6章 【世界は均衡を保つ】
翌日の朝、いつも通り、制服に着替えるが、中のシャツをクラスのものにした。カッターシャツには水色が薄く透ける。昨日、何とか風呂に入れてよかった。ほとんど意識はなかったが。
いつものルーチンを終える。窓から外を見ると教師が一人門に入ってくる。その直後、待っていたかのように、相良さんが登校してきた。俺はそれを確認すると自分の席に着く。
「やっぱり今日も負けたー。もう、早すぎるよ直哉君。おはよう」
ごめんと謝る。相良さんの風貌は昨日と少し違っていた。ぱっと見だけでは、具体的に何が違うか言えないが。
「今日こそは勝とうと思って結構急いできたんだけどなぁ」
いつもとそんなに時間は変わっていない気がする。
「ほら、見て、髪もまだ全然できてないの!」
ああ、なる。言われて気づく。相良さんは簡易的に止めていた、シュシュを解くと髪を左右に振り、完全に髪を下した状態になる。たったそれだけでいつもより大人っぽく見えた。
「勝つためだけに早く来たの?」
もし、そうだったら、次からは朝どこかで時間をつぶす必要があったかもしれない。
「そうだよ」
相良さんは何のおくびれもなくそんなことを言う。
俺は、本当の理由を見ていた。
朝、彼女は、クラスの模擬店を出すテントに向かい、昨日途中で終わった、看板の装飾を仕上げていた。だから、いつもと同じ時間になっているのだ。
相良さんは、自分の席に座ると、さっそく、自分の仕上げに取り掛かる。なるべくそちらを見ないようにする。
しばらくすると、続々と、登校してくる。ざわざわと、教室は音であふれている。決していつもより会話が多いわけではない。一人一人が少しだけ、大きい音を発している。
だからか俺は、バランスをとるために、いつもよりできるだけ音を出さないように、気配を消して過ごした。どちらが正解とかはない。ただ、目の前に座る男はどちらでもなく、いつも通りだった。
体育館で、開幕宣言が行われ、ボルテージが最大に上がった動物が解き放たれる。
自分の持ち場に向かうもの、仲のいいものと群れになるもの。それぞれだ。
「直哉君、どうかな?」
その、喧騒の中に紛れて、相良さんが話しかけてくる。手で髪をなびかせる。俺がわかるのは。いつもより、複雑に絡み合い、まあ、なに、その
「似合って、いや、……カワイイ、と……思います」
「うん。よかった。それじゃあ、楽しもう。イエイ!」
恥に見合った、むしろおつりが出るくらいの、笑顔で返される。ハイタッチのおまけ付きで。俺は、接地時間が短い、ハイタッチをかえす。
これが文化祭か! いや、これが青春なのか。
そんな幸福を胸に、文化祭を謳歌しに行く。
──二十分後、俺は、追い詰められていた。というよりは、遭難という表現が正しいかもしれない。
どこに行けばいいのか。ただ人の流れに流され、たどり着いたのは、食事をするスペースから少し離れた、石の段差に座っていた。遠くから眺めているだけのほうが良いのかもしれない。ちらほら見える、男女のカップルを数えて過ごす。
そこには嫉妬や嫌悪などの気持ちはなかった。むしろ、それとはまったく対の存在だった。特に同学年がそういう関係になっているのを見ると感心さえした。今まで知らなかった、他人同士が半年ほどで、そのような関係を築き上げるには、生まれ持った性質だけでは到底無理な話だろう。
「暇だなぁ」
空に呟く。もうすぐしたら、午前も終わる。そうしたら、部室にでも行って休もうと思った。すでに、何周もした妄想も、限界にきていた。
「隣いい?」
計画を立てていると、驚いたことに、相良さんが隣に腰掛けてくる。
「な、なに?」
「直哉君は、誰か一緒に回る人いないの? そう、例えば女の子とか」
この喧騒の中でも、相良さんの声は聞き取れた。
ってか。なにその質問つっら……。
「直哉君、いいなっていう女子いるのに」
「嘘」
「ははは」
笑ってごまかされる。いや、嘘なのかよ。ちょっと、信じちゃったよ。
「でもこんなところにいるってことは、誘ってほしかったんでしょ? あざといね」
「違う!」心の中で否定するがそんな言葉は、現状を見れば何の説得力も持たない。だから素直にそれを受け入れる。
「まあ、ちょうどよかったし。休める機会を作ってくれてむしろ感謝したいぐらいだよ。ナイスセーブポイント!」
「?」
「へへ、だって、直哉君といたらだれも近づいてこないでしょ?」
「うわっ。……いや、まあ、いいんだけどね。……別に事実だし」
「そうだ! 直哉君はもうなんか食べた?」
相良さんはあからさまに話を変える。自分のクラスのものと、飲み物くらいだ。
「そう。私もまだなんだ。何か食べたいのある?」
俺はなにか胃に入る精神状態ではなかったため、目に入ったものをそのまま口に出す。ものというか、人というか、雨音先輩のエプロン姿。
「ホットケーキか。いいね! あ、もしかして、かわいい子でもいるのかなぁ?」
「別に、そういうわけじゃないけど、知っている先輩がいたから」
内心を悟られ、そのせいで、半分本当のことを口にしてしまう。
「えっだれだれ。──直哉君って、意外な人と、関わりあるよね!」
「なにそれ……」
「へへ、悪い意味で言ったかも」
そんなやり取りをしていたら、雨音先輩がいる模擬店の前まで着いてしまう。先輩は売り子をしていた。プラカードを持って、この前抱き着かれていた同級生と話し込んで役目を全うしていなさそうだったが。
「……ふーん。知り合いって、雨音先輩のことだったんだ」
「相良さんも知ってるんだ」
「いや、ほら、隣のクラスの人と付き合ってんじゃん」
むしろ知らないの? という具合だったから、学年では周知のことなのだろう。確かに目立つ組み合わせではあると思う。
嘘には、つけが回ってくる。相良さんに知り合いと言ってしまった以上、雨音先輩に挨拶ぐらいはしておかないと不自然になってしまう。
──大丈夫だ。こっちの世界の、雨音先輩は違う。そう自分に言い聞かせ、ホットケーキを受け取り、
「おはようございます。雨音先輩」
横に立つ先輩に挨拶をする。返してもらえなくても、すぐに立ち去れば問題ないと考えていた。
「ん? あら。直哉君。隣にいるのは、保健室に連れ込んでいた彼女ね。付き合っていたの?」
甘い、ホットケーキにかかるはちみつより甘い。今まで聞いたこともない声で、返される。しかもこの場において、考えうる最悪の質問をしてくる。
きっちり足を踏んで、物理的攻撃も忘れずに。
「なに? 花音の知り合い?」隣の友達が、気怠そうに、雨音先輩に訊く。
「ううん、なんでもない。ただの部活の後輩」
俺は足の痛みでひきつった笑いで、聞こえないふりをして立ち去る。
「どっかで食べようか?」
近くの飲食スペース(テントの下に教室の机といすが置かれている)に行くが、ちょうど二人分しか空いておらず、相良さんと対面する席に座る。
「……おいしいね」
ほとんど味のしない生地に無理やり味をつけているせいで、口の中に入れると、味のしないただのパンを食べているような気分になる。味がしないのは、経験のない、女子と一緒に食事をし、なおかつ秘密をばらした、裏切り者に仕立てられた直後という特殊な状況のせいもある。味わうほど余裕がなかった。
「──雨音先輩に言ったんだね」
「いや、そのやむ負えない事情と言いますか……やっぱりだめだったですよね」
「……もー。ダメだってわかってるなら、反省してよね。どうするの次から使えなくなったじゃん。あーあ、せっかく見つけたのに、絶対次から、あの先輩が、いちゃつく場所になってるんだー」
「いやぁ、さすがにそんなことはないと思うけど」
「あーやだやだ。直哉君、喉乾いた! タピオカ飲みたいなー」
やけ食いするように、大きな一口を食べ、口に入ったまましゃべる。
たった、二コインで許してくれるというのなら、快く奢ろう。
タピオカなんて売ってないので、オレンジジュースを買ってくる。
相良さんはそれを受け取ると、「ありがと」と、機嫌を良くしてくれた。おそらく見せかけだけで、完全には許してはくれてないと思うけど。雰囲気を良くするために、譲歩してくれたのだ。
「そういえば、時間大丈夫?」
「あ、もうそんなじかん?」
相良さんは、ホットケーキを残りを口に詰めると、豪快にジュースとともに一気に飲みこむ。
「じゃあ、行こう」
そういうと、相良さんは俺の腕をつかむ。動揺した俺は、手をつかまれなくてよかったなんて、見当違いな心配をしてしまう。
「だって途中でクラスメイトに止められたら台無しになるでしょ。
それに。へへ。実は、強引なのが好きな直哉君は、こういうのを簡単に受け入れちゃうんだよね」
当たり前だ。つかまれて抵抗するなんてできない。俺の性癖については、触れないでほしい。
「いや、健の友達にでも見られたら」
「健に勘違いされるって? ううん。絶対健はそんな勘違いしないよ」
たしかに。そうかもしれない。
二人は校舎に入る。外とは違い、一気に人が減る。中では、文科系の部活の展示などが主なので、しんと静まっていた。
「少しぐらい遅くてなってもいいかな」
「いいの? 好きな人を待たせても」
なんて自分らしくない言葉だろうか。相良さんも一瞬、驚いた表情をするがそのことに真面目に答えてくれる。
「いいの! 健は、どうせほかの女子たちに囲まれているから」
それは容易に想像できた。
教室につく。ここであった準備の跡だけが散乱していた。
「それで。なにしにきたの」
「もー、冷たいなぁ。女の子にはいろいろ準備があるんだよお」
相良さんは言葉通り、自分の席で手鏡を取り出して、準備を始めた。俺は、手持ち無沙汰になり、適当な席に座って待つことにした。
「あー、緊張する」
相良さんはめずらしく独り言を口にする。
「意外だ」
「ん? なにが」
それは普通の疑問だったのだろうが、そこにわずかな怒りが混ざっている。……そんな気がした。だから返答も言い訳じみたものになってしまう。
「いや、健と、デ……、回るぐらいなら、相良さんだったら簡単にしそうなもんだと思ったから……」
「そう? 私だってみんなと一緒だから話せるんだよ。だから、男子で二人きりで話せるのは直哉君ぐらいだったりするのに! だからさ、もっと、喜ぶべきじゃない?」
やっぱり怒ってんじゃん。それにつまらないんじゃなくて、緊張して、変なテンション(クールぶっている)になっているだけだ。
「よし」
そんな掛け声とともに、立ち上がると、おもむろにこちらに歩いてくる。
「な、なに……?」
「さっきのお返し」
そういうと、相良さんは密着しそうなほど近づく。顔を耳元までもっていくと、
「ありがとう」
ふうっと優しい風が耳をくすぐる。俺は息をのむ。肌が触れる。それはとてもやさしい感触だった。もし可能ならこのまま倒れてきてほしい。そんなことを考える。
──数十秒の時が経ち。俺は息をするのさえ苦しくなってきた。ひどく頭痛がし、
全身が自分のもではなくなるような感覚に陥る。
──俺はしばらく、目を開けなかった。彼女の息が止まっているのを分かっていたのに……。
認めたくなかった。
体が、完全に自分の支配下に戻り、ゆっくりと目を開く。彼女の顔が、すぐ横にある。
恋人が、かがんでキスをする態勢のまま、動かない。俺は一度、口の中にたまっていたつばを飲み込み、この世界を見渡す。
そして今度はゆっくり、彼女の髪の毛をひと撫でする。手には何も感触がない。さっきまで、破裂しそうだった心臓のポンプは、何度かの、痛みを伴いながら、常に戻っていった。
「絶対に君を守るッ──」
気合を入れた直後、教室の窓ガラスが破られる。
バリバリバリと、音を立てて、窓ガラスが砕け散る。
「⁉」
目の前には、三匹の化け物が宙に飛んでいた。飛んでいるといっても、目線と同じ高さで、特に、飛び回っているわけでもない。一歩踏み出すと、警戒音のように、ギイギイと、金切り音で威嚇する。大きさは、人の顔を一回り大きくしたぐらいだろうか。今までに比べたら、小さく感じる。しかし、それより、
「なんだよ……なんだよ! その面は……!」
その顔は、人間と思わせる、造形をしていた。目は、正面を向き、鼻は、自分より高い、堀の深い立派なものを持っていた。しかし、顔全体を見れば、生きている人間というよりは、絶望に打ちひしがれた、ムンクの叫びの、あの顔を彷彿とさせた。
体は、バッタやイナゴを思わせる、棘の生えた六本足に,、斑点が、昆虫特有の丸い腹に浮き出ている。その斑点は、子供のころみた、バッタをつぶしたときに口から出る液体の色を思い出す。
化け物は歯をぎしぎしときしみ合わせていた。
一匹が、こちらに向かって、飛翔する。俺はそれを、右手を出して、払おうとするが、その瞬間、化け物は尾から出した蜂の針のようなもので、俺の右手をくりぬいた。手の甲から鮮血が噴き出る。
「うがああああああぁぁぁ」
俺はそのまま、地面に、膝をつきそうになるが、それを気合で何とか耐える。
というより、化け物が次の突貫を開始したせいで、それに対応しなければいけなかった。先ほどと、方向を変え、その先にいるのは相良恵。
それは化け物が意図して攻撃したというよりは、狙いが外れてそうなってしまったという方が正しいだろうか。それでも、
「やらせるかッ‼」
半ば反射で、腕を伸ばし、行く手を阻もうとする。右腕に、ジュブッ、と、つぶす感触。
【能力の発動】
穴の開いた、右手の甲から。数本の血液が固まってできた、刃が、突き刺さるように生えており、それが、化け物の腹に幸運にもあたったのだ。化け物は地面に倒れ、ジジ、ジジッと羽音を立てている。
──ああそうか、さっきの警戒音はこの羽から出ていたものだったのか。
そんな場違いな感想を抱くと、その、いまだ動くのをやめない化け物に、こぶしを打ち付ける。叫ぶことで、痛みの刺激を無理やり麻痺させながら
「死ねっ、死ねッ、死ねえッっぎあああああああああああッ」
自分の骨が、化け物の体にあたって、すりつぶされる感覚。
数十回ほど打ち付けると、先ほどまで数本しか生えていなかった、血の刃、数十本が束なり、サバイバルナイフほどの刃にまで成長している。自分でもおかしいと思っている。……こんな、能力の発動の仕方。
それでも、これ以外に取るべき方法を知らなかった。出来上がった刃を律儀に待っていてくれた、化け物に掲げる。
「どいつから死にたいんだッ! くたばれよッ。化け物ども」言葉とは裏腹に俺は泣きそうな悲鳴をあげ突っ込む。
椅子を飛び越え、一気に距離を詰めると化け物は、羽音を鼓膜が破けそうなほど、増幅させる。これがこいつらの命の音なのだ。俺はそれを自分の声で打ち破るように、咆哮をあげ、一体の化け物の体に、右腕を振り下ろす。しかし、化け物はそれを狙いすませたように、その攻撃に尾の棘を合わせる。
「なっ⁉」
一瞬、やばいという、電気信号が脳内に、伝達されるが、止めるにはもう遅い。そのまま、こぶしに、棘がジュサッと、音を立ててぶつかる。
「うぐッ……」
──幸いにも、枝のような小さい刃たちが盾となって防いでくれるが、拳がぐしゃぐしゃにつぶれてしまったかのような激痛が襲う。
「痛くないっ痛くない痛くない──」
脳内を麻痺させる。しゃべり続けることで、自己催眠とでもいえばいいのだろうか、痛みを和らげてくれる……気がする。それに、意識が飛ぶのも防いでくれた。
連携は取れていない。それが唯一の救いだ。俺は、無傷の三体目の化け物が迫ってくるのを横目で視認し、ぎりぎりのところで、左手を捧げる。
「ああああああああああああああッ」
痛みに、体中が張り裂けてしまいそうだ。俺は残る、生きる本能みたいなもので、右腕を、人間の顔をした、化け物の面に叩き込む。化け物の目がつぶれ、垂れるように、飛び出すが、さらに力を加え、口元にまで腕が食い込む。
「死ねよ、くそがッ‼」
俺はそのまま、叫ぶ化け物を地面にたたきつける。右腕は化け物の顔から抜けずそのまま、地面にめり込む。そして、化け物に、突き刺さった自分の腕を左手で、何度も叩き、額を無理やりに砕く。
化け物のうめき声が、悲鳴に変わり、やがて、沈黙する。
──次だ。
意識をもう一体に向けようとした瞬間、足に力が入らず膝から崩れ落ちる。足元を見ると、太ももに、化け物が体に寄生するように張り付いて、その棘を突き刺し、強靭な歯で、膝に喰らいついていた。
ケタケタと笑う、その顔を見た瞬間、体全身凍り付いたように汗一つなくなるような恐怖に支配される。実際は、血を流しすぎたことで、体に、血が回らず、体温が下がっているだけだろうが。
足にへばりつき、仲間の死すら、自分がヤレればいいと、復讐者となった化け物が、喰らっている。
「があああああああ」
痛みで朦朧とする頭の中で、狙いを定めて、化け物の腹部に刃を立て、真っ二つに切り裂く。中から、異臭のする、液体とともに、おびただしい量の赤い血が流れその場一帯が、血で染まる。それでも、俺は復讐者を、顔の形が分からなくなるまで潰す。その悪意が消えてなくなるまで。そのたびに、ギャリギャリと、骨がすれる音が、そんな行為をあざけわらうように、教室に響き続けた。
はぁ、はぁ、──死にかけたがそれでも、三体の化け物は完全に沈黙する。俺は、足を引きずり、四足歩行のケモノに変わり果てた姿で、相良さんのところまで這いずるように向かう。俺の後ろには、一本の赤い道ができていた。
左手に突き刺さった棘は、返しによって抜けず、そのまま、能力の刃に同化している。太腿も似たようなものだと思うが、わざわざ目で見て確認したくない。
──あと二メートルほどで、相良さんのもとにたどり着く。
しかし、不意に、足が止まる。何かに引っ張られるように、むしろ後退するように、道を巻き戻る感覚。
この時、体は理解していたが、頭はそれを拒んだ。ふり向くと事実になってしまう。
だから、この音も幻聴であってくれ。この痛みも、幻覚であってくれ。そう強く思えば思うほど、むせかえるような、激痛に、脳みそが耐えれなくなり、赤い涙がこぼれる。そして、むせび泣く。自分でも声を出して泣いているのが自分とは思えない。
しかし、視界はゆがみ、のどは焼けるように、熱い。
体が生をあきらめた。そんな時に出る最後の、抵抗みたいなものように思える。
──俺は声を出して、泣くことしかできない。
こんなにも自分が生に執着していることに、頭の中では笑ってさえいるのに。
そして、頭も生を諦めかけ、さっきほどの化け物のように、最後の、命の轟をあげようとした、その瞬間体の後ろに、確かな熱を感じる。そしてそれが、再び命のろうそくに火をともす。
「うわあああああああああああッ」
生をつかむように、頭だけ振り向く。すると、化け物が二体ばかりが、焔につつまれていた。──俺は覚醒でもしたのか?
「うっせんだよ。喚き泣いてんじゃねえよ。お前は赤ちゃんか! 殺すぞガキ」
なんていう、言葉使いだ。それだと赤ちゃんを殺すのか? しかし、今の俺には、目の前にある情報をそのまま口に出すことしかできなかった。
「──阿久津先輩……」
「お前が、妹を守ったことは、事実として認めてやるが、謝罪が先だよなあ」
「……ずぃま、せん」
焼き焦がれた喉ではうまくしゃべれない。
「うるせえな‼」男は怒鳴る。
「⁉」
さすがにそれは、俺に向けたものではなかった。新たに、三体の化け物が加勢してきたのだ。
男は、血で染められた道の上を歩いて、新手との距離を詰める。
そして目の前に転がる化け物を足でくちゅくちゅと分解するように踏み始めた。二本の足を器用に使い、形のなくなった頭と胴体をきれいに真っ二つにする。加えた煙草を、その頭につける、ボウッときれいに燃え、黒い塊に変える。
まるで、化け物の──仲間の死を侮辱するように。それをこの化け物たちがわかるとは思えないが、その人間の顔は、怒りに満ちた表情に変わる。
「気持ちわりいな。なんで人の顔なんてぶら下げてんだ。化け物は化け物らしく、汚ねえ面してろよ!」
その言葉を皮切りに、一体の化け物が、さきほどと同じように、まっすぐと、男に向かう。
男との距離は、すぐに縮まり棘が男の胸を捉えたその瞬間、あろうことか、その化け物の体を片手で摑まえる。もちろん決して化け物がゆっくり飛んでいたわけではない。信じがたいが男は、攻撃態勢に入り、尾を向けるために緩めたその一瞬をとらえたのだ。──なんちゅう、動体視力をしてるんだよ。
男は捉えた化け物を床に押さえつけ、ポケットに入れていた片方の手を引き出す。
その手には銀色のライターが握られていた。片手で起用に、キィンッと明るい金属音を立てて開けると、その化け物近づける。すると、先ほど感じた熱が化け物の体に一瞬で広がり、すぐに、それは、炎でできた何かに変わる。
「はははは、ほらどうしたよ! お前ら、この燃えカス食いに来いよ。せっかく炙ってやったんだ‼」
声を上げて笑いながらいまだに燃える、肉の塊を蹴り、化け物の前に転がす。
それを見てか、二体同時に化け物が突っ込んでくる。
男は、その化け物の前で、腕を振る。すると、手から何か飛び散り化け物にかかる。もちろんそんなもので化け物が止まるはずはなく、勢いは止まらない。
「ハハハ、死んだ奴の弔い合戦とは泣けるじゃないかッ」
男は、腕を伸ばし、ライターに火をつけ、化け物に見せつけるように着火する。
すると、電球に集まっていく虫のように、化け物は火に吸い込まれるように、男の前で、炎を上げ、燃え落ちる。教室の中には焦げ臭いにおいが充満し、血の生臭さと混じって、地獄を作り上げていた。
「大丈夫か、……恵。こわかっただろ。もう大丈夫だからな」
男は動かない相良さんに話しかけ、彼女の腕に、醤油のように飛び散った、赤い滴を、舐めとる。
「さぁ。それで? お前はなんて、弁解するんだ。それとも、そのお前の傷がケジメだとでも言う気か?」
俺は答えられなかった。というより、頭がまだ、働かないでいた。
「これは結果論だよなァ‼」
男は俺が答えないからか、さらに苛つき、近くの机をけり飛ばす。
「これで分かっただろ。お前は、死しか運ぶことができないんだ。恵を守るのは俺一人で十分だ!」
雨音先輩が言うように、阿久津先輩は間違いなく戦闘において、強い。だから、余計に許せないのだろう。
俺は黙って、歩ける程度まで、回復した足を引きずり、教室をのそのそと出る。この足では、「リンゴのめり込んだ虫」にも似た速度でしか歩けず、嗚咽を漏らしながら教室を出る。あの、妹とは違い、阿久津先輩はただひたすらに背中に「死ね、ゴミ、ストーカー」など、罵倒を投げてきたが、追ってくることはなかった。彼は自分の生きる意味を守るためにそこから動くことはできないのだ。
閑散とする、校舎を歩きながら、いくつかの予想をする。これから見るであろう、さらなる地獄に備えるために。
勝手に目に入る崩れたコンクリート壁から、意識的に目を逸らし、一階まで下りてくる。
校舎を出ると、晴天が広がっていた。さあ、現実を見よう。周りを見渡す。死屍累々と言った表現は正しくない。それを見たとき、初め何であるかわからなかった。
ある一部分を切り取り、注視することでようやくそれが、人であるとわかる。数メートルおきにぽつぽつと落ちている。その周りを黒い、何かが覆い、包み隠している。
そして必ずその近くに、肉の塊となり、一部には、まだ噴き出す液体が止まらないものもあった。俺はその間を歩いた。いまだに、鳴いているものの上に、刃を突き立てながら、音のする方へ向かう。
この世界でいまだに泣いている、最後の人に。
「……雨音先輩」
そこだけきれいな、赤い湖ができていた。その湖面に座りむせび泣いていた。嗚咽を漏らして、感情を流す。
「生ぎでいたのね」
そのままの態勢で、頭だけこちらに向ける。顔は、けがをしているのか、真っ赤に染まっていた。
「はい。阿久津先輩に助けられました」
「……そう」
「私は、今までに、学年から三人消えたの。でも、誰も知っている人じゃなかった。だから、二か月も過ぎれば忘れたの。……もしかして、それを神様が許さなかったのかな」
「……そんなことないです。この世界に神様なんかいるわけない」
──それなら俺が助かったのは、なぜなんだろう。俺はあの時、神の救いに似たものを感じた。ほら、──神様の意味なんて知らなかったのだ。
「あの女はどうなったの?」
「相良さんは、守れました」
「そう、わたしもよ。……はは、ほら、神様はいるじゃない」
乾いた笑いが空に響く。──神様の意味なんて、誰も知らない。
しばらくの間、会話がない。それでも意識はつながっていて、そのせいで、涙が出る。声の出ない静かな、涙が、溢れては、こぼれ。それに対して、抵抗などなかった。むしろその涙の共有を、尊いものだと思った。
「──起こして」
しばらくして言う。雨音先輩は立ち上がれなくなった自分の体を、地面に手をつき、支えにしようとするが、それでも、体は少し震えるだけで、完全には動かない。
俺は、湖面を歩き、先輩のもとまで行く。
「……あんた、その腕」
俺はそれを、見せびらかして言う。
「かっこいいですか」
「なにいってんの。そんなわけないじゃない。なんで、なんで…………助けてくれなかったの」
「え?」
「なんでもない!」
こんな静かな世界なのに、先輩の声はあまりにも小さくて聞き取れない。いや、元から聞かす気はないのかもしれない。
俺は左手を差し出す。手の甲には、決してきれいではない、血でできた、無数の刃が、無造作に突き刺さっている。それは、一見すると、自分を傷つけるために、刺さっているようにも見える。雨音先輩は、それを避けて、腕をつかむ。
「いたっ」
起き上がろうと先輩が力を籠めるが、先輩の手に付く血によって滑り、しりもちをつく。
それでも俺は腕を差し出し続けた。先輩はもう一度つかみなおし、小さい息を吐く音ともに、立ち上がる。
しかし、立ち上がったのはいいものの、生まれたての小鹿のように、足はプルプル震え、すぐにでも、倒れてしまいそうだ。だから、これは、あくまで先輩を助けるためなのだ。
──目の前で倒れそうになっている人を助けないほど、俺は薄情じゃない。
「先輩つかまってていいですよ」
「なっ……なんでそんなことあんたに頼まなくちゃいけないの?」
「花音ちゃんと、もっと近づきたいんで、つかんでください」
──誰かの真似をする。
そんなことをしないと、先輩との壁は取り払えない。
「まだ、岬先輩に言われる方がましね。なんでそんなにねっちょりしてるんだろうあんたの言葉」
かなりの悪口を言われた気がするが、先輩が腰をつかんできたので、忘れた。
「すいません。なんか、あらゆるところから、血が出てて。傷つかないように気を付けてください」
「本当に。もっと能力をうまく使えるようになりなさいよ」
「……どこに行きたいんですか?」
「ここじゃないところ」
「……なんて適当な」
いま、表の世界に戻られでもしたら、いちゃつくカップルに見られてしまう。
だから見られないように、俺は校舎に向かうことにした。先輩を腕と腰で支えながら、歩く。とても歩きづらいのに、今は誰かといること、人肌が、これから動き出す事実を忘れさせてくれていた。
「先輩って意外に重いっすね」
とりあえず保健室を目指す。
「わたし鍛えてるからね。自慢じゃないけど、腹筋も割れているの」
そんなくだらないことを言っていないと、精神的にも、肉体的にも、歩けなくなってしまう。
俺は先輩のお腹を想像する。一本の筋が入り、うっすらと筋肉が浮き出る。
「見せてくれないんですか?」
「あんた、もうそれ、岬先輩の真似じゃなくて、本心で言ってるでしょ」
ぎろりと、下からにらまれる。もちろんだ。
──頭に痛みが走り、体の傷がなくなる。腕はきれいなモノに戻り、足も普通に歩けるようになる。
それでも先輩から離れなかった。
あと保健室までは、数十秒もすれば着いてしまう。ちらと雨音先輩を見ると、血を流しすぎて熱があるのか、顔が赤い。
そして応急処置をした腕のタオルから、血がにじんでいる。それは今回の戦闘でどれほど深くまで自分を傷つけたかを物語っていた。
音を取り戻しつつある世界。先輩はもう歩くのには支障はないと思うが、ありがたいことにそのままでいてくれた。どうせあと少しだからだろう。
あと少しというところで、先輩は体をよじり、己を支えていた俺の左手を、腰からずらし、指が、先輩のティーシャツの中にある、筋肉に触れる。想像していたより、やわらかい、滑りのある肌。ぬくもりが手の先に集中し、先輩の言ったとおり、少し動かすと、薄く段になっているのがわかる。
俺はそれを縦に撫でる。筋肉に沿ってなぞると、くぼみに触れる。すると、先輩から、
「あうっ」と、吐息のような声が漏れ、力が入るのを感じる。再び上に手先を持っていき同じことを繰り返す。お互いに何も言わない。
もちろん数秒で、保健室に着き、はじくように先輩に体を離される。
「……それじゃあ」
それだけ言うと、保健室に入っていく。それ以上来るなという拒絶でもあった。さっきの手の感触を、頭の中で膨らませる。多分だが、運んでくれたことに対する、先輩なりのお礼なのだろう。それか、鍛えている人特有の、筋肉自慢なのかもしれないが。深くは考えない。それ以上に考えなければいけないことがあったから。
俺はとりあえず、教室に戻ることにした。しかし、これから急に日常に戻れる気がしなかった。その証拠に雨音先輩から離れた今、すぐにでも、感情があふれてきそうだった。
×××
教室に帰ると、変わらず相良さんはいた。教室も何もない元通りになっている。
「戻ってきた! もう、逃げ出すなんてずるいよ。……私だって、恥ずかしかったのに」
なるほど相良さんに、あんなことをされて、逃げ出したことになっているのか。
「もう、わかった。それじゃあ、行ってくるよ。だから、今の私がかわいいかだけ言って」
「俺が、見てきた中では一番にかわいいと思う」
「⁉」
相良さんの反応が思っていたものと違ったので俺は動揺してしまう。
「な、なに?」
「いや、なんか、直哉君ぽくない、返しだったから驚いただけ」
「あ、あぁ、ごめん」
「なんで謝んの。危うく惚れるところだったよ。へへ」
そんなジョークはあまり使ってほしくない、危うく惚れそうになる。本気。
「それじゃあ、健のところに行こう!」
「………………」
「直哉君?……大丈夫⁉」
「……ご……めん」
なんとか、それだけ振り絞る。
「う、うん。全然大丈夫。待ってるから」
そう言って、相良さんは手を握る。さっきの先輩より少し冷たい手を、俺は握り返す。それは感情により自然にしてしまった。びくんっ、と、相良さんの体が、はねるのが伝わる。
俺は、何度も目頭をこすり、必死に止めようとする。待たせている人がいる。自分の体はそれを嫌う人間でよかった。
一、二分で止まる。自分から手を放し、涙が残る目を袖でふく。
「もう大丈夫?」
相良さんは涙の意味を問うてこないでくれた。相良さんはそのまま、顔をそらし語り始める。
「女の子同士だとよくあるの。……急に泣き出しちゃうの。なんかね、感情がぐちゃぐちゃになって、制御が効かなくなるの。……それに、直哉君の涙なんか、レアだからいいものが見れた!」
明るくそう言ってくれる。俺はもう一度「ありがとう」と言い、何度か瞬きをし、日常に戻す。
「これで、お互いに秘密ができたね」「?」
「私は、健のこと。直哉君は、泣いたこと。秘密だね」
そう言って、相良さんは人差し指を口元にもっていく。
「……よかった。言いふらされたら、学校休むところだった」
「はは、なんか、直哉君って、ところどころ、私を正確の悪い女の子にするよね」
そんな軽口をたたき、互いの距離をはっきりさせる。少しさっきは近づきすぎた。アクシデントのせいだったが。いや、それもお互いさまか。
文化祭はいつものチャイムとともに終わりを告げる。相良さんは、無事にデートを成功させ、俺はそれを傍観者となり眺めた。
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