5章 協力者
教室では、文化祭の準備が着々と進められていた。残り2週間をきり、放課後は、どのクラスも秩序を保てなくなっていた。区分けされた集団は時には内部衝突が起こっていたが、規律で縛られていた学校への違反は、ある種の団結感を持って行われた。俺もその例にもれず、数は少ないが、集団の一人にいた。
「ねぇ、ひまー?」
話しかけてきたのは、相良さんだった。
「暇じゃない」
こんなに気軽に話しかけられては困る。これも、約束のおかげだろう。
「えーぜったい暇でしょ!」
「ねえ、直哉君かりてもいい?」相良さんは、近くで同じ作業を行っていた女子に訊く。その子は、見上げたせいでずれた、眼鏡を直すと、なぜ私に訊くの? という明らかな困惑を持ちながらも頷いてしまった。
「ほら? じゃあ、ちょっと手伝ってよ」
相良さんは、そういうと、教室を出ていく。
俺は、女の子に、軽く礼とも、頷きとも取れる曖昧な会釈をし静かに教室を出る。
「なに?」
廊下で待つ相良さんに話しかける。声を低めて、なるべく機嫌の悪さを装って。
頭では一回目の協力者としての任務を思い出していた。それは、あの教室で交わした約束の日からすぐだった。そのお願いは、相良さんの放課後を埋めている、習い事に電話し、辞めさせるという、むちゃなものだったからだ。
家族に話しているからと無理やり、押し通され、しぶしぶ電話する羽目になった。さすがにあれ以上のことは起こらないでほしいが。
「なんか不満そうだね」
「そりゃあ、前のような事させられたら、誰でも嫌がるよ」
「そう? それはよかった。──まぁ、たしかに少しは悪か、」
「どうせ俺に被害はなさそうだし。いいけど。それより相良さんこそ、大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃないけど。大丈夫!」
すげえ、一言で矛盾した。まあ、彼女がそういうのならいいのだろう。それに、彼女の家庭について、関われることはない、精神的にも物理的にも。──この学校という場所で起こる事にしか関与できない。それは、……いや、これ以上はやめておこう。
「前みたいに空き教室に行くの?」
「ううん。前みたいに邪魔されちゃうからね。ふふん、私は結構いい場所見つけたんです」
「はぁー、なるべく先生に怒られないことにしてね」
「今から行くのは保健室だよ」
目的の場所に着くと、彼女は少し、まわりをきょろきょろ見渡し、教師がいないのを確認すると、扉を開ける。
「安心して。保健室の先生はいないから。前に私訊いたんだ。なんか、普通の教師と違って17時ぴったりに帰れるんだって」
何を安心すればいいのだろう。それにもし心配するとしたらそんなことじゃない。ベッドに誰もいないことを横目で確認する。──よかった。まだ、雨音先輩は彼氏といちゃこらしてくれているのだろう。
「変なこと考えている? 残念だけど、そういうことするために連れ出したんたんじゃないんだ。ごめんね」
「考えてないから謝らないでくれる」
「はは、どうだか」
相良さんの話はなんてことない、作戦会議みたいなものだった。文化祭にむけての。よって、ほとんど雑談で終わってしまった。というか、ほとんど惚気話で。自慢にも思えるが、相手が、健であれば退屈はしなかった。特に校外での話は、いつも見せない友人の表情を知れる、いい機会だった。こちらまで思わず、頬が緩む。
相良さんもこういう話は、同性の友達に話せないそうで、楽しそうに話してくれた。そのせいであっという間に過ぎ去る。時間を忘れるほどに。
──それは、突然迎える。切れ目などない断続的な空間の中で、彼女の瞳から灯が消え、この場所からごくごく自然な動作で立ち去る。俺はそれを黙って見送っていた。そして彼女が完全に世界から消えると、遺された彼女が座っていた場所にできたシワに座り、望んでいたベッドに、上半身だけを倒す。そこにはもう、彼女の痕跡は残っていなかった。
「はぁー。疲れた。俺はよくやってるよな」
俺は、虚空で自分を鼓舞する。それは、さっき二人きりの会話で、失敗した恥を忘れるための大事な行為だった。
「──なにしてんの? きもちわるい」
「⁉」
首だけを起こし声のした方を見ると、目の前には、蔑んだ目で見てくる雨音先輩が立っていた。扉の音がしなかったせいで気づけなかった。
「先輩こそ、何してるんですか?」
焦らず恐れず、平然を装い起き上がる。
「いやいや。無理あるでしょ……。見てたから」
雨音先輩は身長に見合っていない鞄を机に置きふーと、息をつく。
「あれ。……君の彼女?」
「いや、違います」
「そう。まさかだけど、ここで変なことをしていないでしょうね」
「あ、当たり前じゃないですか!」
「チッ……君、いちいちそういう反応するのキモイよ。これは忠告、感謝しなさい
それじゃあ。早く出ていってくれる?」
雨音先輩は、扉を指さす。もとからそのつもりだったから、別にいいが、そんな言い方しなくても出ていくのに。
俺は、裏の世界の教室へ戻る。誰の気配も残さない教室の中で一人だけが熱を持っている。相良さんの席に座って彼女が、話してくれた、今起こっているかもしれない外の世界に思いをはせる。窓に近いこの席から、今では懐かしいものになった外の世界に目を向ける。
そこにたまたま目に入った、暗闇になった教室の窓から屋上に見える、一つの小さな光点。
俺はこれが、なに、であるか知っていた。
自称お兄様のタバコの火だ。別にそれに嫌悪感や、正義感で止めようとは思わない。こんな世界だ。岬先輩も言っていた、「この世界では何をしてもいい」 自分だって、その、罪に加担している一人だという自覚もあった。
俺はそれを眺めて、ただその光の美しさを堪能する。ありふれた光の中で、すぐに消えることが決まっている、小さな光というのは惹かれるものがあった。
──それに、誰かいるというのは、安堵感を与えてくれた。それがたとえ、自分を憎む人でも、この世界にいる、希少な一人の住人なのだ。
赤い火が消え去ると、寝る準備に取り掛かる。
部費で買ってもらった、寝袋を広げその上に寝っ転がる。最近まで、硬い床や、座った姿勢で寝ていたせいで、床に何か引いて、横になるだけで、高い質の睡眠が確保できた。
その夜のこと、がんっ、机に誰かがぶつかる大きな音で目を覚ます。普段より、心地よく寝ていたせいで、夢と現実の狭間が薄くなり、これがどちらであるかすぐには判断できない。むにゃむにゃと脳はとけているが、とりあえず聴覚の情報に集中することにした。目を固く閉じ、今の姿勢を動かさない。
──可能性。雨音先輩が、俺に一目惚れし、夜這いしに来た。だったら俺は、このまま、動かないのが正解だ。次に、岬先輩の夜這いの可能性。考えたくはないが、ゼロではない。その場合、すぐさま、体の収縮を利用し、飛び起き、足の筋肉に力を込め、がんダッシュしなければならない。
事実。
「……何の用ですか。阿久津先輩」
俺はそこでようやく体を起こす。
「なんだ。起きてんのか」
首に手を当て軽くひねると、さらに一歩距離を詰めてくる。
「お前さぁ、俺との約束、反故にしてるわけないよなぁッ」
教室の後ろの扉までは、直線でいければ、十歩とかからないだろう。
「ハハ、……まさか……」
「じゃあ、死ね」
教室で行われる会話としては、いささか物騒だが、目の前にいる男ならやりかねない。……それだったら俺は戦うのか。
これは戦闘アニメじゃないんだ。そんな簡単に、バトルなんか起こしてたまるか。会話のおかげで、体が完全に覚醒したとわかる。あとは少しの隙を作れれば──
「先輩こそ、何がしたいんですか。相良さんのストーカーまがいなことをして。聞きましたよ。あんた、あの人の兄でも、なんなら知り合いですらないないじゃないですか」
「ぶっころ──」
男が言い終わる寸前、体を九十度に捻り、扉に猛ダッシュする。
途中妨害のため、椅子を引き出しながら、直線で、扉まで駆ける。思惑通り先輩は、椅子に足をぶつけガンっと、ものすごい音が後ろで響くが、それでも止まらないのを足音で、察知する。
教室を出て、廊下の直線を走る。が、単純な速さ比べでは、勝てるはずもなく始めに稼いだ距離もすぐに詰められてしまう。男の息遣いがすぐそこまで迫ってきていた。
階段のところで、足を急制動し、不意打ちで曲がり駆け下りる。少しでも距離が広がっていてくれ。それを確認する余裕は残っていないが。ただ、全力で走る。
階段をすべて使い切り、一階に出る。それでも足を動かすのをやめなかった。
目の前に黒い影が見える。
「雨音先輩‼」
「えッ⁉」
雨音先輩の素で驚く姿を見るのは初めてかもしれない。
俺は、勢い任せの体で、先輩が入ろうとしていた保健室に一緒に逃げ込む。
「なにしてんのッ!」
先輩はイラつきを隠さず、ばかりか、それを足に乗せ、脛に打ち込んでくる。しかし、これぐらいの被害で済んでくれれば、御の字だ。
「はあ、はあ、んぐっ……こんな真夜中にすいません」
息切れによる、気持ちの悪い喘ぎ声を出しながら、一応謝罪はしておく。これじゃあ、けられながら興奮している変態に思われかねないが
「きもいから、三秒以内にその気持ち悪い声出すのやめなかったら、あいつに突き出すから」
「うっんん!」
息を無理やり止め、そして数秒かけて深く息をすることで、無理やり呼吸を整える。鼻だけはふがふがいってるが、声は漏れてなようになった。
「それで、なんで、追いかけられてんの? 強姦?」
この世界でそんなのは起こらない。それに誰とは訊かないあたり、大体の事情は察しているのだろう。
「あの人の、妹さん? 的な人と、しゃべったら、殺されかけました」
「あぁ、そういえば、あんたここに連れ込んでいたわね。じゃあ、仕方ないじゃない」
雨音先輩は、カップラーメンを作り始める。目を疑う。女の子って、食べる時間とか気にするイメージあったけど。男子だったら、この時間からのカップラーメンは至上の幸福なので、できれば、自分の分も作ってもらいたかったが、そんなこと先輩がしてくれないのはわかっていたので、匂いを嗅ぐだけで満足しておく。
「あの人おかしいです。相良さんとは兄弟じゃないのに、兄を名乗っているんですよ」
「知ってる。それが、……あの先輩の生きる意味だから」
「どういうことですか?」
「はー、こんな夜更かししたら、肌が荒れるわ」
そういって、前髪をいつも学校で見るピンとは違うもので止め、カップラーメンをすする。
夜更かし以前の、問題があると思うが。先輩は、大きめの白いティーシャツに短パンで、惜しげもなく足を出して下さっていた。
風呂からの帰りのためか、髪は、さらさらと、少しの動作で、揺れる。
「言葉通りの意味よ。……人は簡単に死ぬの。それも、日常の中で」
雨音先輩は、裏の世界の化け物のことを言ってるのだ。
「それから、身を守る方法を持たない人はどうなるか、あんたも知ってるでしょう。だから、あの先輩は、一人を守り抜くことにしたの。誰だっけ、」
「相良恵」
その名前を丁寧に、言葉にする。
「そう、そいつを。まあ、わたしも関係については知らないんだけどね。家族の違う兄弟かもしれないし、親戚かもしれない。相良恵は、あいつ、……阿久津先輩にとって、自分の命を懸けて守り抜くものなの。だから、戦闘には、参加しない。……死ぬのは化け物の攻撃だけじゃないから……」
知っている。抵抗のできない人間は、……いともたやすく死んでしまう。
「卑怯よね」
先輩だって、同級生の彼を守りたいはずだ。だったら、最善は、阿久津先輩のように、絶えずそばで、守ることだろう。雨音先輩が、それをしないのは、もっと多くの人を殺されたくないからかもしれない。
「そういえば、雨音先輩は、彼氏さんにその腕の傷なんて言ってるんですか?」
「きもい。うざい。あんた、距離間くらい測れるようになったほうが良いわよ」
「……忠告ですか」
「いいえ、これは警告よ」
こっわ。次違反したら、俺どうなるんだろうな。
「あんたも、もう充分おかしくなっている。……なんでわざと化け物に、腕を食わしていたの?」
この前の戦闘のことを言っているのだろう。そんなの簡単だ。
「いや、単に自分で傷つける勇気がなかっただけです。……だから、化け物に、傷つけてもらうしかおもいつかなくて。それに、ほら。傷も治るってわかってるんで、少しの時間激痛を我慢すればいい」
それは本心だ。あの時、こんな考えがあったわけではないが、意味なんてしょせん後付けだ。だから、格好をつけるし、自分に不都合なことは省く。
「……そう。私には理解できないわ……」
強い拒絶。
「……わからない。戦えば傷つくし、死ぬのは嫌なの。当たり前のことよ」
俺はそれを聞いて、「雨音花音」の一端に触れれた気がした。先輩は、こんな世界に慣れないために自らの手で、傷を作っているのだ。それほどまでに、表の世界は浸食されやすく、裏の世界がいかに居心地のいい空間であるかを物語っている。
少しの沈黙。先輩が、食べるのを眺めていたのでそんな隙間も気にならなかった。雨音先輩は一枚のチャーシューを食べると一度こちらを見る。その瞳の透明度たるや、そのせいで、つい口を滑らせてしまう。
「なんか、今日の雨音先輩、優しいですね」
「わたし、目の前で、死にそうになっている人を助けないほど薄情じゃないんだけど。だから、勘違いしないでよね」
優しくされるには、死にかけるしかないのか。それなら、今のうちに先輩の優しに、触れておこう。
最後に残していた二枚目のチャーシューを、満足げに食べ終わる。
「もう、あいつも追ってないでしょ。早く出ていきなさい」
先輩は自分が食べ終わるのをタイムリミットとしていたのだろう。わざわざ避けていたものに関わるのだから、当たり前だ。おとなしくそれに従う。
俺はもう一度感謝を言うと、保健室を出て、教室に戻る。最大限の、注意を払って。
これでようやく、一日が終わってくれる。長い、一日だった。睡魔の来ないなか目を閉じる。問題は全く解決していない。いつ、また、阿久津先輩に詰められるわからない。
しかし、それは、真に抱える問題ではない気がした。たしかに、表面上最大のものは、阿久津先輩だろう。しかし、先輩が、関わらないことを望むのは、相良さんのリスクが上がるからだ。裏の世界の住人と関われば、それだけ裏の世界に近づく。
何も持たない者にとってそれは死に近づくことの意味しかない。
それを考えると、体が怯えるように硬直する。この孤独な空間がそれをさらに加速させる。
俺は何度も、日常を思い出し、自然と流れる、涙を止めるよう努めていると、その中で、いつの間にか、眠ってしまっていた。
──二週間が経とうとしているが、阿久津先輩が襲ってくることはなかった。先輩が消えたという意味ではない。先輩は変わらず、裏の世界にいた。それでは、何か変わるきっかけとなる出来事があったのかといえば何もないと思う。
そして俺自身も相も変わらず、少なくない数で相良さんと話していた。文化祭という、イベントのせいで、クラス内の、男女の距離が近くなったのがそれを加速させた。
しかし、彼女と話すたびに、襲われるかもしれない恐怖か、理由を知った今、意味のある約束を破り続けることに対する罪悪感からか、体は緊張しなければいけなかった。
つまり、はっきりとした理由はわからなかった。
「なんか、変な感じだね」
「うん?」
「学校なのに制服じゃないの」
相良さんは、水色を基調とした、半袖のティーシャツを着ている。これは文化祭でクラスごとに作るクラスティーシャツだ。半袖で過ごすには少し遅い季節ではあるが、まあ今日は動くことも多いので、着替えている人が大半だった。
「直哉君は着替えないの?」
「恥ずかしいし」
制服でない、相良さんは新鮮だった。髪も、一本に縛っただけのラフな格好だった。
「まあ、直哉君は制服の方が似合うかもね」
悪口ではないことを祈りたい。
「私はどう?」
自分の服の端を引っ張て見せる。慎重に言葉を選び、長い時間をかけて言う。
「似合っている、……と思う」
「えー、おあいこかぁ。私はいつもと違うのに……」
相良さんはあからさまにしゅんとなる。どうやら答えをミスったらしい。だったら別の答えを言わなければなるまい。俺はいつもより少しだけ気合を入れて、心に決める。
「かわいいな、恵」
「えへへへ。そう?」
ぱっと、朝顔のような笑顔になる。もちろん言ったのは自分じゃない。その言葉を平然と言ってのけた人物は相良さんと同じ服を着ていた。健が正解を言う。
「直哉は、やっぱり制服か。明日は着ろよ」
「え、ああ、……」
俺は適当な返事が思いつかず、曖昧に返してしまう。
「そんじゃあ、俺部活の方行くから、クラスよろしくな」
それを言う相手は、自分ではない気がするが、それには、はっきりと返事する。
健が数人の男子たちと教室を出て行ってすぐ、
「ふ、ふふ……絶対、直哉君に言うことじゃないでしょ」
こらえきれないように、相良さんが端々に笑いを含んで言う。
「私がクラスのみんなに入っておくからいいよ」
「助かります」
「それじゃあ、今日は頑張ろうね」
胸元で拳を結び、前に出す。
「んっ」
──それは俺にもやれと言ってるのか。無理無理無理、恥ずかしすぎる。
こんなクラスの目線がある中で、できるわけない。妥協点として、俺は指でピースを作ると、相良さんの手に小さく触れる。
「ぷふっ ふふ、まあ、いいや。それじゃあ」
何とか納得してもらい、相良さんは、さっきいた場所に戻っていく。俺は、耐えきれなくて、教室を出る。どのクラスでも動きが活発な中、一人ぐらい徘徊している奴がいてもばれない。
「うわっ!」
後ろから、誰にのしかかられる。
「って、岬先輩。なにしてんですか。ここ、一年の教室ですよ」
「それは、お互い様だろう。クラスの準備をしないで大丈夫なのかい? 高校初めての文化祭だ。大いに楽しまないと」
まったく意味のない言葉を先輩は、楽しそうに言う。
俺は、いまだ、後ろからハグしてくる先輩を引きずるように廊下を歩く。
「どこへ行くんだい?」「どこに行きたいんですか」
ほぼ同時に同じ言葉を吐く。
「うーん、それじゃあ、花音ちゃんでも見に行く」
「はぁ、まあ、いいですけど。とりあえず離れてもらっていいですか。めちゃ恥ずかしいんで」
「ああ、心臓の音が早くなったのは黙っておくことにするよ」
そういうと、やっと離れてくれる。
フロウ者二人組は、雨音先輩のいる階に向かう。どこのクラスも、活気で満ち溢れていた。その間をかき分けて進む。うまく混じれているだろうか。
「お、とうちゃーく、ここだね。花音ちゃんのクラス」
人が常に入り乱れるクラスでは、こんな二人なんて、よほど周りに気を配っている、例えば教室の端に陣取って二、三人位で固まり、話しながらも、常に教室を観察しているようなやつでないと気付かないだろう。
俺たちは教室に入らず、扉から雨音先輩の様子をうかがう。すぐに見つかる。
雨音先輩は、身長が高い(俺と同じくらいか)、先輩よりさらに髪の短い、同級生の女子に、抱かれていた。その周りに、男女、六人ばかりが、談笑していた。もちろん手は、言い訳できる程度に動かし、たぶんあれは模擬店の看板を作っているのだろう。
先輩の様子はまるっきり違っていた。いつも不機嫌そうに、関わり合いを持とうとしない雨音先輩は、見る影もなかった。逆とは言わないが、全くの別人に思える。
「本当にかわいいよね。花音ちゃん」
「どういう意味ですか?」
「僕たちの前だと、わざと、作った自分でいようとしているんだよ」
「それじゃあ、岬先輩は、雨音先輩の本当はこっちだっていうんですか」
「直哉君も知ってるんじゃないかな」
知っている。それでも、岬先輩の方が雨音先輩の性質をより知っていると思えた。
クラスの人が一人寄ってきて、「誰かに用ですか?」と敬語で訊いてくる。岬先輩を見て、先輩と判断したのだろう。岬先輩はそれを手ぶりで断る。
「それでさあ、昨日見たドラマがね」
集団の一人の女子が話題を振る。
「あー私もそれ見た。めっちゃドキドキした」
雨音先輩もすぐに反応する。
へー、雨音先輩って、そういうの見るんだ。それは、相良さんが昨日教えてくれた、恋愛ドラマだった。「ヒロインの女の子の理想が高くてイライラするんだよね」とも言っていた。
先輩を抱いている女の人が、そんな話に興味なさそうに、雨音先輩の髪をなでる。
雨音先輩は、話に参加しながらも、猫のように、その友達の腕に頭をこすりつける。にゃん、にゃん言っていてもおかしくない。しかし、周りがそれに反応しないのを見ると、そのようなことは日常的に行われていることらしい。信じられないが。
雨音先輩が守っている世界を邪魔してはいけないと思い、立ち去ろうとしたとき、目が合ってしまう。と、先輩はあからさまに嫌な顔に変わっていく。そんな不自然なことをしたせいで、周りにいた人もこちらを一斉に振り向く。
岬先輩は、そんなことにも臆せず、手をひらひらと雨音先輩に振るので、強制的に岬先輩を引きずりここか離れる。
「何してるんですか!」
「いいじゃない。直哉君も、普段見れない、花音ちゃんを見れてよかったでしょ?」
先輩はけらけらと笑って言う。肯定も否定もしない。ただ一つ言えるのは、こういうのは趣味ではない。これで、雨音先輩は、普段見せない姿を見られたという羞恥を感じなければならなくなってしまった。
「直哉君もそろそろクラスに戻ったほうが良いんじゃない?」
「そうします。覗きに来ないでくださいよ」
「ははは、それじゃあ」
先輩は再び、雑多の中に紛れていった。
俺もそこからは、まじめに、準備に参加することにした。自分で判断するものでもないが。いつのまにか、没頭していた。今つなぎ合わせている、段ボールが何の役に立つのか分からないまま。それでもそれを無駄な時間とは思わなかった。それは何度か尋ねてきた、女の子のおかげもある。
「明日、楽しみだね」
作業時間が終わり、相良さんに帰りがけら言われる。俺は、「うん」としか返事しなかったが、彼女は、笑顔で帰っていく。
「それじゃあ、帰ろうぜ」
鞄を背負った健に背中をたたかれる。俺も中身のない鞄を背負う。二人で帰るのは久しぶりだ。
廊下に出ると、同じような集団がいつもより、足を上げて、歩いている。
「意外だったな」
「なにが?」
「いや、直哉がこんなにまじめに働くなんてさ」
にしし、と皮肉な笑いを浮かべる。おそらくその理由も察しているのだろう。
「別に……悪いことじゃないからいいだろ」
それでも少しむきになってしまう。
「あはは、だから意外だったしか言ってねえだろ。
あ、そうだ。それだったら明日俺たちと回らねえか」
そう言って振り向いた健の顔は、女子ならだれでもときめいてしまいたそうなほど、かっこよかった。
「え、えっと……」
どうしよう。すぐに頷けない理由がった。相良さんとの、協力関係だ。明日、二人きりで回るための作戦を立てたのに。それを邪魔してしまうことになるかもしれない。そんな考えがよぎり、すぐに答えられなかった。
「おっ、直哉にも一緒に回るやつができたのか。……ぐすぐす。俺はうれしいよ。あの、直哉が。大きくなったなぁ」
健はわざとらしく泣いて見せる。
「そんなじゃない!」
しまった。今はそれで乗り切れたのに。
「や、ほら、俺も部活の方へ行かなきゃだから、たぶん時間が合わないんじゃない。健もどうせ、クラスと部活で人気者なんだからさ」
「直哉の部活って、ああ、天文部だっけ?」「それもそうか。まあ、時間が合ったらだな」健には以前、部活名だけは教えていた。
ふ~。なんかなってくれた。
最近は健も忙しそうにしていたので、二人きりでしゃべるのはずいぶん久しぶりに感じられた。なにか、特別な話はしてない。部活での出し物や、誰と誰がくっついたなどの、俺が知っても意味のなさそうな話。俺もお返しに、校内でのさぼりスポットを教える。
「それでさ──」
その言葉を最後に、何もなくなった。さすがに、今はもう準備ができていたので、ダメージもそこまででもない。
健の中で佐々木直哉という記憶は、学校で保存されている。それは持ち出すことはできない。俺は一人流れにとどまる。健の背中はほかの雑多に紛れてもう見分けがつかない。しばらくとどまった後、その流れに逆らうことにした。雨音先輩はこれを毎日行っている。それは決して、簡単なことではない。痛みを伴う。ひょっとすると、腕の傷の痛み以上のものを。
ようやく人の流れを抜けることができ、静まり返った、校舎に帰ってくる。装飾され、華々しさの残る、異様な空間に、成り代わっていた。
教室に帰ってくると、一日の疲れを吐き出し、床に寝そべる。幸いつぶされた段ボールがおいてあった。ようやく長かった、世界が終わる。チャイムが学校に響き渡るのを、遠くなる意識の中で聴いた。
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