第2話

 土曜日の午前3時30分。田中善蔵たなかぜんぞうは自分が住むアパートに帰ってきた。出ていく時は急いでいたので玄関の鍵は開けっ放しだった。部屋に上がると、自分の靴ではないが見覚えのある靴が玄関にあった。

 「(片桐かたぎりさん?)」

 そう思いつつ部屋に上がると、そこには布団の上にうつ伏せに寝っ転がって携帯ゲームをいじっている片桐弥宵かたぎりやよいの姿があった。布団は片桐弥宵が勝手に敷いていた。携帯ゲームも勝手に遊んでいた。片桐弥宵は大きめのTシャツ1枚の下は下着というまさに夏の寝巻きといった格好だった。片桐弥宵が田中善蔵に問う。

 「お前どこほっつき歩いてたんだ?まさか女か?女だな?こんな夜中に出かける目的なんて女しかないもんね!ヒクッ(泣いてる。)鍵開けっ放しで出ていくなんて、さぞかしお急ぎだったみたいね!ヒクッ。」

 「いや俺が外にいたのはほんの一時間ぐらいですし、男の人と会ってたんですけど。」

 片桐弥宵は目が点になって口がめっちゃ開いていた。そして言った。

 「実はガチホモなのかきさまあああああああああああああ!?」

 「はい?何言ってんすか?違いますよ!」

 「...............ほんと?」

 「本当です!」

 「ほんとにほんと?」

 「本当です!」

 「ほんとにほんとにほんと?」

 「誓ってホモじゃありません!」

 「むひひ、よろしい。よく帰ってきた。」

 「ところで、片桐さんは何でここにいるんですか?」

 「鍵開かぎあいてっからさあ!留守番しててやろうと思ったのさあ!」

 「ああ、すいませんね、なんか。.........でも、わざわざ2階に上がって来たって事は、俺に用があったって事っすよね?」

 「............一緒に、こーらのもうと思ってさ...........。そしたらぜんちゃんが居ないんだもん!心配になっちゃうよ!」

 かわいい。この人さっきからマジでかわいいと田中善蔵は思った。

 「それよりぜんちゃん、コーラ飲もうぜ!冷蔵庫に入ってっから取ってきてよ!」

 「了解です。」

 田中善蔵は冷蔵庫を開けた。コーラが四つも入っている。コーラを二本取り出して片桐弥宵の待つ和室に持っていく。この二人は同じ会社の先輩と後輩という間柄あいだがらであると同時に、わりと仲良しな友人同士でもある。はたから見れば恋人同士にも見えるが、べつに付き合っているわけではない。コーラを飲んでいると、田中善蔵のほうから片桐弥宵に質問した。

 「片桐さんって、学生時代からそんなテンション高い人だったんですか?」

 「んー、考えてみればあんまり変わってない気がするなぁ。ああ、スポーツは得意だったぞ。」

 「それは部活か何かでやってたんですか?」

 「うんにゃ(「いや」という意味)、部活はね、中学の頃は『ドミノぶっ倒し部』で、高校では『軽音部』だったよ。」

 「『ドミノぶっ倒し部』って何すか?」

 「あれはドミノ部の人が並べたドミノをドミノ部員からの依頼で倒しに行くっていうやつだよ。すごいよ、国大こくたいまで出たんだよ!」

 「いやそれすごいのはドミノ部の人達ですよねぇ?片桐さんたちはただドミノ倒しただけですよねぇ?」

 「そうだよ。でもドミノ部からはかなり頼られてたよ。」

 「ドミノ部員達もそんなの自分達でやれば良いのに。」

 「なんか愛着あいちゃくいちゃうらしくってさ、自分達で倒すと一週間ぐらい毎晩泣いちゃうらしいよ。」

 「なんだよその豆腐とうふメンタル........?」

 「その『倒す』という行為をあたしが代行する事によって、一週間泣いてたのが三日間で済むんだって。」

 「泣きはするのね!?三日間も。因みにその『ドミノぶっ倒し部』って何人ぐらい部員がいたんですか?」

 「あたしだけだよ。」

 「一人かよ!それもうドミノ部の『倒し担当』で良いじゃん!」

 「責任重大なんだよ!あたしがインフルエンザで県大会欠場けんたいかいけつじょうした時は優勝したのに悲しさのあまり全員トロフィー破壊して帰ったんだから。」

 「マジすか。すげーなそれ。ドミノに愛情注ぎまくりじゃん。よっぽどドミノきなんですね。」

 「いやぁ、それほどでも(照れ)」

 「おめーじゃねーよ!おめーはただぶっ倒したただけだろーがよ!愛情のかけらもねーよ!」

 「ひっどい言い方だな!」

 「そんで、はなし変わりますけど、高校時代は軽音部でしたっけ?」

 「うん!あれは楽しかったねー。あれは人生でいっちばん熱くなったよ!」

 「ってことはバンドやってたわけですね?担当楽器たんとうがっきは何だったんですか?」

 「え?楽器やってないけど。」

 「え?じゃあヴォーカルですか?すげー!うた聴いてみたいです!」

 「は?ヴォーカルでもないよ。」

 「じゃあ何なんだよ!?」

 「ああ、軽音部ってのは、あたしの学校では『軽音楽部員が日常生活でやりそうなことを演じて動画撮影して校内放送で発表する部』の事ね。」

 「またわけわかんねー事やってんなあ!」

 「いや、でも結構人気けっこうにんきだったんだよ。評判が良かった。週に二回発表してたんだけどさ、昼休みの笑いの時間だったのさ。」

 「へぇ~。例えばどんな事やってたんですか?」

 「例えばね、ある軽音部員が、『Oh、Yeah、oh、yeah』って歌ってると、一般生徒が『なんだよ急に?』って言うの。そったらね、『黙れ!俺はいま俺の心臓ビートに合わせて歌ってんだ!』って言うの。」

 「『心臓ビート』っ!『ハートビート』って言えよ。」

 「そうそう。そういうツッコミが入るの。」

 「なるほど。じゃあ俗に言うあるあるネタなんですね。そんなん無さそうだけど。」

 「そう。無さそうなの。いくらなんでも無さそうなの。そこが面白いんだよ!」

 「良いじゃないですか。他には?」

 「ナンパ編ってのがあってね。ある軽音部員が女の子に、『俺のと君の屁で作曲しようぜ。』って言うの。」

 田中善蔵は若干コーラを吹き出して、

 「いねーよそんなやつ!」

 「で、女の子が言うの。『うちぃ、屁ぇこいたらだいたいミしか出ないから無理。』」

 「はっはっは!音階のミとうんこって意味のが掛かってやがる!」

 「そう!そういうギャグ!」

 「でもそれってぇ、本当の軽音楽部の人たち

ブチキレません?」

 「まぁ、そもそもあたしの高校軽音楽部って無かったし。」

 「ーのかよ!」

 「だからやれたんだよ。凄い奇跡!」

 「ある意味奇跡っすね。そんで、その『軽音部』は何人ぐらいいたんですか?」

 「あたしが卒業する直前には53人いたよ。」

 「めっちゃ人気!」

 「部活の中で一番人数多いちばんにんずうおおかったよ。」

 「そいつら他にやること無かったのかよ。」

 「あたしの学校は藤沢市内だったけど、この部活に入る為だけにわざわざ大阪の高校から転向してきた子もいたぐらい人気だったのさ。」

 「バリバリじゃねーかよ!っつうか誰もバンドやりたがらなかったのかよ!?」

 「まあ、みんなバンドには大して興味が無かったんだろうね。」

 「かわってんなぁ~。じゃあ、なんでスポーツが得意だったんですか?」

 「実は中学と高校時代新体操でインターハイ獲っててさ。」

 「いやオリンピック目指せよ!」

 「だって周りが糞過ぎてつまんないんだもん!」

 「それ一番言っちゃいけないやつ!」

 「だから軽音やってたんだよ。」

 「軽音はやってねーけどな。」

 「とにかく楽しかったねあれは。みんな喜んでくれたし。」

 「となると気になるのは、片桐さんの制服姿ですねえ。」

 「え?なに?今日は随分ずいぶん攻めてくるねぇ。」

 「写真とか、無いんですか?」

 「見たいの?」

 「超見たいです!」

 「ええ~、恥ずかしいなあー。」

 「だって片桐さんの制服姿って、絶対かわいいっすもん!」

 片桐弥宵は顔を赤くして照れながら言った。

 「そ、そんなこと、ないよぉ~.........。」

 「まあ、無理にとは言わないですけどね。」

 「あ、そうだ、あたしの歌が聴いてみたいって言ったっけ?」

 「もぉいいよ!ヴォーカルでもねーんだろ!?」

 

 二人の会話はが昇るまで続いた。気付けば午前6時を回っていた。楽しい会話をしていると時間が過ぎるのはあっという間だ。片桐弥宵が言った。

 「そろそろそろ部屋に戻るよ。ぜんちゃんの卒業アルバム見れたし♡」

 「今度片桐さんのも見せて下さいよ。」

 「うん、じゃ、またね。おやすみ♡」

 「おやすみなさい。」

 片桐弥宵は満足そうに田中善蔵の部屋を出ていった。

 「(ちょっと長居ながいし過ぎたか。もしかして迷惑だったかな?でも楽しかったな。ぜんちゃんってなんか優しくて、.....)」

 片桐弥宵のスマートフォンにメッセージが入った。田中善蔵からだった。

 『なんかごめんなさい、長々と引きめちゃって。片桐さんもお疲れだったのに。今度お詫びにメシでもおごります。』

 と書いてあった。

 「お詫びを言いたいのはこっちなのに...。」

 ついひとごとらしてしまった。

 「(初めてだな。男の子にこんなに優しくされたの。)」


 一方、片桐弥宵が帰ったあと、田中善蔵は和室にある両親の写真を見ていた。

 「父ちゃん母ちゃん、俺もう一回やってみるよ。父ちゃん母ちゃんが教えてくれた武術で、今度は誰かの役に立ってやる。」

 決意を固めた。

 「でもまずは寝よう、流石に眠い。」

 睡魔すいまも固まっていた。


 

 「ねむ、眠れない。」

 片桐弥宵は何故なぜか眠れないでいた。

 「なんだろ、ぜんちゃんのことばっか考えちゃう。」

 ブリリ!

 今のは片桐弥宵のスマートフォンにまたメッセージが届いた音だ。決してうんこを漏らしたわけではない。そもそもうんこが漏れたときの音はこんなにかわいいものではない。この小説の作者なら、ブリュリュっ!と書く。あ、この話どうでもいいか。

 そのメッセージを見た片桐弥宵は急に無表情になり、

 「了解っと。」

 『了解』とだけ返信した。

 そしてまた表情が緩む。

 「ぜんちゃんって、あたしのこと好きかなぁ。あたしのこと美人って言ってくれたし......。」

 寝っ転がってたベッドから飛び起きて洗面所に向かう片桐弥宵。その目的は鏡。

 「そんなに、ブスってわけではないよね?」

 実際はかなりの美人である。かわいいよりの美人である。だが本人は彼氏が出来たこともなければ告白されたこともない。ゆえに自信が持てないでいた。実際はこれ程の美人にはイケメンの彼氏が居るに違いないと周りの男が思っていただけで、まさか彼氏無しなんて誰も夢にも思わなかった。だからモテなかったのだ。あとは片桐弥宵自身も別にそれほど恋に興味があったわけでもなかった。だから片桐弥宵にとって田中善蔵は初めて仲良くなった異性であった。

 「でも、もしぜんちゃんに実は彼女がいたらどうしよう......。」

 田中善蔵は根は真面目な性格だ。さっきは片桐弥宵が勝手に部屋に上がったが、もし田中善蔵に彼女がいたら追い返されるに決まっている。それに一緒に晩ごはんを食べに行ってもくれないだろう。ちょっと考えればわかる事だが、片桐弥宵にはそんな事すら考える余裕がなくなっていた。

 「はっ!どんな子が好みなのか聞くの忘れてた!」

 そして片桐弥宵は自分の服装に目をやり、

 「........こんな格好で部屋に勝手に入ってた女なんか、好きになって貰えるわけないよね......。」

 少し落ち込んでしまった。


 午後1時。田中善蔵は起床きしょうした。昨日の夜から今日の午前6時過ぎまで起きていたのだ。このくらいの時間に起きるのはまあ普通だろう。

 「朝ごはん食べなきゃな。」

そう言って冷蔵庫を開けると、コーラが二本あった。片桐弥宵が勝手に入れてった物だ。

 「(これ、返した方がいいのかな?)」

 と思ったが、とりあえずお腹が空いたので朝食、いや昼食を作ることにした。冷蔵庫のなかからたまごを一個取り出し、茶碗によそったごはんにかけて醤油もぶっかける。だがまだ足りない。たまにはもっといらいろのせたい。そう思ったこの男は、冷蔵庫から納豆を取り出し、混ぜてからさらにぶっかけた。まだだ。まだやれる。そう思ったこの男は、こんどは冷蔵庫から消費期限間近のいかそうめんをとりだし、これもかけた。その後、更に刻んだオクラをのせ、刻んだ沢庵たくあんものせた。他になにか無いか探し、長芋を取り出した。これは皮を剥いて長方形の角切りにし、ごはんにかけた。完成だ。

 「なんか凄い事になったぞ。美味しそうなのが出来た。では早速さっそく頂きます!」

 作ったまぜまぜメシを適当にほおばると、

 「これは旨い!今度片桐さんにもご馳走しよう!」

 あっという間にたいらげてしまった。

今日は夜11時から約束がある。謎のサークル活動への参加希望をしに行くのだ。

 「........って言うか俺、ちゃんと動けるのか?」

 なにせ1年以上格闘技から遠ざかっているのだ。体の柔軟性やスタミナは自信あるが、技はどうだろうか。

 「(柔軟体操と走り込みは今まで通りやってたけど、技の練習は以前に比べて全くと言っていいほどやってない。できんのか?俺。)」

 急に不安になってきた。そこで田中善蔵は空手仲間に電話する。

 「みやちゃん、久しぶりだな!」

 みやちゃん。そう呼ばれているのは宮下豪輝みやしたごうきという名の男で、田中善蔵の親友である。田中善蔵が世界大会で4位になった際、この宮下豪輝は優勝を果たしている猛者もさである。職業はプロゲームチームの一員で格闘ゲームが専門分野。あらゆる大会に出場し優勝又は準優勝しかしないようなチームの一員である。だが引きこもり気質であり、大会が無い時は基本的に家でゲームばかりやっている。しかし空手の大会で模範試合もはんじあい(エキシビジョンマッチ)の参加の募集がかかると必ず出る無類の空手好きでもある。そんな男が田中善蔵からの電話に出た。

 「ぜ、善蔵君かい?や、やぁ、久しぶりだね。 ど、どうしたんだい?」

 「ちょっと頼みがあってよ。」

 「お、お金なら貸さないよ?」

 「ちがーう!そんなん頼まねーよ!」

 「じゃ、じゃあ一体何なんだい?ぼ、僕が出来ることなんて、な、なにも無いよ。」

 「組手くみてにつきあって欲しいって頼みも聞いてくれねーのか?」

 「場所は?」

 宮下豪輝の声のトーンが変わった。田中善蔵が返事をする。

 「北山田きたやまたのスポーツセンターでどうだ?」

 「いいだろう、すぐに行く。2時半までには着けるだろう。」

 「突然悪いね。」

 「戦いとは常に突然起こる物だ。僕は空手家、いつでも戦う準備は出来ている。では後程のちほど。」

 電話が切れた。

 「みやちゃんは相変わらずだなー。」

 田中善蔵はなかば呆れた様に電話をテーブルの上に置いた。自分もすぐ準備をして出掛ける事にした。


 田中善蔵は目的地の北山田きたやまたスポーツセンターに到着した。近くに駅は無く、公共交通機関を利用する場合はバスかタクシーしかこのスポーツセンターに来る術は無いが、一般の駐車場があるため、田中善蔵は自前の中古のスポーツカーで来た。このスポーツセンターには屋内プール、競技用の体育館、屋外にはサッカー場や野球場と、子供用の遊具やちょっとした筋トレ器具が置いてある広場がある。特に屋内プールと競技用の体育館は大きい。プールは競泳用のプールと飛び込み用のプールがあり、更には一般人が遊ぶためのプールやわりと複雑で長いウォータースライダーもある。体育館は5階建てで、1階はメインアリーナであり、バレーボールやバスケットボールの試合いが出来る大きさの体育館が2つあり、それぞれに観客席も付いている。2階は観客席の入り口や選手控え室が備わっている。3階と4階にはそれぞれ観客席の無い体育館が1つずつあり、最上階の5階には弓道場がある。

 「どこに居るか電話で聞いてみよ。」

 田中善蔵は宮下豪輝に電話を掛ける。

 「もしもし、みやちゃん?どこにいるんだ?」

 『ぜ、善蔵君、着いたかい?僕は今、こ、公園みたいな広場にいるよ。こ、子供達がターザンという乗り物で遊んでいるのを何気なく見ていたら、こ、子供達に誘われてしまって.......断れなくて、ぼ、僕もターザンをやらされてるんだ。』

 田中善蔵はその言葉を聞いて思った。

 「(こいつさっきと雰囲気が全然ちゃう。何やってんだこの馬鹿。)」

 そして更に宮下豪輝に言う。

 「3階の体育館に居るからさっさと来いよ。」

 「さ、3階だね、わかった!今すぐ行くよ!」

 電話が切れた。

 「あいつ『ターザンという乗り物』っつってたけど、まさかターザン知らなかったのか?」。

 そう言って、田中善蔵は体育館に向かう。体育館の入り口前には幅は広いが高さは大したことのない階段があり、上がり切ると少し広めの踊場があり、観音開きのガラス制ドアが3箇所ある。しかし、その5メートル程手前に変わった銅像がある。御影石みかげいしでできた四角柱しかくちゅうの上に、バーコードハゲのおっさんが頭にネクタイを巻いていて、銅像から見て右下4時の方向に右上腕を下ろし、肘を90度上方向に曲げて先端の手は狐の形にしている。左手は銅像の鼻の穴に親指を突っ込んでパーの形をとっており、舌を出してイカれた目をしている。その状態で銅像から見て右側に上半身が傾いでいる。左足は地面から上がっている状態だ。いわゆる酔っ払いの銅像であった。

 「(前から不思議に思ってたけど、この銅像一体何なんだよ。)」

 銅像のタイトルは『考える事を放棄した人』とあった。田中善蔵はこの銅像をインターネットで検索してみる。そこにはこう記されていた。

『考える事を放棄した人の像。

これは1995年に北山田スポーツセンターに建てられた物である。何故なぜ酔っ払いがモデルなのかというと、1980年代後半、このスポーツセンターの広大な敷地はかつて沢山たくさんの居酒屋や食事処しょくじどころで栄えていた。当時はバブル只中ただなかであり、駅が無くてもタクシーで行き来する客がおり、客足が途絶えることは無かったが、バブル崩壊と共にタクシー利用者が減り、一気に客足も途絶え、次々に店も閉店してしまった。その頃の思い出を忘れないため、北山田スポーツセンターの設計者、片山真光かたやまさねみつ氏が、よく一緒に飲み歩いていた友人で酒好きの最上幸就もがみゆきなり氏に許可を取り、彼を模した銅像を造った』とあった。

 「最上幸就って、まさか昨日貰った名刺の店の元オーナー?まあ、自分でバー開くぐらいだからよっぽどの酒好きだったんだろうな。」

 田中善蔵は少々驚きつつ、エントランスから入っていった。目的地の体育館は3階にある。田中善蔵は早速さっそく中に入った。今日は田中善蔵が予約をとっており、2時半から5時までは田中善蔵と宮下豪輝しか利用できない。

 「さすがにあちーなー。エアコン点けよ。」

 田中善蔵が動き安い服装に着替えていると、宮下豪輝がたどり着いた。汗だくで、大分疲れていた。

 「はぁ、はぁ、お待たせ。た、大変いい経験をした。ターザンという乗り物は、ぼ、僕は初めてで、と、とても楽しかった!」

 彼が着ている服は砂だらけであった。恐らく、ターザンから落ちて地面を転がったのだろう。

 宮下豪輝。身長は173cm、体重は59kgで田中善蔵と同階級の男。外見は無駄の無い筋肉質であるが、衣類を着ていると見た目では分かりにくい。髪型は田中善蔵よりも長く、前髪は右目が若干隠れる程度で、左側は眉毛に届くぐらいの長さ。後ろ髪は少し長めで、首が隠れるぐらいだ。一重目蓋まぶた下三白眼したさんぱくがん。外見はオタクっぽく見えるが、油断して喧嘩けんかを売ると逆に血祭りに上げられてしまう程やたら喧嘩がつよい。田中善蔵と同階級の空手世界チャンピオンという事もあるがそれだけでは無く、戦いの才能がずば抜けているのだ。

 田中善蔵が話し掛ける。

 「何だよ、もう疲れてんじゃねーか。これから組手するんだぜ?大丈夫かよ。」

 宮下豪輝の目が変わる。荒かった呼吸も突然ととのう。

 「問題無い。ルールは『僕らのルール』で良いかな?」

 「あ、ああ、そのつもりで来た。」

 「善蔵君こそ大丈夫なのかい?君が空手から遠ざかって1年弱ねんじゃく経つが。」

 「だからこそみやちゃんに頼んだんだよ。みやちゃんはまだ現役だろ?」

 「僕は生涯しょうがい闘う事を辞めないよ。空手は僕の人生の光だ。空手がなければ僕の人生はただのいじめられっ子で終わっていたからね。」

 「仕事と両立出来んのかい?」

 「問題無いよ。空手の試合と重なれば空手が優先だとチームのみんなもスポンサーもわかっている。それに、ゲームの戦いなど、児戯じぎに等しい。命を失う事は無いからね。」

 「おいおい、今日は試合じゃねーんだ。殺したら問答無用で捕まるぜ?」

 「殺す覚悟、殺される覚悟も無く僕がここに来たとでも思っているのか?」

 次の瞬間、宮下豪輝が田中善蔵の鼻先はなさきまで急接近してきた。これは宮下豪輝が左足で床を蹴り、田中善蔵に向かってステップインしたのだ。そして、ステップインの最中に正拳突きの引き手を作っていた右手を田中善蔵の顔面めがけて突き出す。正拳突きである。田中善蔵のひたいにまともに当たる。

 「(やっぱり速い!)」

 後ろにのけ反る田中善蔵に追い打ちを掛ける様に、宮下豪輝の左足背足が田中善蔵の右ほおに当たる。左上段まわし蹴りだ。田中善蔵は床に仰向けに倒れた。ノックダウンである。

 「反応がにぶくなったな善蔵君。君らしくない。1年前の君なら、最初の右正拳をかわして左フックのクロスを打てたはずだ。」

 田中善蔵はスプリングキックの要領で起き上がる。

 「しびれるな。世界チャンピオンの蹴りは。」

 「本当は君が獲るはずだった世界さ!」

 田中善蔵と宮下豪輝の距離は2メートル。その距離から宮下豪輝は前転宙返りをしながらの踵落としを叩き込む。縦回転の胴回し回転蹴りである。田中善蔵はそれを両腕を頭上にクロスさせて防ぐが、右膝が崩れ、膝立ち状態になる。

 「今でも覚えているよ善蔵君。2年前の世界大会準決勝、君は相手のあからさまな目突きの反則にも屈せず闘った。視界か悪い故に廻し蹴りを食らい一本負けになったが、君は審判の反則判定にもあらがって試合続行を望んだ。あのときの君の実力には、今の僕でもまだ及ばないよ。あの反則さえ無ければ君は難なく決勝に上がり、僕を倒していたんだ。間違い無く君は最強の空手家だったんだ。そして、その堂々たる姿勢は今でも変わらない様だな。僕の最初の不意打ちにも文句一つ言わない。」

 田中善蔵は立ち上がる。

 「みやちゃん、ありがとう。けど、あの目突きを防げなかったのは、俺の実力不足だよ。みやちゃんが決勝で相手をボロボロにしてくれたから俺もスッキリしたんだ。まさかあの反則野郎、植物状態になっちまうとはな。」

 「それが奴の運命だったんだよ。まぁ、彼も腐っても空手家。文句はあるまい。あ、あっても言えないか。ははっ!」

 「(おめーが言えなくしたんだろ。ったくとことん残酷な空手家だぜ。)」

 田中善蔵は左足を前に出し、少し膝を曲げて両手を開き気味で顔をガードする様に構える。

 「今日は楽しもうぜ、みやちゃん。」

 対して宮下豪輝は右足を前に出し、左手を握って左頬を守る様に、右上腕を体のやや右後ろに下げ、前腕を体の内側に約90度曲げて拳を握る構えをとる。ボクシングのフリッカースタイルやヒットマンスタイルの様な構えだ。そして左利ひだりきき。オーソドックススタイルの田中善蔵にとってはやりずらい相手だが、だからこそ宮下豪輝を選んだのだ。

 宮下豪輝は田中善蔵とあらためて相対あいたいした瞬間息を飲んだ。

 「(この異様な雰囲気、威圧感。善蔵君のこれが怖い。これが田中善蔵だ。実力は落ちてるかも知れないが、この雰囲気だけは健在か。あの反則野郎が咄嗟とっさに目突きをやりたくなる気持ちも分かるよ。善蔵君との組手では、誰もがまるで殺しあいを強要されてる様な精神状態におちいる。)」

 先ほど宮下豪輝が言った『僕らのルール』。これは本来手による頭部への攻撃を禁止するフルコンタクト空手のルールを無視した物である。つまり顔面パンチが許される。更にはこの『僕らのルール』、打撃技なら目潰しや金的攻撃を含めて何をやってもいいという彼ら独自のルールである。

 今度は田中善蔵から動く。宮下豪輝の方に出ながら左ジャブを顔面に打つが、これは左手で普通に止められてしまう。しかし、左手で止めたということは、宮下豪輝の視界は彼自身の左手でせばめているということでもある。田中善蔵はこの好機こうきを逃さない。ジャブを打った左手を引きながら右足のすねで宮下豪輝の前足、つまり彼の右足の内脛うちすねに蹴りを放つ。これはローキックであるが、宮下豪輝は右膝ひざを少し上げてブロックの態勢をとる。しかし、ここで宮下豪輝の予想が裏切られる。ローキックの軌道だったはずの田中善蔵の右足が、宮下豪輝の左側頭部ひだりそくとうぶにヒットしたのだ。これには宮下豪輝もたまらず体が右方向にのけ反る。田中善蔵はローキックを防がれることはわかっていた。故にローキックをすると見せかけ、急に右足の軌道を下から半時計回りの上段廻し蹴りに切り替えた。この技は有名なブラジリアンキックである。しかも背足ではなく中足でモロに蹴り込んだ。宮下豪輝は思った。

 「(スピードが速い!1年のブランクを感じさせないスピードだ。)」

 実際はダメージもあった。田中善蔵から見て宮下豪輝の体は左側にのけ反っている。田中善蔵は更に追い打ちをかける。今度は宮下豪輝を蹴った右足を右前方に下ろし、左足の脛で宮下豪輝の両足を刈るようにローキックを放つ。右上段廻し蹴りからの左ローキックのコンビネーション。これは対角線の攻撃となり、当たれば効果が高い。だが世界チャンピオンは甘くない。田中善蔵が放った左ローキックを宮下豪輝は体を右側にのけ反った状態でジャンプでかわす。そして跳んだまま左の廻し蹴りを田中善蔵の右側頭部に向けて放つ。かろうじて右腕でガードする田中善蔵。

 「(マジかよ!あの体勢から跳び廻し蹴りが出るか普通?)」

 宮下豪輝は左足が前の状態で着地し、胴体を左にひねって右拳みぎこぶしを握る。それから一気に胴体を右に捻って同時に握った右拳を振り、裏拳うらけんを田中善蔵の顔面に打ち込む。田中善蔵は体を後ろに反らしてこれをかわし、そのままバック転で距離をとる。だが宮下豪輝は追撃をめない。田中善蔵がバック転をした時、当然両手が床につくことになるが、その瞬間を宮下豪輝は逃さなかった。ゴッ!左足中足で田中善蔵の顔面を蹴り上げた。田中善蔵の両手が床についており、頭が地面に近い瞬間にである。その勢いで田中善蔵の顔は一気に上に上がり、更に後ろにのけ反る。それを追いかける宮下豪輝。彼は前方に飛び上がり、跳び足刀を田中善蔵の顔面に向けて放つ。この瞬間、宮下豪輝は見た。後ろにのけ反りながらも若干笑っている田中善蔵の顔を。田中善蔵は一気に体を左に移動させる。すると宮下豪輝の跳び足刀は当然田中善蔵を通り過ぎる。宮下豪輝に嫌な緊張が走る。

 「(まさかまさかまさかまさか........)」

 宮下豪輝の背後を取った田中善蔵。宮下豪輝は着地前に咄嗟とっさに後頭部を両手でかばう様にガードする。しかし田中善蔵の狙いは後頭部ではない。厳密げんみつには、田中善蔵は宮下豪輝がどこをガードするか見ていたのだ。宮下豪輝は空手だけではなく喧嘩も百戦錬磨ひゃくせんれんま強者つわもの。なればこそ、後ろからの攻撃に備えるのは本能的な反応であった。そして宮下豪輝が後頭部をガードするなら、胴体はがら空きだ。宮下豪輝が完全に着地する直前、田中善蔵の右中段廻し蹴りが宮下豪輝の右肋骨みぎろっこつに刺さる。まともに入った中段廻し蹴りに宮下豪輝は悶絶する。宮下豪輝の背中がダメージのあまり、右に傾ぐ。田中善蔵は更に右上段廻し蹴りを宮下豪輝の右側頭部みぎそくとうぶに直撃させる。あまりのクリーンヒットに宮下豪輝はそのままぶっ倒れた。だがすぐに起き上がろうとする宮下豪輝。脳が揺れていてもなお、闘いに対する執着心しゅうちゃくしんは無くなっていない。だが当然からだが言うことをかず、ふらつきながら倒れてしまう。田中善蔵が言う。

 「落ち着けみやちゃん。少し休めよ。まだ時間はたっぷりある。これで終わりじゃねーんだ。少し休憩して、仕切り直そうぜ。」

 「さすがは、真のチャンピオン。完全に騙されたよ。」

 「勝ちに急いだな。跳び蹴りなんてハイリスクハイリターンな技出すとはよ。」

 「君との闘いはいつも、長期戦になればなるほどこっちが不利になる。...............なぜなら君は、闘いの最中さなかに相手の欠点を見つけ、学習していくからな。」

 「大抵の選手はそうなんじゃねーのか?」

 「そうだとも。だが君は、その学習速度が桁外けたはずれなんだ。いい機会だ、君の強さを教えよう。自分の強さと向き合うこともまた、自分の弱さと向き合うことと同じぐらい重要なことだ。」

 「俺の強さ?」

 宮下豪輝は床に座りながら言いだした。

 「ボクシングの試合を見ていると、強い選手はラウンドを重ねるごとに相手のリズムやくせを見抜いてくる。これは10ラウンド以上という過酷な戦闘時間が可能にすることだ。長引けばそれだけ相手を見れるからね。だが善蔵君、君は違う。空手の場合はラウンドは無く、試合時間は基本的に3分程しか無い。そのたった3分のなかで、君は相手を理解してしまうんだ。だからこっちは慌てるんだよ。早く倒さなければってね。」

 「そ、そうなのか.......?」

 「自分ではなかなか気付かないだろうね。更にたちの悪い事に、君からも率先して攻撃してくる。これは相手の対応の仕方を見るためだ。」

 「言われてみれば、そんな感覚があるかもしれないな。」

 「あとはその目だよ。善蔵君、相手の目から自分の目を絶対にらさないよね。」

 「そんなにか?」

 「君がバック転したときに僕が顔を蹴り上げたけど、きみはそのときも僕の目を見ていた。」

 「もしかしたら、それはくせになってるのかも。」

 「こっちはかなりビビるよ。だって、どんな攻撃を当ててもまばたきせずに目がこっちを見てるんだ。対戦相手からしたら気味が悪い。目突きぐらい、やりたくもなるさ。」

 「な、何かごめんよ~。」

 「善蔵君が謝る事ではない。とにかく、君にはそういった強さがあるという事だけは覚えておくといい。」

 「ああ。わかったよ。」

 「あと君はバック転中に蹴られる事も想定していたね?」

 「まぁ、顔面に蹴りがくる確信は無かったけどな。」

 「やはり。君はわざと大袈裟に後ろにのけ反り、僕の跳び蹴りを誘ったわけだ。」

 「あれは俺の運が良かった。外れれば隙だらけの跳び足刀がきてくれたおかげで、活路が開けたってもんだ。」

 「脱帽だよ。この天才め。」


 その後も休憩を挟みながら二人は組手を続けた。今日は午後2時30分から5時まで体育館が使えるが、さすがにそこまで闘い続ける体力は無かった。3時過ぎには二人とも力尽ちからつきていた。

 「やっぱみやちゃんえーわ。」

 「ぜ、善蔵君こそ、1年のブランクがあるとは思えないね。」

 「めし、食おうぜ。」

 「さ、賛成だ。」

 二人は着替えて北山田スポーツセンターを出ていった。

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