7章 嫌われ者
休日を挟んで、月曜日。雨音先輩からは再び、距離を取られていた。
あの日が幻のように思えたらよかったのかもしれないが、そんなことは起こらず何度も暗闇の教室で思い出された。しかし、逆に言えばそんな具合だったから、今日を迎えることができた。
朝起きると、右腕と頭がちりちりと痛んだ。頭は、睡眠不足によるものだろうが、腕は何か表の体に、侵食しているようで、嫌な予感をさせた。もしかしたら、いつか、あの腕がそのまま治らなくなってしまうのではないかという、不安に駆られ、朝から憂鬱な気分になる。
それは後から思えば、体が壊れているのを知らせているのを教えてくれていたのだと思う。治ってしまうので気づかないが体は、すでにばらばらになっていた。
「おはふうぁ~」
欠伸とともに挨拶をしたので、ほとんどなんて言ったか聞こえないが、とりあえずかわいいことだけはわかる。
相良さんも、さすがにいつもより少し遅い登校だ。
「なんか疲れてるね」
「およ。なになに、やっと直哉君から話してくれるようになった!」
そういわれると急に恥ずかしくなる。相良さんは、変なステップを刻みながら、自分の席に向かう。
「つまんない恋愛ドラマ見なきゃいけなかったから、全然寝れなかったの」
俺が雨音先輩の言っていたドラマの名を口にすると。それそれ、と、徹夜明けの謎のハイテンションに近い状態で同意される。
「直哉君は見たほうが良いかもだけど。へへ」
そんなの見たって、ありえないを再確認し、惨めになるだけだ。
「まあ、全然似合わなそうだけど」
「え? どういう意味」
「んっとねぇー、急に変な行動取られても困るってこと。かな?
それにしてもよくしゃべるようになったね。えらい、えらい」
やっぱり忘れていなかったか。
「俺も驚いてる」
素直な感想を言う。
確かにこんな普通に話す日が来るとは思ってもみなかった。けど、本当はこんな日が来てはいけなかったのだ。
話を終えると、俺は、机に伏せる。
時間が過ぎ、続々と教室に入ってくる人たちに声が耳に届く。むろんこれはいつものことだ。この声を聴いて、目覚める時もあったし、さらに二度寝に向かう時もあった。──今日はこの少ない声を聴いて起きることにした。
朝、学校の方針により、換気のために窓が開けられて、冷たい風が教室に入ってくる。
そして、それを嫌った生徒が一人、勝手に閉める。ルールに従って窓を開けた女生徒は、その男にいやな目を向けるが、別に再び開けることはしない。
「おっすー。直哉!」
「おう、朝練おつかれ」
「えぁ? どうした? 今日はテンション高いな」
そういわれて、はっと友人の顔を眺める。タイミングよく教師が入ってきてくれて、追及を逃れる。少しのざわめきを保ったままホームルームが始まる。
「カツカツ」と、黒板をチョークでたたく音、教師が何かを話始める。それなのに、言葉がうまく聞き取れない。それは、徐々に耳障りな雑音へと変わり、頭を激しく締め上げてくる。
チャイムが鳴り、授業が始まると、状態は変わらないばかりがひどくなった。
聞き取れない雑音がんがんと鳴り響き、今すぐにでも、叫んで授業を止めてしまいたい衝動に駆られていた。右手をつねり、痛みによって何とか抑える。
いつもなら、担任の先生が、眠たくなる声で、話しているはずだ。事実、その声に、クラスの大半は寝落ちしてしまっている。まどろんだ空気が教室を支配しているのだろう。前の健も何度か、首を、こくんと、大きくうなずき、そのたびにシャーペンで指を突くことでぎりぎり耐えているようだった。──それはクラスメイトの見ている景色。
見ている世界は、人によって違う。いつだか、ほかの人椅子に座ってみた光景を思い出す。
目の前に座る友人。制服の袖をめくり、いつも、さわやかな笑顔で話す。俺が輪から外れていたら、話しかけてくる人。誰とも話せないでいた、初日、二人して俺を挟んで、ずっと話しかけてきた人。
──何か考えがあった行動ではなかった。
衝動的? それもなにか違う。確かにとっさのことだったのだが、何者かに突如体が乗っ取られていたと言うのが、一番近いのかもしれない。
俺は椅子の音をたてないようにゆっくりと立ち上がる。それに気づいたのは、一部の人だけだ。例えば、目の前に座る友達が。ノートをとって、ペンを走らせていた、女の子が、こちらを向く。教室を一度見渡してみる。教師すら気づかない。俺だけが知る。事実を告げる。
「阿澄大地。立花涼香。太田康生。────────
順番はめちゃくちゃだ。クラスメイト達が、ぽつり、ぽつり起き上がるのを感じる。
それと同時に、頭痛から解放されていく。おそらく世界のずれによる影響だったのだろう。
「おい! 直哉!」頭の隅で名前を呼ばれるのが聞こえる。それでも俺は、言わなければいけない、空白の十三人の名を告げる。不自然に空いた空席に誰一人として疑問を抱かない世界に、本当の世界を伝える。
──────志野田聡。
最後に特別な名前を言う。そのころには、のどが渇いて、キリキリと痛んだ。
クラス全員が、その事実を聞いた。あるはずのない事実が、伝えられたことで、世界は混乱に陥る。
「おい、どうしたんだよ!」「あいつ、何言ってんだ?」「きもっ」
不審な目を送るもの。声を立てて、心配するもの。あざけわらうもの。指導者として、規律を正そうとするもの。
「直哉、ちょっとこい!」
そう言って、手を引っ張り教室から連れ出す。異物の排除。これもこの世界のルールか……。
「いいか、クラスは何とでもなる。いや、絶対に何とかしてやる! お前は少し頭を冷やせ。俺が話を聞いてやるから……」
それは何とも健らしい言葉だった。
「……ごめん。大丈夫。少し保健室で休んでいくよ」
「大丈夫なわけないだろ! いいか絶対、俺に話せよ。約束だかんな」
つかまれた腕に、折れそうなほどの力込められる。自分より体温の上がった感情のこもった腕だ。
それが自然にほどける、つまりは、健が放してくれるのを待って、保健室への道を歩いて見せた。
俺は階段まで行くと意志によって道を外れる。降りるのではなく上がる。それを警告するように、ポケットに入っていた携帯が鳴る。俺はそれを無視して、どこか外に出れる場所を求めて、屋上に向かう。
重い扉に、寄りかかるようにして体重をかけると、キイッと金属の擦れる音を立てて開き、外に出れる。そのまま数歩歩き風を感じる。後ろでは、風の勢いに乗ってバンッと人一人が通れるほどしか開けていないのに、大仰な音をたてて、扉が閉まる。
雲から少しの青空が見え、冷たい風が、髪の毛の間を抜けていく。血の上った頭が冷えるのを待つ間、さっき鳴った携帯の送信宛を見ると、「恵」と書かれて、一分前と表示されていた。
────俺は役割を果たした。
自分がした行為に、後ろめたさも、恥も、後悔も感じていなかった。むしろ、醜い、達成感すらあった。気分は晴れやかだった。なんというか、世界の正義の執行人にでもなったようだった。
屋上のふちを沿って歩く。普段解放されていない場所は、ふっと、胸がざわめき恐怖や心配が浮かぶ。
もう一度携帯が鳴る。それは短い、数回したら切れる。メールだ。
「寒くない?」
短くそれだけ書かれていた。俺はそれが意味するところを探ろうと、返信する。
「なんで?」
「屋上は今の季節寒いでしょ」
「ああ、そういうことか」小さくつぶやく。この場所はちょうど教室から見える場所だった。──俺がいつも眺めていた場所だ。
目が良い方ではないが、教室の窓を見る。するとすぐに、メッセージが届く。
「気づいた! 手でも振ってよ」
相良さんは目が良い。こっちのことを視認しているようだ。
「授業中に、携帯触るのはよくない」
「それなら、授業中にあんなことをする方がだめでしょ。あれはなに?」
その質問に答えるのは難しく、画面をタッチする手が止まる。
「やっぱ答えなくていいや。楽しんでね!」
少しの間があり返信される。それ以降メッセージは送られてこない。
身長より少し高いフェンスに近づき、校庭を見下ろす。いくつか水たまりができている。そうか、ここで人が死んだのだった。おかしな話だが、今こうして、死を実感していたのだ。俺はまだ、濡れた地面に寝っ転がる。頭皮に冷たい水の感触。それは徐々に、背中にも広がる。胸の前で、祈りをささげるポーズをとる。少しでも心が落ち着けるための行動だ。
「──つまんねぇな。なんで、お前がここにいるんだ」
声だけでだれかわかる。俺は首だけを、亀のように、動かし、声のする方向に向ける。やはり、そこには、不機嫌そうな、阿久津先輩が立っていた。
「眺めていても、帰ってはこないぞ。いや、分かっているから泣いているのかお前は」
汚れた地面に、あおむけに倒れこんでいるのを見て何を思うだろうか。
「うぐっ‼」阿久津先輩は俺の腹の上を通って、フェンスのそばにより、タバコに火をつける。金属音が耳に気持ちよく響く。
「先輩それ犯罪ですよ」まだ、表の時間だ。
「うっせえ。よくお前はそんなまともでいられるな。それともお前も、もうどうでもよくなったか」
相良さんがかかわらなければ、普通の不良なのか。まともに会話できるとは思わなかった。
「さっき、教室で、死んでいったクラスメイトの名前を呼んだんです。みんな何も知らないって顔で、俺をあざけわらうんですよ」
「あぁん? 何言ってんだ。気色悪ぃ」
視界の端で、灰が地面にぽつりと落ちる。
あっという間に、一本吸い終わると、吸い殻を、地面に投げ捨て、軽く自分の足で踏み、どこかに持つ自分の住処に戻っていく。
【火種がまだ残っていた】それは、視界の端で狼煙のように煙を上げている。
俺は起き上がり正座の態勢をとる。そして、目の前にある、それを拾うと口に当てて、一吸いする。口いっぱいに広がる苦みを舌で、ごね、それをもっとあった場所に戻す。
「まずいなぁ」
それでも気持ちは少し楽になった気がする。これからのことについて考えることにした。あのクラスにもう自分はいない。それではどこにいるのが正しいのか。残念ながら、世界はそれを教えてはくれない。ただ、間違ったものには、無慈悲に罰を下す。
午後教室に戻ると、全員が敵意を持って迎えた。俺は異端になっていた。それに対抗するには、この世界では武器がなかった。だからむしろ、直接的な攻撃がないのが不思議でさえあった。誰のおかげかなんて言わなくてもわかる。
それでもおそらく親友を除く誰もが思っていたのだろう、佐々木直哉はもう帰ってこない。俺自身そう考えていたのだから。
×××
俺が起こした革命から一週間が経過した。あの日以降、表の時間には、教室に入っていない。その時間、屋上であったり、図書室の隅、トイレであったり、意外にも人に見られない場所はいくらでもあった。そしてそれを探す時間は無限にあった。今日はトイレを選ぶ。自分のクラスの一つ上の階を選ぶ。
ただ、携帯を触って、時間をつぶす。それは以前の放課後の自分に似ていた。それなのに、裏の時間になれば、今まで通りに過ごすという、矛盾をはらんだ行動をとっていた。
ガンッ
ノック替わりなのか突如、扉を蹴られる、「えっ⁉ え、え」戸惑い、気配を消す。
「お前どうせ暇なんだろ」
声で、阿久津先輩とわかる。また殴られるのだろうか。それでもかまわないと思った。むしろ今の俺なら、傷があるくらいがちょうどいいとすら思えた。俺はおとなしく出る。
「……なんすか?」
「俺の暇つぶしに付き合えよ」
首根っこをつかまれ外に引きずり出される。俺は脅される人質になった気分で授業中の教室を通り過ぎる。
「どこに行くんですか?」
「まず何からしようか」
連れ出しおいて決めてなかったのか……。俺は少しの間考えて口に出す。
「タバコを吸いたい」
「そりゃあ、いいな」
阿久津先輩は、上機嫌に、口笛でも吹きそうなほど、足取りは軽く、屋上に向かう。
静かな、冬の風が吹く。
「いいか。まずは少しだけ吸うんだ」
一本渡される。
「お前が火をつけるか?」
そう言って、ジッポライターを渡される。冷たく冷えたそれを、キィンと音を立て開く。そして、親指でシュッと擦ると、火が付く。人の進化には、火を扱うことが、一つ上げられるが、目の前の火を操れそうもなかった。ライターを落としてしまう。
「あっ! てめえ、なにしてんだ‼」
殴られると思ったが先輩は、それを拾い上げ、同じ手順で火をつけて見せただけだった。
「ほら早く咥えてみろ」
俺は言われるがまま、差し出されたタバコを唇に挟む。すると、先輩が火を近づけて、静かに点灯する。いつも見ていた光だ。
感傷に浸ろうとしたとき肺が破裂しそうになり、思わず、ごはっ、ごはっと激しく咳き込む。前に吸ったものとはまるで違っていた。
「はは、まずいだろ」
「体に害がありそうです」
「なにいってんだ。当たり前だろ」
いや、俺はその意味を知らなかったんだ。四口ばかり吸う頃には、先輩はすでに吸い終わっていた。
「俺は一日、一本って決めてんだ」
口に残った煙を吐きながらそう言った。すでに今日二本目なことに特に言及しない。今吸っていたのが、阿久津先輩の中で、今日の一本目なのだ。
「またほしくなったら言えよ」
それは俺にとっては麻薬のような言葉で、再びもらうのは、依存になってしまうのではないかという恐怖を感じる。それでも、阿久津先輩が吸っているものは、そんなものではないものと思わせくれるから不思議だ。
結局ほとんど残して諦めてしまった。
「……まあ、そのうち慣れるだろ。気にすんな」
阿久津先輩はそういうと、俺の火の残る煙草を上から踏みつける。地面には新たな、黒い痕跡が残る。
「……阿久津先輩」
「んあ?」
「一応聞いときたいんですけど……、相良さん……相良恵の兄というのはどういう意味なんですか」
阿久津先輩は肺にたまった煙を吐き出すように、ふはぁーと大きく嘆息をつく。
「どうせ、あの女から、俺が恵を守るためにしか戦わないとか言われてたんだろ。あいつ態度だけはでかいからな」
「……まぁ、はい。でも、俺もわかります。……死んでからはもう遅い」
「ああ、お前は、体験できたんだっけな」
遊園地のアトラクションみたく言う。やっぱりこの人は、人の感情をわからないんだ。
「そうだな、お前が、一本吸えるようになったら教えてやるよ」
その話はこれまでだとでもいうように、目をそらす。
「お前はまだこの世界を知らない」阿久津先輩は静かにそんな言葉を付け加えて。
それでは何がなにやらわからない。知らないことあることなんて、とっくにわかっている。
俺は体を震わせる。屋上には、最後の季節を迎える風が吹き始めていた。
先輩は言葉なく、その場にとどまってくれた。
──まさか、この男が救世主となるとは。
その日を境に、阿久津先輩と多くの時を過ごすようになった。この急激な変化は、裏の世界の時間を過ごしていれば分かるのだが、ようは暇なのだ。世界にいかに人と呼べる存在が少ないかを実感した。
友人や、先輩後輩そんな関係ではない。言葉にするのも、思いついたことさえも嫌になるが、家族──兄弟に近い関係だったと思う。
それに、俺がどこに隠れていても無駄だった。すべて、すでに知られていた。なんて小さな世界なのだろうか。そんなこともあり断れなかった。
ある朝だった、まだ日も明けていなかったので、夜ともいえる時間。文字通りたたき起こされる。
「んんぐっ……な、なんすか? ってか何時だと思ってんですか……?」
俺は目をこすりながら上体だけ起こす。
「あん?」
「ごめんなさい。おはようございます。最高な目覚めです」
「そうか。そうだよな!」
阿久津先輩がやってきたのは屋上だった。
月がまだはっきりと見えている。やっぱこれ朝じゃねえな。伸びをしながら、夜の透き通った空気を吸い込むと、肺がチクチクと痛んだ。
「よしっ」
そういって、阿久津先輩は何かを地面に転がす。それは、カッターナイフだった。
俺はそれを拾い上げて、
「何する気ですか?」
わかりきった質問をする。
「なんだよ。まだ寝ぼけてんのか? わかるだろ。おら、さっさと、能力見せろよ!」
「……いや。わかんないですって。それに普通に嫌なんですけど」
「なんだと。俺が教えてやるって言ってんだ。おら。さっさとしろ!」
「えー、いや、別にいいです。それに、それって先輩が俺のことボコしたいだけですよね。痛いの嫌なんですけど……」
「ああ、そうだったな」先輩は何かに納得する。
「?」
「お前は自分を傷つけれないんだっけか?」
阿久津先輩は、俺の手から奪い取ると、刃を自分に向ける。
すると、自身の手のひらを何のためらいもなく切り裂く。そこに、ライターを近づけると、ボオッと音を立てて赤い炎が上がる。
「じゃあいいか?」
ドクッ、心臓が跳ねる。先輩の垂れる血は腕にまで延び、燃え上がる手で俺の腕をつかむ。
「うぐうううぅぅぅぅ」
腕は、体を守るように、刃を生やし始める。それは炎に照らされ、怪しく輝いていた。
「それじゃあ、準備はできたな」
もう、ここまで来たら、やらざる負えない。体は、戦闘態勢に入っていた。、痛みを感じる心は鈍くなり、代わりに全身の筋肉が、緊張し、体に張り付いていく。
先輩の能力を見るのはあの日以来だった。流れ出る血を燃料とし、手を、腕を炎に包む。
これから、人を殺そうなんて気は毛頭なかった。それは、目の前の男が化け物級であることもあるが、この傷が本物ではないともう知っていたからだ。
だから、殺されないようにするだけだった。
集中する。視界は狭まっていき、男の姿だけがはっきりとクリアに映し出される。
「なんだ? 来ないのなら俺からいくぞ」
しまった!
男が話し出したことに気を取られ、一瞬反応が遅れてしまう。先輩は、姿勢を低め懐に突進してくる。そのまま、きれいな手で、腹に掌底をくらわす。
「おまえなぁ、そんなんじゃ、死ぬぞ。それとも、あれかまだ痛みが足りてないのか
ったくしかたねぇな……」
次には、俺は跪いていた。刃の生えた腕をつかまれていた。これでは男の腕も、無事では済まいはず。ゆがむ視界の中、はっきりと、出血しているのを見る。
「あっ⁉」
先輩の腕が再び熱で包まれる。強烈な光に覆われるうでは、俺の腕を侵食するように、刃を壊していった。
「ああ、……ああああああああ」
内部から体を焦がす。荒い狂い、皮膚を突き破るような痛みに無様にじたばただとその場でもだえる。が、つかまれた腕は、離れず溶けていく。
「わかるか! この力は想像なんだよ。相手を殺す最適な形に創造しろ。お前の刃はだから、こんなにも無秩序なんだよ」
先輩の腕を包む火力は大きくなり、一つの束となり、腕を貫いていく。
パキパキと、新たに生まれてくる血たちは一つになろうとするが、熱によって途中で、折れ、無数の破片が地面に散らばる。
──終わりだった。以降
ほとんどまともな反撃もできないまま、サンドバックになり、全身を痛みで包まれていた。
至る所から、傷の代わりに亀裂の入った、茨のようなものが生え。先からまだ温かい血が垂れていた。意識が朦朧とし地面に張り付くようになったところで、止まる。
「──ちッ、もうくたばったのか。はぁ、よえーな。
────岬さん後よろしく」
その名前を聞き慌てて振り返る。
「あーあ、まったく。……まったくだよ。こんな早朝から君もよくやるね」
半分しか開かない目から、屋上の扉の前には、寝袋に入り転がる岬先輩と思われる姿がぼやけて見えた。全く気付かなかった。
「……なんで……」
「まったく、意外な組み合わせだよ。ん。何か心境の変化があったのかな」
それは俺に向けたものではなかった。
「ないっすよ、そんなの。ただの、ストレス発散なんで」
やっぱりか。
「困るよ。君は加減というものを知らなすぎるんだよ」
岬先輩は、器用に寝袋に入ったまま起き上がると、俺のそばまで歩いてくる。
「……まったく、君もどうしてこんなことを受け入れるんだい。そんなに自分の力を誇示したいのかい? 考えられないね。痛いだろうに。ほら──少しの間目をつむってて」
言われたとおりにする。右腕に触れられる感触の後、少しの頭痛がし、
「もういいよ」
優しくそんな言葉を掛けられる。俺の体は先ほどの傷が嘘のように元通りになっていた。これが岬先輩の能力。そんなことをぼんやりと、考える。
「どうして、岬先輩はここにいるんですか」
「どうしてって。そりゃ、大事な後輩君が壊されたら困るだろ。全く僕がいなかったら、死んでたかもしれないんだから」
「……ありがとうございます」
「ま、お礼はいいよ。そんなことより早く制服に着替えなよ。もうすぐ人がやってくる」
何事もなかった体は、代わりなのか、頭痛だけが残っていた。
俺は、普段通り学校の隙間を見つけてそこで寝て過ごした。もう、音楽は必要としなかった。
クラスから消えた、佐々木直哉の姿は、何度か校内で見かけられ、幽霊的な噂になっていた。隣の男を含めて。
それは、阿久津先輩は、授業の時間など気にせず校内を歩き、俺はそれに付き合わされたからだ。しかし、俺もそれを、どこか冒険的な、高揚感を持って楽しみ受け入れていた。
今まで見たことない景色。──こう見ると、学校という空間はいかに統制が取れているか思い知った。誰一人として、教室のかごから出ることはなく、廊下は、寂しさを感じるほど静かなのだ。
異端な自分のような存在を気に留める人なんているとも思わなかったし、むしろ、軽蔑され、忌み嫌われる存在になっていると自覚していた。
だからこそ。こんな風に、同じ存在となり隣に立っていてくれる人もいるのだけれど。
「あー寒い。阿久津先輩、よくそんな格好で居られますね」
未だに、カッターシャツの袖をめくり、筋肉質な腕を見せている。
「あん?」
それを、口にくわえたまま、「うるへー」と言いながら、白い息を吹きかけてくる。俺はそれを避けるように空を見上げる。
見上げた色は灰色に覆われる。最近ではすっかり、こんな日が増えた。もういつ雪が降ってもおかしくない。
俺は、投げるように置かれた、先輩の吸っていたものと同じものを取ると、口につける。火が勝手につけられ、肺に薄黒い、空気が侵入し体を蝕む。
俺の周りには、喫煙者はいなかった。まして、こんな行為を美徳とする環境にいなかったことで、悪に満ちたそれを受け入れることに、はじめはひどく抵抗があった。
が、それも、与えられた膨大な時間により、徐々にそれは、血の一部に代わっていった。そして、阿久津先輩もそれを、善として、喜ばしいものとしてもてなした。
俺にとってこれほどまでに、心を開ける家族は初めてだった。出会いは、暴力によるもので、次には孤独に侵入してきたことも分かっていた。だからこれほど自分が執着しているのもおかしなことだと理解していた。しかし今はそれによる不都合などなかった。
唯一の心残りがあるとすれば、友人と協力者の存在だ。相良さんはうまくいったのだろうか。しばしばそんなことを思い出した。
そんな、不安定だが満たされた日々は突然に終わりを告げる。
今日も阿久津先輩と過ごしていた。先輩は壁に球を投げ跳ね返り、元の手に戻ってくる。そんな動作を繰り返していた。それは以前からしていた、行動なのだろう、壁がそこだけ、塗装が剥げコンクリートがむき出しになっていた。
しばらくその音に、耳を傾け俺もそれに混ざることにした。
「そういえば、阿久津先輩は、出席日数足りてるんですか。全然授業に出ているところ見たことないですけど」
「……あ、ああ。まあ、大丈夫だな」
ほとんど会話がなく、ボールだけが交わされる。
何回目だろうか、ポケットの携帯が鳴る。はじめはそれを無視していたが、あまりにしつこかったので、出てやることにする。もちろん、阿久津先輩から離れてから出る。
「はい」
「はは、おひさー! いやぁ、何してんのかなって思ってさ」
電話特有の作った声ではなく、相良さん自身が作った声、そうなる理由もなんとなくわかるが。
「ちょ、もう」
急に相良さんの声が遠くなる。
「よう、直哉」
「た、健⁉」
無視して切ろうかと考えていたが、電話越しに聞こえた声に驚き思わず名前を呼んでしまった。
「なんで恵と交換して俺とはしてないんだよっ。傷つくわー」
「ごめん」
その謝罪には様々な、意味を込める。
「いいけどさー。あ、そういえばお前、クラスでなんか噂になってんぞ。はは、良かったなこれでお前も人気者だ」
「……なんか嫌な目立ち方だな」
「そうか? まっ、俺はどうでもいいけど」
「それで、何の用?」
こんなことがすらりと聞けるのは、もしかしたら、相手が見えないからかもしれない。
「ん、いや、何してんのかなって。──恵が気になって、」
「ちょ、もー、言わないでって言ったじゃん」
向こうが一気に騒がしくなる。どうやら二人で、会話を聞いているらしい。二人の声はほとんど同じ距離に聞こえる。
「健もかけろってせかしたじゃない! 恥ずかしがって。もー」
「はは、なんか仲良さそうでよかったよ」
それは唯一の懸案事項だったから。電話口からは、二人の声が混ざり合い、交互にしゃべればいいのにと何度か思ったが口に出さなかった。
そんな、やり取りが続いて、こちらから「そろそろ切るよ」と言わないと終わりそうになかった。最後、
「待ってるからな。んじゃ、いつでもいいから来いよ」
もう一人は納得してないようだったがすぐに切れる。しばらく、その一見すると意味のないそんな電話に悦に浸っていた。
ああ、そうか、あんなことをしてもなお、自分を慕ってくれている友人がまだいたのか。何もなくても好いてくれている、友人が。ならばもうあそこは、後悔する場所でも、懺悔する場所でも、まして、贖罪する場所でもなくなってしまった。それは、一人で行う必要があったのだ。そうではないのでは、逃げ続ける必要もなくなってしまった。
「戻るのか?」
「まだ時間がかかるかもですけど。とりあえず、待ってる友人がいることは分かったんで。それだけでも俺はうれしかったことが、うれしかったんです」
「なんだそれ。まっ、俺としちゃあ、戻らないでいてくれる方がありがたいんだけどな。恵にお前が接触しないからな。がはは」
──その数日後。俺は二人に偶然出会ってしまう。
その結果? そんなものは言うまでもないだろう。こうして、登校拒否生活は終わった。
この時、俺の中にはある一つの、考え、いや、思想ともいえるものが出来上がろうとしていた。
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