3章 どうせかわいい子には男がいる
「好きな人っている?」
唐突だが、男なら、いや、これはおとこ、おんな問わず、人生で一度は言われてみたいセリフだろう。この後続く言葉としては、告白以外に考えられない。もちろんそれが自分の思っている人であればなおさらだ。
なぜ改めて、そんな当たり前を確認しているかというと、今まさにそれが起こっているのだが。
ここは、男子トイレで、そして目の前には俺の頭と同じ目線の背の高さの、見知らぬ男であるという点でいえば、喜ぶより先に自分の身の危険を考えなければならない。命あっての恋だ。
化け物に襲われたおかげか、俺にはそれを冷静に、観察する余裕すらあった。制服の袖をまくり上げ、喧嘩でもしてきたのか、腕にはガーゼがまかれている。この高校は、県でも、上から数えた方が早いくらいの学力の学校なのだが、まさか、ドラマでしか見たことないようなthe不良がいるとは。
しかし現実はドラマなんかより、もっと冷酷だ。なんでもない素振りで、ドラマより人間性のないことが行われる。こんな、札付きの不良のように、わざわざ、警告していてくれているだけまだ優しい。
目の前の男だって、今日たまたま虫の居所が悪く、運よくそれを発散できそうな人が通りかかったのだろう。まったく運がない。男はいら立ちを発散するように、俺の背後の壁をける。
「何の話ですか?」
「だから、好きな人がいるかって聞いてんだ!「
「いたとしても、わざわざ見ず知らずの人に弱みを握らす人はいないと思いますよ」
「ああ? 何口答えしてんだ! おまえみたいなやつが近づいてんじゃねえっていてんだ!」
本当に何を言っているんだ。頭の悪い暴言で、脅して。
「恵は、お前なんかがしゃべっていいそんざいじゃないんだよ!」
恵? それは俺が知るメグミだろうか。そういえば、思い出す。相良さんに手を出して殴られて同級生がいると。まさか、こいつなのか?
それだったらこれから殴られるのか。……いやだなあ。
そんなことしか思わないのは、目の前の男のなかですでに決まっていることだろうから。
それだったら、もう抵抗しようがない。しかし、その前に訊いてみたいことがあった。
「あの、先輩は相良さ、」
「あ? 気安く名前呼んでんじゃねぇよ」
男がそういうので言い直す。
「先輩は、あの方とどういう関係なんですか?」
まるで相良さんが、どこかの姫様や、名前を言ってはいけない魔法使いみたいじゃないか。
「──兄だよ。それじゃあ、覚悟はいいな!」
少しの空白があり答える。先輩は次の返事をさせる間もなく、腹に、拳をねじ込む。それは見事に、みぞおちをとらえ、俺はトイレの床にうずくまる。覚悟をしていた分、痛みが少しは軽減してくれているといいが。その暴力の痛みにただ耐えることしか考えれない。しかしそれだけでは終わらなかった。うずくまった俺の背中を、踏みつける。それは同じ人間に対する行為とは思えなかった。
──この男は、俺が痛みを感じる神経の通ってない、別の生き物にも見えているのか。
自分の口から、乾いた、声が漏れ出る。意図して出しているのではない、その音をどこか他人事のように聴いていた。痛みのせいで涙が出るが、何の救いにもならなかった。むしろ、それは俺を内部から壊す。
「はぁ、はぁ、」
相手の息遣いが荒くなり、最後に腹を蹴り上げようやく止まる。
「二度と、あいつと話すなよ!」
そういって出ていく。俺はしばらくその場で呆然と座っていた。ひんやりとした床に、頭の中では、授業に間に合わなかったこと。さすがにこのまま出る気にはなれないので、これからどうしようかと考えていた。不思議と、男に対する、復讐心や、憎悪なんてものは浮かばなかった。もちろんそんな感情すら浮かばないほどバキバキにおられていたせいかもしれないが。
──これからどうしようか。保健室室に行ってもよかったが、この暴力を学校に訴えているようで、そんな自分の哀れさを振れまわるような行為はしたくなかった。それでもいつまでもここに座っているのは、衛生上よくない。俺は腹の痛みが、歩ける程度まで回復するのを待って、トイレを出る。
周りの教室は授業中のため、廊下には、しゃがれた男性教師の声が響くのみだった。瞬間、頭を張り裂くような痛みが襲う。一度しか経験したにもかかわらずこの痛みは本能に刻み込まれていた。
急にあたりがしんと静まり返り、気配が消える。
通り過ぎる教室の窓から見える光景に息をのむ。生きている人間に、こんなことを感じることはないが、この世界にいる人は、美しいと思える。どうして死が目の前に迫っているというのにこんなに平穏でいられるのだろう。
もしこの時間が永遠に続けば確かにそれは悪くない世界かもしれない。通りすがりに、理不尽に暴力をふるわれることもないし。しかしこの世界にはそんなものを許さない、明確な恐怖が存在する。分かりやすく、人間の姿ではない化け物が。
突如轟音が世界に響き渡った。あぁ、この静謐な世界を戦場に変える。
瓦礫が崩れる音が続いて聞こえてくる。俺はそこに何かを求めるように、動き出していた。
前回とは違い一階の、職員室前に化け物はいた。一応、化け物から身を隠し様子を伺う。どうやら俺が一番についてしまったようだ。
──もし、これでほかの人が来なかったら、一人で戦わなければいけないわけだが、あの力を再び使えるかすら怪しい俺だけでまともに戦えるだろうか。
そんなことを考えるぐらいには、聡が死んだ事実があるのに、なぜか、人が死ぬということに、何ら焦りを感じられなかった。どうしてと聞かれても困る。それが生まれ持った性質だからと答えたくはないが、そういうことかもしれない。
いや、しかし、多くの人がそうではないだろうか。死なんて、そこら辺に転がっているはずなのに、わざわざそれを警戒して生活しているものなんていないだろう。死は漠然としたものなのだ。それが自分のものでないのであればなおさらだ。実際に起こり、事実になって、はじめて感じることができるのだろう。
目の前の化け物に死を感じないというのは甚だ無茶な言い訳だとは思うが。別の理由を探す時間はまた今度だ。
グウンッ
空気を切り裂く低い音が廊下を透き通る。化け物の咆哮。
化け物は一見すると、象に似ていた。口元には自身の頭のサイズ超える牙が揺れ、鼻は体の半分ほどまで垂れており、まさしく、象の特徴そのものだった。
しかし、そいつは、二本の足で立っていた。曲芸で無理やり立たせているのとは違う、まさしく、我々と同じく、大地を踏み鳴らしていた。その体躯は、丸太の足をもってしても明らかに、支えきれないほど、肥大化しており、腹部は、はち切れんばかりの、膨張を見せる。
そのせいで、内部から体を破壊するように、分厚い皮膚はひび割れ、いたるところから出血していた。すでに、満身創痍にも思えたが、その歩みだけは、ゆっくりとどこを目指しているというのか、前進している。
まだ幾分か距離はあったが、ほとんどその距離の余裕を感じなかった。
早くだれか来ることを願うことしか現状することがなかった。
「直哉君。もう来ていたのか」
岬先輩が軽くステップを踏みながら階段を下りてきていた。あまりにもこの、死の恐怖が広がる場所では不釣り合いな笑みを湛えている。
岬先輩は、化け物の方へ、目線をやると、
「おお、これはまた」と感嘆する。
「どうするんですか」
俺が指示を仰ぐと、
「ハハハ、どうするって、」
空気に染み付くような、梅雨のような、不快な笑い方だった。
「なに笑ってんすか?」
異常者。それが俺の頭に真っ先に浮かんだ言葉だった。この状況を判断できないほど、目の前の人間は、精神をやられている。それは目の前の、恐怖におびえているからだろうか。つまり、今の状況を正しく理解できないほどに錯乱しているのかもしれない。
「君はなんていってほしいんだい?
ああ、そうか! 確かにあれだけの自重を支えるのはそう長くはもたないだろう。それならば、眺めておこう! 犠牲が出るのを眺めながら。僕らなら生き残れるからな!」
舞台役者じみた、大仰な身振りで話す。
「でもね。あれを見て、君は行動するしかなくなる」
岬先輩は、そう言って化け物を指さす。
いや、正しくはその先の、化け物通り過ぎた教室から出てくる少女。
まぎれもない、雨音先輩。そこは確か保健室だったはずだ。
「どうする? 生き残るためには、倒すほかないと思うけど、それとも直哉君は違う案でもあるのかな?」
「……いや、まあ、そりゃあ、そうですよね」
それを正しく答えることが俺にはできなかった。その原因となっている人は、そんな無駄な問答をしているときにはすでに静かな革命者となり化け物に背後から突貫していた。
スカートのポケットから、カッターナイフを取り出し、何のためらいもなく、左の手首を薄く切り、そのまま化け物の足に触れる。
バンッ
衝撃音とともに、灰色の煙が上がる。
「────ッ⁉」
思わず、息が詰まる。煙が晴れ、眼に映った化け物は、爆破された足は皮膚がめくれたぐらいで、ほとんどダメージを追っていなかった。
雨音先輩はそれを確認すると、すぐに飛ぶようにバックステップを踏んで化け物と距離をとる。
「……これ、効いてる風に見えないですけど。気のせいですよね」
「いやぁ、さすがだね」
岬先輩は苦笑いで返すが、自分自身は、そんなおどけて見せる余裕などなく、足が小刻みに震えていた。頭でその存在の恐怖を理解できなくても、本能は、「逃げろ」と叫んでいた。
それは正しかった。
「危ないッ!」
そんな掛け声。そののち、胸に衝撃を感じ、体を突き飛ばされる。
「なッ⁉」
先ほどまで、俺がいた場所は、コンクリートの基礎がむき出しになり、瓦礫が散らばり、床が円状に崩壊していた。
岬先輩が、蹴飛ばしてくれたおかげで、避けることができた。
「一旦下がるよ」
教室二つ分下がり、化け物と相対する。幸いにも一階には、生徒の過ごす教室はなかった。
「どうするんすか。先輩の能力で何とかならないんですか?」
俺は先輩の能力を知らなかったが、自分よりは戦闘経験が多いはずだ。
「無理だね」
岬先輩は堂々と宣言する。
「僕の能力、戦闘向きの力じゃないから」
「……くっそ。期待した俺がバカでした。なんかすごい、力持ってるのかと思ってたのに‼」
「……そんな力があったら、こんな世界に固執しないよ」
どういう意味か分からなかったが、今それを深く考える余裕はなかった。再び化け物は、距離を詰めてくる。
──先ほどの激突で得られた情報から鑑みるに弱点は、雨音先輩が攻撃した、足しかないだろう。攻撃を通すには、それだけの破壊力が必要だ。──雨音先輩の爆破ですらほとんど傷つかない、皮膚と脂肪を切れるだけの力が。
そんなことを考えていると、雨音先輩は二回目の突貫を開始する。そのため、俺も無理やりにでも、思考を切る必要があった。
雨音先輩も、同じ考えだったのだろう、先ほどと同じように化け物の足に狙いを定める。俺は先輩が化け物に攻撃するタイミングに合わせ、化け物との距離を詰めるために、真っ直ぐ、化け物に向かう。
走る廊下は、激しい動悸がし、全力で足を動かしているにもかかわらずなかなか前へ進まない感覚に陥っていた。
事実、先に雨音先輩の攻撃が化け物に達する。
「くそッ」
悪態をつくが、目線だけは、それがどういうものであるか、追い続けていた。
先輩が、行った工夫は至極シンプルなものだった。単純に爆破の威力を上げる。自分の血を先ほどとは違い、腕の何か所かに傷を付ける。そして、化け物の足に、ナイフで切り裂くように、自身の血を、擦り込む。
なるほど。自身の血液量によって爆発量が変わるのか。
──直後連続した破裂音が、響く。
それは、雨音先輩をも熱風で巻き込み、衝撃を下した。
生臭いにおいの煙とともに、すぐ目前の化け物が膝方から崩れ落ちる。ボロボロになった足が露わになっていた。
今度は俺が戦う番だ……。
「今だッ」
俺は、頭を低く下げる化け物の顔面に正拳付きをかます。もちろんそんなものがこの化け物に効くはずもなく、
「何してッ‼」
化け物の後ろで先輩の驚愕の表情が見える。そのせいで、気持ちが緩みかけるが、すぐに気合を入れ直す。化け物は、前のめりに倒れながらも、差し出された腕を、強靭な顎で骨もろともかみ砕く。
「ぐぎぁっ……ああああああああああ」
ぐしゃぐしゃになった腕から、脳内を破壊しそうなほどの、痛みの刺激が伝わる。一瞬世界が真っ白になり、意識が飛ぶ。それでも、これで────
運よく数秒で戻ってくることができ、
「ふっ‼」
──上手くいった!
右腕にはあの時よりも、ひどく歪な形の刃、武器を形成していた。
「うおおおおおおおおおおおおおおッ」
痛みをごまかす咆哮とともに、右腕を、化け物の脳天に振り下ろす。額に斜めの線ができ、そこから、まだ温かい血が噴き出る。俺はそのまま、血の滑りによって引き抜くと、左足に重心を掛け、体の回転により今度は奴の巨大な腹に切り込む。
が、その体は、俺の刃を数センチ切り込むと、止まってしまった。
「なにっ……⁉」
腕に、電気の走るような痛みが襲う。おそらく奴の体は脂肪というよりは筋肉の塊なのだ。
この化け物の体は力士と同じだ。何本もの筋線維が俺の刃を通さない、鎧の役割を果たしていた。そして、全身が筋肉だるまということは、
──やばい、やばい、やばい
直感的に感じた、死の淵からの死神の声に、引っかかった刃を、無理やり引き抜こうとする。しかし、一歩間に合わず、化け物は自身の体ごと、俺を巻き込み横の壁にぶつかる。
ドゴンッ。瓦礫が崩れ去る音ともに、頭上に、ガラス片が降り注ぐ。
寸前のところで、腕が抜けてくれ、九死に一生を得るが、額からぬるりとした血が、こぼれるのを感じ、視界がぱちぱちと点滅して見える。
左腕で、かすむ視界を拭うと、バチっと痛みがする。なんだ? と思い腕を見ると、化け物に喰わしていない、左腕の服から、貫通して紅い刃が生えていた。
もう一度同じように奴の突進を食らえば、この視界だ。避けることはできないだろう。それで死ぬのかどうかはわからないが、できればやられたくない。
自分の口から漏れる、気持ち悪いほど、荒い呼吸音を、息を止めることで無理やり止めると、再度化け物に向かう。
──ほとんど見えていなくても、この巨体だ、外すことはない。と自分に言い聞かせ、雨音先輩が攻撃した足を切断しにかかる。皮がはげ落ち原型を残していない足に横から刃を立てる。
化け物の脛に半分ほど刃が食い込む。
ノコギリのように削る感覚が正しい。幸いにも血のおかげでよく滑る。その感触を腕に強く感じる。
もう片方、と意識を向けたとき、目の前で化け物の足が、膝がはじけ飛ぶ。なんとも醜い、悲鳴を上げる。──自爆だった。片方に質量が、一気に膝に爆弾となりのしかかり、爆発したのだ。液体とともに青白い肉片を飛散させ、鉄柱のような骨が、剥き出しになり膝がもろく崩れ散る。
これで化け物の動きが完全に止まった。そのことに、いまだに叫び声を上げる化け物の前では、おかしいかもしれないが安堵していた。
両足からも、おびただしい量の血が吹き出し、ギャッギャッギャッと悲鳴を上げるが、すでに、歩行能力は失われていたため、得意の突進もすることができず、おもちゃをねだる赤子のように、腕を振り回し、その場で悲鳴を上げる。もちろん赤子とは比べられないほどの膂力を持ち、破壊を行っているが。
あとはとどめを刺せばいいだけだ。さっきの攻撃で、俺の腕も無傷ではなく、右腕からはさらなる血が流れ、そのせいで、刃の形はさらに大きくなる。
俺はその刃を化け物の腹に突っ立てる。切るのではない、刺し込む。ぼっぎゅっ。ぼぎゅっ、と、音を立てて、赤い液体が噴き出す。それを数か所作る。
「雨音先輩ッ‼」
思いがけず、声は震え、上擦ってしまう。それでも、先輩はそれだけで意味を完全に理解してくれたようで、スイッチすると、今度は先輩が化け物の正面に対峙する。そして、先ほど俺が空けた、化け物の体の穴に自身の腕を突っ込んでいく。先輩の白い腕はあっという間に、赤黒い液体に染まっていく。それは、自分と、化け物そして雨音先輩自身の血が混ざりあって出来上がっている。
「死ね。化け物ッ」
俺の言葉とほぼ同時に、化け物の体が、爆発し、鮮血が噴き出る。
化け物の体を構成していた肉塊が、飛び散り。異臭を発生させる。完全に沈黙したのを確認し俺はその場に座り込む。まだ温かい液体の上に。
誰も一言も発しない。先輩の息遣いを、追いかける呼吸音だけが残っていた。
「……終わった」
それだけしか考えられなかった。どれくらいの犠牲が出たのかも、目の前の傷つく女子生徒でさえ気遣えないほどに。まあ、それが必要な人とも思えないが。
警戒の糸はこの場にいる全員が途切れていた。だから、近づく人影を気づけなかった。
男が隣を通り過ぎて、ようやくその存在を知る。
「⁉」
ポケットに手を突っ込み、化け物の血肉を、水たまりのように飛んでよけまがら、隣を通り過ぎる。俺は、あまりに咄嗟のことで、反応できなかった。
一人の少女は勇敢にも鋭い声で、唯一その男を呼び止めた。
「ちょっとッ、待ちなさいよ‼」
男が、すぐ後ろで立ち止まる気配がある。
「あん?」
俺は振り返り、正体を確認し驚く。それはよくは知らないが、確かに、自分の記憶に刻み込まれていた人物だった。そして、ほぼ同時に相手もそれに気づく。
「おお、お前も、こっちの世界の奴だったのか。だったら、もっと痛みつけてもよかったな」
朝にトイレであった、男だった。まだ裏の世界のはずだ。それを証明するように、目の前に肉の塊になったなにかが転がっている。──だったら、どうして?
「……あんたも戦いなさいよ! どうして一人逃げることが許されていると思ってんの‼」
雨音先輩は激情的に、男に言い放つ。あまりにも、意外な姿に思わず雨音先輩の方へ眼を向けると彼女もまた、廊下の壁に背をつけ座っていた。
「あぁん? 文句でもあんのか?」
「当り前じゃない‼」
突如始まった言い合いに、唖然とする。なにせ、俺は未だに、目の前の男が、裏の世界にいることにさえ、受け入れられていなかった。
「黙れ女ッ」
男は荒々しく足音を立てて、雨音先輩のそばに近寄ると、返り血で紅い斑点のできたその顔を覗き込み言う。
「俺はな。俺のために戦ってんだ。おめぇが認めるかなんて関係ないんだよ。それがこの世界だろ‼ なあ、岬さんよお‼」
傍観していた岬先輩はそれを肯定も否定することもなかった。後に知ることになるのだが、この男を否定できる者は誰もいなかったのだ。もし裁けるとしたら、目の前に転がるような、化け物だけだろう。しかし、それを望むことは、人殺しと何の差異があるだろうか。
男は、身を翻すと、おもむろに俺の顔面に向かってこぶしを突き出す。また殴られるのかと思い、身構えると、
「やくそくわすれんなんよ」
男はそれで、要件を終えたのか、憮然とした表情で、離れていく。
やくそく。頭に反芻させてみる──相良さんに関わらない。それが、この男にどれほど重要であるか、真意を測ることはできない。それでも、それを言っているのが、裏の世界の住人であるという事実は、嫌でも悪い予感をさせた。
──嵐が通り過ぎて、数分後、再び頭痛がし、何もなかったように、日常が動き出す。雨音先輩は腕の傷のために、保健室に戻った。
俺も、できれば、それに付いて行って、ふかふかのベッドにダイブしたかったが、無論そんな勇気はなくて、かと言って、このまま授業に戻れるタフさもないので、部室に帰る、岬先輩の後ろをついて歩くことにする。
「花音ちゃんが言ったのだと僕も当てはまるんだけど」
これから始まる授業のために、移動教室に行く集団の高らかな笑い声に交じって、岬先輩は自嘲気味に笑い、そんなことを言う。
「……あの人も裏の住人なんですね……」
「そう。彼もそうだ。阿久津天(あくつてん)。僕と同じ三年生。
そういえば、直哉君は彼とすでに知り合いみたいだったけど?」
なんと言えばいいか……数秒考えて答える。
「その……なんていうか……トイレでぼこされた仲です」
それを聞いて、岬先輩は、けらけらと笑い出す。
「はは、それは災難だったね」
当人としては笑い事ではないのだが。思い出したように痛み出した、表世界の暴力はさっきの戦闘のおかげで薄れて思えた。
×××
部室で休んでいる間にいつの間にか眠っていたらしい。
自分にどれくらいの肉体的疲労が溜まっているのか判断しづらいが、精神的疲労はよっぽどのものだったのだろう。時計を見ると、すでに一日の授業が終わっていた。
向かい側には、岬先輩が本を片手に寝息を立てて、気持ちよさそうにしている。そういえば、この人が授業に行っているのを見たことない。
先輩を起こさないように、教室を出る。机で寝たせいで固まった体を、ほぐすために伸びをすると、腹部に激痛が走る。忘れていた。
夕暮れが顔を照らす。俺はそれを避けるように、自分の教室に向かう。
その途中だった。
雨音先輩の姿が見え、自然と歩みが止まる。正しくはそれだけが理由ではない。
その隣には、先輩とかなり身長差のある男が立っていたからだ。
俺はそれを見て、なぜか、とっさに隠れることを選択した。
ここは、自分の教室を含め一年生の教室がある階なので、二年生の雨音先輩がいて、男と一緒ということはそういう関係なのは、容易に察しはつく。それに、……雨音先輩はかわいい。
だから彼氏の一人や二人いてもおかしいことはない。驚くとすれば、それが自分と同じ一年生だということぐらいだ。クラスは違うが、何度かすれ違ったことのある同級生。
まぁ、確かにつりあってると言えるか、身長を除けば。
俺は、ばれないように、息をひそめて、自分の教室に入る。
おそらく、あの、同級生は裏の世界の意味を知らない。説明しても頭のおかしい奴だと思われるだけだろうから。だから、
──こいつは、先輩が命を懸けて戦ったことを知らない。
雨音先輩が消えれば、あの同級生はきれいさっぱり忘れて、次の、女と付き合いだすのだろう。もちろん男は悪くない。それは世界のルールだから受け入れるしかない。
そんなことを考えていたから、現実世界の情報処理が遅れた。
「直哉君、大丈夫なの?」
「⁉」
「ふふ、何その顔! 前も思ったけど、直哉君ってやっぱり反応面白いや」
相良さんが笑っている。慌てて周りを確認すると、クラスには相良さんのほかに、女子三人グループが残っていた。それに、あの男にまた見つかりたくなかったのでなるべく話したくない。
もちろん感情的にはしゃべりたいが、さすがにもう一度あの暴力を受けるほどの度胸は持ち合わせていない。なので、なるべく早く会話を切り上げることにする。
「君のお兄さんから、相良さんと話すなって言われたんだ。だから、あまり話さないほうが良い」
「うん? 私にお兄ちゃん? 私ひとりっ子だけど」
「ふえ⁉」
思ってもみない答えに、つい、声を出してしまう。──いや待て待て、それじゃあ、あの男自分を相良さんのことを妹だと思うやばい奴なのか。俺はそんな奴に暴力を振るわれていたのかよ。
相良さんは続けて言う。
「直哉君は、私のお兄ちゃんにあったの?」
相良さんの言う「お兄ちゃん」の響きは何ともかわいらしかった。
「……うん……一応、相良さんの、お兄さんって言ってたんですけど……」
そう答えるしかなかった。──まあ、あれでは、会うというか、事故のようなものだけど。
「誰だろう?」
訊かれても困る……が、
「……相良さんは、ファンが多いから、多分その一人じゃないかな?」
「えー。なにそれ! 私アイドルじゃないけど……。でも、それだったらごめん!」
相良さんは、顔の前で合掌する。
よく、自分の関わり知らぬものに、こんなにも素直に謝れるものだ。半ば尊敬の眼差しで、相良さんの顔の少し下に視線を据える。それは、単に目から受け取る感情を避ける行為でしかなく、他意はない。
「それにしても、意外だったなぁ。直哉君もそういうこと言えるんだ。普段、健といても、そんなに話してくれないのに」
そうか? 相良さんも自分が持てていることは自覚していると思うけど
「まあ、今ままで通り過ごしていれば、話すことなんてほとんどな、」
「そういうことだから、全然話してくれてオッケーなんだよ!」
そういうと、親指と人差し指でわっかをつくって、そこからこちらをのぞき込む。
そこから彼女は何を見たのだろうか。ほんのり、薄桃色に染まる頬に、じっとそこから動かない黒い瞳をみて、深くそう思う。おそらく、対照に近い表情をしていたに違いない。
相良さんも、何も反応されない経験は初めてだったのだろう。すぐに、指を解くと、ぱたぱたと、顔を扇ぐ。──たしかに、首元には、照りが見えた。
そんな仕草に、申し訳ない気持ちになり、「いや、その朝話すのをなくせばいいかなと、」
「えー、別にいいじゃん。これまで通りで。気にする必要ないよ」
朝の時間をここで出したのは間違いだったかもしれない。教室の女子数人が、こちらに注目していたことをすっかり忘れていた。あと、すみの男子一人も。
「まあ、一応気を付けてね。相良さんに変な人が、付きまとわっていることだから」
さっさと話を切り上げたほうが良いと判断する。教室を出るとき、ちらと振り返ると、集団の一人がいやな目でこちらを見ていた気がするが気にしない。……気にしない。死にたい。
再び部室に戻る。
岬先輩は起きて、お菓子を食べていた。俺はそれを分けてもらいながら、勉強に取り掛かる。もうすぐテストなのだ。別にいい点を取りたいわけではないが、馬鹿にされない程度の点は取っておきたい。
岬先輩は何となくだが、勉強しなくてもテストの点は良さそうだ。雨音先輩はどうなんだろう。いや、後輩彼氏といちゃついてんだ。そんな勉強するタイプでもないのだろう。そんな偏見に満ちた結論出す。
一時間もたたないうちに、集中はきれる。──よくよく考えたら、これに意味はあるのだろうか。例えば、体を鍛えるなど、裏の世界を生き抜く方法が優先事項ではないだろうか。
俺の頭の中には強く二度にわたる、化け物との戦いが刻まれていた。それは、トラウマのように何度も頭の中で再生された。しかし、もちろん恐怖を覚えることもあるのだが、その多くは倒したという征服感だった。なぜかその時自分の痛みが、思い起こされることはなかった。多分完全に治ってしまい事実がなくなるから、想像しにくいのだ。
「あっ、花音ちゃんだ」
岬先輩が独り言のようにつぶやく。いつもなら流していただろうが、さっきのこともあって反応してしまう。
「おっ! なにその反応? まさか」
やけに、ハイテンションで、話してくるが、本当にそんな気はなかった。
「いや、そんなじゃないです」
「まあ、いいけど。ほら、あそこ」
岬先輩の指さす先には、ちょうど雨音先輩と、さっき俺が見た同級生と帰っている姿があった。手こそつないでいないものの、異性の距離感としては近いと思う。
「どう思う?」
「付き合っていますよね」
まるで探偵のように部室の窓から二人で、盗み見していた。
「あれで付き合ってなかったら驚きだけど」
雨音先輩は、初めてかもしれない、笑顔を見せながら、仲良さそうに校門に、向かっていた。二人だけの幸福な世界が広がっており、周りにいるザコ生徒では、話しかけることすらできない障壁を築いていた。
俺には、不気味でしかなかった。雨音先輩が、部室で見せる姿と、まるで違っていたからだ。いつものつんけんした、拒絶している先輩とはまるで別人な顔をしていた。
特別な二人は、校門に到着する。雨音先輩が、胸の前で、小さく手を挙げる。──その同級生になりたいとは思わないが、多少のうらやましさはある。
二人は、別れる。
──それからは、あまり見ていて気持ちいいものではなかった。
校門を一歩出ると男は雨音先輩の方を振り向きもせず、走って、先を歩いていた友達と思われる、男女の集団に混ざる。雨音先輩はそれをしばらく見ていた。それはかつての自分と重なって見えた。ここに閉じ込められた初日の絶望感を思い出す。
もちろん先輩が今抱いている感情など分からないが。
振り返った雨音先輩は、部室で見せていた表情に戻っており、さっきの何倍もの速さで校舎の方へ帰ってくる。誰でもわかる、その違いに見ているこちらまで、思わず苦しくなる。
「あ、直哉君! 花音ちゃんを慰めるチャンスだよ!」
重苦しい雰囲気を打ち破るように、岬先輩に肩をたたかれる。
「そんなチャンスないです」
「いやいや、それはわからないよっ。傷心しているときの優しい言葉は、効くっていうからね!」
ウィンクまで付け加えて岬先輩が言う。
「岬先輩それはさすがにきもいです」
「きもいのは、あんたもよ」
教室の扉が強く開けられ、先ほどまで、下にいたはずの雨音先輩がいた。
「何ふたりして覗いてんですか」
どうやらばれていたようだ。
イラついたように、ずかずかと歩いて、カップラーメンを取る。選んだのは、またしても辛いものだ。
「あー、それはね! 直哉君が、花音ちゃんが付き合ってないか気にしていてね」
「なっ! っていうか、初めに除こうとしたのは、岬先輩じゃないですか!」
「へー」
雨音先輩は無関心に話を流す。
「それで、どうなの?」
岬先輩が、訊くと、
「……わたし、付き合ってないですけど」
少しの間があって言う。
──さすがにその否定は無理があるだろ。
俺はそんな言葉をぐっと飲みこむ。
「……仲良しって感じです」
若干顔が紅潮しているのはそのラーメンの辛さのせいだけなのか。
「そ、そうっすか」
そんな顔されたら、何も言えないじゃないか……。
岬先輩も、何か察してか、殺気を感じてかそれ以上茶化さなかった。それによく考えたら、自分には、一ミリも関係のない話だ。
雨音先輩は、耳に髪をかけなおすと、顔を隠すようにカップ麺をすすり始める。
彼女にとって、あの同級生がどんな人物なのか分からない。もしかしたら、彼は放課後違う女子と遊んでいるかもしれない。それも、雨音先輩のことなんてさっぱり忘れて何の罪悪感もなく。あくまで可能性の話だが。お互いに秘密は抱えているから、許容しているのだろうか。たしかに、あの男も今こうして、同じ部屋で異性にじっと眺められているとは思うまい。
「なに? さっきから、わたしを見て。視姦でもしてるの?」
「ブフォッ、──なに言ってんですかっ⁉」
衝撃の言葉に、口につけていたコーヒーを机にぶちまけてしまう。
「あっ、あたまおかしいんですか⁉」
「それとも、後で、何かに使う気? まあ、晴らす手段も今は限られてるからね。犯罪者君」
「──うっ」
不覚にも、首をこくんとかしげる仕草に、罵倒されたことを一瞬忘れ、見入ってしまう。
それに伴い急な心拍上昇に、根元の心臓が耐えられず、ずきずき痛んだ。
彼女が見せたのは、あの同級生に向けていた顔と同じだった。仮面を外した素顔を自分自身に向けられたことで、罪悪感に近いものを感じる。
おそらくそれだけが理由ではないが、あえて、言及しないでおこう。──あんなことを言われたのに仕草一つで、許せてしまうと思いたくない。
雨音先輩はいつも通り、食べ終わるとそのまま、教室を出ていく。
ようやく、閉塞した空間から解放され、まるで、走った後かのように、空気を吸い込む。岬先輩と一緒にいる空間が完全な、気を抜ける場かと言えばそうではないけど……
「それじゃあ、片付けよろしくね。犯、──おっと、直哉君っ」
「マジでやめてください。死にますよ。俺が」
「ははは、わかってるって」
雨音先輩のスープまで飲み干された、カップを洗って捨てる。その間、岬先輩は、雨音先輩が座っていた席で読書を再開する。多分、深い意味はないと思うが。……ないよな?
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