表裏一体
荒木紺
1章 分かたれた世界
ことの顛末を知るにはあの日について話さなければならないだろう。
「君は死を目の前にして何ができる。どこにでもっ転がっているそれを拾うものまた偶然にも拾ってしまうものそれぞれいるが逆らうことができるものはほとんどいないだろう君はどうする」
そんな悲鳴にも似たような叫びで目を開くと。
……なんだこれは‼
ぼんやりとした視界には、地獄そのものにもおもえる景色が広がっていた。
「逃げて! 君だけは……次につなぐためにッ‼」
そんな悲鳴にも似たような叫びをあげるのは、体を貫かれた女子生徒。
悲痛な声をあげながら。こちらに手を伸ばしている。その貫いたものは黒い靄のようなもやがかかっており姿をはっきりととらえられない。
彼女の逆さになった頭からは、黒い液体がこぼれていた。
「ど、どうして……」
声を発し彼女に話しかけるも、もう聞こえていなかった。
「うわアアアアッ、はぁ、はぁ──」
目を開くとそこに広がるのはいつもと何も代わり映えのしない部屋の天井。体は汗で湿り、今なお、鳴り止まない時計は音を鳴らして、床に転がっていた。
「なんだよ今のは」
恐怖を抑えるため、悪態をついて心を静める。
転がる時計を見ると8時13分を指す。
「ああ、完全に遅刻だ」
俺は間に合うことを早々に諦め、ゆっくりとシャワーを浴びることにした。
少し熱めのお湯で頭を覚醒させる。そのころにはさっきの夢もそれがどのようなものであったか思い出すことはできない。それでも恐怖したという感情? 事象? だけは脳裏にほんのりと残っている。
風呂で歯を磨くことも同時に行い、濡れた髪を軽くドライヤーで乾かし制服に着替える。
夏のおかげでくたくたになったカッターシャツは、入学当初の見た目の初々しさを取り払ってくれていた。
学校につくと、遅刻届を受け取り、教室に向かう。
身だしなみを気にしない性格が幸いしてか、十分くらいの遅刻で済んだ。
席に座り、一息つこうとすると真っ先に後ろの席の聡(さとる)から話しかけられる。
「お、なになに、直哉もついに悪びれだしたか!」
そんなわけないので、違うと否定しておく。
「聡お前じゃないんだから」
そこに前の席に座る健が割って入ってくる。
「あ? なんだよ、健どういうことだよ!」
「とぼけんなよ。そんなに髪伸ばして、野球部なんだから坊主にしろよ」
「なっ。いいだろ! 別に。それだったら、お前はサッカーやってるからモヒカンにしろよな」
うーん。どっちも偏見が凄いな。
それでもそんな言い合いにも慣れた。二人は教師から注意されやっと止まる。
二人がこんな態度のため、俺の遅刻もクラス内でそんなに浮くことなく受け入れられた。もしかしたら意図的にしてくれたのかもしれない。本当に惚れてしまいそうだ。
「なあ、なあ直哉」
今度はさっきとは違い聡は小声で囁くように話しかけてくる。
「明日から朝練来ない? 直哉って意外に動けるから誘いたかったんだよなー」
後ろを振り向くと聡は笑顔で親指を立てていた。こういう誘いは普通のやつがしたらうざがられるんだろうが、聡はその童顔のためか笑顔でそれを打ち消している。それでも朝練は普通にめんどくさいので断る。すると見るからに落ち込んだ表情を見せるので、面白い。諦めきれないのか何か言おうとすると、
「聡君、今日日直だよー」
クラスの女子に呼ばれ、口惜しそうに、呼ばれた子に向かう。
「あいつの笑顔は、同性にも異性にも好かれんだよなぁ」
健が笑って言う。それには同じ意見だ。しかしお前が言うか、クラスの女子人気ナンバーワン(女子が話しているのを盗み聞いた)
目の前にある憎たらしいほど整った顔を眺めていると、健は「?」と反応するが何でもないと返すと前に向き直る。
ふりまかれたさわやかな空気を、吸い込むように深く深呼吸する。
──それにしても部活か。特別意識して入ってないわけではない。
この学校では、三人連れてきたら簡単に部活が作れ、さらに無駄に広い校舎のおかげで、空き教室も多いので、ほとんどの生徒が部活に加入していた。
そう。別に入ってもよかった。どうせ放課後なんて、マンガ喫茶で時間をつぶすぐらいしかしてないから。それでも今のところ現状の学校生活に満足している。部活に入らないのなんて、それぐらいの理由でしかなかった。
そんなつまらないことを考えながら、朝の夢のせいであまり睡眠をとれてなかった分を取り戻すため机に伏せて寝むりにつくことにした。
×××
放課後。健と聡は部活に向かってしまったため一人残される。教室にもほとんど人が残っておらず、その数人も参考書を開いて勉強をしている。俺は授業のほとんどを寝て過ごした体を、ひねってほぐすと、どこに寄り道するか考えながら校門へ向かった。
校門につく頃にはなんとなくの思い付きでよく行く漫画の置いてあるラーメン屋に決めた。時間をつぶす場所は日によってそれぞれだった。なるべく長く時間を潰せればいい。そういう意味ではカラオケは適していない。一度補導された記憶を思い出し、顔が熱くなる。
そんな嫌な記憶を振り払おうと、小走りで学校を出ようとすると何かにつまずき倒れる。
「?」
いやつまずいたのではない何かにぶつかった? 俺は立ち上がると今度はゆっくり歩く。
「うわっ!」
するとちょうど校門のところで何かに体がはじかれる。はじかれた場所に恐る恐る手を近づけると、さっきとは違い軽い衝撃が手に伝わる。何度か試してみても結果は変わらなかった。
俺はその感触に困惑しながらも、ふと我に返ると隣に三人組の男女が、こちらを見て何かこそこそと話していた。
それでも、俺がそちらを向くとすぐに目をそらし、普通に校門を通り過ぎていく。そいつらがこちらを見てないのを確認して、もう一度見えない壁に触れて、教室に引き返す。
意味不明。学校に閉じ込められたらしい? そして、現状自分だけにしか起こっていない、のか?
恐怖を感じるまで現状に思考が追い付いていないのか、頭の中では考えが空回りしている。上がった体温を冷ますために、途中のトイレで顔に水をかける。
「何が起きているんだ」
鏡に映った、情けない自分の顔を、軽くはたき、表情だけでもいつもに戻す。
とりあえず現状把握をするため教室に戻って考えよう。──俺は平静ではもっと早く思いつたであろう至極当然の、提案をひねり出し教室に向かう。
席に座ると、遠くに座る一人が、訝しむようにこちらを見るが、すぐにノートに目線を戻す。冷房がつけられた教室は適度な涼しさを保っていた。
これは時間が解決してくれるだろうか。しかし不思議とそれはないと思えた。夢の中にいるかのような出来事なのに、それは事実として確かに起きていると頭の中で強く思えてしまう。
それは時間が進むにつれて、強くなり、手には汗がにじんできてあっという間に、全身に広がる。同時に不安や焦りにつながる。なにか解決策があるわけもなく、無駄に時間を浪費していく。時計を見ると、時刻は、十七時を指していた。
再び教室を出ると、今度は校門以外からの脱出を試みることにした。
この時間なら残っているのは部活をしている人だけで、多少変なことをしていても見つからないと思ったからだ。
手始めに校舎の裏手に回りフェンスに手をかけてみるが、すぐにさっきと同じ衝撃が手に伝わる。それを何度か位置を変えて行うが結果は同じだった。
こんな時間なのにいまだに日差しは、強く体を照らし、逃げ場所を与えてくれない。それは誰かに監視されているような感覚にも思えてくる。地面に転がるセミの死 骸をよけて、エントランスに戻ってくる。熱中症にも似た、寒さを感じながら、頭に浮かんだ抜け出す方法を片っ端から試してみるが全て見えない壁に阻まれた。
「はは、意味わかんないや」
思わず乾いた笑いが口から漏れる。先生に言ってみるか。信じてもらえるだろうか? ──いや実際に見てもらえば……。
俺はその歩みを職員室に向ける。時計は十七時四十五分を指している。急がないと、下校時間になってしまう。そんな焦りのせいで、早歩き、いや殆ど小走りになっていた。
焦ったときに限って、不幸は訪れるものだ。
はやる気持ちに、足がついてこず何もない廊下で転ぶ。
「いっっッ⁉」
何とか受け身は取れたものの、腕がじんじんと痛み、顔がゆがむ。
「──なにしてるの?」
地面に這いつくばったまま顔だけをあげると見上げた先には見知らぬ生徒が立っていた。
「なにも……」
「なにもって、はは、こんなところで日向ぼっこかい?」
こんな姿を見られた恥ずかしさで、上手い言い訳も浮かばない。それにしたって、よく話しかけてきたな。話しかけてきた先輩(よく見ても顔を見たことないので先輩だろう)が頬を緩ませて手を差し伸べてくる。眼鏡をかけて真面目そうな印象を受ける。
「それともあれかい? まさか、学校に閉じ込められるなんて! って顔かな」
笑っているはずなのに、それはただ張り付けた、作り物めいたものに感じられた。
「どうしてっ……それを⁉」
しかし今は、そんな印象より、今、自分が置かれている事実を知っていることに救われた気持ちになった。それは孤独からの解放だった。事実を知る人がいるのであれば何とかなるだろう。そんな淡い期待さえ浮かんでくる。
先輩の手の助けを借りて立ち上がる。先輩の身長は、自分より少し高いくらいで聡と同じくらいだろう。
「そうだな。まずは事情を説明してあげる」
そういうと歩き出すので俺もそれに続く。
「君は一年生だね。なまえは?」「……佐々木直哉です」「いい名前だ」
それは初対面にしては当たり前の会話なのだが。自分の名前を言うのはあまり好きではなかった。
「それじゃあ、」
急に立ち止まり。くるりと振り向くと、
「君にはこれから、天文部に入ってもらう」
先輩言う。
「は?」
本日二度目の意味不明。
たしかに、ついた教室にも、扉に、あまりきれいとは言い難い文字で天文部と書かれた紙が貼られていた。
こんな部活あったら、それなりに話題になりそうなもんだが、俺は一度も聞いたことがなかった。恐る恐る教室の中に入ると、後ろの方には段ボールが詰まれ、そのすぐそばには三脚に望遠鏡がおかれている。天文部なのは間違いなさそうだったが、なぜか関係なさそうな寝袋や、懐中電灯が床に転がっていた。寝袋は広げられ、さっきまで使っていたのか、人が寝ていたような、しわができている。決して整っている教室とは言えなかった。
「適当に座っていいよ。君は今日から部員なんだから。それとコーヒーは、お代わり自由だよ」
「あ。それじゃあ、いただきます」
殆ど反射で答える。それは落ち着くにはちょうど良かった。先輩が指さした先に行き、紙コップに、粉と、すでに沸いていたケトルからお湯を注ぐ。そしてそれを一気に飲み干す。ゆっくりと体の深いところまでとどき、全身が弛緩していくのを感じる。先輩はそれを、待っていたかのように、話し始める。
「まず知ってもらいたいのは、君はここから出ることはできない」
「なっ……⁉」
先輩が発した言葉は俺が思っていた、いや望んでいた答えとは違っていた。目の前の先輩が、変わっていく。
警戒するように、少し離れた椅子に座る。さっき座っていた椅子とは違う椅子に。
「はは、そう。僕は君の味方でも救世主でもない。ただ事実が同じにすぎない。たまたま居合わせた住人、他人の一人にすぎない。でも協力はするし、困ったことがあれば訊くと言い。もちろん僕もこの世界の当たり前を少しは説明できるけど、すべては言えない。なぜなら僕も住人の一人だから」
先輩が話を終えるとちょうど、十八時の下校時間を知らせるチャイムが鳴る。俺は思わずその音に体をびくっと跳ねさせる。
「もう十八時か。次にだが、君に生活の仕方を教えないといけない」
先輩はゆっくり立ち上がりながら言った。
「生活?」
「そう生活だ。ここから抜け出せないなら、ここに住むしかないだろ」
ニヤリと、口角を挙げてこちらを見るが、正直先輩が何を言ってるのかわからなかった。わざと具体的なことを避けているようにも思えるし、それしか先輩も知らないようにも思える。今はただそれを受け入れるしかなかった。それに短い時間で、何度も意味不明に遭遇したことで、体が、抵抗するのをあきらめていた。先輩に連れられて教室を出る。
こんな時間まで、学校にいるのは初めてだ。人のいない教室をいくつも、通り過ぎる。
すると、道すがら前から二人組が来るのが見える。見知ったクラスメイトだ。
「よっ……、」話しかけようとするが、すぐにやめる。
自分がそんな風に話しかけるようなキャラではないことに、すれすれで正気に戻れた。おかしなことが起こり過ぎて、無意識に高ぶってしまっていたのだろう。俺はいつものように軽く、右手を上げて、あいさつを交わすだけにとどめる。が、それはきれいに無視されてしまった。
というより、これは気づいていない? 二人はこちらすら見ていないのだ。二人の視界内には確実に自分の姿が映っているはずだ。二人との距離は、三メートルほどで、確かに、手を挙げるタイミングがかなり早すぎたとはいっても、気づかないという距離でもないように思える。見知らぬ先輩と一緒にいるだけで、ここまでスルーされるものか。二人はそのまま近づいて、話し声が届く距離にまで来る。
「聡お前昼休み、告られていたろ」
「な、なんで健が知ってんだよ!……それに、告白じゃねえし」
「そうなのか」
健のにやにやとした表情とは対照的に聡は顔真っ赤にしていた。俺は二人の会話を立ち止まって聞いていた。先輩も、止まって待っていてくれている。というよりは、こちらを観察しているようだった。
「いや、なんか、西澤(同級生)のこと知りたいみたいなこと言われただけだよ」
「おまえ。それ、お前のことを好きだから、何とかして、お前との距離を縮めようとしているんだろ。察してやれよ。そういうところだぞ、天然って言われるの」
「なんでだよ。これ西澤に気があるってことだろ。それに、……健は知ってるだろ」
二人の会話を少しの驚きをもって聞いていた。それは普段俺の前では見せない二人の姿だったからだ。聡が告白されていたりしたのは、風の便りで聞いていたが、いや、告白は、健もされているだろうが。もしかしたら、──俺のために避けていてくれていたとしたら、……二人なら、そんな気遣い、ない話ではない。
「なにが?」
「……その、おれの好きなひと」
「なんだよ、小学生かよ。どうせお前告る気ないんだから、お試しで付き合ってみればいいんだよ」
「な、そんなこといいわけないだろ」
「それなら、相良に少しはアピールしろよ」
「うっせえ!」
そんな会話は二人の距離の近さを、感じさせてくれ、なぜかこちらまでもうれしくなり、自然に口角が上がる。
二人との物理的な距離は離れていく。盗み聞きはここまでだ。現実に戻ろう。さすがにここまでされたらどんな鈍感主人公でも気づくだろう。
二人には、俺のことが見えていない。もちろんこんなことが先に浮かぶのは、中学生の少しの期間だけで、今卒業できてるか怪しいが、少なくとも普段ならそんなこと考えない。
「……何が起こっているんですか?」
おそらく知っているであろう人に訊く。
「直哉君、君の質問に僕からは、何も起こっていないと答えるしかない」
「なッ⁉ そんなわけないじゃないですか!」
驚愕の目で先輩を見ると、まっすぐこちらを向いていた。真実を直視するその目は、今の何とか現実逃避を試みようとしていた俺には、怯えるほど、冷たく感じられた。
「はは、落ち着いて。冗談だよ」
そこでようやく表情を崩す。
「直哉君は今違う世界にいる。住む世界が変わったんだよ」
相変わらずたとえが多く、先輩の言っていることはわかりづらい。先輩はそんな表情を悟ってか補足する。
「十八時になると世界は二つに分かれるんだ。そうだな──元居た世界を表の世界とすると、今僕たちがいる世界は言わば裏の世界っていうのかな。表には裏があるようにね。裏の世界に行くと、表の世界からその存在は消える。完全に。だから何をしても気づくことはない。何をしても、何を言っても。感知できない」
先輩は淡々と言う。
嘘は言っていないと思う。だからと言ってそんな簡単に事実を受けいられるわけがない。しかし先輩もそれをわかっているから、こうして実際に見せたのだろう。
先輩はおもむろに隣を通り過ぎる教師の肩をたたく。だが、さっきの二人と同じように何も反応がない。
先輩も同じ“住人”なのだ。
「はは。そう悲観することはないよ。この裏の世界はなかなかいいもんだ。少しの慣れが必要なんだ。なにより何をしてもいい空間なんてすばらしいだろ? 図書室の本は読み放題だし、どこの教室に行ってもいい。君にモラルがないのであれば、女子更衣室に入ることも、女子トイレに入ることだってできる」
本はあまり読まないので先輩が行ったことのメリットにあまりピンとこない。……それにモラルもある。
「……先輩は……これが見せたかったんですか?」
「そうだね。それもある。でも、言っただろ。君にはこっちの世界の住み方を知らないといけない」
──それから俺は先輩といくつかの教室を回った。洗濯は家庭科室で行う。衣服については、どうすれば教えてくれなかったので、後で考えないといけない。風呂についてはプールの入った後で使う、シャワーを利用するらしい。確かにあそこならお湯が出るし、ボディーソープやシャンプーは先輩がくれるそうだ。意外にも困らない生活ができそうだった。
「どのくらいこのセカイにいないといけないんですか」
「そうだなあ。……わからないというのが正直な答えかな。
ああ、でも安心していい永遠じゃないことは確かだ。三日後かもしれないし、一週間後、三か月後かもしれない。それは君次第なんだ」
やはりあいまいな答えに、少しの頭痛を覚える。それでも先のことはあまり考えないほうが良いことには、賛成できた。それには意味などなく何となくの勘だ。それにそんな分からないことより、もっと先に解決しないといけない問題がいくつか頭に浮かんでいた。
「それじゃあ最後に、君の寝る場所だけど、教室でいいかな?」俺はうなずく。それ以外の候補も浮かばなかった。
「この季節だ、布団はいらないだろう」
いつの間にか歩き回っているうちに部室の前まで帰ってきていた。
「それじゃあ、楽しむといい。裏の世界を」
俺の頭に先輩は軽く手を乗せ教室に入っていく。
先輩の言った“楽しむ”その言葉を理解しようと何度も頭の中で唱えてみるが、やはりウラノセカイという事実を受け入れるのにはまだ時間がかかりそうだった。俺は先輩と別れると、自分の教室に向かうことにした。
誰もいない教室は薄暗く、いつもとは違う印象を抱かせる。音が絶えることない、という、当たり前がなくなった教室に一人でいる。
俺はわざと電気をつけず、自分の席に座る。
それはなるべく、ウラノセカイに慣れるためでもあった。体にこの気味の悪さを染み込ませる。そんなことをしていると、いつの間にか眠ってしまっていた。
次に目を覚ましたのは、先輩に言われた風呂の時間の少し前。
よかった。寝過ごすところだった。
自分の教室を出て再び部室に向かう。廊下に出ると、避難蛍光灯の緑色の光が遠くに見えた。
俺は、忘れていた携帯のライトの存在を思い出し、途中からは足元を照らし向かう。真っ暗になった教室を通り過ぎる。体は敏感になり、少しの音。音がしなくても勝手に虚像の恐怖を作り出し、怯えさせてくる。今すぐにでも叫んで、先輩のいる、部室に駆け込んでしまいたい衝動に駆られるが、誰もいないこんな場所でさえ、外聞を気にして、理性でそれを押さえつけながら、ひたすら歩く。
──ようやく、光のともる教室が見えてくる。今まで、見てきた光の中で最も、まぶしく思えるほど、安堵を与えてくれた。教室の中に入ると、先輩は本を左手で持ち、舟をこいでいた。俺は起こさないように静かに椅子に座る。
数時間前まで他人の一人にこれほど頼っていると思うと、不思議な感じがする。
「やあ、来たのか」
わざとらしく驚いたふりをしていう。
「それじゃあ行こうか直哉君」
そこでふと気づく。
「先輩の名前ってなんていうんですか」
少し顔が熱くなる。それはもっと早く済ましておかなければならなかった儀式だ。
「いつ訊いてくれるのかと思ったよ」
しかし先輩は全く不快感を示すことなく、むしろそれを面白がってくれた。
「すいません」
「いや別にいいよ。そんな小さなこと気にする必要はない。岬集(みさきしゅう)。三年生だよ」
「岬先輩」
それはすんなりと体に入り込む。それじゃあ、行こうか。そう言うと、先輩は小さめのリュックを背負い、懐中電灯を持つ。
銭湯ではないので脱衣所なんてない。簡易的にカーテンで遮られているだけだ。明かりをつけると、ライトの近くに無数の小さな虫が飛んでいるのがわかる。最近まで使っていたおかげか、それとも岬先輩が使っていたからか床や壁はそこまで気になるような汚さではない。岬先輩の隣に入る。俺も岬先輩に倣い中で制服を脱ぐ。先に隣からシャワーを流す音が聞こえる。中学生の頃の修学旅行に似ている。遅れないように急いで蛇口をひねると、冷水が体にかかり、思わず声が出てしまう。少し時間がたちようやくお湯が出る。
「はい、これ使って」
そういって遮られたカーテンの上から泡のついたシャンプーを渡される。それで髪を洗うと俺が普段使っていたものとは違い、いい匂いがした。続いてボディーソープを渡され、体を洗う。そしてさらにタオルも渡される。それで体をふくと、自分で持ってきた体操服に着替える。パンツをはいていないので、少しの違和感があるが別にそれぐらい我慢できる。
岬先輩は教室に帰る途中で、家庭科室により、さっきまで着ていたものを洗濯機に入れて、乾燥も一緒に行う。勝手にこんなことしていいのか心配になるが、その自然な動作に流されて、当たり前として受け入れた。そして再び部室に戻った。
俺はこうした一連の行動に恐怖と同時に一種の胸の高鳴りを感じていた。学校でこんな新鮮さを感じるのは入学式以来だろう。
岬先輩はリュックを下ろし、元あった場所に置く。そして再び本を開くとすぐにそっちの世界に行ってしまう。俺はこれ以上ここにいる意味がなくなったことを理解して、自分の教室に戻ることにした。「おやすみなさい」というと岬先輩は言葉を返すだけで、すでにこちらに意識はなさそうだ。携帯のライトを使って、誰もいない道に足を戻す。
教室に戻ると、この暗闇の中で、どこで寝ようか少し考える。まずは自分の席に座って、いつものように机に伏せてみる。いつも周りに座っているクラスメイトの残り香のようなものが架空の気配を作り出し、どうにも落ち着かない。それでもほかに適した場所もなさそうだった。
そのまま何とか眠りにつこうとする。しかし、数分経つと、風が窓を揺らす音や校舎のきしむ音そんな些細な気配がし、周りを見て誰もいないことを確認する必要があった。それを数分おきに繰り返した。
こんな無駄な行為をするのは孤独におびえているのだろうか。そんなものを誤魔化すために、俺は岬集という人物について考えることにした。
「先輩」はどのくらいの時間この世界にいるのだろうか。それは少なくない時間のように思えた。どのくらい、先輩もこの孤独に耐えているのだろうか。明日にでも聞いてみるか──おそらくだが教えてくれないだろう。先輩はこの世界のことをまだ自分にすべて話してくれていない。そんなことを考えながら、意識的に目をつむるようにしていると、まどろみが遅まきながら訪れてくれた。
×××
俺が目を覚ましたのは、日が昇る少し前、時計は5時を指していた。驚くほど自然
に覚醒した。いつもとそんなに睡眠時間は変わらない。
教室を出ると、トイレに向かう。顔を洗い、歯を磨く。そして、鏡を見て自分が制服姿でないことを思い出す。歯ブラシをくわえたまま、家庭科室に向かいパンツをはき、制服に着替える。いつも家で行う朝の儀式を一通り終える。それでもまだクラスメイトが登校してくるまでには時間があった。そしてそこには少しの不安があった。
それは昨日二人に無視されたことが原因でだろう。オモテノセカイに帰っているかいまだわからないのだ。もしあのままだったらという、どうしようもない不安が、頭を支配していた。
時間がたつまで散歩でもすればそんな気も晴れてくれるのかもしれないが、教室にいることに意味を感じてそこにとどまることに決めた。──岬先輩はもう起きているだろうか。特に何をするわけでもなく、自分の席に座っていた。
意識が虚空に吸い込まれそうになる寸前、教室の扉が空く。入ってきたのは、相良恵(さがらめぐみ)。彼女は一瞬目が合い驚いた表情をするが、すぐに表情を作りなおす。それは、意識してみていないと、わからないほど一瞬だった。──つまり、俺は、意識していたわけだが。
「なんで直哉君いるの?」
相良恵は、自分の席に向かいながら、訊いてくる。そういう態度なので、いないで、という意味ではないし。恋が始まる展開でもない。単純な疑問。
彼女とは普段、健と聡がいないところで話すことはなかったが、彼女も驚きの中で、つい疑問が口に出てしまい、続きになにか話さないおかしいと思ったのだろう。だから俺も「それらしい理由=気分」だと答えて、机に伏せることで、それ以上の会話をしないでおく。
あの二人の中に自分がいて、彼女も二人がいるから話していたのだろう。少し卑屈すぎると思うかもしれないが、それぐらい自分が健と聡に差を感じていた。
それは少しの気遣いの差だけだと考えたこともあったが、自分には一生できないと、すでにあきらめていた。
彼女が、それにどんな表情で返したかわからないが、自分の席に座るのを音だけで確認する。気まずい間だったが、二十分もすれば別の生徒が入ってきて、こちらを流し目で見ると、彼女と同じように席に座り参考書を開いて勉強を始めた。
同級生が反応してくれたことで、緊張の糸が切れたからか、急激に睡魔が押し寄せてきた。
×××
──記憶の中で覚えているのは、朝、健と聡に話しかけられたことだ。それを寝ぼけた返事で返したのはうっすらと覚えている。薄い記憶を思い起こすが、それは無駄なことのように思える。
今起こっていることの原因は、過去にはない。
確かにそこに色があった。
気配もある。そして事実、目の前にいるのは健、本人だ。それは間違いない。後ろには友達とはしゃぐ聡の姿もあった。教壇には国語を担当している教師がいた。
しかし、その誰一人として、ぴたっと銅像のように動かない。それは幻でも何でもない。
俺は目の前の健に話しかけてみる。
「……だいじょうぶか?」
しかしその言葉こそが幻かのように消える。
──自身の認識で言葉にするなら、時が止まったのだ。
俺はゆっくりと立ち上がると、誰にもぶつからないように教室の扉に向かう。一度教室を見渡し、そこに何の変化もないことを恐怖としてからだに刻み込むと、教室を出る。この事象を説明する必要のある人物に会いに行くために。
×××
「──んがっ⁉」
廊下を歩きだしてすぐだった。
──突如音が消え、目の前がコンクリートの粉塵で灰色に染まる。
瞬間。
すさまじい衝撃が体を襲い、まるで自分のものではないように、体が転がる。
「な、なにが、……起きてんだ⁉」
声を出すことで、自身の意識をはっきりとさせる。遅れて全身に、しびれるような痛みが駆け巡る。
霞がかった視界では何も見えはせず、それでもこの場が危険であることだけは察知し本能的に逃げようとするが、肝心の体がうまく動いてくれない。加えて、耳鳴りのせいで、金属音のようなものが、頭の中にガンガンと響き思考するのを妨害する。
数十秒というこの場では永遠とも思える時間がたち、ようやく視界が晴れ、目の前に立っていたのは
────化け物。
比喩でもメタファーでもない。目の前にいるのは、そんな言葉ではない。死という確実な実体を伴っていた。しかし、混乱する頭はただその化け物を事実として伝えることしかせず、体の反応として動いてくれない。
その化け物は蛇のように体を引きずり、近づいてくる。体をひきずるたびに、長い体がうねり、壁にぶつかっている。それなのにむしろそれが当たり前かのように前へ進むのを止めない。
異常な大きさの顔はピラニアに近いものを思わせ、牙のせいで口が閉まらないのか常に、ウギィ、ウギィと苦しそうな音を立てる。
俺は足をばたつかして、なんとかその化け物から距離を取ろうとするが、立ち上がることすらままならない足は這いつくばることしか許してくれない。
化け物との距離は三メートルほどになる。──そうか。ここで死ぬのか。
それはようやく働きだした脳内で、最初に浮かんだ最後かもしれない考えだった。
「うっ、ぐすっ……あぁっ……」
そうすると、体の自然な反応として涙がこぼれてきて視界はすぐに歪む。声にならない嗚咽がどこか他人のもののように聞こえてくる。
そして、ついに近づく死から感じる恐怖に抵抗することをやめた。そんな決心のせいか、全身の力が抜けその場にうずくまる。
「俺は死ぬんだ」
──そんな決心に、なんの躊躇いも慈悲もなく現実が追い付こうとした次の瞬間、腹部に衝撃が走り、体が吹き飛ばされ壁にぶつかる。
「痛ってえぇ‼」
それでも吹き飛ばされるのが本日二度目のためか、それとも、まだどこかで生きたいという根性が残っていたのか体を丸めて受け身が、ぎりぎりで間に合う。
「邪魔ッ」
情けなく倒れた体の上に、死を運んでくださる天使様からの囁きにしては、いささか荒い言葉を吐き掛けられる。
俺の前には、一人の女子生徒が立っていた。彼女はこちらに一瞥もしないでその化
け物とまっすぐ対峙する。
「ふっ」短い呼気とともに、そのまま化け物に突っ込む。
「おいッ⁉ 何する気──」
俺が言葉を言い終える前に彼女は、おもむろにポケットからカッターナイフを取り出す。目の前の化け物と対峙するにはあまりにも心もとない凶器。
二人の間合いが詰まり、接敵する刹那、なんと彼女が持つ刃を化け物ではなく、自分の左腕を切り裂いた。ここからでも、赤い血が流れるのがわかる。しかしそんなことを驚く前に次の事象が起こる。
彼女が化け物と交錯する寸前、化け物の皮膚が爆散した。爆破音のする、確実な破裂だった。化け物の体からは、おびただし量の赤く染まった何かがこぼれだす。
「ウギィアアアアアァァァ────」
耳障りな、声を鳴らしながら、その痛みを体現するように、体を何度も壁にぶつけだす。
出張った柱に何度も体をぶつけ、ついには崩壊したコンクリートが、盛大な粉塵を巻き上げ化け物の頭上に降り注ぐ。
しかし、俺はそんな生死の境に立っているともいえる場所で、化け物の姿ではなく別のものに目を奪われた。
半袖の制服から白い腕がすらりと伸び。その先からは、化け物と彼女自身の犠牲による血をもって赤く染まり、ポタッ、ポタッ、と静かに雫が垂れている。
彼女は再び、カッターナイフで手首を切ると今度は化け物の腹側に触れる。
『バンッ‼』
「ギィアアアアアアアアア」
凄まじい衝撃音。化け物の体は、触れた部分を中心として皮膚が崩れている。破裂した場所以外も壁にぶつけた傷によって、赤黒く変色している。化け物は痙攣しだしてやがて完全に動きを止める。
彼女は、その赤黒い血潮の中で立っていた。体は飛び散った血で、汚れているにもかかわらず、化け物の姿と対比で、それはとても美しく思えた。俺は震える足を一度たたき無理やりに止めると、立ち上がる。
「あの……たすけてくれて……」
俺の心からの感謝の言葉は、彼女が立ち去ることで、途中で切れてしまう。
どうしよう。化け物の死骸とともに取り残されてしまった。
足元まで広がる赤黒い液体は、あたり一面を俺すらどろりと飲み込もうとしている。俺は再び湧き上がる恐怖から逃げるように、部室に向かおうとする。が、
【死んだはずの化け物が動き出す】
とっさのことに体が強張り動かない。……動けたとしてもか。化け物は俺のほうへ頭を向ける。
「うわああああああああ」「ギィアアアアアアアア」
化け物の咆哮と自身の悲鳴が混ざり合う。それを不快にでも思ったのか、それとも、自分が誘われる死への共とでもしようとしているのか、こちらへ、体と言えるものではない──赤黒い物体が突っ込んでくる。俺は瓦礫とともに地面を転がり、地面にこすれつけられるように飛ばされた。
──俺の右腕は、赤い血だまりに変わっていた。
ぶくぶくと泡が沸き上がるように赤い血が地面にこぼれる。血だまりの中心に、さっきまでここにあった、腕が転がっている。それを見てようやく痛み、いや、それが痛みであるかどうかさえ判別できない信号が脳みそに伝わる。
「あうっ、あ、あ、うああああああああああああああ」
遅れて数秒、確かに感じる死へ、叫ぶことでしか、抗うことができなかった。流れ出る血とともに自分の命が静かに零れ落ちようとしていることを見つめることしかできない。
裏の世界、もしかしたら、これもそんな意味不明に巻き込まれているだけなのかもしれない。それだったら──もう、受け入れよう。抗うとしたら、それは世界に抗う、ということなのだから。──……そんなこと俺にできるだろうか、俺は自答してみる。わかりきった答え。
しかしそれはあくまで。理性による思考であって、脳内のほとんどは、違う意識が支配していた。先ほどの見知らぬ女の子(救世主)のせいで、生きる希望にあてられていたのかもしれないし、実際に、深く傷つけられるまでは、死というものを知らなかったのかもしれない。過程はどうであれ、
──死にたくない。
それは人間の最も本質的な部分。生まれた時から深く刻まれた命による咆哮にも思える。
考えるより先に体が動いていた。そんな、常套句。考える力が残されていなかったという方が正しいかもしれない。
「がああああああああああああッ」
俺は自分の生命を、存在を示すように化け物と同じ、獣の咆哮を挙げて正面から突っ込む。
──それと同時だった。
自分の無くなったはずの右腕が変形していく。
赤黒い血が固まった、異物。血のねっとりした感覚が右腕に引っ付いて離れない。傷口から流れる血液をそのまま、固めたように、いくつもの血管のようなもの複雑に絡みつき、【深紅の刃】を形成していた。
「はは、なんだよ……これ……」
俺はそんなことを呟くが、頭は血を流したおかげかひどく冷静だった。突進してくる化け物の頭部に右腕を振り下ろす──
がりがりと砕く感触。そして、急に腕にかかる力が軽くなったかと思うとグシャッ
と、つぶれるような音がし、おびただしい量の鮮血が噴き出る。体中が赤く染まり、
その数滴が目に入り視界をも奪う。真っ暗になった視界の中、それでも化け物にただ腕を振り続けた。
何度も、何度も、何度も────
「──もう死んでいる」
右肩に声の優しとは裏腹の、力が加わる。俺はそれで腕を動かすのをやめれる。体から打ち切れたように力がなくなり、その場に座り込む。ねっとりとした血潮がしみこんでき、それは肌に直接触れる。左手で無理やり目をこすると、赤みがかった視界に、目の前には、本当なら体内に流れているはずの新鮮な血に包まれ、感嘆するほど鮮やかな朱色に染まる、肉の塊が転がっていた。
「君も、二日目にして出会うとは……まったく、ツイてないね」
「……岬先輩、俺は……ッ」
「そう。これも裏の世界。事実を話す前に君はそれをどうにかしないといけないな。立てるかい?」
自分の体に力を入れてみるが、動いてはくれなそうだった。岬先輩が手をさし伸ばしてくれ、倒れ掛かるようにしがみつき立ち上がる。岬先輩に肩を借りて、歩く。
道中、自分の教室の前を通り過ぎると、人が死んでいた。
吹き飛ばされたがれきが運悪く頭部に激突したのだろう。何名かの人が音もなく、倒れている。それなのに周りは誰一人として動かない異様な空間が広がる。……その時すでに気づいていた。それでも何かをする気力は残っていなかった。
×××
部室につくと 岬先輩は俺を投げ捨てるようにしておろす。
「ふー、重かった」
「ありがとうございます」俺は短くお礼を言う。
「気にすることない。君は世界を救った英雄なんだから。はは、まあ褒美にはこれぐらいしかないけど」
そういうと、カップに入ったコーヒーを手渡してくる。いつもの反射でそれを受取ろうとするが、その行動は途中でできないと気付く。
変形した右腕は、初めより形を変え肥大化し、未だ、右腕の代わりとしてそこに生えていた。
「ああそうか。もう少し待っていればいい」
その言葉の数秒後、頭痛により視界がぼやける。
「おかえり直哉くん。よく生き残ったね」
腕は元通りになってくれていた。そればかりかさっきの傷も、真っ赤になった全身まで元通りになっていた。
「──⁉ 岬先輩これは……」
「だから言っただろう。表の世界と裏の世界は違う」
さきほどまで、俺の流した血で片側のみ赤く染まっていた岬先輩の制服も元の真っ白に戻っている。
「あの化け物は裏の世界の生き物だ。それに君の腕も」
「腕も? そうだっ……あの化け物に腕を破壊されて……」
「君が自身の血を刃に変えたんだ」
岬先輩は、言葉の途中で答えを言う。俺は寒気を感じ、吹き飛ばされたはずの右腕のありかを確かめるようにさする。
「裏の世界の住人に与えられた能力みたいなもんだ。まあ、あんな化け物の世界を生きてるんだから、自分たちが能力を持ったって不思議じゃないだろ?」
俺は岬先輩の言葉を理解することはできなかったが、代わりに別の疑念がわいてくる。それではなぜこれらのことを事前に教えてくれなかったのだろうか。化け物がいることや、能力のことを。
俺がそれを訊くと、ふー、と一息ついて、長い間をもって口を開く。それではまるで今理由を作っているようだった。
「どうせ君は信じないだろう。そうに決まっている。君を食い殺してしまうような怪物がいるなんて言ってもね。
それに、その能力だって君が、死の淵で偶然見つけだした、生きる希望であって、二度目は死んでいるかもしれない。例えば僕が伝えたせいでできた心の余裕で、生まれなかった可能性だってあった」
「それでも、」
「それでもそんなことどうでもいいじゃないか」
岬先輩は俺の言葉を奪い、言い足りないかように無視して続ける。
「結果、君は生きている。生きている。それでいいじゃないか。結果良ければすべてよし。だろ?」
端々に笑みを浮かべながら言う。その態度は、俺をひどくイラつかせたが、それでも言い返せるほど、この世界を知らなかった。
俺は湧き上がる気持ちを抑えるように、コーヒーを口に入れる。まだ一つだけ疑問は残っていた。
「あの、もう一つ、女の人は誰なんですか」
質問にしてはあまりにも言葉足らずだったかもしれない。
「女? ……ああ、やっぱり彼女もいたのか。そう、彼女も巻き込まれた、裏の住人の一人だ。名前は、」
言いかけた時、部室の扉があけられる。振り向くとそこにはまさに話題にしていたその人が立っていた。
「おお、ちょうどよかった。うん、やっぱり直哉君から訊くといいよ」
「えっ」
「ふふ、何かおかしいこと言ったかな?」
先輩は、わかってこれをやっているのだから、これ以上何を言っても教えてくれないだろうと早々早に諦め、仕方なく入ってきた女生徒の方へ体を向ける。
彼女はつかつかと教室に入り、コーヒーを入れると、俺たちとなるべく離れた席に座る。
「で、誰なんですかそいつ?」
顔をこちらに向けず、言葉だけで彼女が訊く。態度は最悪だったが、好都合なことに、先に女子生徒の方から訊いてくれた。
「お? 気になる?」
岬先輩はなぜか楽しそうに目を細める。
「いえ、別に。さっき邪魔されたんで。あんたも黙ってないで自己紹介ぐらいしたらどうなの?」
「えっと、一年の佐々木直哉です。さっきは、助けてくれてありがとうございます」
「そ、私は、雨音花音。二年生」
先輩か。道理で見たことなかったはずだ。
「それじゃあ、さっきの続きの話をしようか」
「へ」
予想外の言葉。すでに自分の疑問は完全とは言えないが答えてもらったはずだが。
「化け物がどうなったのか、君の腕がどうなったのかまだ教えてなかっただろう?」
言って岬先輩は、俺の腕を指さす。
「え? いや……その話なら元通りになっているって、さっき岬先輩が言ったじゃないですか」
「うん? 誰もそんなこと言っていないよ──でも、まぁ、それは正しい、のかな? そうだ。化け物が壊した壁も床も、元通りだ。そして化け物の死体だってきれいさっぱり、君の腕のようにね」
その言葉に安堵する。そうだ、これで元通りだったら、今はそれでいい。
「──一つを除いて」
嫌な予感が頭をよぎる。
しゃべる前にその答えを知っているかのような感覚。この男に口を開かせるべきではない。それでも、その直感を行動に移すには遅すぎた。
「表の世界の住人を除いてはね。裏の世界で巻き込まれて死んだ人は戻ってこない。消える。それは物質的な意味でも。いなかったことになるんだ。
そう、だから安心していい。君は今までのように振舞えばいい。君以外、誰も知らない存在になるんだから」
まるで、俺に安心感を与えるためにその事実を伝えたかのように言うじゃないか。
それ以降の言葉は、聞こえなかった。聞きたくなかった。
頭の中には、友達の、聡が頭から血を流す姿になり果てた映像が浮かび、それだけが事実であるということだけで胸が張り裂けそうだった。何が悲しいのか。何にこんなにも胸が締め付けられているのか、わからない。それでも、涙はとめどなく流れる。
「はは、なんて顔してるの。あのさぁ、こんなところでわんわん泣かれても迷惑なんだけど」
雨音花音は、迷惑そうに声を低めて言う。
どうして、この女はこんな態度なのだろうか。どうして自分が恨まれていると考えないのだ。
そうだ。もとはといえば、こいつが、こいつが聡の命を奪ったんじゃないか!
気づいた時には俺は、座っている女の胸ぐらをつかみ突き飛ばしていた。あまりにもきゃしゃな体は、思ったよりも彼女を遠くに突き飛ばしてしまうが、今はそんなことも気にならない。
「⁉ なにすん……の」
驚きの表情。目を大きく開く。ようやく、何をされたのか理解したのだろう。ああ、やっぱり、理解していないのか。それが余計に怒りを増大させる。
「……よく、……よくそんな態度で入れるな! お前のせいじゃないかッ‼ お前があの化け物を完全に始末しなかったから、死んだんだろッ‼」
彼女を倒した衝撃で、机に置かれていた紙コップが倒れ、注がれたコーヒーが床に広がり始めていた。
「な……っ、私のせい?」
突き飛ばされた彼女は倒れたままこちらを睨みつけそう言う。
「……そうだろ‼ お前がッ、お前が殺しそこなったせいで、友達が死んだんだッ‼」
彼女はようやく立ち上がると、スカートを丁寧に手で払い、こちらに歩いてくる。
それは、彼女のにおいが届く距離になっても止まることなく、ついにはほとんど密着に近い距離になる。
「はは、ああ、……そうね。だけど私のせいじゃないわ。──だって知らないもの。──君の友達も、友達の死も。だから関係ないわ」
「……っ、開きなおってん──」
「違う! これは開き直りじゃないわ。事実よ。それこそ、こんな化け物じゃなくても、今この瞬間にも死んでいる人ならいるわ! それと同じ。それともなに? 私を裁ける法でもあるの?」
一度も目をそらさずまっすぐ見つめる。それは確かな意思を秘めていた。そんな強い思いに触れたせいで、突発的で、浮薄な怒りは、はかなくも燃え尽きる。
冷静になってしまった俺は、そんな彼女の瞳を避けるためではあるが、改めて彼女を観察する時間を得る。ショートカットの黒髪に少し長めの前髪をピンでとめて、白いでこが覗いている。そしてそれから、顔の輪郭をなぞるように、目線を下に向けていくと、雪のような白い腕の左手には痛々しい包帯がまかれていた。その位置は化け物との戦いで、自分で切っていた場所だ。
「なにか言ったらどうなの?」
その傷を見て、何を言いたかったのか分からなくなってしまった。目の前のこの人も傷ついた──犠牲者だと知ったから。
怒りが消え去った脳内には、不幸な事実だけが残される。
「だったら、なんで……なんで……聡は死んだんだよ……っ!」
何とかそれだけ口にする。それに彼女は答えることなく、ただ睨まれるだけの時間が流れる。
「──落ち着いて二人とも。
ほらそんなに見つめあってないでこれでも食べなよ」
この膠着状態を、岬先輩の言葉が打ち破る。先輩は既にお湯の入れられたカップラーメンを俺と彼女とを引き離すように渡す。
「ふん。ひとつ言っておくけど、友達が死んだのはそいつに、抵抗する力がなかっただけ。それだけよ」
彼女は先輩から奪い取るようにしてカップラーメンを受け取ると、先輩の座る席と対角線上にある席に座って食べ始める。俺は岬先輩の面前にある席に座る。
最悪だ。何て惨めなんだ。気まずい雰囲気の中、ラーメンをすする音だけが、教室が静寂になるのを押しとどめようとしていた。彼女は早々食べ終わると、「じゃあ」と言って教室出ていく。途中わざとらしく俺の座る椅子に足をぶつけながら。
「災難だったね。……でも、これだけはわかっておいて。それでも『彼女の言うことも一つの事実だ』 もちろん直哉君が、花音ちゃんを責めるのも事実だ。正解なんてない」
──もしかしたらそれは、岬先輩なりのフォローなのかもしれない。
「岬先輩は……いやなんでもないです」
先輩は何人の死を見たのか訊こうとしたが、それがとても失礼であることに気づきやめる。代わりに違う質問をする。
「……聡は、友達は死んでいると思いますか?」
岬先輩は眼鏡キュッと上げると、うーんと唸る。
「どうだろうね。でも、クラスメイトはその友達の存在が消えるんだから、君が自分自身に目をつむれば、初めからいなかったことにできる」
「……でも、俺は知っています」
「そうだ。直哉君は知ってしまっている。でもこれは薄情な言い方かもしれないけど、忘れるよ。時間がたつにつれて忘れてしまう。誰も触れないんだから。だから、花音ちゃんの言っていた、他人の死と変わらないと言っていたのは間違いじゃない」
それは確かに実感のこもった意味のある言葉に思えた。
「……だったら、……もし、俺が死んだら、どうなるんですか?」
先ほどのように傷が治るのであれば、死という概念があるかもわからないが。
「はは。答えづらい質問だね。うーんまあ、少なくとも、僕はしばらくの間は忘れないだろうね」
それはどっちの世界の言葉なのだろうか。
話がひと段落したと判断したのか、岬先輩は、閉じていた本を、パラパラとめくり、文字を追い始めた。そこで、自分の心が先ほどよりも、ましになったように感じられ、教室に戻ることを決意する。
「先輩、そろそろ教室に戻ろうと思います」
「そうか、僕はしばらくここにいるから、すぐに戻ってきてもいい」
優しい声音で岬先輩が言う。軽くお辞儀をして、部室を出て、自分の教室に向かう。
──そしてそこでやっと実感することになる。
教室に入り、初めに目に入ってきたものは、ぽっかりとあいた三人の席。それを見ると心が締め付けられ、動けなくなる。
落ち着け。わかっていたことだろ。
「どうした、直哉?」
後ろからどつかれることで体が強制的に動かされる。振り向くと健が笑顔で立っていた。俺は何でもないと返すと、健も納得して、席に戻る。
──三時間目と四時間目の間の休憩時間だった。
体感以上に時間が遅く進んでいることに驚く。それはもちろんさっきの戦闘時間は表の時間に含まれていないからなのだが。その空白が俺を余計に追い詰めていた。
授業が始まる。俺はぎりぎりと歯ぎしりを立てるように震える。全身が熱く、なんども頭皮をかく。背中にあるはずの気配を感じ、それでも振り向いて確認する勇気もなく、ただその恐怖に耐える。
「おい、どうした⁉」
「え?」
「えって、お前、ほら、これ使え」
ティッシュを渡されて、初めて自分が涙を流していることを知る。
──気づかなかった。
「マジで大丈夫か?」
健が心配して、それでも周りに気づかれないように言う。幸いにしても、授業中のため、ほとんどの人が、前を向いているので、こちらに気づく不真面目は、ごく少数で済む。例えば、真面目で勤勉な女の子。
そんな心遣いが余計に心に突き刺さる。いや、いっそのこと誰かに、本当に刺し貫かればいい。こんな痛みが続くぐらいなら。
そんなことを求めていないと、正気でいられそうもなかった。
それは授業が終わった後も、収まることはなかった。
──すぐにでもここを離れないと。
チャイムが鳴ると同時に、俺はいつもより大きく椅子を引き立ちあがる。
「直哉!」
扉の目の前まで来たところで呼び止められる。
声を出した本人すら、それに驚いた表情するので、俺は思わず足を止めてしまった。健はごまかすように、
「直哉、昼飯食いにいこーぜ」
俺に近づくと、肩をたたいて、教室を出る。
「わりい」
廊下に出ると、健は開口一番、片手をあげ謝罪を口にする。
「い、いや、」
「なんかあったのか?」
そう問う隣を食堂へ向かう、流れが、こちらを不審そうに向いては、通り過ぎていく。
「本当に何でもないんだ。なんていうか……思い出し泣き、みたいな?」
俺はなるべく間を開けないように答える。説明できるわけなんてなかった。なんだってそうだ。理由のある感情なんてほとんどない。だから、なるべくこの場を、穏便に離れられる理由を言う。
「そうだ、午後の授業はまた保健室でさぼろうかな」
健は、何を言えばいいのかこれまでの経験から言葉を考えているのか、じりじりと、距離を詰める。そして、ふぅ、と息を吐くと。力なく笑って、
「そうか。まあいいよ。俺が先生に入っといてやるから、寝て来いよ」
それはまさに求めていた言葉だった。
「おっ! 健、食堂行こうぜ!」
そこへ、通りかかった一人(部活仲間)が、話に割って入る。それをきっかけにし、俺はここから離れる。
──結局、先輩の言葉に甘えて、帰ってきてしまった。午後の授業もそこで過ごす。岬先輩も、そこから一歩も動かず、一緒にさぼってくれた。
×××
気が付くと、窓の外は日が暮れ、下校していく人の声が、教室を通り過ぎていく。見ていた、スマホの動画を閉じる。岬先輩は、いつの間にか、床に敷いてる寝袋の上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
ずっと同じ態勢だったために凝り固まった体をほぐすように、腰を何度かひねりながら廊下に出る。
──散歩でもするか。俺はそう思い、廊下を歩き始める。
何も目的がないと、いやな考えが頭を支配しそうになるので、より良い寝る場所を探すという、一応の目標を立てておく。
自分の歩くリズムに合わせ、タイトルの知らない曲を口ずさむ。
思えば、いつもならこの時間はどこかで、暇つぶしをしている時間だ。時間が潰せればどこでもよかったのに学校を選ばなかったのは、ここが、逃げたい場所の一つに含まれていたからだろう。
結局、過ごしてみれば、マンガ喫茶なんかとしていることは変わらない。
それでも今日は、その時間が早く終わってほしいと初めて思っていた。
チャイムが鳴る。
遅れた人たちが急いで帰っていくのを、廊下の端に立ち避け、眺める。その中にはもちろん健も含まれていた。しかし、そこにいつもの二人はいなかった。健はいつもより少ない、同じ部活仲間たちと談笑しながら帰る。誰もそこに足りない人がいることに気づかない。
ようやく世界が終わる。
俺は校庭に向かった。突発的だったのにそれは前から決まってきたかのような気持ちだった。
生徒はもう残っていないのか、静かな学校。人口芝の上を、裸足で歩き、そのチクチクとした痛みを踏みしめる。俺は校舎から離れた、校庭の隅にたどり着く。ここまでは、芝生になっていない。いまだに以前の砂利のグラウンドが残っていた。
砂利の上に足をのせる、さっきとは違う、硬い、足の裏を傷つける痛みを感じる。
俺はそこで転がる手ごろな石を探す。大き目の石を二つ、いびつな形がなるべく、くっつくように並べその上に、石を乗せた。何度も上に乗せたものが崩れ、そのたびに位置を調整する。その間ずっと足の裏には、とがった石が沈み込んでいた。
「何をしてるんだい?」
背中に、こんなところにいる不審人物に話しかけるには、やさしすぎる声音を受ける。予想してなかったことで、体は金縛りにかかったように動かなくなる。それは今見られたくない行為をしていた現れでもあるのだが。
「岬先輩……っ」
「そんなしるしを積み上げて、花音ちゃんへの当てつけかい?」
「⁉ そんなつもりじゃ……。ただ、聡に墓でも作ってあげないと……。かわいそうじゃないですか、俺しか覚えていないなんて……」
もちろんそれは石を積み上げただけの簡単なものだ。こんな校庭の端だから誰も見つけない。
それでもそれは必要なものだと思えた。そして不思議とあの時同じように死んだクラスメイトがいたはずなのに、聡のだけしか作る気がしなかった。
夏の日は長い。先輩の顔の半分が赤く照らされ、先輩もまぶしそうに片手でその日差しを遮ろうとしている。
「……やっぱ、おかしいですよね」
「いや、全然いいと思うよ」
先輩の声音は全く変わっていない。それなのに自身の背中に冷ややかな汗をかいているのを感じる。
「……どうも」
「でも、それは毎回するのかい。これからだってあの化け物は現れる」
その事実はまだ知らなかったが、確かにこれで終わりではないだろうと、確信的予感はしていた。
「全員守るなんてことはできない。それとも君は人の死の価値を分けるのか?」
「そんなっ!」
こみ上げる、感情を抑える。何もない目をこする。
「それとも、もうしているのかな。あの時消えたクラスメイトは、もう二人いたはずだけど。それは君の中で死に入らないんだね」
微笑を浮かべて言う。いやな言い方だ。しかし、言葉にしてしまえば、自分が抱いていたものもそんな程度に思えてくる。
なにしろ、初めて体感した死だった。
正確に言えば、二度目になるのだろう。
自分から父親というものが消えた時。それでも自分にはほとんど記憶になかったために今となっては特に違和感を覚えなかった。それに何も不自由だとは思わなかった。むしろ家族の内面的問題より、周りと違うことに自分自身が受け入れられなかった。だからなるべく家にいる時間、母親と会う時間を減らそうとしていたのだ。
少し話が脱線したな。何が言いたいかというと、初めて感じた死に違和感を覚えていた。友人が死んだはずだった。現に悲しかった。
……それでもどこか他人事のように思えた。
人が死んだ。
ただそれだけしか感じなかった。だから聡の死を特別にしようとこんなことをしたのだ。それは義務感という言葉で片づけてしまえる。
そう、人が死んだ。
逆に言えばそれだけにしか感じれなかった。
「……友人の死を忘れるのが怖い?」
違う。自分がこんな風にしか思えない自分が怖いんだ。生まれ持った性質がそんなのかもしれないと思うと。
「でも、直哉君はあの時泣いてたじゃないか」
そんなもの答えにはならない。涙なんて一時の感情の高ぶりに過ぎない。それは本当の気持ちじゃない。
「そうかな。でも君はまだこの世界に来て、三日もたってないんだ。それにあんなことがあったんだから、少し休むといい」
先輩はそういうと、建てた石をそっと手で崩した。俺はそれをまた重ねる気にはなれなかった。
二人で校舎に戻る。
「それじゃあ、これ」
分かれ間際、岬先輩から、チョコを渡される。慰めの、品としてはあまりにも手ごろなものだ。
「あ。それと、花音ちゃんには謝っときなよ」
「……善処します」
それはそうだ。理由がなんであれ、彼女に暴力をふるったのは事実だ。岬先輩に彼女の居場所を聞こうとしたが既に階段を上って見えなくなっていた。
×××
世界の中心にいた煩わしい日差しは沈んでくれたが、それでも未だ自分の存在を示すように、暑さだけは残している。風のない夏の夜では、この上がった体温は下がりそうもない。
俺は雨音先輩を探すことよりも、行ってみたかった場所に向かう。それは、先ほどの散策で思いついた場所だ。ついでに言えば先輩が言う、休むのには最適な場所だろう。
保健室に行けばベッドで寝れるはずだろうと考えたのだ。保健室の先生なら、定時で帰っているはずだから今はいない。一度も利用したことはなかったが、まさか、こんな形で使うことになるとは、思ってもみなかった。
いざ保健室の前まで来てみると、入るのを躊躇してしまう。それは単にモラルに反するようなことをしているからかもしれない。それでもドアに手をかけると、案外簡単に開いた。室内は消毒液特有の鼻につくにおいがする。そしてなぜか、冷房がついており、静かな冷たさが部屋を覆っていた。そんなむき出しの、怪しさにも、ベッドで休めるという誘惑が勝り、半ば引き付けられるように、近づく。
「ああ、最悪だ」
ベッドを遮る、白いカーテンを開くと、やはりというべきか、先客がいた。
先客は、制服のまま、長い時間寝そべっていたのか、スカートが少しめくれ、白い太ももをのぞかせている。口からは、ここから聞こえる程度の寝息が聞こえる。
そんな魅惑的な格好のせいで、見てはいけないものを見てしまった、という犯罪意識を、抱かせられてしまう。別に悪いことしてないのに……。
すぐに出ていこうと、音を立てないよう抜き足で移動するが。「ふあ~」と気の抜けたあくびとともに衣擦れの音が後ろからする。やばいと思ったが時すでに遅く、寝起き声で呼び止められてしまう。
「のぞきとはいい度胸ね。一回死んどく?」
「……いや、そういうつもりじゃ」
「言い訳するの? 後輩の佐々木直哉君」
年齢を重視する学校社会。わざわざそれを強調するように、雨音花音先輩は、ベッドから上半身だけを起こして言う。
「なんで、ここに雨音先輩がいるんですか」
「うん? なんで? ここが私の居場所だから。だから部外者は君の方なんだけど」
別に、ここが使えなくなってしまったことも、雨音先輩のみだらな姿を見てしまったのも何の問題もない。
今、嘆くことは会ってしまった以上さっきのことを謝らないわけにはいかないことだ。
雨音先輩は、よれた制服を正していた。その直す左手首には包帯がまかれている。
「さっきは、悪かったです」
嫌いな食べ物は初めに食べるタイプなんだ。いや、これしかすることはないが。さっさと謝って別の場所を探そう。俺はそう思い、勢いのまま軽く頭を下げて見せる。
「ふーん。それで?」
「は?」
それでとは? 思ってもみない反応に、口をぱくぱく。何か要求しているのか。確かにこちらは謝っているし、罪の意識もあるが、あれはお互い様な部分もあるだろ。どうしてこっちが一方的に悪いみたいになってんだ。
「お詫びは形にするもんでしょう」
「そんなぁ」
納得できなかったが、ポケットをあさると、ちょうどさっき岬先輩にもらったチョコレートがあることを思い出す。これなら、こちらの実害もゼロだ。
俺は少し柔らかくなった、それを渡す。
「わかってるじゃない」
先輩はそういうと、さっきより少し上機嫌になってくれ、チョコレートを冷蔵庫に入れる。いやそれ勝手に使っていいのかよ。
「? いつまでいるつもりなの。用が終わったんなら早く出ていきなさいよ。私、あなた達と関わりたくないの。
ほら。変な影響受けちゃいそうだから。おかしい人多いでしょう? 君も含めて」
そういうと、雨音先輩は、手でしっしと追い払う。俺はそれに従うほかになく、保健室という校内の最良物件から離れる。
どこにも自分の居場所は見つけられず、自分の教室に帰ってくる。意外ではあったが、誰もいなくなった──こちらの言い方で言うと、裏の世界の教室は、あの時のような恐怖は和らいでくれた。……それが、いいことかはわからないが。
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