2章 雨音花音はラーメンを食べる

 裏の世界と出会い、早二週間が経過しようとしていた。特に変わったことはない。聡の死はいまだに刻み込まれているし、違和感も消えていない。いや、生活が少し変わったぐらいか。衣類を買った。

 はじめは健に頼んでみたが、18時になると、そのことを忘れてしまい、次の日に何度も「ごめん忘れてた」と言わせてしまった。なので一度、クラスメイトを通して、健に伝えるという遠回しな方法を使ったら上手くいった。多少不審に思われたが別に気なしなければいい。

 

 もうひとつの気づきは、食事だ。お金は初めに持っていた分と、先輩が部費から、お小遣いのように支給していたのを使って、食堂で飯を買っていたが、ほとんど食欲というものを感じなくなっていた。ためしに、三日ほど、食事を抜いたが平気だった。これも裏の世界にいる時間のせいかもしれない。特に食事に対して求めていることもなかったのでむしろ、食費が浮いて好都合だった。

 

 早朝いつも通り、初めより起きる時間は遅くなったがそれでも、7時前に起床する。洗顔、歯磨きを終え、制服に着替える。脱いだ服はロッカーに突っ込む。ルーチン化された行動。

 それとこれも。

 7時15分。瞼の重みと格闘してると、教室の扉があけられる。閉じ込められてから、一度も変わらない。相良さんが登校してくる。 

 それは、閉じ込められる前からしていた彼女のルーチンなのだろう、一番に教室に入るというのは。

 それを邪魔されれば、多少でも不満に思うのが普通だと思うので、俺は負い目を感じてなるべく自分の存在感を薄めることに努めていた。それでもこの少しの時間、二人だけの空間は、親近感を抱かせてくれる、なんて言うか、悪くない空間だった。 

 彼女と数度目が合うことがあったが、相手は全くそんなこと気にしていないようで、淡々と、シャープペンシルを走らせる音だけが聞こえる。

 

 朝礼のチャイムが鳴ると同時に、朝練を終えた生徒が滑り込むように教室に駆け込んでくる。タオルを肩にかけ、頭は汗か水だかでぬれている。そして一気に教室中に、制汗剤の強いにおいが広がる。その集団の先頭にいた人物は、朝のさわやかな「おっはー」をかまし、座る。

 体から制汗剤とは違う、ミント系のいい匂いをさせている。俺は遅れて体を起こして挨拶を返す。


「直哉、最近朝早く来てるらしいな!」

 からかうように言う。健はどこからか、朝早く来ているのを聞いたのだろう。まさか学校に住んでいるとまでは思わないだろうが。

「なんだよ。だったら、俺のところ来いよ」

「い、いや、勉強のためだから……」

「ダウト。どうせ寝てるだけだろ」

 健にツッコまれる。

 聡ならこういう時なんというだろうか。そんな考えが浮かんできて、安堵する。おかしな話だ。

「それより、俺が早く来てるって知ってんだよ」

「恵がお前のこと、早く来て寝てる変わった人って言ってたぞ」

「えー……、それ聞きたくなかったわ」

 

 聞かなければこれからも気にせずにぐっすり寝れたのに。ていうか、相良さんも言わないでほしいよ。なんか二人だけの秘密っていうのをちょっと期待してたのに。

「もし恵を狙ってんだったら、やめたほうが良いぞ」

 急に健は顔近づけて、小声になる。──いや、ちかい。ちかい。なんで男にこんな変な汗をかかなきゃならないんだ。ていうか、俺の体も反応すんなよ。

「……なんで?」それに合わせて俺も小声にしておく。と、

「なんだよ、マジで相良目当てだったのかよ!」

 あまりに唐突な攻撃に受け身が取れず、必死になって返してしまう。

「ち、違う。マジで、勉強しようと思ってきてんだって。寝てることが多いだけで」

 恥っず。本当にそんなつもりないのだが、何を言っても言い訳しているみたいになってしまう。

「まあいいけど。あいつに告白した奴が、ある先輩にぼこされたんだよ」

「なんだそれ。恵……サン、のお兄さん?」

 女子の名前を呼びなれていないせいで、健につられて、俺もつい呼び捨てにしてしまうが、すぐに違和感と恥ずかしさに耐えきれなくなり変な間を挟んでさん付けする。そのせいで、余計に意識してるような感じになる。

「さあ、しらねえや」

 健は興味なさそうに言う。


 俺自身も相良さんに告白などするわけがないので関係ないと切り捨て、頭のおかしい奴もいるもんだとくらいにしか思わなかった。



                    ×××


 相良さんと話す機会はそう遠くない間に訪れた。

 朝、いつも通り自分の席で伏せて寝ていると、

「……くん? 直哉君。……ねえってば」

 寝ぼけていたせいで「ふはあっ」と、思わず変な声が出てしまう。目を開けると目の前には、相良さんが立っていた。

 何事だろう、と思っていると、

「ひひッ、やっと起きた。おはよう」

「! おはよう」

 二度寝のまどろみの中、反射でオウム返ししてしまったことで、馴れ馴れしい挨拶を返してしまう。

 しまった、と思い、恐る恐る、相良さんの表情を窺う。

 

 相良さんは、ぱっと明るい笑みを浮かべたままこちらを見つめていた。

 もしかしたら、彼女なりにこちらが落ち着く時間をくれているのかもしれない。もちろんそんなのでは、この鼓動は治まってくれそうにない。

 ──いったいなんなんだ?

 相良さんが何を意図しているのか分からない。

「直哉君はそんなに早く学校に来て何してるの?」

 相良さんは、自分の髪を手くしでなぞりながら訊く。

 ああ、やっぱり怪しまれていたのか。だから次に出てきた言葉は、

「すいません」

 謝罪を口にする。太陽のような笑顔から逃れるように、目を背けながらだが。


「えー? 謝られても困るけど……」

「いや、……相良さんの、この時間を邪魔してしまったから……」

「あー違う違う。別に、全然きにしてないよ。いや、なんでかなって。うーん? 純粋な疑問で訊いただけなんだけなぁ」

 少し困ったように、からからと笑い、人差し指を顎でグニッとまげる。

 

 なんだそういうことか。もちろんこれを額面通り受け取るほど馬鹿ではないが、少なくとも最低評価されていないことが分かり安心する。

「だったら私も、教えるから、それで交換ってのはどう?」

「……だったらお互い教えないってことで交換にしないですか?」

「ああ! そっちもあったかぁ」 

 感情がそのままフィルターを通さず言葉に出るのだろう。

「あのね、私はしたいことないからしてるの。ママは勉強よりピアノとかの習い事してほしいっていうんだけど。全然楽しくないからさ」

 

 相良さんは一方的に話始める。

「──じゃ、次直哉君の番!」

 相良さんの話を、聞くふりだけして、上手い理由を考えていたので、相良さんが話を終わったことに少しの間気づかない。熱い視線を感じて、ようやく気付く。相良さんは、じーと、こちらを見て、話せと圧をかけていた。

「ええっと、生活リズムを整えて、自分のより良い健康のため、です」

 よし。ここ何日かで、最もましな答えを出せた。

「もー、なにそれ! 真面目に言った私がばかみたいじゃん」

 相良さんはおかしそうに本当に楽しそうに笑う。

「じゃ、直哉君は、身長伸びそうだね」

 相良さんはその重みを忘れていたかのように、背中の鞄を背負いなおすと自分の席に向かう。

 

 これで終わりか。若干の未練は残るが、これ以上なにかしゃべって、失言するよりかはましかもしれない。さすがに変な人から降格することだけは避けたいからな。

「あ、そうだ。直哉君、普段でも話しかけてくれていいからね!」

 鞄から勉強道具を取り出す片手間そんなことを言い出す。

「え、あ、うん」

 あまりに自然に言うので流されて、つい同意してしまった。

 脳内は後悔と羞恥で悶えていた。なに、普通にしゃべっていたんだ。そんな、仲じゃないだろ。だがそんな勘違いも取り消すことはできない。

 先ほどから、手を動かすより口を動かす数の方が多そうな、相良さんを見て思う。不自然に黙りだしたことを彼女が気にしていなさそうだったのがせめてもの救いだった。

 

 こんなところ健が見たらなんて思うだろうか。前にからかわれたが、否定もできないな。

「よう! 何の話してんだ?」

「健⁉ なんで……!」

 この時間はまだ朝練をしているはずの、健が後ろに立っていた。

「んあ? ほら見ろよこれ。最悪だぜ」

 健が着ているユニフォームは、色が変わるほどぬれていた。汗ではない。窓から外を見ると、雨が降っていた。夏特有の、湿った雨だ。

「健が女子と話すなんてめずらしいな。そのせいで雨が降ったんだろ!」

 笑って言う。健は濡れた服をいそいそと、この場で脱ぎ始め、相良さんは、実に女の子らしいありがちな文句を言うと、ようやく勉強を開始した。その後続々と、人が教室に入ってくる。健と同じように、髪が濡れているが、ちゃんと制服に着替えていた。

「どうして、早く戻ってきたの?」

「そっか、そっか、」

「なに?」

「いやぁー。邪魔しちゃって悪かったな」

「そんなんじゃない」

「まあ、お前が朝何してんのか興味があったからさ。次からは気を付けるわ」

 冗談めかした口調で言う。そんな、意味で訊いたわけではなかったので、思わぬカウンターを食らい動揺する。

「でも、恵はいいやつだよ」

「なんで、親目線なんだよ」

「かはは、なんだかんだ、小学校から一緒だからな。あいつとは」

 そうなのか知らなかった。二人が、ランドセルを背負い、登下校する姿を想像する。それは、中学になれば言い合いをし、それでも仲良く同じ高校を選ぶ。知識しかない、お花畑な想像をする。

 

 健はいつの間にか、雨のせいでテンションの上がったクラスの喧騒に巻き込まれるようにして、ほかのクラスメイトと話し出していた。

 俺は、まだ始業まで時間があるのを確認すると、一度教室を出る。新鮮な空気を吸うためだ。廊下を、さっきの想像、いや、妄想の続きをしながら歩く。健を見ていると、この


 そこではたと足が止まる。

            …………あれ? 俺は今────

 

 それは、突如とした絶望。

 一度、湧いた感情は、血管を巡り、体は青白い冷たさに支配されていく。──俺は何日の間、聡のことを考えていなかったんだ……。


 過去の、造り出した記憶には、聡の姿はなかった。二人は親友だった。自分の妄想に、何とか聡の姿を映し出そうとするが、今はもう真実を確かめることは出来ないため、もやがかかった、黒い人影にしかならない。

 それでも、聡はいるはずなんだ。なにしろ聡は相良さんのことが────

 それは罪の意識となり体を縛る。

 隣を新たな一日が始まる希望を携えた、同級生が通り過ぎていく。



                  ×××


「あーあ、まだ寝てたかったのに」

 自分が逃げてきたせいで、起こしてしまったらしい。それは悪いことをしてしまったと心の中で謝る。

 岬先輩は、パンツに、ティーシャツと限界までのラフな格好で、コーヒーを入れてくれる。

 学校でしていい格好じゃないだろ。もうすでに裏に世界の時間は終わっているはずなので、今人が入ってきたら、この人の学校生活は終わるんじゃないか。

「それで、何しに来たの?」

 本人は、そんなことお構いないらしい。

「……なんとなく教室にいづらくて。岬先輩はクラスに行かなくて大丈夫なんですか」

 

 岬先輩は「大丈夫だよー」なんて気の抜けた返事をする。実をいうと、誰もいないことを望んでここに来たのだが、まさかまだ先輩が残っているとは。

 それでも、訪ねておいて、何も話さないというわけにもいかず、今朝の相良さんの奇行を話すことにした。

「なるほど」

 俺が一通り話し終えると、先輩は、一口コーヒーを口に仰ぎ、二、三度空咳をし、

「これは僕の意見だけど、ただのクラスメイトへのあいさつか、それとも、何もしないのに、自分より早く教室にいる君にイラついてたんじゃないの?」

 と、言ってくる。

「えッ、マジっすか」

 思わず食い気味に、驚きの声をあげてしまう。

「冗談だよ」と岬先輩は笑っていたが、自身の中で完全には否定しきれなくて、だんだん、そうなのかもと思えてくる。

 

 一度話が途切れる。時計を見ると、もうすぐ朝礼の予鈴が鳴りそうだった。ここ(部室)より外は、せわしない生徒の足音がしているので、余計にここの時間だけが、遅れて思える。

 そんな時間の進みの違う外部から訪ねてきた来客は俺だけではなかった。ノックもなしに扉が開かれる。岬先輩は、「うおっ」といいつつも、何も変わらず仁王立ちしていた。入ってきたのは、雨音先輩だ。

 今日は髪の横を三つ編みに結んで、いつものピンでとめていた。雨音先輩はショートにもかかわらずいろいろなヘアアレンジをする。

 一番後輩であるために、一応先に「おはようございます」とあいさつをしてみても当たり前のように返ってこない。

「岬先輩、性犯罪になるんで早く制服に着替えてください」

 雨音先輩そういうと、カップラーメンの入った段ボールを漁り始める。朝からカップラーメンかよ……。

 

 それが伝わったのか分からないが、おそらくずっと見ていたからだろうが、ぎろっとにらまれる。雨音先輩に選ばれたのは激辛ラーメンだった。雨音先輩がお湯を入れて待っている間に、岬先輩は制服に着替え終わる。

「花音ちゃんは、よく食べるね」

「きもいんでその呼び方やめてください。それと、わたし、今絶賛成長期なんで」

 絶対嘘だろ。……いや女の子だし、もしかしたら、見えない部分の可能性もある。雨音先輩のそれは、なんともつつましかったが。ばれないように確認しようとするとちょうど雨音先輩と目が合ってしまう。

「あ?」

 舌打ちとともに、威嚇され慌てて目をそらす。雨音先輩は、その小柄な体型には見合わないほどよく食べているのを見かける。まあ、悪いことではないけど。それに、食欲があるのは少しうらやましい。俺は三日前食べた昼飯の、唐揚げ弁当を思い出す。

「なんで、泣き虫がここにいるんですか? 目に映らないでくれる。ラーメンがまずくなるから」

 なんて言いようだ。

「そんなこと言わないで上げてよ。直哉君は、クラスでいじめられているらしいんだから」

「⁉ 俺そんなこと一言も言ってないですよね⁉」

 雨音先輩の暴言に、珍しく擁護してくれるのかと思ったのに。

「そう。やっぱりね」

 雨音先輩も先輩で、うんうんとうなずいている。なんでだよ。

「だって君の友達、明らかに君とつりあってなかったもの。どうせ、いつもパシらされてるんでしょ?」

 たしかに 釣り合っていないのには、同意だがこうもまじまじと言われると、心に来るものがある。いや、ていうか、なんで先輩、俺の友達のこと知ってんだよ。

「そんなわけないじゃないですか。普通に友達ですよ」

「それはどうかな?」

「……なんで、岬先輩も、雨音先輩の方に加勢するんですか」

「そりゃあ、状況証拠?」

「まあ、あんたがいじめられていようと、どうでもいいわ。それじゃあ」

 そういって、雨音先輩は汁の残った容器をそのままで、教室を出ていく。どこまでも勝手な人だ。

 

 

 しかし、雨音先輩もここに来たということは、少しは、同じ気持ちを抱えていたのかもしれない。そう思うと、普段の態度も多少はかわいく思える。人の弱さを、そう捉えるは良くないことかもしれないけど。

 なんでもない、ほとんど他人でしかない人達が会話を交わす。岬先輩は、ここでは学校の本質とは遠く、本を読んでは、うたた寝をするというのを繰り返していた。時々だが、ノートに何かメモをするように書き込むのも目にした。

 やはりこの場所は特別だ。本当に場所のせいなのか? 思いたくはないが、裏の世界という数少ない同じ境遇で生まれる、絆意識なのかもしれない。俺はそんなことを考えてみた。

 またあの場所に戻っても、罪悪感は消えないだろう。それでも、むしろそれを、これからゆっくり、時間をかけて心に刻んでいこう。

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