分」を守り切った。
「ごめんね。私は分かった気になって、純君のことを考えてなかった。うざかったよね?」
きっと真澄はとても悲しいのだろう。純も心を痛めた、だがこれは仕方なかった。
(俺は正しいことをしたんだ、きっと……)
そして、電車は粟生に着いた。
「今日はありがとう、純君」
家の前まで着くと、彼女はまた笑顔になった。もっとも、それは純の気を遣って取り繕っているのだろう。
「どういたしまして……これだけは、最後に言わせてくれ」
真澄が純に背を向けようとした、その前に。純は彼女を呼び止めた。
「俺は今日の買い物、楽しかったぞ。そこは、俺の正直な気持ちだ」
「……そう」
真澄は静かに頷き、玄関の戸を開けた。
「また行こうね。今度は、純が私を受け入れてくれた時に」
そんな言葉を残し、真澄は純と別れた。
「真澄ちゃん」
玄関に入ると、そこには瀬名の姿があった。
「一人で行く、君はそう言ったよね?」
体調不良が治ったのだろう。すっかり、瀬名の顔色は戻っていた。
「純に選んで欲しいものがあったからよ。別に、デートしてたわけじゃない。」
真澄はそう言い訳し、靴を脱いで玄関に上がった。
「別に僕は君を責めてるわけじゃないんだ。でも……」
「大丈夫よ」
そこで、彼女は思わぬ行動に出た。荷物を下ろして両手を広げ、瀬名を抱き締めたのだ。
「私は瀬名を愛してる。瀬名のことを大切に思ってるし、瀬名も私のことを大切に思って欲しい。嘘はないわよ」
「そうか……」
瀬名は、それ以上のことは言わなかった。真澄は彼の肩を軽く叩いてこう言った。
「部屋で待っててね、ご飯作るからさ」
瀬名は静かに頷き、玄関を去っていった。
「分かってたわよ。純が瀬名を意識して、私を受け入れないぐらいね」
瀬名がいなくなった後、まるで埃を取るように真澄は腕をパンパンと払った。
「けれど、私の愛は純に伝わった。今回はそれができただけでも十分ね」
満足げに笑った後、彼女は荷物を持ってリビングまで歩いた。
「あと数ヶ月、このまま過ごせば……」
真澄が瀬名とやり取りをしていたその頃。純は探偵事務所、つまり自宅に戻っていた。
「ただいま」
父からの返答は無く、事務所は真っ暗だった。いつもは紫音がいたことも多かったので、少し寂しかった。
「寝てるなぁ、さては」
今日は色々な事があったから、自分ももう休みたかった。購入したエナジードリンクを冷蔵庫に置き、椅子に腰掛けた。
「あれ、これって?」
家の固定電話を確認すると、留守電が一件来ていた。純は首を傾げながらも、それを再生した。
「深山です。赤石さん、帰ったら連絡をください」
そこには淡々とした声で、紫音のメッセージが記録されていた。
「何だ……? 取り敢えずかけてみるか。」
純は紫音の電話番号を入力し、発信した。
「はい、もしもし」
続く
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