『わさび村騒動記』

@moomin1958

第1話


     『わさび村騒動記』

第1章 桂、引っ越しをする

                              

 急行の止まらない小さな駅を降り改札口を出て左側、活気にあふれる商店街を抜けて3分ほど坂を下りバス通りの道を渡ると、正面に市役所のエントランスが見えた。

 ネットで調べたとおり。プリントアウトした紙を流行おくれの帆布のショルダーバッグにしまう。

はるか昔、まだ大学に通っていたころの友達と行った飛騨高山への旅行、有名な朝市で地元のおばさんから買ったものだ。年配の女性の手によるいかにも素朴な風合いと手ごろな値段に衝動買いした。今ではその化粧っけのないしわの深く刻まれた女性と同じくらいの年齢に達している。瞼は垂れ、疲れが身体じゅうに染みわたったまま。その実中身はあの時と変わらず年齢だけが重ねられた。人いう所の経験からくる人間的深みというものには程遠い。だから平気で三十年も前の若者が持つようなバッグを、何も考えずに持ち歩くのだ。

日常の様々なことができないのは、単に自分にその技量がないだけであって、決して年のせいではないと思っている。さらに、人にはそれぞれ向き不向きというものもある。地図を画像としてスマホに取り込むことができないのもその一つ。いちいち紙に印刷していたらエコではないのは百も承知だし、画面片手にうろうろの方が今風だろう。しかしねえ、スマホから画像を開く手間よりバッグから紙1枚を取り出すほうが簡単じゃないですか。不要になった紙の束はメモ用紙として使えるし。昭和三十年代生まれの人間は、高速で進む現代を、涼しい顔で走って行くのだ。なんていったって私たちの世代が作り上げたのだから。

 自動ドアを抜ける。梅雨の晴れ間、強い日差しに晒されていた目が薄暗い屋内に入ってぼんやりする。じきに慣れるとそれほど暗くもないし、落ち着いた色調の壁紙と高い天井でひんやりとして心地よい。太い柱を支えるように大きな円形のソファが中央に据えられ年配の紳士がゆったり腰を下ろし新聞を読んでいる。その向こうでは二十代後半と見られるお母さんがベビーカーの赤ん坊を覗き込みあやしている。窓口はもちろん受付のようなものも見当たらない。人声はどうやら二階からするようで、きょろきょろと二階へと通じるところを探すと左側に上り下りのエレベーターが静かに動いていた。桂はそちらに歩きながら提出しなければならない書類をバッグから引っ張り出した。


 一階の静けさとはうって変わって、二階では多くの人たちがそれぞれの用事を済ますべくやってきていた。職員はその人たちの倍は居るだろうと思われる人数で、忙しく応対している。フロアのほぼ中央をまるで蛇のように長いカウンターがのび、その内側には向かい合わせに机が置かれ、何台ものパソコンが並ぶ。背中合わせの椅子の間を書類を片手に忙しそうに職員が行き来し、座っている人も一瞬たりとも手を休めない。書類をそろえる者、キーを打つ者。桂は目的の窓口を見つけると赤と緑のチェックの半袖綿シャツを着た中年男性の後ろに並んだ。平日の午後、本当なら仕事場に居るはずの時間に市役所にいるのは、市民として果たさなくてはいけない手続きがあるからで、男性の書類を持つ手がいらいらと動いている。幸い、窓口の職員は非常に手際がよく次々と処理し、直ぐに桂の番になった。

「はい、次の方どうぞ。転入届ですね、はいお預かりします」三十代と思われるめがねをかけたワイシャツ姿の職員が、桂から一枚の紙を受け取ると座って書面の文字を確認した。追っていた指が止まり桂の顔を興味ありげに見る。不審そうにではなく興味深そうに、あるいは面白そうな関心を持った目でといった方がいいだろうか。関心を持たれないことにずっとなれている彼女は、戸惑いを覚えた。間違ったことを書いたのか、それとも何かを書き忘れたか。いいや、書き忘れたぐらいではぶっきらぼうに「ここも書いてくださいね」で済むはず。それとも私の顔に何かついているか。そういえば、昼に家で食べたTKG、つまりは卵掛けご飯、物足りないので海苔を細かくちぎってかけたっけ。もしや歯にそれがくっついているとか。出かける前、鏡を見なかったことが今となっては悔やまれる。だが、この人私の顔を見る前に書類を見ていたわけで。漢字でも間違えたかな、それなら早く言って欲しい。恐ろしく幼稚な間違いをしているとか、何度も読み返したはずなのに、それはない。

「青菜町の五丁目ですね」その言葉に彼の直ぐ後ろにいてパソコンを忙しく操作していたもう一人の職員が手を止め振り向いた。提出した転入届けを覗き込む。そして何かを確認すると、桂の方を同じように目に好奇心を称えて上から下までジロジロとみるではないか。書類上の間違いじゃないならこちらに落ち度は無いはず。では、この職員の態度は何!私をばかにしているのか、でも何故?桂は小さな胸を張って答えた。

「はい、そうです」で、それがどうしたの、口を尖らせそう言ってやりたいところだったが、それより早くめがねの男が目と口角に笑みをうかべて立ち上がり、右手をフロアのさらに奥の方を指して言った。

「申し訳ありませんが、五丁目の方はあちらの71番の窓口へ行ってください。この転入届は承りましたから、大丈夫ですよ」桂が指差す方を見やってまだその場を動かないでいると、「突き当りを右に少し行ったところです」と、親切に教えてくれた。桂の顔に了解の色が見えるまで見つめている。パソコンの男性まで立ち上がって桂がそちらに歩き出すのを見守っている様子。どうやら失礼な人たちだと思ったのは間違いのようだ。言葉遣いはいたって丁寧。が、また不審の種が芽を出した。書類は提出してそれで終わりじゃないの?五丁目の人は71番ってなに?



 71番は突き当りを右に行ったところに確かにあった。しかし、少し奥まった位置ですぐにはわからない。他の窓口より狭く注意していなければ見落としそうなところだ。桂はいったん通り過ぎてからまた戻って来てやっと見つけた。いや、こちらが見つけたのではなく正確には見つけてもらった。もっと正確に言えば声を掛けられた。

「月夜野さん、こっちです!」右手を少し上げた40代後半とおぼしき体格の良い女性が、パソコンを置いたデスクが並ぶ奥から書類を手に急いでカウンターまで来るところだった。背中合わせに仕事をしている狭い間を、右に左に大きなおしりをイスの背にこするようにしながら、横歩きにこちらに進んでくる。明るい茶色の肩まである綿菓子のようなふわふわヘアが軽やかに跳ね、桂を見つけて喜んでいる風で、片手をちょっと上げて指をひらひらさせた。っと、気を許したのか足元から注意がそれた。その瞬間、イスの足につまずき大きく体勢を崩す。支えを求めて座っている男性の肩をつかもうとした書類を持ってない方の右手はむなしく宙を舞い、ついでに書類も舞って上体が前のめりに倒れそうになった。桂は思わずわああっと声が出たが、女性は瞬く間に見事に体勢を立て直すと、ふわりと足を着けた。跳ね上がった縮れ毛がスローモーションのようにゆっくりと降りていく。そう、まるでその時間だけ、時がゆっくり動いているように。座っていたメタボ体型の中年男性が「大丈夫ですか」と言いながら書類を拾って同僚に渡した。意外なことにその様子は、びっくりしているでもなく労わるでもなくという感じ。よく見ると周囲の人たちも少しも仕事を中断することなく、何事もなかったかのようにパソコンのキーをたたき仕事の話を続けている。当人だけがいささか慌て照れくさそうに書類を受け取り、桜草の淡いピンク色をした唇を、横ににっと伸ばしたかとおもうと、えへんと小さな咳をして笑顔で桂に向いた。

 極彩色の花々が大きくプリントされたブラウスの胸が大きく波打ち、深爪のぽっちゃりとした手がそれを押さえる。下は若草色の流行のパンツで若々しい。今の出来事でブラウスのボタンがはじけ飛ぶこともなくパンツの縫い目が裂けなかったのが不思議なくらいだが、それは仕立てのよさによるものだろう。加えて、丸い顔を包む綿菓子ヘアには一本の白髪も見えない。桂はといえば、以前は直毛だった髪が今では全くいうことをきかなくなり、あっちこっちに飛び跳ねている。その上最後のカラーリングがいつだったかも忘れるほどで、分け目や生え際に白いものが目立つ。着ているものは二十年も前に買った流行おくれのジーンズに首周りがよれよれのTシャツ、それを隠すように羽織った大き目のジャケットで、着心地のよさ一辺倒の装いだ。それでも今日は人と会うのだからと、化粧をして一応見苦しく無い格好を選んだつもりだったが、清潔なだけでおしゃれとは程遠い姿にいつもの自己嫌悪が顔を出す。桂は気後れしながらも勧められたイスにおずおずと座った。

 立っていたとき頭一つ分高かった目線が、同じ高さで合う。縦よりもよこの方が長いのではないかと思われる顔の真ん中には、両頬にうずもれるように小さな鼻があり、アイラインをきっちりいれた大きな目が興味深げに自分を見ている。口角の上がったおちょぼ口が親しみやすく今にもしゃべりだしそうな気配だ。目はきらきらと好奇心いっぱいで親切そう。身体から発散されるエネルギーが正確な年齢を覆い隠していた。

「県外からですね、ようこそ『わさび村』へ!」女性は桂と書類の両方を見ながらにこやかに挨拶した。桂は重いショルダーバッグを何とか形よく下に置いたところで耳を疑った。え、わさび村?今そう聞こえたが。

「『わさび村』って?あの、青菜町ですけど」書類にそう書いたはずだという確信を持って、桂は少し前に乗り出して提出した紙をのぞいた。

「青菜町五丁目は、むかし『わさび村』って言われていたんですよ。それが7年前町村合併で青菜町に入ったんです。でも、今でもこの辺の人は五丁目のことを『わさび村』って言うんです」なるほど、それはよくわかった。変な名前だけど。まあ、日本中にはいろいろな名前があるのだろう。しかし、そのことと私がここに呼ばれた理由とどう繋がるのか。

「すいませんねえ、びっくりされたでしょう」心に思っていることを見抜かれたようで、そう言われて思わず子供のように、うんうんと頷いた。

 桂は思春期よりずっと四十年近く、クールな女性にあこがれ、自分もそうなりたいと目指してきた。しかし彼女が少しでもクールな女性に近づいたと評価されたことはいまだかつてこれっぽっちもなく、長年付き合いのある友人は桂のこのような子供っぽいしぐさを指摘してよくからかいの種とした。桂自身そのたびにそんなことはしていないと強く否定し、なんだかバカにされているようでいつも不快に思っていた。本人が無意識のうちにしてしまうこのしぐさは、どうにも直りそうにない。

 正面の女性も桂に対して同様に感じたのか、明らかに年上だが子供のようなこの女性にいつも以上に何かしてあげねばと思ったようだった。

「それで、『わさび村』について少し説明しておきたいと思いましてね。私、担当の星野木です。よろしくおねがいします」そういって、胸につけたネームプレートを見せた。「星野木 みう」と書いてある。桂がまた、うんと頷く。

「引越しはもうされたんですよね。何か変わったこととかありましたか」真剣なまなざしで女性は桂を見つめた。変わったこと?すでに引越しは三日前に済ませているが、半日でおわった作業のあと熱を出してしまい、ずっと家で寝ていた。電気を通した冷蔵庫にはわずかな食料しか入っていなかったが、幸か不幸か食欲が全くなく食べ物が尽きる前にどうにか回復したのだ。アパートのお隣さんに挨拶もしないまま今日に至り、転入届を出した後で挨拶の品物―お菓子かタオル―を購入しようかと予定を立てていた。変わったことなど何も無い。何だろう、変わったことって、自分でも気付いていなことがあるのだろうか。       


桂は元々鈍感な方で、高校時代底意地の悪い同級生からかなり辛らつな言葉を浴びせられてもいっこうに感じることなく、むしろ親切でいろいろ言ってくるのだろうと思ったくらいで、周囲の人間から半ばあきれられたことがあった。それ以来、自分の感じ方については慎重になるようになったのだが、このときもさかのぼっていろいろ考えてみたが、さっぱり浮かばない。

「引越しは済みました。別に変わったことなどありませんでしたが、何か?」

「いえ、それならいいんですよ。ええと、お住まいは大石荘、はいはい、よく知っています」先ほど3番の窓口で出した転入届を見ながら言った。よく知っているって、どういうことだろうか。果たして市役所が住人の住まいまで干渉するのかと桂はいぶかった。どこに住もうが自由ではないか。この市はどうなっているんだろうと、回りを探るように見た。隣のカウンターでは、小さな子供を抱いた20代半ばくらいの女性が、係りの男性と話をしているが、その応対に変わったことは無さそうだ。どこを見てもどこにでもある市役所の風景と雰囲気で、桂はもぞもぞと座りなおしちょっと上を向いた。いくつもの机が並ぶ向こう側、大きな窓の外には青空に真っ白な雲が浮かぶ。桂の脳裏にはこの引越しに対する後悔の思いがふつふつと湧き上がってきていた。変なところに越してきちゃったのか。どうしてこんなところ選んだんだろう。

 桂の落ち着かない様子は、有頂天になっていつも以上にテンションの高くなっていた星野木でも気が付いた。困った、どうやら自分は不安をあおってしまったらしい。いけないいけない、言葉には気をつけよう。怖気づいて引っ越されては困る。なんといっても久しぶりの新村人だ。末永く居てもらうためにも、よい印象を持ってもらわなくては。星野木は、ゴミ出しのパンフレットや広報など新市民として必要なものを手際よくそろえて、市のロゴの入った綺麗な水色のファイルに入れると、「どうぞ」と言って向きを桂の方にして差し出した。通常ならこういったものをもらえば後は帰るだけだ。しかし星野木は小さく咳払いをすると先を続けた。桂は小声で「はい」と言うとバッグにはしまわずにその上に両手を重ねて置いた。

「『わさび村』は青菜町の五丁目で昔から住んで人が多くいて、とてもよいところですよ、静かですしね。先ほども言いましたように最後に青菜町に入ったんです。ですから少し閉鎖的なところというか、個性的というか、いえ、普通に生活するぶんには全く問題ありません。住人はとてもいい人たちばかりですし」

なんだか言えば言うほど深みに入りそうだ。これからここで生活しようと思っている人にあらためて「いいところだ」なんておかしい。この辺でやめるべきか。星野木の頭の中で自問自答が始まった。

「個性的?普通に生活すれば?」桂はいよいよもって今回の引越しは失敗だったと思った。

少し首をかしげだんだん苦笑いになってきた桂の顔を見ながら、星野木は目をぎゅっとつぶった。私ってホントこの仕事向いてない。

「ええ、とにかく何かありましたら私の方にご連絡くださいね。今日はご苦労様でした」早口でそう言うと星野木はぎこちなくイスから立ち上がり一礼した。不自然な終わり方に桂も慌てて立ち上がり、大急ぎでバッグにもらったパンフレットを押し込むとなぜか早足で歩き出していた。下に降りるエスカレーターまで来た時71番の窓口の方を見たが、星野木さんらしき女性はそのあたりにはもう見えなかった。すでにデスクワークに戻ったのだろうか。しかし、座ってPCを見ている人たちの中にも見出すことはできなかった。

 変なところだとしてももう一度引っ越すなんて無理な話だ。貯金が底を尽きている。桂はこの引越しにすべてをはたいてしまっていた。


 月夜野桂は58歳、バツいちである。10年前に離婚した。性格の不一致などというぜいたくな理由によるものではないし、配偶者に他に好きな女性ができたからとかDVによる虐待といった明確な原因によるのでもない。ある日突然、それまで何事もなく平和に仲良く過ごしてきたはずであったのに、それは自分だけがそう思っていただけだったのか、三つ年上の夫は離婚を切り出した。

「お袋と一緒に住もうと思う、離婚してくれないか」

夕食を済ませてコーヒーを飲みながらテレビを見ているときだった。寝耳に水で唖然として見つめる桂をよそに、テレビ画面から目を離さない冷たい横顔が言った。

「親父が死んでから、お袋がひとりでさびしがってね、それに物騒だろ、老人一人なんて。お前は、それなら自分も一緒に住むというだろうけど、おれは3人で住むのは嫌なんだ。お袋がどうしたってお前に気を使うし、お袋がかわいそうだ。幸い俺たちには子供がいない」離婚して欲しいの一点張りで、結局桂は承諾した。離れたいと言う人と一緒には暮らせない。

 こんな理由ではたくさんの慰謝料が取れそうなものだが、そういったどろどろの話の最中に元夫が病気を発症した。半年の入院と三年ほどの療養の間にお金の話はなしくずになった。桂に残されたものは結婚するときに実家の母が買ってくれた家財道具と結婚してから―子供が生まれたらこれくらいは必要よねと言って―買い代えた大型の電化製品だった。結婚時代に二人で買った物はない。思えば元夫は、二人で新しい家族を作っていくという意識が最初からなかったような気がする。恐らく同年代の人よりも高額の給料を得ていたが、それらはすべてレジャーに費やされた。海外国内を問わずよく旅行に出かけ、気前よくお金を使った。桂は子供を欲しがったが、夫は育てる自信が無いと言い張ってできなかった。今にして思えば離婚を前提に結婚していたのだ。新しい家族のいろいろな夢を描いていたのは結局桂ひとりだった。懸命に家庭を築こうとしていた自分の愚かさに、何日も泣いた。

 離婚してからというもの、桂には自分の未来というものが全く描けなくなっていた。どんなに頑張って目を据えても、何も見えてこない。泣いたからといってどうなるものでもなかったが、涙が後から後から出て、開いた毛穴に引っかかり弛んだ袖口をぬらした。同情は山ほどもあったが、這い上がるには自分の力が頼りだった。パワーが回復するのに幾日もかかった。泣き疲れて顔を上げた。もう振り返るのはよそう。いくら考えても過去は帰ってこない。これからのことが大事だ。まずは生きること、そしてどうしたら食べていけるかを考えること。離婚後の7年間を桂は郊外の小さな市の図書館で臨時職員として働いた。のんびりと主婦という座に胡坐をかいてきた身で、何のとりえも無い桂がやっと見つけた職であった。

 四十を過ぎてからの仕事で自分より若い上司にタイムカードの捺し方から教わり、右往左往しながらどうにか慣れてきた頃、都会から郊外へ住宅を求める流れが桂の住む市へも押し寄せてきた。人口増加により財政が豊かになった市のえらい人たちは、農業主体で田園風景を残しつつも、都会からの住民たちに配慮して文化水準を上げるべく、市立図書館全体の規模の拡大、それに伴う職員の刷新を行った。PCでの検索システムを初めとして機械化が進む中で、多くのベテランの職員が異動となった。桂の勤める図書館には若い館長が就任し、それと同時に専任の若い職員が入ってきた。ボランティアが歓迎され、また志願者も多くいた。その結果どうなったか。臨時職員は無用なものとなり、3ヶ月前ついに桂に解雇通知が出された。結婚していたときは3LDKの比較的広いマンション、そして当時はワンルームマンションに住んでいた。しかしその家賃も払えそうになくなり、今こうして隣の県のアパートへと越してきたというわけだ。


 青菜町の大石荘は、よくあるコンビニなどに置いてある賃貸関連のフリーペーパーやSNS、さらには駅前の不動産屋などで探した物件ではない。桂が解雇通知のショックを引きずって途方にくれていた頃、帰宅途中の電車の中で急に腹痛を起したのが始まりである。やむなく降りた所は全く知らない駅だった。7年間も乗っているのだから駅の様子などわかっていてもよさそうなものだが、ほとんど座れば寝てしまう桂だから、恐らく夢の途中の駅なのだろう。急行も止まらない小さな駅だが落ち着いた綺麗な構内だった。

 掲示を必死に探しながらやっと見つけたトイレから出てきて、やれやれと次の電車を待つためにベンチに座ると、誰かが隣に腰を下ろした。空いているところはいくらでもあるのにわざわざ自分の隣に座らなくてもと思ったが、バッグの中身をがさごそと持ってきたはずの本を探している最中だったし、じろじろ見るのも失礼なのでそのままやり過ごした。やっと本を見つけページを開いたところで隣の人が話しかけてきた。

「いやあ、今日はいいお天気ですな」しわがれた声だ。桂は愛想笑いを浮かべながら

「そうですね」と答え、横を見た。そこには桂が今まで見たことも無いような老人が座っていた。山羊のような白いひげは胸元まで延び、薄い青色の丸いサングラスを通していたずらっ子のような目が見える。頬はたてに深いしわが入り額は広い。真っ白な髪が肩までたれていて、その風情が仙人のようで年をとっていると感じさせるが、背筋がピンとなって硬い背もたれにはついていない。杖も持っていない。しかしそれ以上に桂をびっくりさせたのは老人の装いである。まず紫の地のスウェットスーツだ。肩から手首、両足の脇にピンクや青、それに黄色のネオンカラーのラインが入っている。よく見ると地の紫も無地ではなく、何か模様が描かれているようだが細かくて見えない。靴はエアークッションソールの白いスポーツシューズで、サイドには赤と黒の二本の線。桂にはわからないブランド物にちがいない。肩からは斜めがけに茶色の革のポシェットを提げている。女物のようだが、長年使っているらしく、やせた身体に妙にしっくりなじんでいた。

「今日は天気がよいので買い物に行こうと思いましてね」老人はニコニコと話し出した。そういえばここから二つ先は急行停車駅で、大きなショッピングセンターがあったっけ。

「ああ、そうですか、いいですねえ」何がいいのかよくわからないが、桂は調子を合わせてうなずいた。この格好では注目を浴びそうだとは思ったが、他人事などで口には出さなかった。

「いつもはね、自転車で行くんですよ。タイヤの太いごついのを持っているんだが、今修理に出しているんだ」

「マウンテンバイクですね、すごいですね」桂はびっくりして答えた。

この老人がマウンテンバイクに乗る姿が想像できない。確かに足腰はしっかりしていそうだけど、見かけより実はずっと若いのか、風貌や手のしわをみると80歳はいっているように見えるのだが。

「そうそれ。どこにでもそれで行く。この間は江ノ島の方まで行ってきた。箱根にも行ったことがある」老人は胸を張って自慢げに言うと桂の方を見た。目を見開き驚いている桂の表情に満足そうに笑う。「この間」というのがほんの20年前ではないかという嫌味な解釈もできるが、マウンテンバイクの話から、本当にごく最近のこととして桂は素直に受け取り、ただただ驚いた。

「お若いですね、失礼ですけどおいくつですか?」その質問を待ってましたとばかりに老人は答えた。

「わしは102歳です。秋になると103になる」

「102歳!」桂はもう、電車を待つどころではなかった。さっきまでちらちらと時間を気にして話の合間に時計を見ていたが、その年齢では、マウンテンバイクは愚か自転車も危ないんじゃないのか。誰か家族で止める人はいなかったのか。真っ直ぐに線路の方を向いて時々首だけ横にしていたのを、今や半身老人の方に向けてじろじろと見ていた。老人は前歯のほとんど欠けた口を開けて、ふぁふぁふぁと笑った。

「びっくりですか?たいがいのことは何でもできる、身体を動かすことが好きでね。この年になると好きなことだけをしたいと思う。わずらわしいことは嫌だ。こう見えてわしはアパートをいくつか持っている。その仕事がわずらわしいのなんのって」と、いかにもいやそうに顔をゆがめた。

「ああそうですか」と桂は下を向き手の中のハンカチを折りなおした。この人お金もちなんだ。毎日の青汁やサプリメント、最高の治療や手術、ジムにも通っているかもしれない。ありとあらゆるアンチエイジングを施して今に至っているわけで、そうすると100まで元気に生きられるという見本ということか。野菜不足の食生活や歩くだけの運動の生活を省みると、この人は自分とは別世界の人なのだと桂は思った。と同時になんでそんな人が私に話しかけてくるのか、ただの老人の気まぐれかといぶかった。

「もしよかったらあなた手伝ってくれんか。いや、無理にとは言わない。だが、引っ越してきてアパートの管理人をやってくれたら、こんなにいいことはない」

そういうと遠くに目を移し「ああ、電車だ」と言った。突然見ず知らずの人から仕事を手伝えだの、引っ越せだの言われてもわけがわからない。この人私をからかっているのか、単なる冗談なのか、さもなくば、聞きまちがえか。うろたえる桂を残して、老人はすくっとベンチから立ち上がると、電車の来る方向を見ながら黄色の線まですたすたと歩いていった。

 アナウンスが流れ大きな音とともに電車がホームに入って来た。桂はようやく現実に戻り、急いで開いたドアに向かい老人に続いた。老人は空いた席に座ると横に座るように桂に促した。周りの乗客が老人を横目で見ている。桂はしかし、老人の言葉をどう理解したらよいのか戸惑っていて、老人の方を見てひそひそとなにやら話したり小さな笑いを漏らしたりしていることなど、目にも耳にも入っていなかった。老人は全く状況を気にしていない風で、ポシェットを開けると桂に名刺を差し出した。それは名刺サイズのカードだからそれが名刺だとわかるが、白いボール紙でできた手作りのもので、女子中学生などが使うような色とりどりのペンで書かれたものだった。

「そこに連絡ください。あなたがきっと引き受けてくれることを、わしは信じていますぞ」そういうと、老人はサングラスの奥で目を細め唇を横に引いてにっと笑った。桂がカードを受け取り見入っている間に、老人は「それでは、失敬」と言うが早いか電車を降りていった。「あ、あの」と言って腰を上げたがドアは無常にも閉まり、あとにはなにやら気まずい空気だけが残った。 

 

 桂はとりあえずそのカードにもう一度注意を向けた。「大石 空」、「そら」と読むのではなく「くう」と読むらしい、しっかりと振り仮名が振ってある。職業は実業家、住所は青菜町。隣の県に住んでいる桂にとっては見慣れない名だ。それにしてもいたるところにピンクや青、金色や銀色で書かれたハートや星が飛んでいるのは何のか。お孫さんかあるいは曾孫さんにでも作ってもらったのか。このカードからすると、先ほどの依頼はどうやら冗談だ。自分はからかわれていたのだという気がしてきた。ほんの遊びだったのではないか。もう少しで本気にするところだった。それに気付くとなにやらさびしくなってきた。

 ここは腹を立ててしかるべきところだろうが、人生の勝負で連敗を続けている桂にとって、他人を怒るという感情は出てこなかった。騙してやろうとかいうのではなく、恐らくユーモアなのだ。失業してこれから先どうしようかと途方にくれていて、神経が擦り切れていたから、こんな冗談も骨身にしみた。きっともっと昔だったら首をひねるか笑い飛ばしてお終いにするだろうが、そのときの桂には心底響いた。離婚を言い渡されてからというもの、自分はその辺の虫よりもずっと価値の無いものと感じていたのだ。涙が目を覆いカードがかすんで見えた。もういい、もういい。とにかく先のこと。明日も仕事だ、合間に求人情報で職を探さなくては。桂はそう自分に言い聞かせた。



 それから一週間経っても仕事は見つからなかった。いよいよ厳しくなってきたと感じたころ、ふとバッグの中身を整理していた時あの変なカードが出てきた。どうせだめもとで電話を掛けてみるのもいいかもしれない。あの老人、変わった体験だったがそれ自体は面白いひと時だった。結局のところ自分はからかわれたわけだが、妙なおじいさんで100パーセント憎みきれないでいる。あの時の気持ちに終止符を打ち、ああやっぱり私はだまされたんだと検印を押し、記憶のゴミ箱に入れてしまうつもりで桂は受話器を取った。

 るるるるる。3度呼び出し音がなって男性のしわがれた声が出た。あの老人だ。桂は名前を名乗り先日お会いしたものですがと続けた。果たして覚えているだろうか。

「やっと電話をくれた、待っていたんですよ」あの時と同じ優しい声が返ってきた。話は本当だったのだ。カレンダーを見ながら引越しの日にちなど具体的なことが話し合われ、様々なことが取り決められると、桂は狐につままれたような気持ちで受話器を置いた。

 それからというものは引越しの手続きやその準備で忙しい日々が続いた。一番安くてサービスの良い業者を探し、不要なものを整理した。中学時代からの友達が駆けつけ、力仕事にはそのご主人がかって出てくれた。桂の持っているものといえば、服や靴などほとんどがお金に不自由しなかった十年以上も前のもので、とても他人に見せられるようなものではない。彼らがやって来る前に巧妙に覆い隠して、目に付かないようにしたが、それでも多くの時代遅れの電化製品が目にさらされ、ばつの悪い思いをした。最近のものは省エネに配慮したものが多いけれど、桂のうちにあるものはどれも電気を大量に消費するものばかりだった。買い換える方がずっといいのはわかっているが、そのお金が無い。遠慮なく「物持ちがいいね」などといわれると、桂は苦笑いをしてごまかした。

 冷や汗ものの荷積みに加えて苦労したのは、引越し先のアパートがなかなか見つからなかったことだった。桂はもちろん以前に一度見に来てわかっていたが、車での経路を説明することができない。ナビを使っても青菜町五丁目が出てこなかった。その辺の事情は引っ越した後、市役所で五丁目が「わさび村」であることが判明したが、「わさび村」は、幹線道路から遠く離れていて地理的に孤立したような所にあった。やっとのことで探し当て引越しが終わった時にはすっかり暗くなっていた。

 友人たちが引き上げた後、さらに一通り住めるようになるまでに数時間を要し、疲れ果てた桂は風邪を引いてしまった。作業の途中もその後も大石荘の住人には全く会わなかった。窓から誰かが見ている気配は感じたが。




第2章 桂、管理人として働く

 桂が市役所から帰って、コーヒーを炒れたところでチャイムが鳴った。越してきたばかりだから、新聞か何かの勧誘だと思って出ると、上から下まで真っ黒で目だけ出した背の高いニンジャ姿の男が立っていた。背筋をピンと伸ばし153センチの桂を見下ろしている。異様な雰囲気に桂は思わずドアノブを握る手に力が入った。新手の押し売りか不審者か、入り込まれたら大変としっかりと握り直す。「今いそがしいので」と小声でいいながらドアを閉めようとしたら、その後ろからニンジャより少しだけ背の低い男が顔を出し、彼を押しのけて前に出た。髪は直毛で短め、清潔そうで自然な感じにまとめられている。明るいブルーのジーンズに白のTシャツ、上に赤チェックの綿シャツを着た見るからに好青年風で20代の後半くらいか。桂に合わせて背を丸めたので、目と目が接近した。切れ長奥二重の目が覗き込んだため、桂は慌てて後ずさりする。今の一瞬で目元口元のしわ、ほうれい線の深さまで全部見えたにちがいない。

「ほら、おまえが先だとびっくりするからダメだって言ったじゃないか。それに頭を出さなきゃ。あ、こんにちは、ぼくたちここの住人で私は田中と申しまして、こっちは風魔です。あの、新しい管理人さんですよね」そう言うと男は満面に笑みをたたえぴょこんと頭を下げた。人懐っこそうな目が印象的だ。ニンジャも頭巾を下げて頭を出した。かぶっていた時は表情がわからず怖いと思ったが、こうして顔全体が現れるとその目は恥ずかしそうに人を見、口元は実直そうに結ばれ好感が持てる。直毛茶髪短めの髪型で田中と名乗った男よりさらに二つ三つは若いだろうか、照れ笑いを浮かべながらぺこんぺこんと二度頭を下げた。

 緊張が解けて和んだのもつかの間、桂は管理人としてここにやってきた自分の立場を思い出した。住人との始めての対面。さっきとは違う緊張で肩に力が入る。頭を下げられても困る。もっと早くにこちらから挨拶にいかなければいけない状況だ。彼らよりずっと年上なのに、礼儀を逸した桂は穴があったら入りたい気持ちになった。いっそこのままドアを閉めて布団をかぶって寝てしまおうかとも思ったが、二人の嫌味の無い笑顔に救われた。とにかく愛想笑いだけは絶やさずに、どうにかこの場をやり過ごせれば。後のことはそのときに考えよう。

「すみません、こちらから伺わなければいけないのに」と言うと、「いえ、そんな」などと小さく言いながら、二人して顔の前で手を横に振った。が、それ以上何も言わない。変な間があき、二人の笑顔が桂を見つめる。桂は瞬きを二つすると、

「片付いていませんがお茶でもどうですか、今コーヒーを炒れたところでご一緒にどうぞ」と、思ってもいない言葉が口をついてでた。ここは買ってきた挨拶代わりのタオルを渡して引き取ってもらうのが最良なのに、負い目で恥ずかしい気持ちが勝り、つい口がすべったのだ。

 きっと辞退するだろうと思っていたら、まるでその言葉を待っていたかのように「そうですか、すみませんねえ」と言いながら狭い玄関に入ってきた。

 思わぬ事態に混乱しながらも、桂は反射的に二人を入れようと体を横にしてしたが、思い出した。部屋は寝食ができるようになったというだけだ。まだ口をあけたままのダンボールがあちこちに置かれ、テーブルの上にはやかんやフライパンが、床にはシャンプー・リンスを入れた洗面器がといった具合。桂はサンダルを脱いで上がろうとするニンジャ姿の青年の前に出て、急いで居間に戻った。これから親しくなろうという人たちである。第一印象が肝心だ。自分のアパートの管理人がこんな汚い部屋に住んでいると思われたくないし、これから新天地で心新たに、なるべく格好よく振舞いたい。すぐに化けの皮がはがれるにしても、少しでも時間を延ばす努力をしてもいいではないか。

 しかし、桂があわてて八畳ほどのLDKに行ってみると、物が乱雑に散らばった中にスペースを作ってフローリングに胡坐をかいているニンジャがいた。玄関からわずか数歩という距離で、いつ桂を追い抜いたのか。狐につままれたようにぼーっと立っていると、もう一人の男が桂の脇をすり抜け、床にあった両手鍋をテーブルの上に置くとニンジャの隣に座った。いつのまにか倒れていたカラーボックスがちゃんと立ち、散乱していた数冊の本がきちんと入った状態で壁際に置かれている。何がなんだかわからないまま、直に座る彼らに何か敷くものをと探したが、果たしてそんなもの元からこのうちにはない。右往左往するだけで気まずさだけがただよう。しかたなく先ほど入れた自分のとあわせて3つのカップを、小さな丸盆に載せそれをテーブルに置くと、タオルの入った紙袋を部屋の片隅に寄せて自分のスペースを作り、丸盆を二人の前においた。

 自分の部屋に男の人がいるだけでも大事件だ。トイレの水漏れや電器の修理に来た人以外、男気のなかったところに急に二人も入ってきた。それも一人はニンジャだ。かろうじて肩の触れないほどの距離で、疲れたおばさんと爽やかな男性、それと背筋をぴんと伸ばして胡坐をかいたニンジャ姿の人がいる光景は、半世紀以上を生きてきた桂にとっても想像すらできなかったものである。

 これが現実なら冷静に受け止め、なんらかの答を出さなければならない。必ず理屈に合った解答があるはずだ。桂はテーブルから砂糖とミルクを下ろすと二人に渡した。

 男が砂糖をスプーンに山盛り五杯、ミルクをたっぷりカップの際まで入れて慎重にかき回す。桂が目を丸くして見ていると、顔をこちらに向けたので慌てて目をそらした。

「あのお、先週の金曜日に引っ越して来られてから姿をお見受けしなかったのですが、どうかされたのですか」ニンジャの方も興味があるらしく、そうそうとうなずき桂に問いかけた。引越しのとき、アパートの住人の誰れひとりとも会わなかったのに、知っていたのだ。

「疲れがでたようで、どうも風邪を引いてしまって」と桂がいうと、二人はああやっぱりというように納得した様子。日常とは違う出来事があると、その後身体を壊すこともあるとかなんとか、あたりさわりのない理屈を小声で言う。

「それで、もう大丈夫なんですか」ええ、もう大丈夫、というよくあるお決まりのやりとり。社交儀礼のようなもので本当に心配しているわけではないのは桂にもわかっている。なんといっても今会ったばかりなのだ。新しい住人というだけでなく、新しい管理人ということもあるだろうから、関心は強いのだろうと推察し、感謝の気持ちを笑顔で表した。これでこの話題はおしまいと思っていたら、桂の笑顔が気に入らなかったのか、二人が顔を見合わせ声を出さずに口だけ動かした。

「あのお、何か」桂が尋ねる。

「薬飲みました?」青年が聞いた。

「ええ、もちろん。持っていた市販の薬ですけど」何でそんなこと聞くのかと桂はいぶかった。

「あの、いい薬あります。ぼくが持っているわけではないけど、よく効く薬あります。今度どこか悪くなったら、言ってください」青年が胸を張って言うと、ニンジャが隣でうなずいた。どうにも親切である。市役所で聞いたことが気になっていたが、今のところニンジャ姿以外これといって変なところなど無い。むしろ今までの経験からいってずっと感じがよい。

 手甲をした手が、カップに砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき回すのを桂が不思議そうに見ていると、視線を感じたニンジャと目が合った。桂は思い切って聞いてみた。

「あのお、風魔さんでしたっけ、今日は何かイベントでもあるんですか。それとも、もしかしてそれは趣味?」

少しからかうような響きが出てしまったのかもしれない。若い女性だったら笑って許してくれそうなことも、50を過ぎた正真正銘のおばさんの口から出たことはだいたい反感をかってしまう。わかっているが口に出た。風魔はきっとまじめな顔になり口を真一文字に結ぶと、桂を正面から見据えた。まずいことを言った、気に障ったのだ。彼は小さな息を吐きカップを床に置くと両手を軽くにぎりひざにゆっくりとすえた。まじめそうな瞳がひときわ大きくなり光を帯びる。男は胸を張ると静かに落ち着いた声で答えた。

「私は風魔家27代目風魔光太郎、正真正銘のニンジャです!」口にするたびに自分に対する誇りがいっそう高まっていくのだろう。言い放った彼は玄関に立っていた時より一回り大きく見える。

 しかし、「ニンジャ」という言葉に現実味がない。マニアだろうか。コスプレをする人が増えたことはメディアなどで桂も知っている。この人もそのひとりなのか。自分がアニメのキャラクターになりきって、しまいには妄想と現実が混乱するどころか、逆転する場合もあるとか。彼の場合はニンジャマニア?

 目を白黒させている様子を隣の青年が面白そうに見ている。何か納得のいく説明を桂は彼に求めたが、彼にはあまりその気が無いようだ。コーヒーを一口飲みふーっと息を吐くとにっと桂に笑いかけた。

「本当ですよ、パーティーの仮装か何かと思いました?」ただそれだけ。普通不思議に思うでしょう。初めての人のところに来るのに忍者の格好をしてくる人はいない。もっと詳しい説明を求めるようと口元まででかかったところで遮られた。

「電話がありましてね、市役所の星野木さんから。あなたが来ることはここのオーナーの空さんから聞いていたけど。少し説明した方がいいかなって。それでぼくたち今日ここに来たんです」

青年はそういうと小さく頭を下げた。「空さん」って、ああ大石さんのことね。ここの人たちは大家さんのことをみんなそう呼ぶのかしら。親しみやすくていいけど、私も「桂さん」って呼ばれるのか。説明って、市役所でも星野木さんが言っていたっけ。ここに住むには「説明」をきかなければいけないのだろうか。

「光太郎は204号室、ぼくは田中一郎で、203号室に住んでいます」

なんだ、説明が必要なのってこの光太郎さんのことだけじゃないの、ニンジャ姿の「変な人」がいるけど気にするなって。田中さんは、だって普通でしょ。だけど、一人のひとのために市役所の職員まで乗り出すなんて、このニンジャ、よっぽど気をつけなければいけないのだろうか。

 怖いものから遠ざかるように桂が20センチほど彼から離れ、そのため青年に近づいた。手を伸ばせば楽に肩に手が届くほどだ。ラッシュの電車以外若い男性とこんなに近づくことはないので少しどぎまぎした。あと30歳若くてもっときれいだったら、なんてきっと相手は思っているんだろうなと考えると、申し訳ない気持ちになった。

 世間で「おばさん」と呼ばれるような人は、“だからどうなの、誰だって歳はとるのよ”という開き直りと“若い方がいいに決まっている、きれいじゃなくごめんなさい”という謙虚さの間を行ったり来たりしている。こちらの緊張が伝わったのか青年が咳払いをし、桂の方を見て笑顔で言った。また、笑顔だ。この人本当に愛想が良い。

「ぼくは宇宙人です」

 危うく吹きそうになった口中のコーヒーを慌てて飲み込む。もうだめだ、わけがわからない。この人もおかしいのか。桂は青年を穴の開くほど見てから、徐に彼から10センチ離れたら今度はニンジャに近づいたので、30センチ後ろに下がった。しばし沈黙が流れる。三人のコーヒーをすするずずずという音が乱雑な部屋の中、清潔な白い壁に反響する。

 ではなにか、おかしいのは二人なのか。そのふたりがこうやって挨拶に来たというわけか?今自分はおかしな二人とごちゃごちゃの部屋の中でコーヒーを飲んでいるということか?

「あの、気にしないで下さい。別に何が変わっているというわけではないし」心配そうに桂の顔を覗き込みながら田中一郎が言った。

「田中一郎って、でもおっしゃいましたよね。田中一郎って」桂の声が少し上ずった。

「ええ、ぼくは田中一郎ですが、何かおかしいですか」

「田中一郎って普通の名前ですよね、普通の日本人の。私の同級生の中にもいました」

「いつの同級生ですか?」

「小学校の時の、いやそれは関係ない」

「そうですか、でもぼくも田中一郎です。田中一郎をずっと名乗っています、ここに来てから」田中一郎は、桂の動揺はよくわかるが、しかしこればかりは仕方の無いことだという風に、落ち着いて答えた。

「今、ここに来てからって言いましたね。ここに来てからって、どういうことですか。もしかしたら、地球に来てからってことですか?」一応彼の言うことにのって聞いてみる。

「そういうことです、わかっているじゃないですか」いやいや、ちっともわかってない。わかりたくもない。これならニンジャの方がよっぽど理解できる。ただのマニアの青年じゃないの。でも宇宙人はいただけない。自分がよその星から来ただなんて信じているやつに、ろくなやつはいない。現実逃避だ、それは。桂が疑惑100パーセントの目で二人を見ていると、田中一郎が見透かしたように言った。

「信じなくても仕方ないですが、とりあえずぼくたちは真実を話しています。大石荘には他に」カップを脇に置き、両方の手を組み合わせ静かに話す田中に対して、今や興奮真っ只中で頭の中が渦を巻いている桂がさえぎった。

「他にもいるんですか?あなた方だけじゃないの?」もはや声は裏返っている。

「104号室の門田川さんは2人とも魔法使いですよ」ずっと黙っていた風魔光太郎が口を挟んだ。

「そういえば205号室の美宇さんも、あの星野木さんですけど、魔法使いつまり魔女です、気付きませんでしたか?」え、あの市の職員さんが?今や何がなにやらわからなくなった。桂は混乱する頭を抱え押し黙った。

「いろいろな人がいますよ、どこもそうじゃないですか。この町は少し多いかもしれないけど」訳知り顔で田中一郎が桂に微笑みかけた。この人いつもこんなに笑っているのかしら。愛想のいいのは良いが、何を考えているのかかえってわからない。

「私はもう五十年以上も生きてきたし、住まいもあちこち変わったけど、魔女や宇宙人やニンジャがいた所なんてどこもなかったです」桂は誰ともなしに抗議の声を上げた。

「それはたまたまですよ。五十年でしょ、たまたまあまりいない所ばかりに住んでいたということじゃないですか。でも、おかしいなあ、あなたなら気付くはずだけど」首をかしげ不思議そうに桂を見た。

「気付く、気付くってさっきから何を言っているんですか?私は何も気付いたことなんてありませんよ」気が付かないとか気がきかないとか、およそ人の感情の細かいひだといったことになると、全く自信の無い桂はむきになって言い返した。他人から鈍感だと言われ自分もそう認めてからだいぶ経つ。だからといって今会ったばかりなのに、こんな年下に言われたくない。すると、田中一郎が桂の頭を指差して言った。

「あなたの頭に立っているの、アンテナじゃないんですか?あなたも魔女でしょ。空さんがそう言ってましたけど」桂はびっくりして自分の頭のてっぺんを抑えた。何本かの毛が今日も立っている。子供の頃からそうで、スタイリング剤をつけても直らない。壮年となり全体的に髪にこしがなくなったにもかかわらず、何本かの髪の毛が今も真っ直ぐ上に伸びていた。いまさらこれがアンテナだなどといわれても困る。

「これアンテナなんかじゃないですよ、確かに立っているけど。それに私が魔女ですって?そんなわけない。これまで何も変わったことなかったし」桂は困惑し強く否定した。この人は何を言っているんだろう。人をからかっているのだろうか、こんなおばさんからかってどこが面白いの。だんだん不愉快になってきて、桂はコーヒーカップをテーブルに音を立てて置いた。むっつりする桂に田中一郎は少し困ったようなそぶりを見せながらも、いぜん涼しい顔でゆっくりと子供に説くような口ぶりで言った。

「変わったこと無いって、何をもって『変わっている』っていうのですか。『普通』とか『正常』ってどういうことを指すのでしょうねえ。ついでに、ぼくはわからないけど、空さんの言うことはいつも正しいです。だから、空さんがあなたは魔女だと言っているなら、魔女なんですよ」田中がにっこりと笑いかける。すると、ニンジャがコーヒー茶碗の中に何ものかでもあるのか、のぞき込んだまま後を継いだ。先ほどの自己紹介した少し緊張の態度よりずっと和んだ感じだ。

「引越しの日に、ぼくと裕さんが作業をのぞいていたんですけど、あの、裕さんっていうのは門田川さんのご主人の方ですけど、トラックの運転手をしています。その日はたまたま休みで、ええ、彼もあなたのこと魔女だって言ってました。何で魔法を使わないのか不思議がってましたけど、使えないんですか?」

「使えませんよ、私は魔女なんかじゃないんだから」口を尖らせて桂は二人を睨んだ。

「それは、使えないんじゃなくて使わないだけですよ。何だって使わなきゃさびちゃうし」この人にはどう言ったらいいのだろうと、田中一郎は天を仰いだ。

 変な空気が部屋を満たす。何か話さなければいけないのはわかっているが、話題が見つからない。自分がニンジャや宇宙人だと言っている人たちと、この狭い空間で一緒に居ることが理解できない。それに私が魔女ですって!両者平行線のまま、「とにかく明日からよろしくお願いします」「こちらこそ」という言葉をもごもごと交わして、この会合はお開きとなった。


 その夜、布団に入った桂は半世紀以上生きてきて始めての、わけのわからない問題に直面し、自分がどう対処すべきか考えあぐねていた。いつのまにかそれは、これまでの自分を振り返ることとなり、ぐるぐると走馬灯のように過去の自分が頭の中に現れた。

親や学校、大人や社会といったはるかに大きなものにとにかく挑戦的だった10代、自分の世界観人生観を形成するのに必死だった。20代はその社会との接点を探すことで費やされ、30代は自分らしく振舞う事に一所懸命。40代でようやく生きることにゆとりが出てきたと思ったのに…。離婚によりすべてを失い、世間から取り残された。ひとり穴の中に落ちたような隔絶された日々が続いた。自分だけがそう思っているだけだと、思いなおすのにどれだけのうそ笑いを重ねたか。そして50代、あきらめ半分で余生をどうにか無事に過ごしていければと思って、数年が過ぎたところである。正直、離婚した時は死をも考えた。ショックからというのではなく、それが相手への単なるあてつけだと思ったとき、ばかばかしくなってやめた。私をこの世に送り出してくれた両親に申し訳なかったし、自分の命をこんなことで終わりにしたくなったから。

 桂は天涯孤独というわけではなかったが、両親が親戚づきあいを積極的に行ってこなかったこともあり、二人がそれほどの間隔をおかずに幸せのうちに天国へと召されると、独りぼっちとなった。友人もいるが、皆それぞれに家庭があり生活がある。社会的地位のある者ならいざしらず、桂のように中年になってずっと臨時で働いてきた人間を、どれだけの人が知っているか。果たして自分がこの世からいなくなったとき、泣いてくれる人がどれだけいるだろうか。きっと五本の指で足りるだろう。いやもしかしたら、そういう人間がいたということすら忘れ去られて、誰一人として涙を流す者などいないのだ。遠い親戚がやって来て迷惑そうに形だけの葬儀を行う。家もなければ子も無い。生きてきた証のようなものがない、真っ暗な宇宙で点ですらない自分という存在。無限の暗闇に落ち込んで行く中で、今ここで息をしている自分が無性にいとおしく感じられた。そしてそう考えている自分に向きなおった時、桂は泣く人の数を数えることをやめた。自分は泣く側にまわればよいのだ。これからの残りの人生でどれくらいの人たちと接するかわからないが、できる限りひとりひとりに対し誠実に接していこう、そう心に決めていた。


 しかし、ここに来てこの状況は何だ。私が魔女ですって?頭のてっぺんにあるのはアンテナ?同じアパートにニンジャと宇宙人?考えても考えても、何かの冗談としか思えない。右を向き左を向き、うつ伏せになったり仰向けになったりしながら時間だけが過ぎていった。真っ暗闇の部屋の中、見ると夜光塗料の時計の針は2時半をまわっていた。結論に達する。ここを出たら住むところも仕事もなくなる。また一から探さなくてはいけない。考えるのはよそう。おかしな人たちだけど、悪い人たちじゃない。ここで頑張ろう、桂は大きく息を吐くと、ようやく眠りについた。

 

 夏を思わせる強い日差しがカーテンの隙間から布団を照らし、桂は慌てて飛び起きた。6時を少し過ぎていた。量販店で買ったアナログ式の目覚まし時計はちゃんと機能したようだったが、桂が無意識に止めたらしい。急いでパンと紅茶だけの簡単な朝食を済ませるとダンボールから鍋などキッチンで使うものを二つ三つ取り出し収納棚に入れた。洗濯機の排水と給水、それぞれのホースの接続が適切であったか心配していたが、どうやら漏れることもなく仕事をやり遂げたようだ。洗濯物を干し終えた時にはベランダはいっぱいとなり、隙間から見える青空と透かして見える日の光が、今日もまた暑いことを知らせた。梅雨明けも近い。

 今日から仕事である。ONとOFFの切り替えが、昔ほどスムーズに行かなくなってきたがそんな弱音を吐いていられない。しっかりしなければと自分に気合を入れた。やるべきその内容は、引越しの日にちが決まったときに追って手紙で詳細を知らされていた。1ページ目には一日のスケジュールが時間ごとに箇条書きになっており、2ページ目には月ごとにすべきこと、また3ページ目には一年の間にすべきこと、さらに注意事項である。桂はそれをきちんとファイルし、今テーブルにおいて確認しているわけだが、それほど大変ではなさそうだ。主に掃除がほとんどで金銭を扱うとか面倒なことはない。

 しかしこの掃除が桂にとっては厄介そのものだった。管理人の仕事なのだから請けたときから覚悟はしていたが。決まった日にゴミを捨てるとか、洗濯したものをきちんとたたみタンスのきめられた場所にしまうとか、その程度のことはできる。しかし、キッチン全体・衣類全部の整理整頓となると大の苦手。新しいものを買ったらその分古いものを捨てればいいものを、いつか役に立つだろう、いつか着ることもあるだろうと物を溜め込み、なかなか捨てられない。部屋の掃除も、積もったほこりを横目で見ながら、見なかったことにするタイプ。

 だがもし、私が本当に魔女ならこんなこと朝飯前なのでは?昨日言われたじゃない、引越しでなぜ魔法を使わなかったのかって。試しに鼻をつまんで左右に動かし目の前にあったコップを睨んでみた。動くように念じる。びくともしない。今度は人差し指を動かしたが、…ダメ。わかってはいたがそんなものだ。私は魔女なんかじゃない。魔女ならこの50年の間に何か起こっていいはずだ。いい年をしたおばさんが何をやっているのだろう。自分でも不思議だが、どこかで期待した部分があったのかもしれない。がっかりしてため息をついた。ファイルと自分の部屋の鍵、そして預かった鍵束を掴むと仕事に取り掛かることにした。もう予定より10分も遅れている。


 公式の地図で青菜町の五丁目となっているわさび村は、最後に青菜町に入っただけあって、他よりまだ畑などが多くまた林も残り緑豊かだ。山が削られ宅地が造成され電車の駅ができてバスの路線が網の目のように敷かれていったほかの青菜町とは異なり、すっかり取り残された感があるが、そんなことなどこの村の人たちは全く気にしていない。バス停は一つしかなくとも、昔からの細い道があちこちに通じているし、未だに「わさび村」という名を使い自分たちを村人と呼んでいるのがよい証拠で、他所は他所、うちはうちと思っている。他の地域から来る人には不便だろうが、そもそも他所から来る人などそうめったにいなかったのだ、月夜野桂が来るまでは。

 月夜野桂が「わさび村」の新しい村人になったことは、空さんが桂から電話を受けたその日のうちに村中に知れわたった。みんな大歓迎で、中にはすぐにも歓迎会をしようという者まで現れたが、果たしてこの村を気に入って住み続けてくれるかという心配も一方にはあった。自分たちが少し風変わりであることはみんなわかっている。空さんは知らせを広めると同時に、しばらくは静かに見守るようにとの注意も忘れなかった。

 村人たちは顔を合わせれば桂の話題に花を咲かせた。空さんから知らされていたのは55歳という年齢と女性であるということだけだ。だから、肥っているのかやせているのか、背の高さはどのくらいだろうとか、声の調子は優しいのか落ち付いているのかとか、どんな食べ物が好きなのかなど、いくらでも推測することがあり、村人一人一人がそれぞれの月夜野桂像を勝手に作り上げていった。

 “どのような付き合い方をするか”では、ひとまずは大石荘で気を配っていこうということになり、市役所の職員である星野木美宇さんを通じて、住人である田中一郎と風魔光太郎が世話係に選ばれた。なぜこの二人かといえば、単に暇そうだったというのが理由なのだが、本人たちはそれなりの人格とか人望を認められてのことと都合よく解釈し、大いに有頂天になった。    

 当初二人は異常に張り切り、引越しを手伝おうと計画したが、自然な方が好いとの周囲の忠告から何もしないで窓やドアの隙間からのぞき見するにとどめた。その後、桂が風邪を引いて家から出ない日が続いた時には、二人だけでなくアパートの住人みなが心配し、角着き合わせては、どうしたものかと異論百出した。田中が花を持って訪問しようと名乗りを上げたが、とにかくこうして引っ越してきたのだから、あちらのペースを重んじるべきである、後は徐々に、というシルバー組の言葉を尊重して、とりあえず光太郎による天井からの偵察はとりやめられた。


 仕事始めのこの日、これほどの注目を一身に集めていることなど露ほども知らない桂は、はじめての「管理人」という仕事に対する緊張でいっぱいになっていた。もうこの歳になって仕事上の失敗は許されない。「ごめんなさい」、「わかりませんでした」とは言えない。あきれ顔で舌打ちをされるだけだ。それでいて教えてくれる人もいない。空さんは旅行に行ってしまった。渡されたマニュアルに従うこと。ミスの無いように。それだけを心に言い聞かせた。


 大石荘は青菜町五丁目、昔の名前でわさび村の中ほどにある。バス道路から外れさらにわき道に入ってそのまたそこから少し奥まったところだ。道路からは、二件並んだこぎれいな住宅(こちら側に背を向けている)と十台は収容できる駐車場(大石荘の住人が使用)の間の道を入って行く。東西にわたるその道は二十メートルほどで行き止まり、北側に約1ヘクタールの野菜畑、南側に大石荘が建っている。大石荘のさらに南は林である。野菜畑はアパートのベランダ側(東側)にも広がっているため、朝には燦々と輝く太陽の光が直接アパートの窓にふりそそぎ、林からは涼やかな風と鳥の鳴き声がもたらされる。


 桂もきっと新しい生活と仕事への緊張や心配ごとがなかったら、このすばらしい環境を満喫したことであろうが、今は目の前のすべきことだけしか頭になかった。それでも親元を離れて生活し会社へ向かう新入社員のそれとは全く違っていた。自分にできることとできないことはわかっているつもりだったし、恐らくできなさそうなことは相手も自分に要求はしないだろう。空さんは桂にできると判断してこの仕事をくれたのだ。桂はそれに応えなければならなかった。


 桂の部屋は103号室だから右側に二つおいた三つ目が管理人室だ。ものの十秒とかからないが、桂はいったん部屋を出ると建物から10メートルほど離れその全容を見渡した。大石荘はアパートとは称しているが結構がっしりとした鉄筋コンクリート構造の二階建てでそれぞれ七室、計14室ある。ごくごく薄いピンク色のレンガがはめ込まれ、丸屋根のエントランスもついているかわいい建物だ。以前住んでいたところが、どこも都会風の気取った感じだったのと比べると、メルヘンチックで気分も軽くなる。ここに住んでいると考えると、ちょっと楽しくなる。桂は足取りも軽く、真っ直ぐに管理人室のドアへと向かった。


 住居人の部屋は、ドアの上にステンレスのはめ込み式のプレート、黒字の数字の下に何故だかローマ字で名前が記されているのに対して、管理人室のそれは、木の板がボンドで張り付けられ、へたくそな筆ペンの字で「かんりにんしつ」と書かれていた。膨らんだ気持ちが徐々にしぼんでいくのを意識していると、外壁の淡いピンク色のレンガも実は最初はショッキングピンクとは言わないまでも濃いピンクに近くて、それが年月とともに色あせただけではないのかと思えてきた。茶色のドアとの取り合わせは、まるでイチゴのスポンジケーキとチョコでできたお菓子の家、周りを囲むグリーンフォレストはアンゼリカか。そう、まさに「お、おいしそう(大石荘)」なのだ。

 納得した気持ちを心の奥にしまったところで、桂はチョコレート色のドアを開けた。2LDKの桂の部屋より広く見えるが、単に空間の使い方のせいかもしれない。入ってすぐは大きな革張りの応接セットが置いてあるから応接間だろう。その奥の小さな部屋に机が見え、一見して清潔できちんとしている。人の出入りを管理するわけではないので小さな事務所といった感じ。といっても事務机や灰色のキャビネットがあるわけではなく、生活の場にしては生活感が少し無いというだけのこと。

 畳一畳ほどの玄関には、右に扉の無い靴箱が設置されていて、その五段の棚の一番下には外履き用の婦人サンダルがあった。底に少しの泥も付いていない新品であることから、空さんが用意してくれたのだろうか、心遣いとありがたさに心が熱くなる。脇には木製のスリッパたてに三足のスリッパが立てかけられ、床には一揃いのスリッパが置かれている。仕事始めというより、大事なお客様を迎えるようなしつらえに緊張の糸が緩む。スリッパは色違いの皮製で高価なもの。置かれていたのは明るい黄色で、立てかけてあるのも含めてどれも新しいものだが、そのいずれにも子供が喜びそうな星や花のシールが貼られている。何とも言えない不調和の“思い”がかえって心にあたたかい。


 桂はスリッパに足をいれ、事務所の点検にかかった。どこに何があるか早く知らなければならないし、どうやらドアを開けた時の印象とは違っていろいろと変わったものがありそうなのだ。

 まず目に付いたのは入って右側の壁にかかっている大きな時計。カリヨン時計というのだろうか、木製で凝ったものである。桂は以前、おしゃれな繁華街の一角でイギリスの近衛兵が飛び出すものを見たことがあったが、これはそれよりはもちろん小さい。しかしこの部屋には不釣合いなほどに大きく、数字のところには写実的に描かれた様々な種類の猫が鎮座している。色彩が中世の宗教画のようにきれいなので見とれていると、ぼーんぼーんと音が鳴ったのでびっくりした。9時15分である。お城の門が開いたかと思ったら中から肥った黒猫が出てきてゆっくりとこちらの方に歩いてくる。面白くなさそうな目でぎろっと桂を見たと思ったは気のせいだったか、座って大きなあくびをした。そして、背中を弓なりにそらし右足左足の順にうしろに思いっきり伸びをするとふさふさの尻尾を高く上げおしりを向けて今出てきたお城の門へと戻っていった。かすかにパタンと門が閉まる。桂はその様子を口をあけて見つめていた。こんなの始めて見た。他にもいろいろびっくりさせるようなものがこの部屋にはあるのだろうか、おそるおそる室内を見回す。

 床は明るい茶色のフローリング。緑のじゅうたんを敷いた応接セットは部屋の半分ほどを占めている。抹茶色のソファには大きくキャラクターが描かれた大小さまざまな赤や黄色、青色の四角や丸型のクッションが所狭しと置かれどこに座ったらよいか迷うほど。ダークブラウンの衝立は本来なら奥の事務室と隔てるのが目的だろうが、今は壁と平行して置かれている。東南アジアのどこかでだまされて法外な値段で買わされたようなしろもの。

なんとも奇妙な動物の透かし彫りがほどこされ、じっと見ていると夢に出てきそうだ。

 奥の部屋の桂が使う机は、新しくもなければアンティークでも決してないマホガニー製で窓に面し、その上に陶器のお座りをしたパンダが、左右を支えるブックスタンド代わりに載っている。支えられているものはカラー写真の鮮やかな料理本で厚いのやら薄いのやら、十冊ほどはあろうか。左右に薄い引き出しが二つあり、右には筆記具、左にははさみやカッターなどが入っていた。住居人に関する資料や建物とその内部についての仕様書などは、机横のガラス戸のついた観音開きの木製の書棚で見つけた。その横には桂と同じくらいの高さ、150センチほどのやはり木製の三段のタンスが置かれている。一番上は二つの引き出しで、右側には黒と赤のボールペンが箱ごと五つずつとホッチキスの玉が大小10こほど。左側には何色ものマジックペンで細いもの太いもの、中くらいのがぎっしりと入っている。中段と下段は横に開くようになっていて、中段には様々な種類の封筒が縦に並び、下段には白いテープに黒字で「じむようひん」と書いてあるように、上の引き出しに入らないものが無頓着に放り込まれたような感じで入っていた。どれを見てもネコ時計ほどには変わったものは無い。いたって普通のものばかり。

 机と反対側にはすれ違うのに肩が触れそうほどの廊下が奥へと続く。入っていくと、手前右側にはトイレ、左手は真っ赤な古い2ドアの冷蔵庫がある小さなキッチンで奥に戸棚という配置だ。

 「かんりにんしつ」の中でこの戸棚だけはよくある灰色の無味乾燥なものだが、それにも小学生が書いたようなへたくそな字で「そうじようぐいれ」と書いてあった。どうやら表のドアにあるものと同一人物の手によるものとみうけられる。中には新品の箒とちりとりが入っていた。

 桂は灰色の引き戸を開けそれらを取り出すとクリーム色の壁に立てかけた。試してみても損はないはずだ。声に出すのは恥ずかしかったから「掃除をして、お願い」と箒に念じた。やはりびくともしない。しばらく箒を睨んでダメだ、と思った瞬間、柄の部分が左右にぴくぴくっと動いた、という気がした。柄はゆっくりと床に落ちパタンと音がして動かない。なんだ、目の錯覚か。桂は今度こそ諦めるとため息とともに箒をちりとりを持って外に出た。


 真っ青な空に濃い白い雲が浮かぶ。今日は真夏日になるという予報で、朝から気温が高い。絶対に似合わないとわかっていながら日に焼けたくなくて黒いつば広の帽子をかぶって掃除をしていると、後ろから挨拶をされた。最初あまりに小さな声でわからなかった。どうやら二・三回呼んだようだ。振り向くと気の弱そうなまだ30にはいっていないだろうと思われる中肉中背の男性が立っていた。ベージュのワークズボンに白いタンクトップ、首からタオルを提げている。日に焼けていて格好は肉体労働者のそれだが、お世辞にも筋肉隆々という体つきではなく、どちらかというと銀行員のよう。一年中空調の効いた部屋でモニターを見ている方が似合っていそうだ。

「おはようございます。あの~104号室の門田川です。あの~お隣の。風邪よくなられて良かったです。あの、よろしくおねがいします」にっこり笑うとタオルを取って頭を下げた。

「あ、ありがとうございます。なんだかすっかり心配かけちゃったみたいですね。こちらこそよろしくおねがいします」と言って慌てて桂も頭を下げる。風邪を引いていたこと、どうして知っているのか。あの二人が話したのか。二人は広報係か?それともここが「村」だからか?などなど、桂は推測をめぐらしたが、それよりの目の前にいるこの男性に映る自分の姿の方が気になっていた。帽子を取ったので頭の上半分、髪が頭皮にくっついてぺちゃんこだ。手で髪をかき上げるが天辺以外はなおらない。手の動きを止めないまま、桂は何かしゃべらなくてはと思った。

「これからお仕事ですか」100%わかりきっているつまらない質問。タンクトップで結婚式でもあるまい。昨日ニンジャが門田川さんはトラックを運転していると言ってなかったっけ。この身体では大変だなと思ったが、この人魔法使いだとも言っていた。

「ええ、これからです」ちょっと下を向いてはにかんだ。桂が臆面もなくじろじろ見ているのだ。掃除は完全に中断。好奇心を抑え切れない桂はここぞとばかりに聞いてみた。

「あの、昨日ニンジャさんが言っていたんですけど、魔法を使うんでしょ。どうしてトラックを運転しているんですか」ばかばかしい、それはみんな冗談ですよ、あなたはあの二人にかつがれたんですよ、と言ってくれたらどんなに気持ちがすっきりするか。もしかしたら怒り出すかもしれない。そのときには、平謝りに謝ろう。あふれる好奇心は雲のように消えてしまうが、それでも桂はまっとうな生活の正常さを選んだ。きっと大笑いしてまんまとだまされたおばさんに同情してくれるに違いない。それとも憐れむか。

 しかし反応は全く逆だった。目の前の男性はもじもじして困ったような顔をすると、今にも泣き出しそうな声で答えた。

「ニンジャさん?ああ、光太郎くんのことですね。ええ、がんばってはいるのですけど、持ち上がらないんです。自家用車なら10キロや20キロ行きますよ。でもトラックともなるとね、私のは大型だし。せいぜい1キロぐらいかな、浮いているのがやっとで。面目ない。でも、そういう管理人さんも、なぜ引越しの時魔法を使わなかったんですか。今もこうして箒を持っているのは何故ですか」不思議そうな顔には演技をしているとは思えない自然さがある。形勢逆転、こんどは桂が問い詰められた。桂の質問は大いなる嫌味だった。初対面の人にとんでもないことをした。がんばっているって、自家用車は浮くって、この人本当の魔法使いなんだ。桂は瞬きを三度し、悪いことを聞いてしまったと後悔した。

「私、魔女なんかじゃないですよ、魔法なんか使えません」昨日から何度も口にした言葉が暑い空気中に浮遊する。

「そんなはずないと思うけど。あ、すみません、もうこんな時間だ。今日は荷物を積んでから静岡まで行かなくてはいけないんで」門田川は時計を見るとあわてて駐車場の方へ向かった。小走りの背中を追いながら、あの人もまた桂がこれまでに出会った人たちとは違うのかと思うと、それをしっかりと認識することができずに、もやもやが募った。

 一人残された桂は口の中で同じ言葉を繰り返した。「魔法なんか使えない!」当たり前のことがここでは稀有なことと受け取られる。「そんなはずない」これが彼らの返答。どっちが正しいのか、見当もつかない。桂は深く吸い込み、そしてゆっくりと吐いた。こうやって立っていても仕様が無い。考えることはいつでもできる。桂はしっかりと帽子をかぶるとちりとりを持って掃除にとりかかった。


 建物の周囲は壁面と同じ素材で1メートルほどの塀が取り囲み、その外側には塀よりも三十センチほど頭を出したグリーンフォレストがずっと植えられている。建物そのものと木々のメンテナンスは専門の業者さんの領分だが、塀の内と外、そして階段が管理人の仕事だ。

 桂の見たところ、塀の側溝にはところどころ土ぼこりがつもっていたが、大きなゴミもなくきれいなものだった。まるで昨日まで掃除がされていたような状態で、桂は不思議に思った。確か自分が引越してくる二日前には大石さん――桂はまだ人前では「空さん」とは呼ぶことができない――は仕事をやめているはずだ。様々な引継ぎに関しては手配済みということだったが、掃除だけは毎日のことで一週間やっていないことになる。階段も同じだった。隅の方に土が積もっていたがチュウインガムのゴミ一つ落ちていない。掃除を手早く済ませると、桂はメールボックスに戻って「そうじようぐいれ」から持って来た雑巾で丁寧に拭いた。横に五個縦に三段、木製で光沢のある茶色だ。頑丈にできているが手作り感満載である。鳥の巣箱を十五個つなげたという感じ。上面と側面を拭いていると103号の自分のメールボックスを見つけた。木の表面に直接ボンドか何かで白いボール紙が貼られ〔つきよの けい〕と、これまたへたくそな字、それも油性マジックで書いてある。見ると他の住人のも同じ字体、そして「かんりにんしつ」や「そうじようぐいれ」とも同じ字体だ。きっと住人に違いない。桂は大活躍している小学生がこの大石荘にひとり居ることを想像して愉快になった。

 雑巾を洗って干し箒とちりとりを用具入れに入れると、桂は洗面所に行き手を洗った。作り付けの鏡に中年おばさんの顔が映る。くりくりと二重がはっきりとして大きかった目はまぶたが下がり、みっしりと覆っていた上下のまつげはまばらである。ほうれい線がくっきりと入った頬は、まるでブルドッグのようだ。いうことをきかない髪の毛はといえば、今日も天辺のところで何本か立っている。これはアンテナだと言っていた。桂は手で押さえつけてみた。手を離すと直ぐにぴょんと立つ。しかしそれだけで何も反応することはない。今までがそうだったし、きっとこれからもそうだろう。これはアンテナなんかじゃない。

 落ち着かない思いを振り払って、トイレや部屋の掃除を済ませる。こちらも昨日掃除をしたようにきれいだ。桂の感覚ではやらなくてもいいのだが、仕事ではそうはいかない。やりましたという事実が大事だから、便器のすみずみまで雑巾で拭いた。

 ひと段落し、汗をびっしょりかいていることに気付いた。冷房を入れキッチンに入り冷蔵庫をのぞく。何か入っているなどとは期待していなかったがよく冷えたペットボトルのソフトドリンクがぎっしり入っていた。疑心暗鬼で製造年月日を確認したが、どれも新しいものばかりだ。大石さんが入れておいてくれたのだろうか、管理人室の備品だとしたら補充するのは自分の役目だから、一本ぐらい飲んでもかまわないだろう。後に電話で報告する際に聞いてみればいい。そう心にメモし、小さな食器棚からグラスを出して注いだ。炭酸の泡がはじけてあたりの空気まで爽快になる。

 右手に持ったグラスの飲み物がこぼれないようそっと机まで来たところで、ピン・ポン・パン・ポオ~ンとチャイムが鳴った。学校の昼食時に放送室からなるあれだ。桂は一瞬びっくりして辺りを見回した。この部屋のチャイムだと気づいて「はい、どうぞ」と言った時にはもうすでにドアが開き、昨日の二人が入ってきていた。この暑さにもかかわらずニンジャはやはり黒装束のままだ。

 二人は、桂が朝一番にそろえたお客様用のスリッパを自分のもののようにはき、桂を一瞥して「おはようございます」とだけ言うと真っ直ぐキッチンに向かい冷蔵庫を開けた。呆然と目で追う桂をよそに、それぞれペットボトルを一本ずつ引っ張り出したかとおもうと、向かい合わせにどかっとソファに座り、キャップを開けぐびぐび飲み始めた。桂にひとことの許しを請う言葉もない。とがめるような桂の視線にやっとのことで気がついたのか、半分ほど飲んだところで田中一郎が言った。

「冷蔵庫の飲み物、ぼくたちが入れたんです」ちらっと桂の持っているグラスに目をやった。桂は気まずくなってグラスから手を離した。

「あ、それはどうも、ありがとう」ひざに手を置き頭を小さく下げた。勝手に飲んでしまったのは自分の方なのか?だってここは管理人室で、私は管理人なんだから!でも初日に誰の断りもなしに、冷蔵庫に入っていたからということだけで手をつけたのは、やはりずうずうしかったか。

 “ずうずうしい”、桂はこの言葉に人一倍敏感である。“僭越”とか“さしでがましい”といった言葉もそうだ。子供の時から人と話すことが苦手で、自分の意見を主張するタイプではない。これといって人より優れたところがないと自分自身感じていたし、驚くことに両親からもそういわれてきた。母の教育は、いじめられても泣いてはダメというもので、だから桂の取り柄といえば我慢強さだけ。小さい頃からコンプレックスをかかえ、自分には何かを言い張る資格は無いとずっと思っていた。この中から好きなものを選びなさいと言われて、様々なフルーツのキャンデイを差し出されると、他に人がいる場合には、残った最後のものを取り、ひとりの場合には差し出した相手がじれったくなるまで散々迷って申し訳なさそうに一つを取る。それも自分の好きなものではなく、恐らく他の人が選ばないだろうと思われるものを選択した。人を押しのけてまで前に出ようとは思わないから、ドッジボールやサッカーではいつも足手まとい。鈍くさい桂を、小学校の頃は同級生の男の子ばかりでなく女の子までもが馬鹿にし、仲間はずれにした。なんとか一人前扱いされるようになったのが中学生になってからで、多少勉強ができることが認めらたから。定期試験の前など、そのときばかりはノートを借りにきたり、因数分解の説き方の教えを請うクラスメイトが、桂の机の周りに集まった。

 だから、ひとから「ずうずうしい」などと言われたり思われたりするのは心外で、桂の心の中でも一番ありえないことなのだ。では実際に、“ずうずうしさ”からかけ離れた「謙虚さの権化」となっていたか。自分がこうなろうと願ったように、他人からもそう思われてきたか。世の中そう甘くはない。なぜなら、この半世紀の間に何度かひとから「ずうずうしい」と言われたことがあるから。満員の電車の中で偶然前の席が空いたので座ったら、三メートルほど離れていた中年の女性が、そこに座るのは自分だとばかりに、周囲の人を押しのけてきた。すでに腰を下ろした桂と目がぶつかった。一瞬のにらみ合い。で、ばつの悪い思いをしたのか、桂に向かって小さな声で「ずうずうしい」と言い放った。周りの五・六人には聞かれたと思う。降りる駅まで桂は肩をすぼめずっと下を向いていた。中学生の時である。その後も何気なく言ったひとことや態度が、“僭越だ”などととられてしまい、死んでしまいたいと思うほど落ち込んだこともあった。

 いくらかこういった言葉にも免疫ができてきたのは40歳を超えてから。綺麗とかかわいいといった科白が、お世辞や冗談以外では自分とは全く無縁になったのと引き換えに、身につくようになっていった。「是非いらしてください」という社交辞令を真に受けて、飲み会の二件目に出席してしまった時など、若い人から見れば中年女性はそこに居るだけで“ずうずうしい”らしい。空気を読むことが苦手な桂、注意をしていても失敗をすることがよくあった。

 新しい環境では特に気を使わなければならないのだが、どうやら今回もやってしまったようだ。うなだれる桂に田中が少し微笑んで浅く座りなおした。小さなクッションを二つ取り上げると、それをソファの背と自分との間に押し込む。

「飲んでいいんですよ、どんどん飲んでください。前からそうだったんです。空さんは時々にしかここには来ないし。『かんりにんしつ』ってなってるけど、ほとんどぼくたちの集会室なんです、ここ。だから飲み物も用意してある」頭巾の口元を引き下げて飲んでいたニンジャが、ガラス板を載せたテーブルにペットボトルを置くと、横で大きく頷いた。

「そうですか、なるほど。じゃあ、いただきます。あの、この次は私が買ってきます」突破口を見つけた桂は「私が」というところを強調し、ありがたくグラスに手をつけた。

「気にしないで下さい、きっと僕らの方がたくさん飲むから。それより、掃除したんですね。そんなに一生懸命しなくていいですよ、きっとだれかがやってくれるんだから」田中一郎は気遣いを見せる人だ。この人が本当に宇宙人なのだろうか。洗い立てで襟のぱりっとした水色のポロシャツの首部分からはまぶしいほどに白いシャツがのぞき、上品なベージュのチノパンとよくマッチしている。これで素足に日曜日のお父さんが履いているような茶色のサンダルでなければ、若い女子がほっとかないだろうが、昨日同様彼の横にはニンジャがくっついている。ニンジャこと光太郎は、昨日と同じであろう黒装束だ。汚れている風でもなく――黒だからよくわからないが――汗臭くもないので、もしかしたら何着も持っているのかもしれない。こんなものが何枚もタンスに入っているだけで、まず普通ではないと思うが。

「仕事の一つなんですよ、わたしのやるべきことの一覧があって。お給料の中に入っていると思います。でも、誰かがやるってどういうことですか」

「それならしようがないのかな。空さんはしてなかったですよ。魔法を使うって意味じゃなくて。空さんは掃除できないんです、魔法では。空さんはあなたが魔法使いだと見抜いたけど何ができるかまではわからなかったんですね、きっと。でも、魔法でできないからって、他人に頼んじゃいけないなんて堅苦しいこといわないですよ」

「そうそう、言わない、言わない」ニンジャは相槌を打ちながら飲み干したペットボトルを手の中でもてあそび始めた。ペコペコと大きな音がし横に座る田中ににらまれる。桂はなんだか不安になった。

「私が普通にお掃除してはダメですか。なんだか他の人に頼んだ方がいいみたいな…」ダメだしをされたようで田中をきつく見る。田中が視線をはずしたので、桂はニンジャはどう思っているのだろうとそちらをみると、今まで飲んでいたものとは違う新しいソフトドリンクのふたを開けているところだった。最初のものは影も形も無い。いつ立ち上がってキッチンまで行ったのだろう。必ず桂の前を通って行くはずなのに全く気が付かなかった。田中は隣の男が二本目を飲んでいることなど関係ないといった感じで話を続けている。

「そんなことないですよ、ただあまりにも一生懸命だったから。いや、からかって言っているんじゃなくて、大変そうだなあって、もちは餅屋に任せた方がいいんじゃないかって」いや、充分からかっている。少し笑ったところが忌々しい。生意気な口を利くおとこだ。さっきまで好感度95パーセントの田中一郎だったが、今や桂にとって嫌なやつ第一位となっていた。コップを握り締め、上目づかいに田中を見た。しかしショックだ、掃除一つできないなんて。居住者が新米管理人に苦情、第一日目にしてクビなのか。桂は暗い気持ちになり黙り込んだ。新しいペットボトルから一口飲むとニンジャがゆっくりと口を開いた。

「ぼくたち昨日からなんだかいろいろ言っちゃってるみたいで、すみません。引っ越してきたばかりだし、新しい仕事で。これから慣れていけばいいんですよ。ぼくたち応援しますから、もう少し肩の力抜いて」肩を上下しニンジャがにっこり笑った。田中より100倍も好青年に見える。

 不覚にも涙が出そうになったが、桂は何とかこらえるとニンジャに向かって小さな声で

「ありがとう」と言った。ニンジャは恥ずかしそうにちょっと下を向いた後、ぐびぐびっとペットボトルを空けた。

「206号室の麗子さんに言ってみたらどうかな。確かあの人がお掃除していたと思います。実際に見たことないけど、朝とか夕方に外に出ていること多かったから。この頃見ないなあって。新しい管理人さんが来るって聞いて、やらなくなっちゃったのかも」

「麗子さんて?」

「法常寺麗子さんです。空さんは麗子さんに頼んでいたと思いますよ」

好感度アップをねらっているかどうかははなはだ怪しいが、田中がまじめな顔で提案した。掃除の上手・下手はともかく、桂のことを思って言ってくれていることは桂にも伝わる。合理的に考えてできる人にやってもらえるなら、そして仕事としてそれが許されることなら、桂にとっても願ったりかなったりである。桂は気を取り直して、「それなら、その方に聞いてみます」と答えると、二人は安心したようにボトルを置くと、それじゃと言いながら二人とも帰っていった。

 桂は管理人のデスクに戻り、仕事の内容が書かれた書類をもう一度ひっぱりだした。やるべきことの主なものは毎日の掃除だったはずだ。再確認してもそう書いてある。もしもこの作業をしないとなると、今日はとりあえず何をするのか。「かんりにんしつ」のドアは九時から夕方の五時まで開けておく事、管理人はその間なるべく常駐。この“なるべく”というのが幅があっていい。桂は柔軟に解釈した。が、なるほど、そういうことか。マウンテンバイクでどこへでも行くと言っていた大石さんにとって、それは死ぬほど退屈なことだったのかもしれない。あまりこの部屋にはいなかったと田中一郎は言っていたが。でも、私にはできそうな気がする。桂は本に囲まれた図書館での仕事を思い出し、ここでの生活に俄然やる気が出てくるのを感じた。魔法とか魔女とか、ニンジャや果ては宇宙人についての問題はともかくとして。

 自分には重すぎるのだが頑張っていると言った朝の門田川さんの言葉と、そのけなげな姿を思い出した。自分もまた今ある状況の中で力を発揮していかなければならない。一人で手探り状態であっても、必ずどうにかはなるのだ。そう思ったところでチャイムが鳴った。ポンポンポンポ~ン、ペンポンパンポ~ン。

「どうぞ」今度はこちらが返事をしてからドアが開けられた。

「ごめんください、管理人さんいらっしゃる。風邪よくなったそうで」高いビブラートのかかった声である。東側の窓から射す日の光で、まるでスポットライトに照らし出されたその姿に驚いた。すべてが丸で構成されているのだ。丸い顔に丸い体。雪のように白い頭はひっつめにして雪合戦の雪玉のようなおだんごがちょこんと上にのり、三頭身の胴体ははちきれそう。クリーム色でポケットにくまの刺繍のある明らかに大きすぎるエプロンが身体全体を包んでいる。ドアノブをしっかり握った手も丸い。風邪の話はこの人にも届いていた。あの二人は回覧板でも回したのだろうか。

「ちょっとお話しがありましてね、今いいですか」桂をしっかりと見据えながら高音でゆっくりと話す顔は緊張をしているのか頬のあたりがぴん張りほんのり赤い。釘づけになっていた目を桂は慌ててそらし、玄関に向かう。一瞬間が空いたかもしれない。それでも      「どうぞどうぞ」とちゃんと声は出て、スリッパをすすめることができた。

「月夜野桂です、新しく管理人になりました。よろしくお願いいたします。あの、風邪の方は大丈夫です。こちらからご挨拶に行く前に、仕事が始まってしまってすみません」愛想笑いを交えながら頭をぺこぺこ下げる。

「ああーああー、いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。法常寺・麗子です。今日はね、ちょっとお願いに来たんですよ」法常寺は丸い頭を横にかしげて――首が短く身体が丸いので――言い出しにくいのか下を向き赤ちゃんのようにぷっくりした左右の手を腰の辺りで小さくばたばたさせている。もうすこし大きくばたつかせるとペンギンのようだと桂は思った。法常寺と麗子の間に少し間があったが、「麗子」という名前に誇りを持っているような、そんな印象を受けた。歯の無いピンク色のおちょぼ口がかわいらしく動いている。他人からは聞き取りにくいと思っていてそのように話すのだろうか、実際には語尾まで正確に聞こえる。この人が法常寺さんか。お掃除をしてくれるなんて、綺麗好きでどことなく神経質なタイプの細身の人を桂は勝手に想像していた。いやいやこの人がずぼらそうだというのではなく、ふかふかのイスに埋もれるように座って手だけ動かしているイメージがある。自分の部屋だけでなく建物の掃除もしてくれるなんて、ちょっと考えられない。そんなことが顔に出ないことを願いつつ、さらに頭の上で楽しそうに揺れている白い玉をじろじろ見ないように努めた。

「こちらにどうぞ。今お茶持ってきますね」桂はキッチンに行ってペットボトルのお茶とコップを持ってテーブルの上で注ぐと、デスクから自分のグラスを持ってソファの今まで田中が座っていたところに座った。麗子さんは丸い足をスリッパにどうにかして入れると向かい側にちょこんと腰を下ろした。足が床に届かないしソファの背まで30センチほどある。後ろに倒れたら大変だ。桂は側にある大きなクッションを二つと小さなクッション一つを取り上げると、向かい側に行き背中と背もたれの間において不安定になるのを支えた。麗子さんはずかしそうに頬をさらに赤く染め、小さな声で「まあ、まあ、お世話かけてすみません」と言うと背中をクッションに預けた。

 まん丸の手でグラスを持ち注がれたお茶をありがたそうに一口飲み大きく息を吐いた。桂も静かに飲み物を飲んで、麗子さんが口を開くのを礼儀正しく待つ。麗子さんはどのように切り出したらよいかしばらく考えている様子であったが、率直な方がよいと判断したようで、桂の顔を真正面から捉えると小さな口を開いた。

「お掃除をお手伝いしたいと思いましてね。いやじゃなければいいんだけど。今までそうしてきたんですよ。私にできることといったら今はそれくらいで。やってないと腕が鈍っちゃうんです」優しそうな、それでいて是非にと訴えるような目である。肥っているので顔のしわは目立たないが、雪だるまが歩くようなその歩き方や、顎の下のたるみから年齢は70代であろうか。

 桂は、毎日の掃除という肉体労働を強いるにはおよそ似つかわしくない年齢と、とくにその体型をみて、この人に頼もうなどと少しでも考えた自分を後ろめたく思った。田中氏と光太郎は何故そのへんのところを言ってくれず桂に勧めたのだろうか。空さんも空さんで、この人に任せていたなんてとても信じられない。部屋にいて編み物などをしているのがぴったりのような人だ。おそらく家にはいたるところに小さな毛糸編みのコースターがあり、冬の日にはお手製の暖かいショールがその丸い肩を覆うのだろう。残念だけど、やはり掃除は自分でしよう、そう心に決めた。が、しかし、少しひっかかるところがある。

「お話は本当にありがたいのですが…。あの、でも聞いていいですか。『腕が鈍る』というのはどういうことですか」麗子さんは一瞬ぽかんとし、それからまじまじと桂を見た。言っている意味がわからない。桂は今の私の言葉が聞こえなかったのか、もう少し大きな声で言わなければいけないのかと、少し上体を前にたおした。桂の口が『お』の形に開いたところで、麗子は合点がいったように三度深く頷き目を細めて笑った。

「わかりました、おみせしましょう」

 老婆は小さなかわいらしい口元を横に引くと丸い右手を上げ人差指をちょいと振った。するとどうだろう、奥の「そうじようぐいれ」でばたんと開く音がしたかと思うと箒とちりとりがすすーと出てきた。そして桂が唖然と見つめる前を音もなく通りすぎ、玄関のドアの横に行儀よく並んで立てかけられた。桂は自分の目を疑った。強い近視の桂は同年輩より老眼になるのが遅く、まだ移行期なのだが年齢相応に視力は弱い。だが、寝不足なのを考慮しても、目の前の箒とちりとりを見誤るはずはない。二つの物体がひとりでに動いたのだ。麗子さんは、どうですかと言わんばかりに、丸い頬を紅くしてパンパンの胸を張っている。

「私は魔女なの、だからね、私に掃除を任せてくれますか。使っていないとさびてしまって」麗子さんがお月様のような笑みをたたえて言った。短い足と頭の白いぽんぽんが揺れている。

「え?あっ、ええ、え」言葉が出ない。口はあいたままだ。

「いい朝の運動なんです、私にやらせてくれますか」はずかしそうに丸い手を合わせて桂の顔を下からうかがうように見る。

「あ、ああ、あのあの、それではお願いします」まだ、目を白黒させていた桂はやっとの思いで答えた。

「ああ、よかった、明日からさっそく。ずっと心配していたんですよ、新しい管理人さんが来るって聞いて。空さんは掃除を面倒がってねえ。で、私がまかされていたわけなんですけど。でも、今度の人はできるかもしれない、もう私なんか必要ないんじゃないかって思ったら夜も眠れなくなっちゃって。だってそうでしょ。誰かの役に立てっているって実感、これ大事ですよ」

未だわけのわからない様子で箒と目の前の女性を交互に見ている桂をよそに、安心したのか、麗子さんは入ってきた時よりもずっと陽気になり10歳ほど若返ったようだ。

 美味しそうにグラスのお茶を飲み干すと、家にまだすることがあるのでと言って、両手をソファの縁につけぴょこんと床に降りた。なんとか話しができるようになった桂はまだ聞きたいことがたくさんあったが、麗子さんの様子から本当に帰るつもりのようだったし、初日からおしゃべりばかりで仕事をしない管理人と思われるのもいやだったので、ここは強く引き止めるのは控えた。ペットボトルのお茶が半分ほど残っている。今日は暑いとはいえ、冷房の効いた部屋で短時間にお年寄りがたくさんを飲めるものではない。桂はペットボトルを「よかったらどうぞ」と麗子さんに渡した。麗子さんは「ありがとう」と言って快く受け取り、雪玉のような白いお団子を揺らして何度も小さくお辞儀をしながら帰っていった。

 桂はボーっとしていた。まるで根が生えたようにそこに座っていた。しばらくするとまだ働かない頭で、今日が仕事初日であることを思い出した。動かなくちゃ。空になった自分のペットボトルをキッチンで資源別に分別し、二つのグラスを洗った。水切りに置いたところで手が止まった。今の自分には考えることが必要だった。

 たった今自分のこの目で見たことを思い起こす。夢を見ているのではない。そうだったのだ。昨日田中一郎と光太郎が言った事は冗談などではなく、すべて本当だったのだ。ニンジャも魔女も。

 星野木さんがあの時転ばなかったのも、魔法を使ったから。光太郎がいつの間にか新しいペットボトルを持ってきたのは、ニンジャだから。門田川さんは重たいものはダメだと言っていた。つまり、軽いものなら動かせるということ。空さんは私も魔女だと言ったという。今は使えないけど、そのうちできるようになるのかしら。どうやったら魔法が使えるの?皆目わからない。麗子さんは魔法を使わないと「腕が鈍る」と言っていた。田中氏は、たしか「さびる」と表現したっけ。私の魔法も使わないままさびちゃったのかしら。

 そういえば、田中さんは宇宙人?これは怪しい。昨日と今日で彼については何も不思議なことなどなかった。それともまた私が気付かなかっただけなのか。

 桂は五十年以上にわたる経験を総動員してもまだまだ理解できないことがあることをこの二日で知った。宇宙人もきっと本当のことなのだ。とりあえずは田中一郎も含め、すべてを信じていこうと桂は決めた。なぜなら、疑いを持って生きて行くのはとても疲れるから。そして、この歳になって疲れることは極力避けたいから。


 心に一応の区切りをつけ納得には程遠いながらも前向きになった気持ちで腕時計を見ると、もう11時を回っていた。午前中の大半をおしゃべりで済ましたことになる。桂は慌てて目の前に並ぶファイルやノート類の中から日誌を探した。仕事の一つで、何時に何をしたか来訪者は誰でどういう用件であったか、また、建物のメンテナンスで気付いたことなどを書かねばならない。桂は表題に黒いマジックで「にっし」と書かれているノートを見つけ出した。「かんりにんしつ」と同様へたくそな字で表題が記されている。いままでどのような体裁でどのような感じで書いていたのか気になって、前のページをめくった。ぱらぱらと繰って驚いた。そこには日付と天気以外何も書かれていないのだ。その天気も恐らくいい加減なもので、「はれ」や「くもり」が適当にある中、一月の寒い時に「台風」がやって来てるし、八月の猛暑の頃に「大雪」と記されている。桂はファイルを出して、今一度この仕事の勤務細目に目を通した。一般に管理人の仕事として常識的なことが並んでいる。桂は理解した。空さんは、自分がこのアパートのオーナーだから好きにやっていたのだ。空さんの場合はそれで済むけれど、自分はお金をもらって管理人をしている以上そうはいかない。ちゃんと仕事をしなければならないし、それを要求されている。桂は、なるべく正確な時間を思い出しながら、ここ二時間ほどであったことを、冷蔵庫のペットボトルの消費も含めて、事細かに記入していった。

 元来、身体をつかう仕事よりもデスクワークの方が向いている桂は、几帳面に細かな字で書き記した。書き終わると12時近くになっていたので、お弁当をとりに自室に戻るべく、何かドアノブにその旨書いたものを残そうと適当なものを探してきょろきょろしていると、麗子さんが魔法で持ってきた箒とちりとりが目に入った。まだ、玄関脇に立てかけたままだったのだ。桂は人差し指と親指で鉄砲に見立て片目をつぶって狙いを定めた。小さな声で、バーンと言ってみる。がもちろんびくともしない。指を振ってみてもダメ。あたりまえだ。仕方なく重い足取りでそれらを手に取り「そううじようぐいれ」にしまう。心の中で自分に対して叫んだ、他人は他人、私は私。

 二つに折りたたまれた状態の使い終わったカレンダーを書棚の下の段で見つけた。広げると、遠~い昔インターネットやテレビよりも映画が全盛だった頃の女優さんたちが着物を着た写真が目に入った。美の競演というのはこういうことか。映画会社がその年の「売り」をアピールするためにつくったものだ。懐かしいというよりも、桂にとってすら母親に手を引かれ一度か二度見に行った記憶しかない銀幕のスターたちが笑いかけている。1972年とあるそのカレンダーが、何故そんなにきれいなまま保存されているのかはわからなかったが、空さんが一時でも大事にしていたのかもしれない。今はこうしてあるのだから、使っても構わないだろう。適当な大きさに切り、「12時~13時 昼休み中」と書きひもをつけてドアノブに下げた。この一時間、緊急の場合を除いて「かんりにんしつ」は閉鎖となるが、電話をとらないわけにはいかないので、中で昼食というのがベストらしい(9時から夕方5時までが勤務なのだ)。朝来るときにお弁当を持ってくればよかったのだが、初日で緊張し慌てていた桂はそこまで頭が回らなかった。急いで帰って冷蔵庫の乏しい食材からおにぎりを二つ作ると、また、「かんりにんしつ」に戻った。飲み物はペットボトルの緑茶をいただこう。

 デスクに座ってお茶を一口飲む。おにぎりをとりラップをはずしてかぶりついたところで、ドアが開き田中一郎が顔を出した。

「あ、お昼ですか。いい所に来た」口の中のものを咀嚼するという動作が止まる。いいところに来たって、どういうことだ。それに確か鍵は掛けたはず。縦のものを横にするだけの簡単な鍵だから、甘くなっていてしっかりとかかっていなかったのかもしれない。しかし自分ではちゃんと横にした覚えがあったのだが。かじったおにぎりを持ったまま、桂は呆然とドアを見つめた。朝の時と同様、田中一郎はずかずかと入ってきてソファに座った。まるで自分の家のようだ。

「それ、おにぎりですか、美味しそうですね」桂の手元をじっと見て遠慮もなく言う。昨日と今日の午前中会っただけなのに、随分となれなれしい。桂はおにぎりをおいてその上にラップとメモ用紙をかぶせ田中の視界からさえぎると、立ち上がり玄関まで行ってドアを調べた。鍵はかかっている。でも目の前の宇宙人と自称する人物がかけたのかもしれない。自分は確かに掛けたのに開いていたのか?桂は田中氏を疑惑の目で見ながらデスクに座った。

「風魔さんはどうしたんですか」桂は二人がいつも一緒にいるように感じて、聞いてみた。もちろんおにぎりから関心を逸らすためである。

「光太郎は学校です」

「学校って、風魔さんって学生さんですか?」黒装束だから年齢がわからない。出ている頭だけでは見当のつけようもない。

「とんでもない。やつはああ見えて校長をしているんですよ、親の後を継いで」校長先生?あのニンジャが?学校って、何の学校?クエスッションンマークで頭がいっぱいになる。聞きたいことがいっぱいだ。声がのどまでできたところで、むこうの方が早かった。

「おにぎりおいしそうですね」桂は負けたと思った。

「おにぎり好きですか」小学生に問うような質問だ。

「おにぎり大好きです」子どものような笑顔が返ってくる。

「とくに昆布の。背中に隠しているの、昆布のおにぎりでしょ」むむ、何故わかったのか。冷蔵庫には梅干しもあったが、種を取るのが面倒で昆布の佃煮を入れたのだ。この距離では見えるはずはない。桂は4メートルと目測した。それに、まだひとかじりしただけで具には到達していないのに。

「何でこのおにぎりの中身が昆布だとわかったんですか」

「わかりますよ、それくらい」透視したのだろうか。それとも犬並みの鋭い嗅覚の持ち主ということも考えられる。この人もやはり変。物言いがどうにも小憎らしい。横目で見るとまだ桂を見ている。その目はまるで、主人に対して今か今かと散歩を待つ子犬のようだ。

「おにぎり食べますか、あの、作ってきますけど。昆布しかないですが」あー、言っちゃった。本当に作るとなったら面倒くさい。そもそも昼休み時間が減っちゃうし。<いえ、結構です。悪いし>って答えて!

「え、いいんですか、じゃあ、おねがいします」ええー、そうなるの!桂は自分の軽率さにほとほとあきれた。昨日も散らかった家に二人を上げてしまったではないか。見ると田中氏はソファの上でやった!やった!と小躍りしている。桂は仕方なく腰を上げた。期待の目が追う。

「あの、急いで行ってきますから電話番お願いしますよ」少しきつい言い方だったかもしれない。が、田中氏は一向に気にしていない風だ。

「ゆっくりでいいです。僕ちゃんと番していますから」やった!やった!とまだ踊っている。

 いい顔をしたいと思ったわけではない。ただ青年の母親のような年齢にあって、少し自分にも何かできるところを見せたかったのだ。わさび村へ来てプライドが揺らぐことが続いた。実際にはそれほど胸を張って言えるような自尊心はもちあわせてはいないが、それでも今まで生きてきた功というものがある。そう、亀の甲より年の功だ。

 桂には他人より誇れるものが何もなかった。大学は出たけれど文系で、資格といえば自動車の普通免許を持っているくらい。正規の社員になったことがないからキャリアが無い。掃除以外の家事も、一応できるという程度。コンプレックスの塊にきこえるが、それでも長く生きてきて感動する体験をいくつもしてきたし、前向きに生きようとする気持ちだけはいつも持ってきた。桂が今ここにこうしてあるのはその気持ちであり、そういう桂を認めてくれる友達の存在だった。

 自分の台所で昆布の入ったおにぎりを握りながら、桂は何故かおかしくて仕様がなかった。赤の他人の誰かにおにぎりとはいえ食事をこうして作っているなんて。この歳で自分にそれを任せる人が現れるなんて予想だにしなかったし、それを引き受ける自分にも驚いていた。

 田中一郎は自分を宇宙人などと言っている変なやつで、もしかしたら危害を加える危険人物かもしれない。それでもこうして桂の作るおにぎりを待っているという今の状況が、桂にはそれまで経験したことのない愛しいものと感じられた。

 冷凍庫にあるだけのご飯を解凍し三つの大きな昆布入りおにぎりを作った。ラップをかぶせ『かんりにんしつ』に持って行く。ドアを開けると直ぐに田中一郎が飛んできて、「ありがとうございます」と言うなり皿を受け取った。ラップをはずして歩きながら口に入れる。

「お行儀悪いですよ、座って食べてください」

と桂が言うと田中氏は恥ずかしそうな顔をして静かにソファに座った。口はおにぎりをほおばったままだ。テーブルにはペットボトルのお茶が載っていた。準備をして待っていたのだ。桂も自分のデスクに戻ると自分のおにぎりにかぶりついた。仕事初日で、肩からふーっと緊張が解けていくのが感じられた。どれだけ力が入っていたのだろうか。

 しかし、そのお昼で、まさか住人と二人してご飯を食べるとは思っていなかった。壁を見つめながらもくもくと、というのを予想していたが、予想に反して楽しい食事となった。席を同じにしているわけではないのだが、部屋にひとりぼっちではない。人がいて(宇宙人らしいのだが)一緒の空間でご飯を食べているという絵面がいいのだ。

 田中氏の向かいに座ろうとは全く思わなかった。自分から「一緒に食べましょう」などという言葉を男の人に、それも若い男性にかけるなんて死んでもできない。昭和の中ごろの女性として、「自分から」というのが恥ずかしいということもあるが、何よりこんなおばちゃんと一緒ではご飯もまずくなるというもの。それが百も承知でわかっているから、相手がこちらに気を使って言葉をかけてくれるのも嫌だ。それゆえ、田中が桂に声を掛けずただがつがつと食べ続けてくれるのが、心地よく安心できた。

 桂が食べ終わったとほぼ同時に田中も食べ終わった。「いやあ、食った、食った」とお腹をさすっている。

「うまかったです、ご馳走様」田中はラップをくしゃくしゃに丸めると皿の上に置いた。

「お粗末さまです」桂はよく母が口にしていた言葉を言ってみた。田中はきょとんとした顔をしている。

「そう言うんですよ、お粗末さまでしたって」なんだか母親というよりおばあさんがものを知らない若者に言うようなせりふである。だからそのように受け取られたのかもしれない。田中氏はむっとした様子で言った。

「知っていますよ、謙遜して言うんですよね。久しぶりに聞いたからちょっとびっくりしただけです」あごをあげ、口を尖らせている。やっぱりちょっと生意気だ。もっと素直に人の気持ちを受け取れないのか。話題を変えた方がいいと思い法常寺さんが来たことを告げた。

「ああそうですか、よかったです」なんだかもう関心がなさそうな言い方だ。

「あの人魔女さんなんですね、驚きました」箒とちりとりが用具入れから出てきたことを話す。

「掃除は麗子さんに任せておけば大丈夫ですよ。年に何回かぼくも光太郎もお願いしています。掃除できる魔女って、わらび村にはたくさんいるけど、麗子さんが一番だと思いますよ。中にはいろいろ壊しちゃう人もいて、麗子さんはそんなことないです。あ、でも整理するのはダメです。彼女は掃いたり拭いたりするだけ。桂さん今、自分の部屋をやってもらおうと思ったでしょう」桂はびっくりしてペットボトルのお茶を落としそうになった。

「どうしてわかったんですか。田中さん本当に宇宙人?超能力とか読心術とかとかできるんですか」

「ぼくは宇宙人だけど、超能力なんて使ってないですよ。そんなの使わなくたってわかります。桂さんすぐに思っていること顔に出ますね。わかりやすい人だ」バカにしたように右の口角が上がったので桂は完全に頭にきてむくれた。頬がふらんだのだろうか、その顔を見て田中がまた笑う。桂が目指していたかっこいいクールな女性像が、二日目にしてがらがらと音を立てて崩れていった。

 気持ちを入れ替えようと桂は大きく息を吸った。新天地に来て間もないというのに劣勢ムードが漂う。おにぎりを二人して食べたあの素朴な親しさというのは何だったのだろう。


 桂が暗い顔しているのを見て田中は後悔した。またやってしまった。どうやらまた、光太郎言うところの鼻持ちならない自尊心が出てしまった。新しい村人がこの村を気に入ってくれるよう歓待するための代表として、みんながせっかく選んでくれたのに、これでは早々に逃げ出されてしまう。光太郎から先々日注意されたばかりではないか。


 田中一郎と風魔光太郎は、光太郎が東京の大学を卒業して「わらび村」に帰ってからの付き合いである。光太郎は一時実家に住んでいたが、二年前「大石荘」に住むようになってますますその親交は深まった。外交的で誰に対しても臆することのない田中に対して、光太郎は本来シャイでしゃべるのが苦手なこともあり、結果二人でいると主導権は田中が握ることになる。ただ、何でも知っているというプライドからくるいかにも自信に満ちた話し方が、相手の感情を傷つけ、気まずい場面を招くことがこれまでに何度もあった。そのたびに光太郎はひやひやしていたが、年上で自信家の田中に何か言うことなどできなかった。

 二人が月夜野桂の担当特使に選ばれた時、光太郎は喜ぶ一方で田中のこの傾向を危惧した。日ごろ光太郎は田中の言うことに対して反論などしないのだが、このときは彼に釘を刺したのである。

「代表になったから言うんですけど、田中さん時々人を不愉快にさせるときがあるので気をつけてください」

意を決したように、いつも以上に真剣なまなざしで話す光太郎の言葉を、田中は素直に聞き入れた。というのも、自信家でありながらその一方で小胆でもある田中は、その態度や言葉によって相手がいやな顔をするのを自分でも日ごろからわかっていたのだ。けれど「これからは気をつけよう」の連続、「後悔先にただず」でなかなか治らない。これまでにどれほど多くの敵を作ってきたことか。しかし、特使になったからには安直にかまえてもいられない。光太郎の言葉を田中は肝に銘じた。凡人には及びもつかないほど高い自分の知性を押し隠して、言葉と態度を慎むようにしよう。


 桂に会うまでは本当にそのつもりでいた。何かしゃべる時には一呼吸おいてよく気をつける。時々横の光太郎を見て反応をうかがい、彼が少しでも変な顔をしたら、たとえそれが正論であると信じていても、口を閉ざすのだ。

 しかしいったん会ってしまうと…、光太郎の注意もどこへやら。外見では自分より二十歳以上も年上のこの女性を見ていると無性にからかいたくなる。相性というのだろうか、この五十女は一つ一つのことに直ぐに反応し実に面白い。こちらがこう言えばこう返してくるだろうということが、ほぼ百パーセントの確率で当たる。時折予想外のものもあるが、それがまた絶妙で好奇心をくすぐる。これを相性といわずして何を相性というだろう。

 年上の人に「わかりやすい」などという言葉を使ったことはまずかったが、あえて謝罪せず様子を伺うことにした。

竹を割ったような性格とか小さなことにはとらわれないといったイメージは桂にはない。むしろ一見すると細かいことにこだわりうるさい感じに見られるかもしれない。いつもニコニコしているわけではないから、とっつきやすいということもなく、嫌なことがあるとすぐに暗くなる。だから、よってたかって励ましてくれるほど人気もない。否、むしろ彼女が落ち込んでいるなんていうことに周囲は関心がないといった方がいいだろう。40代・50代の女性は自分で発しない限り、誰も振り向いてはくれないのだ。桂にとってそれは20代の時から続いていた。自身は気付いていないが、しかしそういったところが彼女の強さを作ったのかもしれない。誰も助けてくれないから、自己嫌悪のどつぼにはまってもひとりで這い上がってくるしかない。ついこの間会ったばかりの年下の小生意気な男にバカにされることなど、これまでの桂の体験からすれば蚊に刺された程度の些細なことだ。田中氏がそこまで彼女のことを見抜いていたとも思われないが、彼はその顔つきから桂が今気持ちを立て直しているところだと思った。

 桂は口をぎゅっと閉じ龍のように鼻から強く息を吐いた。バカにされることには慣れている。ああ、かっこ悪い。

 田中が横目でそっと様子を伺っているとその反応が現れる前にチャイムが鳴った。ポンポンポンポ~ン、ペンポンパンポ~ンン。まだ昼休み終了までには10分ある。軽快なノックが二回したかと思うと、すでにそこにはピンク色のぼさぼさの髪をした30代前半と思しき女性が満面に笑みをたたえて立っていた。

 昼休み中の掛け看板も下げ、ロックもしたはずなのにまたもや人が入ってきた。もはや、下げ札も鍵もここでは意味が無いようだ。桂がすばやくイスから立ち上がって玄関にむかう。

「こんにちは、門田川です」

ピンク色の髪が揺れた。こちらがどうぞと言う前に入ってくると、慣れた動作でスリッパ立てにあった中からピンク色のスリッパを選んで履き、田中の斜め向かいに座った。玄関に向かいかけていた桂は慌てて方向転換してキッチンへ。冷蔵庫をあけ飲み物を取り出すと、グラスとともに門田川夫人の前においた。

「あらあ~ありがとうございます、気を使わないで下さい。すみませんねえ、お昼休み中でしたでしょ」

あまりすまなそうには見えないが、そちらがそう言うので、桂は合わせて、

「いえいえ大丈夫です。もうすみましたから」と笑顔で答えた。

「いえね、今日が管理人さんの仕事始めで、ちょっとどうしているかなあ、なんて思ったものですから」

門田川夫人はそういうとキャップを開けお茶をグラスの注ぎ、半分ほどを飲んだ。グラスを置いたところで、いまやっと田中の存在を認めて横目で睨んだ。田中は天を仰ぎ長く息を吐いた。

「桂さん、引っ越してから姿見せなかったでしょ。風邪ひいていたんですって。言ってくれればいい薬を作ってあげたのに。これからは遠慮なく言ってくださいね。薬についちゃ私に任せて。この村でも評判なんだから。ついこの間もね、池のずっと奥に住んでいる岩清水さんとこのおばあちゃんの腰を、なおしてあげたんだから。軟膏なんですけどね、あたしが調合したの。塗ってもう次の日にはすっかり痛みが取れたって喜んでくれて。ええ、塗り薬も作ります、飲み薬と同じように、秘伝なんです。この村の人たちはだいたい私の薬で治っているんだから。苦いのが苦手だったら、そうじゃないようにしますよ。遠慮しないでね。もう荷物の整理は終わりました?寝込んでいたんじゃ大変だったでしょう。それで今日がもう仕事始めでしょ。もう少しゆっくりできたらよかったのにね。でもね、そっちの方はうちの旦那に言っておきますよ、仕事の空いた日に伺って。いえいえ大丈夫、何か見られて困るようなものとか無いでしょう」

顔中の筋肉を使い目をくりくりさせて、ふわふわのピンクの頭を振りながら話すのを、桂は全く止められないまま、ただ笑顔を作って頷いていた。

田中氏は落ちつかない様子で、下を向いたり左右を見たり、頭を抱えたかと思うと足を組み替えて壁の一点を見たりしている。桂の笑顔がこわばってもう二度と元の顔には戻れないのではないかと思われた頃、マシンガントークもやっと玉切れとなった。

「あらー、いやだー、あたしばっかりおしゃべりして。だからね、そういうわけで、これからもよろしく。では今度の日曜日に」

門田川夫人は、「これもらっていきますね」と言いながら、四分の一ほど残っているペットボトルをそのぽっちゃりした指でつまんでそそくさと帰っていった。

 入ってきたのも早かったが帰るのも早かった。「そういうわけで」がどうやら桂のことを心配してくれて薬を作ってくれるらしいということがわかった。さらに、今度の日曜日に門田川さんが自分の部屋にやって来て整理をしてくれることと、どうやら自分には他人に見せたくない物など無いと認識されていることが判明した。桂はそれまで開いていた口をやっと閉じた。

「あの、面白い人ですね」

門田川夫人のオーラがまだ室内に残っている中、激戦を戦い抜いた戦友同士のような気持ちで桂が田中氏に話しかけると、彼はぐったり疲れた様子で小さく頷いて少し笑った。

 痩せた銀行員風のそれでいて実はトラック運転手の門田川さんと、今の夫人が結婚しているとは、桂にはとても信じられなかった。向かい合って夕飯を食べる時、おせんべいをかじりながらお茶を飲むとき、二人はどんな会話をするのだろう。恐らく一方的に彼女がしゃべくりまくるのだ。それをご主人が優しい顔で頷きながら微笑んで聞いている。

世の中にはいろいろな夫婦がいて、ちゃんと仲良く暮らしている。私たちは何故そういう風にはならなかったのだろう。桂はいつも夫婦のこととなると過去の自分を思い出さずにいられなかった。どこが悪かったのだろう。自分たちに無くてこの人たちにあるもの、それとも、自分たちにはあってこの人たちに無いものとはいったい何なのだろうと。癇癪を起こしたことも無ければ、束縛をしたこともない。疑うこともしなければ、もちろん自分で嘘もつかなかった。相手の携帯電話を見るなんてとんでもないし、相手の家族の悪口など言ったこともない。いつも二人でいるときは笑いが絶えなかった。なのに何故…。

 田中氏は桂が暗い顔をして下を向いているのに気づいた。

「亜衣さんの薬は本当によく効きますよ。僕が昨日言ったのは亜衣さんのことです。ずいぶん心配していたんですよ。引っ越してからずっと外に出てこなかったでしょう。きっと病気だって。亜衣さんは自分が見てくるって言ったんですけど、彼女しゃべりだすと止まらないから。みんなで留めたんです」

光太郎を天井裏に貼り付けることを、二度三度にわたって推した自分のことはすっかり棚に上げて言った。

「みんなって、アパートの人たちですか。そんなに心配かけてしまっていたなんて、すみません」

なんだか胸が熱くなった。初めてのところに来て、こんなに自分のことを思ってくれているなんて今までになかった。管理人だということもあろうが、そういうことを差し引いても、自分に関心を持ってくれているのがありがたかった。

 桂は壁にかかっているネコ時計を見た。すでに1時を回っている。あんなに大きな音を出すのに、どうやら今まで気が付かなかったようだ。人が出たり入ったりでそちらに注意がいったのだろう。ドアを開けつるしたプレートを中に入れた。せっかく作ったのに結局意味は無かった。下げ札を掛けても鍵を掛けていても、ここではどんどん人が入ってきてしまう。しかし桂は思った。人が来ないよりはずっといい、千客万来だ!



 田中がまだぐずぐずとしているので、気になっていたことを聞いてみた。

「ところでお二人はどんなお仕事をしているのですか。あの、田中さんと風魔さんは。言いたくなかったらいいんですけど」

「べつにかまいませんよ。それに風魔さんじゃなくて光太郎でいいです」なるほど、管理人の大石さんは「空さん」で法常寺さんは「麗子さん」、星野木さんは「美宇さん」で門田川夫妻は「裕さん」と「亜衣さん」、それに私は「桂さん」だ。ここでは下の名で呼ぶのが普通なのかもしれない。これまでの職場と変わっているけど、親近感がわくと同時に少しこそばゆい、恥ずかしい思いがした。ごく親しい友達以外からも、下の名で呼ばれるなんて今まで無かったことだ。

「光太郎さんは校長先生をしているということでしたよね、何の学校ですか」

「ニンジャの学校ですよ」田中はこの人は当たり前のことを何故聞くのだろうというような顔で桂を見た。

「光太郎のうちは代々学校をやっています。風魔小太郎って聞いたことないですか。それが光太郎のご先祖様で、けっこう有名な家系なんですよ。数年前からお父さんの仕事を手伝って、二年前に光太郎が校長になりました」

まるで老舗の呉服屋を継いだ友人のことを話すような口ぶりだ。ニンジャの学校でなければ、感心な青年ということで理解するだろう。しかし代々続くニンジャ学校って?風魔小太郎ってどこかで聞いたような。にわかに信じ難いが、ここに来てからその信じ難いことばかりが桂の目の前で起こっている。これはこれとして納得するしかないのか、疑ってもきりが無い。桂は、ここの人たちが自分で言うような者なのだと、信じようと思った。理屈にはどうにも合わないけれど。

「あの、では田中さんは仕事は何をしているんですか」

SF好きな人たちの集まりか何かで生計を立てているのだろうか。必ずしもスーツを着て朝出勤するばかりが「仕事」でないことは当たり前。現在では予想もしないようなことで収入を得られることくらい、桂は知っている。元来好奇心の強い桂は、どんな話が飛び出すかわくわくしながら身を乗り出して、彼がしゃべりだすのを待った。

「ぼくはブログとインスタをやっているくらいかな。純粋な仕事という意味では何もしていないです」

桂の期待をわざと裏切るように田中がさらりと言ってのけた。

「ブログって宇宙関係のこと?」ためしに聞いてみる。

「そう、ぼくの知っていることを」きっとアクセス数は多いのだろう。広告を載せたらそれだけでいくらかの収入が得られると以前どこかで聞いたことがある。頭の良い人ならどんな方法でも収入に結びつけることができる世の中だ。お金を得るには、多かれ少なかれ苦労や困難が伴うと考える昭和世代の桂には、考えつかないこと。宇宙人と称する田中氏は、まさにそういった人たちの一人なのだろう。座って指を少し動かすだけでお金が入る、そう思うと羨ましいを通り越して妬ましくなってきた。

 元よりどの分野においても専門的知識など全く無い桂だが、昔から宇宙には関心があった。何を隠そう宇宙人の存在だって実は信じている。しかしそれは自分とはずっと離れたところにいて、何か秘密の指令のもとに活動していると想定することであって、――地球の破壊では困るが――同じ部屋で一緒にペットボトルのソフトドリンクを飲んだり、昆布のおにぎりを食べたりするのとはわけが違う。

「僕はスクールの手伝いもしていますよ、まあ、雑用みたいなものだけど」

田中氏は無職のような感じを桂に抱かせるのを懸念してか、弁解するように付け加えた。

「生徒さんはたくさんいらっしゃるんですか」ニンジャの生徒なんて、漫画的で現実には想像もつかない。

「現在は30人ほどです」

30人?これが多いのか少ないのか、どう判断したらいいかわからない。黒装束のちびっ子が30人その辺を走り回っているのを想像したら、何かおかしくなってきた。

次に何を聞いたらいいのか考えあぐねていると、田中が急に立ち上がり、「じゃあ、ぼくはこれで」というとそそくさと帰っていった。パタンというドアの閉まる音と後の静けさが桂を包む。会話が途中で途切れた感が否めないが、もしかすると桂の気付かない間に、時計を見たのかもしれない。田中が昼に来てからだいぶ経っていた。

 ひとりになった部屋で桂は思った。田中氏はいったい何をしに来たのだろう。あらためて考えると不思議だ。麗子さんのお掃除のこともあるが、まさかお昼ごはんをたかるのが目的ではあるまい。聞きたいことは山ほどあった。宇宙人だと名乗る男に、真正面から目を見て話をするのはちょっと抵抗があるが、なぜか自分はすぐに慣れるのではないかという気がした。これからいくらでも聞く機会はあるだろう。ここの人たちは、排他的とか閉鎖的という言葉とは無縁のような気がする。むしろそのことの方が大事なのだ。新しい土地で緊張していた桂を暖かい空気が包んだ。


 田中氏がはいていたスリッパをかたづけようと玄関に向かう。腰をかがめたとたんに勢いよくドアが開いたので、まぶしい光に思わず目をしばたたいた。と同時に「ただいま~」と大きな声がして、ランドセルを背負った男の子が三人どやどやと入ってきた。スニーカーの靴を蹴り上げるように脱ぎ、スリッパも履かずにランドセルをソファの上に乱暴に放り投げる。何が起きたのか、桂が呆然としていると、その中の一人が桂の前に立った。白いクルーシャツの上に緑色のポロシャツを着て、他の二人よりも縦も横もあって体格がいい。目はくりくりと神妙な顔つきで桂を見上げている。

「桂さんでしょ、これからお世話になります。よろしくおねがいします」というと、黄色い帽子を脱いでぺこっと頭を下げた。それにつられて他の二人も帽子を脱いで「おねがいしまあす」「おねがいしまあす」と桂に小さく頭を下げる。こんな小さな子から「桂さん」と呼ばれて戸惑ったし、何を「おねがい」されるのかわからなかった。なんでこんな時間に、小学生がアパートの管理人室に来るのか、判然としないままに「こちらこそ」などと口の中で返事をし頭を下げたが、上げた時には子供たちの姿は無し。とっくに三人ともキッチンの方に行っていた。三つの黄色い帽子が床に散らばっている。「ちゃんと言えたじゃん」と二人が体格のいい子をこずいたりしながらからかっているのが、聞こえる。

 三人がそれぞれペットボトルのソフトドリンクを持ってソファに座るというか上るのを見計らって、桂が彼らの前に腰を下ろすと、三人は緊張したようにお互い見合わせ、隣の子の脇をひじでつついた。彼らにしてみれば、自分たちのお母さんより年上のおばさんである。怒られるのかと思ったのかもしれない。両手でしっかりと握ったペットボトルはひざの上だ。桂は笑顔を作りながら、なるべく優しい声で尋ねた。どのようなシステムになっているか聞きたかったのだ。

「今、学校終わったの?」

「終わったよ。ぼくたち青菜町立小学校の一年生だよ」黄色のTシャツを着た茶髪の子が口を尖らせて言った。一番背の低く全体的にも一番小さな子だが他の二人よりのずっと生意気そうだ。

「いつも学校が終わったらここに来るの?」

「そう、だいたいここに来る」右に座っていた水色の綿シャツを着た子が答えた。生真面目そうな目が桂をみつめ、彼女が「そうなの」というとにこっと笑った。

 彼らをじっとさせておくのはそれが限界だった。桂が、「お家の人たちはここへ来ることを…」と言いかけてほんの一瞬目をそらしたところで、三人はそれぞれもう一口ずつドリンクを飲むと乱暴にボトルをテーブルに置き、ソファから飛び降りて事務用品などが入っているタンスの方へ、我先に走っていってしまった。言葉が宙にむなしく漂う。

 それにしてもあそこに子供が喜びそうなものなど無かったはずだが(朝来た時に確認した)。今彼らは戸をあけ頭を突っ込むようにして、引っ掻き回している。なにやら大騒ぎで吟味したのち、剣玉とすごろく、それにパズルを持ってきてわいわい言いながらソファの回りで遊び始めた。何でそんなものここにあるのか。どこから沸いて出てきたのか、訳がわからない。それにこの状況。剣玉のカンカンと木のあたる音の合間に、お互いにからかいあう声ややじが重なる。それぞれ違うことをしているのに、他の子のやっていることがわかっているようだ。今まで大人のトーンに慣れてきた桂にとって、子どもたちのワーワーキャーキャーは耳に響いた。頭がジーンとして、その騒音の渦の中でしばし我を忘れ、それまでにも増して急に歳をとったような気がした。

 子供たちについて、ここに来ることが日常のことであるならば、私がとやかく言うことではない。光太郎や田中一郎も入り浸っているようだし、恐らくこの部屋はそのように利用される場所なのだ。では、このおもちゃは?桂は子供たちが向かったタンスを確かめに立ち上がった。

 どこの家にも一つはありそうな木製のタンスである。一番下の引き戸に、「おもちゃ」と書いた横5センチ楯3センチほどの白いテープが張ってある。朝見たときには「じむようひん」となっていて、荷物ひもの大きく丸めたものや色とりどりのテープが何巻か、それに新品のファイル類が入っていた。何の興味も持たずにすぐに閉めたのを桂は覚えている。戸を左に引いた。こちらは、細かいブロックが山盛り入ったプラスチックの箱や、将棋の盤と駒などがぎっしり詰まっている。どういうこと?白いテープを触ってみた。すると「おもちゃ」の文字が「じむようひん」に変わった。おそるおそる戸を横に引くとそこには大きなひもが3巻とピンクと黄色のファイルが現れた。桂が再び閉めて白いテープを触ると「おもちゃ」に変わった。中にはゲーム盤やプラスチックの箱が入っていて、将棋の駒が入った箱とトランプが危なっかしげに上にのっている。桂は、子犬のように転げ歓声を上げている子供たちをチラッと見た。無邪気に遊んでいる様子は、桂のそれまでの基準で“普通”である。。つまり、もうこれはこれなのだ。桂は自分を納得させ、引き戸を閉めると自分のイスまで足を引きずるように運び、そこに重いお尻を預けた。

 デスクに向かい深く息を吸って気合を入れる。『管理日誌』の今日のところを開くと来室した時間と名前を記入した。最初に挨拶した体格のいい子はシュン君、生意気そうな黄色のシャツの子はキスケ君、水色のTシャツの子はトーマ君だ。どこのうちの子かはわからない。呼び合う名前で判断した。親はこのアパートの住人だろう、いや近く住んでいる人の子もいるかもしれない。聞いてみようと振り返ると、キスケがトーマに詰め寄っている。「なんでズルするんだよう」キスケがトーマの胸ぐらを掴み、足も出て蹴飛ばしあいだ。どうやらキスケはパズルをしながらトーマとすごろくもやっていたようで、パーツをあわせている隙に、トーマはキスケのコマを後ろにずらしたらしい(と、キスケが主張している)。桂が間に入って収めたが、しばらくして今度はキスケのパズルをシュンが蹴飛ばしたと言って、桂に泣きついてきた。悪気があった、いや無かったともめたあと、ぐしゃぐしゃとなったところを、桂が一緒にやってあげることで決着する。その後も三つ巴の格闘が、つかの間の平和状態にはさまれながら、時間だけが過ぎていった。いつしか桂はボールペンのキャップをコマとしてトーマとすごろくをしながら、キスケのパズルを手伝い、シュンの剣玉にアドバイスを与えていた。格闘や悶着には、桂が入ることも3人だけで解決をみることもあったが、不思議と誰かがその場にいたたまれずに、部屋から飛び出すということはなく、3人がそれぞれついたり離れたりしながら遊んでいた。

 ネコ時計の針が4時半を指してボーンボーンと鳴り時を知らせると、お城から大きな黒猫が出てきて大きなあくびをした。

「あ、もうこんな時間だ。片付けなくちゃ」トーマが時計を見上げていった。

「なんだよ、もうそんな時間かよ」文句を言いながらキスケがパーツを集めて箱に入れ始めた。

「今日はおばあちゃんが来るんだ。早く帰ろう」シュンが剣玉の紐をくるくると持ち手に巻いて赤だまを剣に刺す。

 拾い損ねたパズルのパーツと放り投げられたコマを拾う桂の横で、キスケが折り目を無視してすごろくの盤をたたむ。手を出そうしたときには遅く、くしゃくしゃのすごろく盤を持ってキスケは走り出していた。3人が競うようにして自分が使ったおもちゃをタンスまで運び、乱暴に押し込んで戻ってくる。そそくさとランドセルを背負うと、黄色い帽子をかぶりながら桂に「さようなら」と言って出て行った。



 台風の後のよう。ばたんという音とともに部屋は突然の静寂に包まれた。まるでそれまでの騒ぎがうそだったかのようだが、しかし、周囲の壁には子供3人分の喧騒がしみこみ、テーブルの上に置かれたままの飲み残しのペットボトル3本が、かれらの居たことを歴然と物語っている。桂がボトルを片付けようと重い腰を上げると、時計の黒猫は城内に引っ込むこともなく、前足をクロスにしてそこに頭を乗せ、眠そうな目をこちらに向けていた。

 やれやれ、魔法もニンジャも宇宙人もタンスの不思議でさえ、子供3人に比べたら何のことは無い。しかし、あんなにぎやかな子達が近くにいるというのに、何で今までその声を聞かなかったのだろう。引越し直後の風邪で伏せっていた時だって、熱で朦朧としていたのはほんの数時間。後は布団の中でだらだらしていたのだ。子どもの声はもちろん大人の声もしなかった。ただ心地よい鳥の鳴き声が桂の気持ちをやわらげ、穏やかな眠りに誘った。大石荘は鉄筋コンクリート造りだが、窓側に寝ていたのだから、少しは人の声が聞こえるはずだが。

 不思議なことだらけで感覚が麻痺しそうだった。が、とりあえず大事なことは今日のこと。果たして仕事の項目に「子どもの世話」は入っていただろうか。これから毎日彼らがやってくるかと考えると、この仕事の大変さをあらためて桂は痛感した。空さんはどのように対処していたのだろう。

 

 ざっと室内をきれいにして外に出る。アパートの周囲を点検した後、「かんりにんしつ」に戻ったらネコ時計が5時を告げた。黒猫は思い腰を上げてまた大あくびをすると、入念な毛づくろいの後、威厳たっぷりにゆっくりと城内に帰っていった。出て行くのを見なかったから、もしかするとあれからずっとお城の中に入らないでそこにいたのかもしれない。

 桂は『管理日誌』に記入漏れがないことを確認すると、深く息を吐いた。とにかくこれで今日の仕事はおしまい。第1日目にしたらいろいろなことがありすぎた日だった。


 自分の部屋に戻ろうと“かんりにんしつ”に鍵をかけると、後ろから声を掛けられた。

「こんにちは、新しい管理人さんですよね」

見ると真っ黒な髪をクレオパトラのようにカットしてクロぶちのめがねをかけた40歳前後の女性が立っていた。七分の黒いレギンスになにやらイラストの書かれた白いTシャツが、桂より10センチは高いであろう身長と10キロは軽いであろうスリムな身体にぴったりとよく似合い、白くて長い足は格好よくヒール三センチのサンダルは洒落ている。しかしその雑誌から抜け出たような装いとは不釣合いに、長く細い腕には乾いたタオルやシャツ、靴下やハンカチ、それに下着らしき洗濯物がいっぱい抱えられていた。彼女のうしろ20メートルほど先は車の行き来する道路で、そこからこのような物を抱えて来たとすると、妙な気がする。桂は思わず、「こんにちは月夜野です、よろしく」に続けて「どうしたんですか」とたずねた。

「こちらこそよろしく。202の小松原です」ちょっと頭を下げたので洗濯物に顔を埋めるような感じになった。顔を上げると桂の視線がそこにあることにきづく。大きなめがねがずれて照れたような顔が人なつっこく、桂も思わず笑顔になる。

「ああ、これ。いえね、毎回ってわけじゃないんですけどね。ちょーっと目を離したら飛んでちゃって。いえ、ほんと、毎回じゃないです」右のひざで洗濯物を支えながら右手でめがねを上げた。まずいところを見られたようなばつの悪い顔したので、桂のほうが気を使うことになった。とがめたわけではない。

「この間なんか道路二つ向こうまで行っちゃったんですけど、今日は大丈夫、駐車場の手前の木のところだったから」そういうと恥ずかしそうに下を向きながら足早に桂の傍らを通って階段へと向かった。

 桂はただ事情が聞きたかっただけだったのに、何か管理人として上から目線の物言いだったろうか、言葉が足りなかったのか。振り返って小松原さんの方を見たときにはすでに室内に入った後だった。

 揉め事は起こしたくない。仲良くしていきたい。うるさいおばさんなどと思われたくない。たとえそこが魔女やニンジャや宇宙人と称する人たちが住むところであっても。意気消沈して自分の部屋の照明を点けたとき、一気にその日の疲れたが出て、桂はダイニングのイスに倒れるように座り込んだ。若くはない。セーブしながら仕事をしていたつもりだったが、やはり気を張っていたのだろう。テーブルに両腕を載せその上に顔を突っ伏して目を閉じた。

 体が少し重たかった。病み上がりであることを思い出し、ふとんをひいてそのままずっと朝まで眠ってしまおうか、そんな誘惑が頭の隅に沸きあがった。がしかし、桂はすぐに頭をあげ深呼吸をすると立ち上がり、自分の洗濯物を取り込みにベランダに出た。

 六月中旬の空は五時を過ぎてもまだ明るく淡い水色に輝くような日の光に満ちている。雨はどこへ行ってしまったのか。お蔭で洗濯物は乾くが、と桃色のパジャマに手がいったとき、紳士物の靴下やワイシャツ、女性物のひらひらレースのついたパンツや花柄のハンカチなどが向こうの木々との間、そよ風の吹く宙を舞っているのが目に入った。ひゅいっと上がったかと思うと空中できれいに畳まれ、お行儀よく列を成して一枚一枚きちんと桂の部屋の斜め上の方へ吸い込まれていくではないか。その全ての洗濯物が入ると窓のピシャッと閉まる音がした。

 桂は開いていた口を閉じると慌てて自分の洗濯物をとりこみ、腕にかかえたままどかっと居間に座り込んだ。なるほどね、小松原さん「あれ」を失敗したんだわ。引っ越してきて始めて自然な笑みがこぼれた。悪い気がして上がった口角を下げたが、今度は抑えきれず声を出して笑った。

 なんだか楽しくなってきた。麗子さんだけじゃない。ここには魔法使いがいる!いままで思いもしなかったような便利なことができる人たちが自分のすぐ側に。それに、、ニンジャに宇宙人も。これは現実なんだ。桂はそれまでの疑心暗鬼の暗い想いから、一気に解放されたようなす清々しい気分に浸った。テーマパークに来たようなうきうきする気持ち。これから何が起こるのか。でもきっと危ないことではないはず。空さんが私をここへ呼んだとき、それはとてもビジネスライクな感じがした。だから私もビジネスライクにきちんと仕事をこなさなくてはないらない。きちんとこなした上で、そしてこの生活を楽しもう。そう心に決めると、桂は夕食の支度にとりかかった。

  

 野菜炒めとそうめんの簡単な食事を終え、濃く淹れた紅茶にお砂糖と冷たい牛乳を入れてぼんやりとテレビのニュースを見ていると、ドアをノックする音がした。チャイムがあるはずだが、そういえば田中氏や光太郎が来た時もチャイムの音はしなかった。短い廊下に置きっぱなしのテッシュボックスの束やタオルが入ったダンボールを蹴飛ばしながら、急いで玄関まで行きドアを開けると、さわやかな笑顔の田中氏が後ろに光太郎を引き連れて立っていた。

「夕飯終わっちゃいましたか」いきなりの質問である。

「ええ、終わりましたが」それがどうしたと言う感じで桂が答えた。もっとやさしい、思いやりをこめた言い方のほうがよかったのかもしれないが、どうも田中氏の顔を見ると少し構えてしまう。昼のおにぎりのこともあるし、何か無いかとまた来たのだろうか。

「何だ終わっちゃったのか。でもいいや、ちょっとおじゃましてもいいですか」えっ、あの、今はもう晩いし、今日は疲れていて、などともごもごと桂が言うのを全く無視して、二人は先日のように桂を玄関に残してずかずかと部屋に入っていった。

 桂が追いかけるようにして奥にいくと、未だ残る衣類を入れたダンボールやビニール紐で括った推理小説の束を隅にのけて、狭いフローリングの居間に二人は胡坐をかいて座っていた。何とすばやい。すると、光太郎が持ってきたのか、二人はコンビニの袋からおにぎりやサンドウィッチを取り出し、床に広げだした。そしてコーヒーや紅茶のパックを手にすると、驚いて立ってみている桂に、座ったまま紅茶のパックを手渡した。

「はい、桂さんはこれ」桂は戸惑いながらも「あ、どうもありがとう」と受け取り、手にしたパックと床の広げられたものを交互に見た。

「桂さん、本当は紅茶党でしょ」田中一郎が知ったかぶりの顔で桂に笑いかけた。

「あの、そうだけど、どうして知って、というより、これはどういうこと?」

「桂さん、食べます?」光太郎がハムサンドを渡そうとする。

「いえ、そういうことじゃなくて」

思わず受け取ろうとする手を引っ込めて桂が少し強い調子で聞いた。もう20分もしたらお風呂に入り寝ようとしていたところである。疲れていたし、「わさび村」や「大石荘」から離れて休みたかった。普通の人間の身には、そしてとりわけオーバー50の女の身には。桂が困っているのを尻目に、二人はもぐもぐ口を動かし、次から次へとラップをはずして昆布にぎりもサケにぎりも、卵サンドもかつサンドも、そしてハムサンドも平らげていった。

 桂はここへ来た理由がわからないまま、しかたなく二人の近くにダイニングテーブルのイスを引っ張ってきて座り、二人がすごい勢いで口を動かすのを見ていた。全て食べつくされ、剥ぎ取られたラップやパックの山が、田中氏から光太郎へそして桂の手を通じてかたづけられると、田中氏が真剣な目で桂を見つめて言った。

「今日、一日目ご苦労様でした。桂さん、正直に言ってください。ここのこと、どう思いました?」

唐突に聞かれて桂は一瞬ひるんだ。見ると田中だけではない。光太郎も真っ直ぐに桂を見て、何か言うのを待っている。桂は小さな咳を一つするといった。

「とてもおもしろいところですね。わたし気に入りました」笑顔で答えると、二人は顔を見合わせ、「やったー!」と声を出して喜んだ。しかし、「でも」と桂が続けたので、二人のハイタッチの手は宙で止まった。

「一つ聞きたいことがあります。午後に小さな男の子たちが三人来ました。彼らは毎日やって来るの?誤解しないでね。嫌だっていうことじゃないの。こちらにも準備と言うか心構えが必要だから。あの、つまりね、仕事の内容の中に入っていなかったものだから」田中氏と光太郎は何かばつの悪そうな素振りで顔を見合わすと、田中氏が恐る恐る聞いた。

「子ども、だめですか」

「いや、だから子どもが嫌いというわけではなく、来るものだとわかっていれば――」

「よかったー、ほぼ毎日だと思います。これまでもそうだったし。おいて池に魚釣りにいったりすれば別だけど。今日は三人でしたか。五・六人になるときもあるかな」田中氏が名前をぶつぶつ言いながら指を折り、それを横から光太郎が助ける。キスケにシュンにトーマ。そのほか、コースケ、タイチにレイという女の子もいるらしい。桂は天を仰いだ。天井の白い石膏ボードの規則的に空いた穴が見つめ返す。

「桂さんを困らせるようなこと、やつらしないと思うけど、もし悪さしたらどんどん叱って下さい。あの子達の親は、この大石荘や近所にいるんだけど、ちっとも気にして無いから」いや、こっちが気にする、すごく気にする、とは桂には言えなかった。事故でも起きたらどうするのか。心配が頭をよぎる。が、彼らが魔女や魔法使いの血を引いていると考えると、きっと何とかなるのかもしれない。桂の楽観主義の天使が頭の右側でピースサインを送った。

 これ以上桂が何かを言い出さないのを確認すると、二人は「それじゃあ」と言って帰って行った。昼間の子供たち同様、嵐のように去っていく。玄関まで送る間も無い。桂は座ったまま二人を目で追って「何もお構いしませんで」などと一応の社交辞令を呟いた。光太郎が桂の脇を通る時にちょっと右手を挙げてにこっと笑った。思わずこちらも笑顔で返す。きっと目じりは下がっているのだろう。どうもこの頃若い男性の笑顔に弱くなった。

バタンとドアが閉まる。桂はもらった紅茶のパックの残りをズルズルと音を立てて飲み干すと、光太郎が部屋の隅に置きなおした屑箱めがけて下手で投げた。パックは屑箱の縁に当たり中の物が散乱する。チェっと心の中で舌打ちして、おにぎりやサンドウィッチのラップを拾い集めゴミ箱に押し込んだ。

 こちらの意向などお構いなしにばたばたと入ったり出たり。今日一日はその繰り返し。果たして何人の人に出会っただろう。それが明日からずっと続くのだ。これまでの平穏ではあるが、味気の無かった生活とはまるで違う

 桂は思い出していた。勤めていた図書館で、上司から指示を受けたり、入館者に検索の仕方を聞かれる以外これといった会話の無かった長い日々。テーブルの上の小さな鏡に映る自分の顔をのぞいた。そこには、深いほうれい線の中のへの字に曲がった口があった。細かいしわが実年齢よりずっと年取ったような表情を見せている。何かの本でおしゃべりの少ない人はだんだんと下がっていくと書いてあった。顔は人生なりだ。これまでの無味乾燥な暮らしが桂を無味乾燥な「おばさん」に仕立てた。

同年齢のご婦人方は、今頃白髪頭のどっしりと落ち着いた素敵な伴侶を従えて、人生の後半をのんびりと、毎月恒例のプチリッチな旅行を楽しんでいるにちがいない。一方、社会だけでなく、唯一自分を女性として評価してくれた人にも見捨てられた桂には、何のめぐりあわせか、わけのわからない小学生だけでなく、わけのわからないニンジャや挙句の果てには宇宙人までもが関わり合っている。小さなため息をついて、それから大きく深呼吸をした。まあこれもよし!

湯を張ったお風呂に頭全部を沈めて30まで数えようと思ったが、23までしか息が続かなかった。明日の目標は35と心に誓いながら350mlのビールを口にする。今度あの二人が来た時には、コーヒーや紅茶ではなくビールを出してみようか。少しは大人の女性に見えるかもしれない。でもそんなことをしたら彼らはますます入りびたるかもしれない。あぶない、あぶない。いつしか桂は深い眠りに入っていった。


 朝7時、意外にもぐっすりと眠れたせいか心地よい目覚め。窓を開けると遠くの空に灰色の雲が密集しているが、この地域上空には真っ青な空が広がっている。その青いキャンパスに子供ものと思しきパンツが一枚二枚、赤と黄緑縞々のソックスが一組、追いかけるように大人物の白いシャツが舞うが、もう驚かない。早くも洗濯を終えた住人がベランダに干すべく、空に放り投げたのだ。どこかの窓から男の子の叫ぶ声とそれに応えるキンキンとした女性の声が聞こえる。奥の方から遠慮がちな大人の男性の声がそれに重なる。

 桂は覗かれる心配がないのを確認すると、窓を開けたままトレーナーとジーンズに手早く着替えた。やれやれ私も洗濯物をああいう風に外に飛ばせたらいいのに。家事の中でも好きな方な洗濯。でも干したり取り込んで畳むのは面倒だ。羨ましそうに外に目をやるとカラスが一羽やってきて、ひらひらと舞う靴下の片方をつついているではないか。そのままくわえて飛び去ったら大変、だれか気づいて、と思っていたら、先ほど声がしたと思われる窓から「こらあああー」の怒鳴り声。カラスはまるで石つぶてが命中したかのように恐れおののくと、矢のように飛び去って行った。

 その後も窓からは家族の賑やかな会話は続いたようだが、他の窓も開きだしたのかそこここで声が聞こえる。なんとも賑やかな朝に、桂は引っ越して来てから1週間経つのに、自分がちっとも気づかなかったことを不思議に思った。実のところ、住人たちは息をひそめて桂の様子をうかがっていたのだが、当の桂にそんなこと知る由もない。昨晩、田中氏と光太郎から「桂さんは大丈夫!」のお触れが回ると、大石荘の住民たちはほっと肩をなでおろし、いつもの状態に戻ったのだ。


 それからの一週間はバタバタと過ぎていった。子供たちは“かんりにんしつ”に来ることもあれば、池に行っているのか来ない日もあった。田中氏と光太郎は、ほぼ毎日やって来て、ペッとボトルを開け天気の話などを少しすると帰っていった。桂は大量の空いたペットボトルの処理に呆れ、近いうちにウオーターポットを購入して、冷たい麦茶を作ることを決めた。衛生面で気にする人が出てくる可能性もあるが、まずはやってみよう。

田中氏について言えば、彼は時には一人でやって来た。また、昆布のおにぎりをあげた。ちょうどお昼時だったのだ。桂はその時、建物のメンテナンスの問題で電話がかかってくる用事があり、おにぎりを数個作って“かんりにんしつ”で待機していた。食べているところに出くわし、ご飯をねだる子犬ような目をしたので、仕方なかった。部屋のカギは閉めていたはずなのに。何という部屋だろう。光太郎には内緒にしておきます、と言ったところを見ると、おにぎりは自分だけの特権だと思っているようだ。こういう個人に対する優遇はよくないし、“二人だけの秘密”などというものは絶対に避けたいので、桂は今度光太郎に会ったら、自分から言おうと思った。ただ、「僕も!」と言われたら藪蛇だ。もう少し考えよう。


第3章 しゃべる魚

 この奇妙で理解しがたいところも多々あるが、気取らず親切そうな人々に、桂は魅力を感じ始めていた。ガチャガチャと食器の音をたて、薬缶がけたたましくピーピーいってもさして気にすることがない。引っ越して以来、知らずにたまっていた緊張が、少しずつほぐれていくような感じがした。今日も快晴。青空に乾杯!である。桂は3分半焼いたトーストにバターとイチゴジャムをぬると、ミルクを入れた人肌の紅茶で流し込んだ。

9時になり仕事開始の時刻。外の掃除をしなくていいので、気持ち的にもだいぶ余裕がある。これまで腰の痛みというものから無縁であった桂だったが、ここ数か月、ややもすると半日横になるほどの腰痛に見舞われる事態になることもたまに。寄る年波には勝てない、などとは口が裂けても言いたくなかったが、それが真実。しかし自分よりもずっと年上の人にお願いしたのは、未だにこれで本当に良かったのか、頭の隅のモヤモヤは晴れていない。それでも請われたのだからと自分に言い聞かせ、勢いよくドアを開けて出ようとしたら、光太郎と鉢合わせした。危うく細身ながら厚そうな胸板に、低い鼻をぶつけそうになる。

 「お、おはようございます。どうしたんですか、こんな早く。用事なら管理人室の方で伺いますけど」あまりにびっくりして顔というより胸に向かって話す。黒装束は今日も健在だが、頭巾はかぶらず首の意後ろに垂らしている。ジャケットのフードのように見えて不思議に若々しい。そういえば、彼が着ているのは上着とつながったオールインのようだ。忍者のいた時代、こんなのありました?

 「いや、用事って特にないんですけど、お迎えに」あまりテレもせずに言いのけるところが少し引いてしまう。歩いて10秒もかからないところへエスコートもないものだろうと思ったが、何だかレディの扱いをされているようで気分がよくなった。上品に微笑むと、サンダルの足を10㎝ヒールの黒エナメル靴のように前に出して管理人室に向かう。

「何ですか?ちょっと仰々しくありません」横を歩く若者がまぶしく、そのツーショットが我ながら恥ずかしくなった。

 「きょうは聞いてほしいことがありまして。朝早くから申し訳ないのですが」何だ、用事あるじゃないですか。「私でお役に立てられるかしら」などと口の中でブツブツ言いながら、それでも、そう日も経っていないのに何事かと構えた。

 「僕来週からちょっと旅行に行くんです。それでその間の郵便物とか宅配便とかそういうのを預かっておいて欲しいんですけど」まるっきり管理人の仕事じゃないか。ごくごくフツーのよくあるお仕事。あれ、でも田中さんがそういうこと引き受けてくれるんじゃないの。だってとても仲良さそうだけど。それとも実際にはそうでもないのかな?思っていたことを悟られたか、

 「田中さんはとても忙しいのです。いや忙しくしてもらわなければなりません。そんな僕のことなんかよりも」と言うと、本当に困ったように下を向いてしまった。昨日会った宇宙人さんはそんなふうには見えなかったけど。あまり詮索してもいけないのだろう。

 「いいですよ。わかりました。どのくらいお留守にするんですか?」

 「今のところ未定です。でも一週間以上ということはないです。学校もありますし」

 「了解です。気を付けて行ってきてください」そう言ってこの会話も終わりになるかと思ったが、光太郎はまだぐずぐずしている。桂は鍵を開けると、光太郎を先に「かんりにんしつ」に入れた。


 桂がスリッパに履き替え奥の灰色の机へと向かったときには、光太郎はすでにソファに座りメロンパンの袋を開けパックの野菜ジュースを飲むところだった。いつの間に!そのメロンパンとジュース、どこから出てきた?と桂が目をしばたたいていると、光太郎はメロンパンを早くも食べ終え、左手を首の後ろにもっていくとフードをまさぐって、今度はカレーパンを取り出した。

 「朝ごはんですか?」となに事もないようなそぶりで聞く。のどまで出かかっていることはそんな陳腐な言葉ではなく、その朝食セットはいったいどこから出て来たんだ!ということ。だってどう見てもそのフードはペッちゃんこではないか。

 どうも半世紀をとうに過ぎたおばさんには、些細なことで動揺はしませんという変なプライドがあるようで、桂は顔色一つ変えずに聞いてやった。光太郎はまたさらにその上を行く冷静さで「そうです」と応え、それが何か?というようなそぶり。

 しかしその目は何かを決した風に熱意を帯び、ジュースを飲み干すと座っている桂の方に向かった。

 「田中さん、実は問題抱えちゃって。いや、いつもの事なんですけど。いやいや、これはいつもの事ではないな」いったいどっち!桂は書棚から管理人日誌を取り出し机に置くと、これから仕事を始めますという姿勢だけをそこに残して、光太郎の前に座った。

 「田中さんの仕事というのは地球の様々な情報をオフィスに送ることなんですけど」

 「オフィスって、田中さんって、会社員なんですか?え、宇宙人で?昨日聞いたところでは、あなたの学校を少し手伝っているというようなことも言ってましたが」

 「そうですよ、でもですね、あれ、言いませんでした?この地球でもいろいろなことやってますけど、本職というかそういうのは情報収集。で、交信している時に何かトラブルが起きて、それで池の魚たちが、あの裏の“おいて池”の、何だかすごく騒がしくなっちゃって」パンの空き袋を握りしめながら、熱を帯びてきた光太郎の話に桂は戸惑った。

 「意味が分からないのですけど、魚がどうしたんですか?」

 「魚がしゃべったというんです。トーマたちが言うには。ええ、確かにしゃべったって」今や何が何だか分からなくなってきた。

 「それで、専門家の人が来るらしいんです」

 「そんなことしたら大騒ぎになりませんか。だってどうしてこうなったかを説明しなければいけないでしょ」

 「いけませんねえ、確かに」

 「いや、そんな悠長な。専門家の人がここへやって来るんですね。それで、それはいつ?」

 「それはまだ、詳しいことは僕にはわからなくて。だから、僕の方の仕事には関わっている暇なんて…」

 「それはないでしょう、それは大問題ですよ!」夢中になって言ったものの、もしやこれは、何かのいたずらかジョークではないかという疑念が頭をよぎった。冷静に考えてみれば、魚がしゃべるなんてありえないし、宇宙人と称する田中一郎が関与していることも胡散臭い。しかし、話をする光太郎はいたって真面目で、自分とともに旅行に出ることのできない“相棒”のことを心底心配している様子もある。果たして自分がどこまでこの不思議話にのっかるのか、桂は思案しかねた。

 「ということなので、僕がいない間、田中さんが色々と桂さんに迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」光太郎はそう言うと、桂が途方に暮れながらも何か言おうとするのも待たずに、さっさと玄関に行きかけた。桂はなんとか光太郎のフードをつかむと、びっくりして振り向く光太郎に向かって、

 「“おいて池”って言いました?裏ってどこの?」

 「ああ、この大石荘のベランダ側、南側で裏に林があるでしょ。その裏です。それでは僕行ってきますから」

桂が玄関とは反対側の窓の方を見やり、また光太郎の方を向いた時には彼はすでに出ていったあとで、ドアがゆっくりと閉まっていくところだった。

本当に音がしない。やっぱりニンジャなんだわ、桂はあらためてここの住人たちのことを思い、その中に入ってしまった全くの凡人である自分の孤独を感じた。

 いや、それどこではない!これからしゃべる魚を調査しに専門家が来る!あの宇宙人はこんな時何してるのだろうか?それに、この情報、どこまで知られているのか?トーマ君たちから聞いたということは、ここの住人には知られているということ?みんなの反応は?混乱する頭で日誌に日付と天気を書きながら―ええっと、今日も晴れだ―今日は月に二度の回覧板が回ってくる日であることを確認した。しゃべる魚が気になってしようがなかったが、一日の仕事始まり早々にして、部屋を空けて遠くまで行くのはまずい。現時点で、風魔さんだけが動いているわけで、今のところ、他の住人は静かなようだ。おいて池に行くのは、一通りの“なすべきこと”を終えてからにしよう。好奇心ではやる心を抑えて、桂はパタンと日誌を閉じた。


 エントランスにあるメールボックスを見に行くついでに、外回りを点検した。“大石荘”は昨日となんら変わった様子はない。どこからか“しゃべる魚”について話す声が聞こえないか、耳をそばだててもみたが、いたって静かなものであった。

アパートのまわりは、今日も階段をふくめてきれいに掃除してある。自分がまだ起きだす前に、麗子さんがしてくれたのかと思うと、心が痛んだ。まあ、自分から言いだしたのだから、ここはおばあさん孝行と思って好きなようにやっていただこう。ちょっと辛いわ、なんて少しでもそぶりを見せたら、喜んで変わればいい。


 桂がそんないい人ぶりで自己満足に浸っていたころ、昨晩のキノコの炊き込みご飯の残りと野菜たっぷりのおうどん、プロテイン飲料にバナナ2本というかなり軽めの朝食を済ませた麗子さんは、高いびきで午前中の“昼寝”の真最中だった。

その朝はお気に入りのピンクのジョギングスーツで暁に染まる町内を軽く一周した後、“大石荘”の全景を見渡せる位置を定めると、大きくバタバタと両手を振った。

一度目はベランダにかけてあった川西さんちの物干しざおが、勢いよく自分めがけて飛んできて、危うくぶつかりそうになった。しかし、すんでの所でひょいっと頭を下げ、ウエアーとお揃いのピンクのブランド物のキャップを跳ね飛ばしただけで済んだ。

二度目は駐車場に止めてあったオートバイや自転車が宙に浮きあがり、そして静かに降りた。麗子さんは眉間にしわを寄せ口をへの字にしただけで、決してあきらめなかった。引き受けるといったからにはちゃんと続けなければ。もうできません、では済まされない。お気に入りの帽子を被り長い漆黒の髪をなびかせながら、自由に箒に乗っていたころの自分を思い出した。まだまだ大丈夫!のはず。

気持ちを新たに再度両手を、今度は前に突き出す感じで振ると、階段の隅に積もっていた木っ端やカラカラに乾いた大きな葉っぱ、ガムの包み紙やレジ袋が宙を舞い、いったんはひとまとめになると、今度は行儀よく分別されてごみ集積場の方へ向かった。それぞれの大きな青いプラスティックの蓋が開くまでしばし宙で待機し、ストンと中に納まる。麗子さんは自分の仕事に満足し大きくうなずくと、今度は右手の人差し指を動かして物干しざおを元の位置に戻した。首に巻いたタオルで汗を拭きながら、自分の部屋のある二階へと階段を上る。おとといは、くしゃくしゃに丸めた紙が舞い上がって、どこかに行っちゃったけど、今日は完璧な出来栄え!足取りも軽く鼻歌なども歌いながらステップを踏むその後ろ姿は、とても150を越しているとは思えないほどだった。


桂が「かんりにんしつ」の扉を閉め鍵をかけると、見知らぬ男性が声をかけた。

「あのー、管理人さんですよね、新しく来た」

身長は優に190センチ以上、いやもっとあるかもしれない。ひょろっとした体格で、頭の毛がほとんど全部逆立ち、黒ぶち四角のメガネからは細長い疑り深そうな目がこちらを見ている。全身真っ黒な装いなので、今が晴天の昼間であることを忘れそうなほど陰気だ。何かお香でも炊いていたのだろうか、風下にいた桂の鼻にかすかなムスクのような香りがただよった。

「ええそうですけど、何か?ここの住人の方ですか?」右足が半歩後ずさって、いつでも駆け出せるような姿勢を獲る。それでいて表情はあくまでも友好的に。相手の目を見据えた。若い女性でもあるまい。いちおう百戦錬磨(のつもり)の50代だ、それも半ば、

「僕は107号室の白井といいます。ちょっと話いいですか?」

“しらい”というより“くろい”ではないのか。いや、そんなことより“しゃべる魚”のことだろうか。話は本当だったのか。管理人としてはどう対処するのか、とか聞かれたらどうしよう。“おいて池”は自分の管轄外であると主張すべきか。それとも田中氏が関与しているということで、管轄内なのか。優秀な管理人を装って、安請けあいをしてはいけない。でも、“親切な管理さん”の体はつくりたいし。桂の中の好奇心も手伝って、管理人室の中に入りますかと尋ねてみた。いや、ここでいいですと、と言う。まあ、まわりに誰もいないし、こちらから言ってみてなんだが、この人と密室で二人きりにならずに済んで、ほっとした。

「洗濯物なんですけど。じつは商売道具でして、洗濯をしてですね、どうも飛ばされちゃったみたいで、黒い大きな布で四隅に七色の線が入っている。ええ、もし見つけたら教えてください」低い声で長い指の白い大きな手を桂の顔の辺りで動かしながらしゃべる。何となく催眠術にかかったような不思議な気分になって、桂が夢うつつで「はい」といった時には、もうその男は消えていた。

黒い大きな布。洗濯物の探し物。はっきりしてきた頭の中でメモを取る。洗濯物は宙を飛んでるわけだから、そのままどこかへ行ってしまうこともあるに違いない。すべてがうまく取り込めるとは限らないのだ。ここへきて、桂は魔法は完全ではないということを学んだ。


キャベツにもやし、人参も入れた玉そばを二人前、備え付けのソースに香辛料を適当にふりかけフライパンの中で手早く炒める。椅子に座って10分、山盛り特大の焼きそばを麦茶で流しこむと、桂は“おいて池”に向かった。

大石荘の裏手南側は林になっている。桂にとっては初めてで、こんな所にという驚きとともに、まだちゃんと自然が残っていることに感動した。一瞬にして暗くなり異次元の世界に入ったよう。高い木々の間から太陽が差し込んで、ここがヨーロッパのどこかのような錯覚すら覚える。どこまで続くのだろう。先が見えない。もしかしたら迷ってしまったのか。山梨の青木ヶ原の樹海でもあるまい。出られなかったらどうしよう。と思ったら、何やら子供たちの騒がしい声が聞こえてきた。

「キスケ12点、キスケの算数12点!」そのあとは嘲笑するような笑い声である。桂はもう学校を終わって、こんなところで遊んでいるんだと思った。それにしてはまだお昼を過ぎたばかり。給食を食べたとしたら、早すぎる。

ようやく林を抜け太陽のもとに出たところで、目の前に広い池があるのを確認した。向こう側左手には天を突くような高い木が一本ある。辺りをきょろきょろと見回す。声は4・5人の子供のいることを思わせたのに、池の周りには人っ子一人いない。池の周りには1メートルくらいの雑草が生え、容易に池に近づくことを拒んでいるようだ。しかし、桂はいくつもの踏みしめられた細い道を見つけると、それをたどって池のほとりまで進んだ。

今は全く声など聞こえない。子どもたちはどこへ行ったのかしら。“かんりにんのおばさん”が来たから、どこかへ行っちゃったとか。この年の女性が、誰にでも歓迎されるとは限らないことを桂は身をもって知っていた。しかし、前回、“かんりにんしつ”に桂がいることを知っていて、子供たちが来たことを思うと、ちょっとショックだった。他の子どもたちかもしれない。この地域は思っていた以上に子供が多いのかな。そんなことを思いながら、池の中をのぞいた。

想像していたよりもずっと澄んでいる。底までがくっきりと、まではいかないが、20センチほどの種類も分からない紺色のような魚が5・6匹、桂の足元にまで来たかと思ったらサァーっと四方に散っていった。

「まさかあなたたちがしゃべっていたんじゃないわよね」思わず声に出して尋ねる。すると、

「ちがうよ、ちがう!」確かにそう聞こえた。池の中からだったかしら。今のは魚?魚がしゃべった?光太郎が言っていたのは本当?桂はまだ半信半疑で、池に向かって聞いてみた。

「ねえ、あなたたちは話すことができるの?」

「できないよ、できない」1匹の魚が戻ってきて、水面に口を開けると言った!

「そんなことできないよ」もう1匹の魚がやって来て、やはり水面に口を開けて言った。そのうち何匹もの魚がやって来ると、口々に

「できないよ、できないよ」の合唱となる。桂は思わず、

「静かにしなさい!」と叫んだ。大学時代、アルバイトで学習塾の講師をしていたころを彷彿とさせる、お腹からの声だ。池とはいえ、水を打ったように一瞬は鎮まったが、今度は池中の魚がしゃべっているのかと思うようなボリュームで

「できないよ、できないよ」の大合唱となった。高い建物などないところ。天にも届けと言わんばかり。林に池に、あたりは自然でいっぱいだが、ここは一応郊外の住宅地。あちこちから怪訝に思った人がわらわらと出て来るとも限らない。慌てて、シー、シーっと、魚たちに向かって人差し指を口に当てた。辺りがシンとなる。静寂。何事もなかったかのように悠然と泳ぐその姿に、桂はへなへなと座り込んでしまった。

「何してんですか、こんなところで」後ろから突然声をかけられて、起き上がろうとしたら前に手を突いた。とっさの行動ができなくなるのは年のせいだろうか。認めたくはないが、現に両手と膝を泥だらけにしてようやく立ち上がったわが姿をのろいながら、声の主に意味のない笑顔を向けた。

「大丈夫ですか?」目の前には田中氏が立っていた。シミ一つないベージュのズボンに赤チェックの半そでシャツという一昔まえのカレッジスタイルで現れた田中は、のんきな顔で桂を見下ろしている。

「風魔さんから聞きました。魚、しゃべっていますよ。どうするんですか?魚がしゃべるなんて!」桂は自分が必要以上に混乱していることを相手にわからせるように、わざと大声で迫った。田中の落ち着いた態度がどうにも癪に障る。洗い立てのジーンズを泥だらけにされた腹いせや、みっともない格好を見られたという恥ずかしさも加わる。

実の所、ここに引っ越してきてからというもの、変わったことばかり起きて、珍事には少々慣れて来ていた。掃除が魔法ででき、洗濯物が空を飛ぶのであれば、魚がしゃべっても不思議ではない。しかし、それが世間一般の常識からは大いに逸脱していることも、桂は充分に理解していた。

桂は、目の前の“宇宙人 田中氏”のにっこり笑った写真が、この池とともに新聞の一面を飾っているのを想像した。ニュースはSNSでも拡散し、半日もしないうちに世界中に広まるだろう。物見高い人たちがやって来て、アパートや“わさび村”の他とは違う住人たちに不都合なことが起こるかもしれない。彼らの平穏な生活が乱されることを、桂は何より心配した。彼らの安全や安寧の確保が“かんりにん”の仕事なら、オーナーの空さんは、桂に対して失望するに違いない。期待して、入れ替わるようにここを任せてくれたというのに、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「しゃべってますよねえ。そう聞こえる。困ったなあ」

「困ったどころではないですよ。元には戻せないんですか」もはや困惑ではなく怒りに近い声で桂が迫った。

「戻せるものなら、とっくにやってます。手の施しようがないから困っているんじゃないですか」感情的なおばさんを相手にイラつく青年。もはや好意的な、どこか桂を面白がるような態度は奥底に隠され、眉間にしわを寄せている田中氏を見て、桂は少し言い過ぎたかなと反省した。宇宙人であるなら何をされるとも限らない。ここにきてちょっとびくつく。

「専門家の人が来るそうですね」と確認する。

「専門家?ええ、まあそうです」

「その人から、例えばメディアに流れるなんてことはないですよね」桂は心配してのぞき込むように田中氏の表情を伺った。

「うう~ん。なんとも言えませんねえ。PCメールでのやりとりなんですけど、それを第三者が見ちゃって、なんてことだって考えられる。それに普通そんなことあり得ないでしょ。魚がしゃべるなんて。メールを見た人だって冗談だと思うんじゃないですか」

それもそうだ。まるでおとぎの世界。自分の飼っている猫や犬が、おしゃべりするんですなんて動画を見ても、まずは飼い主の可愛い思い込みにすぎない。信じるなんて皆無に等しいだろう。

「じゃあ、それほど慌てることもないですよね」桂は自分がちょっとは恥ずかしくなった。何を翻弄されているんだろう。よく考えればわかりきったことじゃないか。

「そう、桂さんが慌てることはないと思いますよ」

「でも、魚がしゃべるなんて、生物学的におかしいですよね。そういう声帯の構造になっていないでしょ」

「桂さん、難しいこと知っていますね」

「馬鹿にしないでください。それぐらいわかりますよ」

「ええ、魚がしゃべっているのではありません。少なくとも、僕が意図したことではない。僕はただ、電波の中継地点を設置しただけで、それも魚ではなく、あの大きな木にチップを埋め込もうとしただけなんだ」田中氏はそう言って、大ケヤキを見上げた。

「それがもうちょっという所でこの池に落としてしまって」自分の“ちょっとしたミス”と言いたいのだろうか。田中氏が弁解をしているなんて不似合いな気がした。特有の太々しさは、今ほんの少しだけ脇に拠っている。

「しゃべってますよ、魚。普通に会話できている」中継地点というのは、奥歯に入れた金属を通じて、ラジオの音が流れるということなのだろう。テレビの“衝撃体験”のような番組で見たことがある。しかし、魚たちは明らかに桂と会話していた。“中継”などではない。

「うう~ん。だからですね、そこが違うんですよ。これは僕のせいでは無いんじゃないか。光太郎は鬼の首を取ったように僕を攻めたけど」

こんなこと、確かに考えられない。この現象が科学で説明できないのであるなら…。

「魔法だ。そう、魔法ですよ」世紀の大発見のように桂が叫んだ。

「でもねえ、わけのわからないことはすべて魔法のせいにするのも。僕はこれまでそんな魔法を見たことも聞いたこともないですよ」

「そうですか。でも、他には考えられないですよ。何かアクシデントが起こったんじゃないですか。まあ、いろいろと」桂としてはこの理屈のつかない出来事が、理屈のつかない魔法のせいにすることによって、少しは理屈が就くような気がした。

しかしだからといってこの危機が回避されたわけではなく、むしろ他と変わっているこの地域の住民たちに世間の目が集まってしまい、平穏な生活が脅かされるという、根本的な問題はちっとも変わらないのだ。掃除を請け負ってくれたあのおばあさんにも被害委が及ぶとなると、いたたまれなくなった。

「田中さんが呼んだ専門家というのは科学分野の人ですよね。もしこれが魔法のせいだとしたら、ただ頭を抱えるだけでしょ」

「ええ、そうなるでしょうね。僕のほんの技術的なミスなら、良いアドバイスをくれておしまいでしょうけど。万が一魔法なら手に負えないだろうな」

「えっ!その人、専門家って田中さんのよく知っている人ではないんですか。もしかして、その人も宇宙人だなんて言うんじゃないでしょうね」

「そうですよ。当たり前じゃないですか」

どこがいったい当たり前なんだ。また頭がおかしくなってきた。もう、魔法使いやニンジャに慣れたつもりになっていたが、それは舞台の配役のようなもので、実際にその人たちに関係する同じ世界にいるとなると、混乱してくる。宇宙人の友達は宇宙人。これはアメリカ人の友達がやはりアメリカ人、とはわけが違うと思う。

とはいえ、宇宙人であるなら、この事態は公にはならないだろう。自分たちの素性も含め、ここの特異なところも敢えて広めるなんて考えられない。なんだ、思ったよりいい方向に向いているかも。要らぬ老婆心でおろおろした自分が恥ずかしくなった。

実はこうして二人で話している間も、離れたところで何やら魚たちは話をしているようで、騒がしい。水面に顔を出してのことだから、長くはしゃべれないのだろう。桂の耳には「12点!12点!」と言っているのが聞こえた。何が12点なのか、魚に尋ねてみたいものだが、こののらりくらりと確信がつかめない田中氏に対してもう少し尋問しなければならない。

「で、その人、まあ宇宙人さんですね、その人とは最初の段階で、どの程度まで話をしたんですか」

「いや、直接僕は話してはいないのです。魚がしゃべるということを聞いて、興味を持って。仕事が休みの日にこちらに来るということだけ」田中氏にしては歯切れの悪いさがちょっと気になったが、彼も動揺しているのだろう。

「あの、こういうことって不思議ですよね。もしかして、もしかして宇宙人的には有りうることなの?」勢いを得て、自分がだんだんため口になってきたことに気づく。もう何だか止まらない。

「さっきも言いましたけど、こんなこと僕ははじめてですよ。珍しいですよね」

「というより、あってはいけないこと。理に反することですよ、普通は」桂も頭では分かっていた。他の所ならもちろん自分の言っていることは正しい。でもここは違うのだ。

「でも、それを決めるのは僕たちじゃない。理に反するなんてこと、決めつけるのはどうかな。現にこうして魚がしゃべっているわけだし」田中氏が胸を張る。

「とにかく、その人はこの週末に来るんですね」確認の意味で念を押した。自分でもしつこい感じで厭になる。

「ええ、土曜日に来ることになっています」

「どこから?」

「さあ、そこまでは。だってほら、僕の友人はあちこち飛んでいるので」ここはあいまいに納得するしかないのだろうか。まあ、どこから来るなんて大きな問題ではない。ただ何となく、対面する身として相手の素性をよく知りたかったのだが、これではしかたないと桂は思った。

「あさってですね。とにかく私も立ち会います。いらしたら連絡くださいね」そう言うと、田中氏は軽くうなずき、それから時計を見ると大石荘へと帰っていった。


 こうしちゃいられない。桂も田中氏を追うように大石荘に向かおうとしたが、先ほどの「12点!」が気になった。大きな声で聴いてみる。

「いったい何が12点なの」魚たちが桂の方に集まってきた。

「キスケのテスト!キスケのテスト!」キスケ君のテストが12点。なぜそれを魚たちが知っているのかわからないが、12点は親に見せられる点数ではない。子供たちのこの池の接点を見たような気がして、また一つ心配事が増えた。キスケ君の12点のテスト。“しゃべる魚”と共に、どのくらいこの情報が広まっているのだろうか。

 帰りの林の中は来た時よも短かった。初めてというのはそういうもの。永遠とも思われた林はまっすぐに歩けば5分ほどなのだ。出たところで、小学生たちに会った。この間“かんりにんしつ”に来た子たちもいる。キスケ君が何か言われているようなので、近寄っていった。

「キスケやっぱ12点じゃん。すげーよな、なかなかとれないよ。俺、73点だぜ」シュンがここぞとばかりに大きな声で言った。ああ、もうそれは何度も聞いた、というようにタイチがうんざりした顔をする。コースケは57点だった。いつもは自分と同じくらいの平均点をウロチョロするシュンが、今回はヒットを飛ばしたので元気がない。


 桂は、昨日会った3人の他にも、多くの同学年の子供がいるので驚いた。昨日はあんなに元気が良かったのに“12点”のキスケ君は。今日は一番後ろでうなだれている。ちょっと声をかけようかと思ったら、胸に“まちだたいち”の名札を付けた子が桂を見つけた。

「あ、桂さんだ。桂さん、ただいま!」すると次々と「ただいま、ただいま」の声。桂はこんな子供たちに声をかけられて、なんていい子たちだろうと感激した。もちろん12点のキスケ君も「ただいま!」と言い、それだけでなく桂の方へ駆け寄って来た。みんなが桂のもとに集まる。紅一点のレイちゃんが桂の手を取り、左右に振りながら

 「あのね、テストでね、私100点取ったんだよ」と教えてくれた。

 「レイはいつだって100点だからな」シュンが不満げに言う。

 「でもさ、でもさ、桂さん聞いて、俺今回72点。やったぜ、72点!」シュンは自分で自分をほめるタイプ。レイちゃんが、ちゃんと木の棒をくわえてご満悦で戻ってきた犬を見るような目でシュンを見ているのが、桂は妙に面白かった。

 「キスケはね、12点なんだよ」それまで黙っていたトーマが桂に報告した。キスケがちょっと下を向く。

 「今度頑張ればいい、ね。今度ね」と桂はやさしくキスケの頭をポンポンと2度たたき、肩に手を置いた。「うん」とは言ったが、元気が戻ったかどうかはわからない。

この年の子は意外にデリケートなのだ。お母さんに怒られなけばいいが、と思った。

桂はしかし肝心なことを聞かなければならなかった。

「あのね、おいて池の魚、しゃべっているの風魔さんに教えてくれたの君たちだよね。魚が話をすること、お父さんやお母さんに言った?」

「言ってない。だってさ、光太郎さんに口止めされたんだ。田中さんが大変なことになるかもしれないから、言わないでって」シュンが代表して応える。

「このことは桂さんと一緒に何とかするから、決して行ってはダメだよって」

「僕も言ってない」「私も」トーマとレイちゃんに続いて、タイチも頷いている。キスケが小さな声で、「僕も」と言ったが、それはそうだろう。一番聞かれたくない本人だ。

「分かった!じゃあ、私とも約束して!このことは絶対に誰にも言わないって。お願いよ」桂が念を押すと、みんな「大丈夫!秘密、秘密」と口々に言って胸を張った。みんないい子たちばかりだ。桂は子供たちがそれぞれの家に入っていくのを見送った。

 

どうやら“しゃべる魚”は、子供たちと風魔さん、それにもちろん渦中の宇宙人以外広まっていないようだ。何とか、明日来る“お客さん”までで止まってくれればよい。それにしても、風魔さんが自分を仲間に入れてくれたことに感謝した。管理人なのだから、当たり前と言えばそうなのだが、信頼されているという実感から、熱いものがこみあげてきた。なんとしても、この平穏な生活を守らなければ。宇宙人であるという専門家の人には、田中氏の口から外の“一般”社会への公表を絶対に控えるよう、言ってもらわなければ。彼がダメなら、自分が力づくででも阻止してやる。桂はそう心に決めた。


ただここへきて、田中氏が宇宙との交信を行ってきたということが、がぜん真実味を帯びてきた。それが本当なら怖い。怖いというか、どう考えたらいいのかわからない。小説や映画の世界ではないのだ。決して短くない日々を生きてきたのに、“わさび村”にやって来たわずか十日ほどの間に、全ての価値観がひっくり返されそうになっている。同じ空気、同じ青い空なのに今は別世界にいる自分に気づいて、桂は立ち止った。

 桂は“かんりにんしつ”の机に座って、日誌を広げた。白井さんの落とし物、かっこ黒い大きな布“かっこ閉じ、を探すこと、明日田中氏の友人、かっこ宇宙人かっこ綴じ、が訪ねてくるので対応すること。そこでふとキスケ君が12点を採ったことを思い出し、なぜ魚たちがそれを知っていたのか不思議に思った。

 郵便物を確認するために外に出るとちょうどキスケ君が一人でいる所に出会った。さっき会ったばかりだが、声をかける。

 「ひとり?」仲間がいなくても、おばさんと話をしてくれるだろうか不安だったが、一応“管理人さん”なのだから、逃げだしたりはしないだろう。キスケは声をかけられて少しびくっとした。しかし、桂が笑っているので歩みを止め、近づいてくるのを待つ。

さて、まず何を聞いたらいいだろうか、桂が頭をフル回転させていると、キスケはいきなり本題に入った。

 「あのさあ、なんで、僕がテストで12点だったのか魚が知ってるんだろう、桂さん,わかる?」

 「実はね、私もそれを知りたかったの。なぜ知っているんだろう?」

 「僕は、ごみ箱に捨てたんだよ、そこの」

「集積所のごみ箱のこと?青色の?」

「そう、くしゃくしゃにして放り投げたんだけどね、こうやって」野球のフォームのような格好で、やってみせる。

「ねえ、それちゃんと入った?」

「入ったよ。蓋が開いていたんだ」なるほど。テストはごみの集積所に捨てたのだ。その点数を、おいて池の魚が知るなんてことがあるだろうか。

 「キスケ君、今さあ、あそこの魚がおしゃべりできるのを知っているよね」

 「うん、知ってるよ。すごいよね。それでみんなにバレちゃったわけだけど」

 「テストを捨てたのっていつ?」

 「月曜日。前の金曜日にしたテストが、月曜日に返ってきたから」

 「その時、池の魚たちは普通だった?」

 「僕たち、おいて池を通って帰ってくるんだけど、その時はなんでもなかったよ。あそこに魚がいっぱいいるの知っているけど、しゃべったりしない」桂は好奇心で聞いてみた。

 「魚がしゃべるようになる魔法なんてあるの?」キスケは、この人変なこと言うなあ、というような顔で桂を見つめた。

 「そんなの知らない。じゃ、僕行くね、お母さんに買い物頼まれたんだ」

 「うん、わかった。気を付けてね」キスケの小さな後ろ姿を見送りながら、おいて池

は月曜日、一昨々日まで“正常”であったことが確認できた。でも、今日は盛大にしゃべっている。その間に何かあったのか。正確には、キスケ君がテストをゴミ箱に捨ててから、トーマ君たちとともに池に来るまでの間に何が。

 桂は自分の名前と“かんりにんしつ”と書かれたメールボックスを開けた。自分の所に“5分でお届け!”のポップな文字と宙を舞うピザのちらしが一枚。“かんりにんしつ”は何もなし。空さんからの便りをどこかで期待していた桂は、ちょっと寂しさを感じた。今頃どこに居るのだろう。あの駅のホームでの出会い以来、全く会っていない。取り残されたような、自分が今ここにいる不思議がこみあげてきた。私はいったい何をしているのか。これからどうなるのか。

ピザ屋のちらしを手に、遠くに目をやろうとしたところで、靴下が顔にかかった。焦げ茶色の紳士物の片方。空を見ると洗濯物が舞っている。桂は靴下を高々と上げるとできるだけ大きな声で叫んだ。

 「どなたかー、靴下落ちてますよー!」すると、しばしの間があってから、小さな声が聞こえてきた。

 「桂さーん!うちよ、うち!」向こうも叫んでいるようだが、ベランダは建物の反対側なのでくぐもって聞こえる。程なくして、207号室の玄関の扉が開き慌てて出てきたのは、桂にとって初対面の女性だった。大きなピンクと黒の花がプリントされたスラックスにご主人のおさがりか、くたびれた黄緑色のトレーナーを着た40代半ばくらいの人が元気に階段を降りてきた。

 「あら、やだ、ほんとにごめんなさいね。助かったわあー。いつもはね、こうじゃないのよ、ちょっと手が滑って、飛んで行っちゃたの」桂の手から靴下を受け取ると、あらためて桂をよく見た。その視線に、桂の方から挨拶をする。

 「あの、新しく管理人になった月夜野桂です、よろし」最期まで言わずに、頭の下げも途中で、

 「あら、やだ、知ってますよ、こちらこそよろしく。そんなにあらたまっちゃいやだわあ」言葉は好意的で笑顔でもあるのだが、目が大きく視点をそらさない。値踏みしているわけではないだろうが、観察されているという、なんとも居心地の悪さを感じる。年下ではあるが、気後れしてしまいそうだ。桂は何か話そうと思いながらも言葉が出ず、ただ笑顔を作った。もう引きつりそう。相手がまだこちらを見ているので、とっさにおいて池のことを聞いてみた。怖いもの見たさ、ではないが、探りを入れるっていうやつだ。 

「ちょっと聞いていいですか。裏に池がありますよね」池の存在が聞いたばかりであるように聞こえればいいなと、というそぶりで尋ねた。

 「ああ、“おいて池”ね。あの池、古くからあるのよ。この村ができた時にはもうその形だったって、以前空さんが言ってたわ。子供たちがよく遊んでいるので、水には気を付けるようにって注意はしますけどね、何かあったんですか?」大きな目がますます大きくなり、ぎょろっとこちらを見る。

 「いえ、この近くに池があるなんて。以前住んでいたところなんて家ばっかりで、ステキだなあと思って」

 「ありますけどね、ピクニックするような所ではないですよ。魚はいるけど」これ以上聞いたら、まずいことを言いだしてしまいそうなので、「ああ、そうですか」とちょっと残念そうな顔をして話題を変えた。

「あのお、洗濯物って、ここの人たちはよく飛ばすんですか。その、魔法で」すると、彼女は何を当然なことを聞くのだろうと不思議な顔をした。

 「ええ、たいていはね。だって早く乾くし」そりゃ、そうだ。自分もそんなテクニックを持っていたらいい。しかし、問題はそこではない。

 「そしたら、時々はどこかに飛んで行っちゃうってこともあったりもしますよね」

 「そうねえ、こんな感じでね。でも私はそんなに遠くまではいかないわよ。せいぜいこの敷地内。まあ、下手な人は下手ですけどね」と言いながら誰かの名を言おうとしたようだったが、“口は禍の元”とでも思ったのか、慌てて口をつぐみ、それじゃあ、と言うと207号室のドアへと小走りに行ってしまった。

 その後は桂も“かんりにんしつ”に戻り、管理人としての雑事に負われた。“大石荘”にかかる費用、つまり施設費の内訳を記した台帳を引っ張り出し、詳細に検討していく。これだけ年期の入った建物なので、修繕費もばかにならないはずなのに、一向に大きな支出が見当たらない。直さないまま?いや、まさか魔法で修理している?桂がネコの時計を見上げると、前足を交差してその上に頭をのせている眠そうな黒猫と目が合った、立ち上がり大あくびをして城へと帰って行った。今日はここまで。桂も仕事をやめた。疲れが全身を襲う。熱いお風呂にでも入って明日に備えよう。明日は今日よりもっと大変なことが起こりそうな、そんな予感がした。


 金曜日。“かんりにんしつ”の机に向かって、日誌を広げたはいいが、落ち着かない。立ち上がると部屋の中を射たり来たり。“しゃべる魚”については、子供たち以外、住人には知られていないと考えて大丈夫だろう。まだ何も騒ぎは起きていない。白井さんが布切れを飛ばしてしまったことと何か関係するのだろうか。洗濯物が飛び回るアパートの周辺。布切れはこの建物の近くではなく、もっと離れたところに落ちている可能性がある。たとえば…。一晩経ち、頭がすっきりしたところで、桂はいてもたってもいられず、外へ出ると“おいて池”へと向かった。


 表面から出ている根っこに気を付けながら林を抜ける。走ってはいけない。この年で転んだら、手よりも頭の方が先に地面と衝撃的な対面をしてしまう。あるいは口から。それでも、最初に来た時の三分の一の速さで“おいて池”に着いた。何やらまだ魚たちはごそごそと話をしている。聞き耳を立てると、「明日来る、明日来る」と言っている。田中氏の友人のことを言っているのだろう。

昨日は魚たちにびっくりして、ろくに池の様子も見ていなかったが、よく見ると1メートルほどの様々な名もよく知らない草木が周りを囲み、それが功を奏してか、人の手の入らない自然豊かな池を作り上げている。直系にして20メートルほどだろうか、広い。今来た道とは反対側に1本高い木がみえる。他に遮るものがないので、陽のよく射す気持ちのいい池だ。子供たちにとっては格好の遊びだろう。親や他の住人達に注意されようとも、子供たちがこの池に来る気持ちが、桂にはわかるような気がした。遊びは危険をともなうことで、魅力を増すのだ。

 特に縁を人工的に固めているわけでもなさそうなので、桂は落ちないように注意深く池の周囲を歩いていった。こういう自然の残る池はたいてい水が濁っているものだが、おいて池は湧き水なのだろうか、透き通るようにきれいだ。ずっと見ていて飽きないが、そうもしていられない。魚が寄ってきて「あした、あした」と言っている。しかし、今の注意は魚ではなく、布の方。

確か黒くて大きな布だと白井さんは言っていた。四隅に虹のストライプが入っているとか。あった、あった。さっきはなんで気が付かなかったのだろう。光の加減だろうか、高い木の傍まで来て、黒い塊が池のふち近くに沈んでいるのを見つけた。手を伸ばし救い上げる。想像していたよりもずっと大きくそのため重い。水中の何かに引っかかって力を入れたら、反対に体がもっていかれそうになった。池に落ちそうになる所をどうにか踏みとどまる。きっとすごくかっこ悪い姿だ。桂は誰かに見られていないことを確認した。大丈夫!誰もいない。ただ、高木にとまっていた一羽のカラスが、クァ~クァ~と大きく鳴いて西の空に飛んでいった。黒い飛行物体を目で追いながら、自分も飛んでどこかへ行ってしまいたいと桂は思った。


ようやく地面に引き上げられた真っ黒な布は水を含んで、すぐに降ろされた。重いうえに泥や草がついて汚くなっている。白井さんはこれをもう一度洗濯しなくてはならないだろう。彼に手渡すまで果たしてどうやって大石荘まで持っていこうか。桂が思案しているところに、林を抜けて当の白井氏がやって来た。

「うわ、ちょうどよかった。黒い布ありましたよ。池に落ちてたんですけど」桂に気が付いた白井は、池の縁を回って小走りに近づいてきた。最初に会ったときの陰気な顔に、ほんの少しだけ笑顔が加味された感じだ。端をもって渡した黒い物体を嬉しそうに、そして軽々と拾い上げると

「ああ、やっぱりここまで飛びましたか。嫌な予感はしてたんですけど。僕はね、風向きからてっきり道路側だとばかリ思って、そっちを探していて。いや、助かりました、ありがとう。これ無いと商売あがったりで」この人本当はよくしゃべるんだ。その雰囲気とは真逆だ。目の前の“怪人”から“商売”などという世俗的な言葉を聞いて、桂は急にこの人物に興味がわいてきた。

「白井さんは何をなさっているんですか。そのつまり、“商売”って」何でも聞きたがりのおせっかいなおばさんではないように聞くのは、テクニックが要る。ほんのちょっと、話のついでに聞いてみた風の調子でなくてはならない。ここで一瞬でも間があったら、相手が嫌がっている証拠。幸いなことに白井氏はにこやかな表情を変えずに、さらに間を置くこともなく応えてくれた。

「“占い”をしています。僕の家系は代々予言の才能に長けていて、祖父はそれを生業にしています。今でも現役なんです」ちょっと誇らしげに言うその横顔に、興味だけでなく親近感も持った。ではお父様は?と聞く前に、白井氏が反応。

「父は?と思ったでしょ。父は大学で教えています。歴史学者なんです。一族の中でも異端ですね。先の事ではなく、昔のことに興味があるみたいで」下を向いたその仕草と物言いで、父子の関係がうまくいっていない様子がうかがえた。

「でも、歴史学者は予言者でもあると思いますよ。古いことが分からなければ、将来のことは分かりませんから」魔法使いならこの理屈は通らないだろう。世の中の未来と個人の将来は、全く違う次元のものだ。歴史家のそれは、過去を詳細に調べることで将来を見通す合理的な帰結である。確かノストラダムスが歴史家であり予言者でもあったことを、桂はどこかの本で読んで知っていた。また、変なことを口にしてしまった。

「まあ、そういうとらえ方もあるかもしれませんけどね。とにかくこれはありがとうございました。洗濯しなくちゃいけないので、僕はこれで」田中氏が桂に対してよく見せる、あの何と言えない人を小ばかにしたような表情を最後に白井氏は桂にぶつけて、おいて池のほとりをぽたぽたと雫の垂れる黒い布を片手に、大股で去っていった。おいて池の水面を風が渡っていく。一人残された桂はほんのちょっと孤独感に浸ったが、すぐに思いなおし、自分も後を追うように林に入っていった。


こんな時はお茶をゆっくり飲むに限る。“かんりにんしつ”の机の引き出しに、確か買い置きのチョコレートがあったはずだ。薄いコーヒーを入れてチョコの小さな包みを開く。優雅なティータイムではないが、頭の中を整理するには充分なシチュエーションである。

白井さんの布が発見されて、こちらの用件は解決した。あとは“しゃべる魚”という大問題が残っている。光太郎さんは田中氏に原因があると考えているようだけど、こう魔法が渦巻く中なら、魔法が何か関与していてもおかしくないだろう。ただ、不思議なことをすべて魔法のせいにするのはよくない。田中氏自身もそれは否定している。

やっかいなのは、明日宇宙人の“専門家さん”がやって来たとしても、全くの解決には至らいないということだ。なぜ、魚はしゃべりだしたのか?その原因を探らなくてはいけない。

桂が外に出て“かんりにんしつ”に向かおうとした時、麗子さんに出くわした。紫色のシガレットパンツに胸元に刺繍の入った真っ白なブラウスですっきりまとまっている。ピンクのショッピングのカートを引きずっているので、買い物に行くところなのだろう。声をかけられた。

「あら、桂さん」と言って近づいてきた。年齢不詳の素早さである。桂は慌てて、朝のお掃除のお礼を言った。

「いつもお掃除ありがとうございます。ほんとに助かります」麗子さんは一瞬何のことやらと目をぱちくりしたが、思い出して頷いた。昼寝を挟むためか、麗子さんにとって朝の出来事は遠い昔のことなのだ。

「ええ、ええ、こちらこそ、何でもないです、今までやってきたことで」

「これから買い物ですか?」

「駅前のスーパーまで、今日はお魚が安いってことで。お魚を食べなくちゃ。若い人はねえ、肉ばかりだけど。お魚にはねえ、何かほら、とってもいい油があるっていうじゃない。なんて言ったかしら、DNA?それともPTAだったかしら。ごめんなさいねえ、早くいかくちゃ、いいものが売り切れちゃう。それでは」

驚くほど素早く、桂が笑いをこらえてほんのちょっと目をそらしたすきに、麗子さんはもう20メートルほど先を駅に向かって足早に歩いていた。引いているカートが勢いで少し浮いている。DNAはテレビで推理ものを見ているから、PTAは最初に覚えた英語の頭文字だろうか。それでも最後の“A”が合っているのはさすがとしか言いようがない。青魚に含まれている“とってもいい油”はEPAやDPA。あの様子では、麗子さんは“しゃべる魚”のことは知らない。ひとまず安心!

そこへ今度は、トラックドライバーの奥さんがドアから顔を出した。手には何も持っていない。買い物ではないだろう。

「こんにちは、いいお天気ですね」

「ホントいいお天気。洗濯物が乾いて助かるわあ。うちは量が多いから大変なの」桂は大量のシャツや靴下が宙に舞うのを想像しておかしくなった。どうにもこれは桂の“つぼ”である。

「あら、何が可笑しいの」と、興味津々という風に顔を寄せてきたので、何か話さなければいけな状況になった。“しゃべる魚”についてはおくびにも出さないよう注意する。

「こちらの住居人の白井さんって方に会いました。占いをしているそうですね」

「ああ、あの人。みんなはね“黒井さん”って呼んでいるんだけど。そうそう、三つ先の急行の止まる駅ビルあるでしょ。あそこの“占いの館”で働いてるのよ。まあまあ当たるってことだけど。あの人が何か?」

「いえ、別に。ちょっとお話させていただいたんで。そうですか」

「でもこの頃何か悩んでいたみたい。予言の才能を持った魔法使いは貴重なんだけど、近頃はもっとエンターテイメント的なものが必要だとか、何とか。ルックスとか外見がね。いい人の所にお客さんが行っちゃうんじゃない。これは私の予想だけど。トーマ君のお母さんが買い物で近くを通った時、行列ができている部屋があって、黒井さんの隣だったって。あの人のところには誰一人いなかったそうよ」

「あ、そうですか、なるほど」白井さんは今悩みをかかえている、と。でもこれが“しゃべる魚”とどう繋がるのか?白井さんの黒い布と田中氏の通信機、どちらもおいて池に落ちたものだけど、果たしてそれで、どうして魚たちがしゃべるようになったのか、桂にはさっぱりわからなかった。

「じゃ、私はこれで、買い物行かなくちゃ!」

「買い物?おさかなですか?今日スーパーでセールだとか」

「いえ、うちは今日はお肉よ。買いに行くのはマヨネーズ。数量限定で一人3つまで。桂さんの分も買ってきてあげるわ。あなたは1つでいいでしょ。うちは2つ。じゃあまた」

たしかあの人は、門田川さんだった。住居者の名簿に目を通したときに確認したっけ。今、後ろ姿を見送りながら、その広くたくましい背中に花柄の可愛いリュックが背負われているのを見た。

それにしても早い。もう豆粒くらいの姿になっている。ここの人たちは皆こんなに早く歩くんだと感心した。それとも半ば飛んでる?数量限定のマヨネーズを買って来てくれるという。有難い!“マヨラー”である桂にとって、マヨネーズはいくつあってもよいもの。残り少ないのを思い出し、桂は足取りも軽く管理人室へと戻った。


ドアを勢いよく開けて、ぎょっとした。白井氏がソファに座っているではないか!桂は一瞬間違って白井さん宅のドアを開けてしまったのかと目を疑った。いいや、違う。確かにここは“かんりにんしつ”だ。白井さんが足をきちんと添え背中を後ろにつけずに90度にして腰掛けているソファは、管理人室の管理下にあるものであり、はいているスリッパは、管理人となってからずっと桂が履いているもの。

鍵をかけたはずだったが、忘れたか?この人は予言だけでなく通り抜けもできるのだろうか。気を取り直すのに、数秒かかった。

「あ、いらしてたんですか。何か他にも御用ですか?」という桂の声は心なしか震えた。短時間のうちにこうも頻繁に出会うと戸惑ってしまう。それに、大空の下で会うのと狭い室内で対面するのとではまた違った印象で、この人がしょっちゅう突然現れるのだとしたら、こちらも覚悟をしなければならないだろう。

白井氏がゆっくりと立ち上がると、その頭は天井に着きそうなくらいまでそびえた。桂の足が二歩退く。こちらをじっと見つめる目が怖い。逃げ出しそうになるのを何とかこらえ、管理人として“城”である“かんりにんしつ”を守るべく、おなかに力を入れた。それでも何かの時には外に出よう。ドアの位置は常に視界に入れておくこと。

桂も失礼にならない程度に白井氏の目を見据えながら、近づいた。その瞬間白井氏の目がふっとやわらぎ、視線を外すと長い足を折りながらゆっくりと腰を下ろした。

「池のことでちょっと。おいて池の魚なんですが、しゃべってますね。さっき池に行った時に。空耳ならいいんですけど。桂さんは知ってましたか」ああ、やっぱりバレちゃった!もう腹をくくるしかない。

「ええ、しゃべってます。でもこれは内緒ですよ。決して他には話さないでください。何か聞かれてもとぼけて。いいですか」おいて池に行けば、魚がしゃべっていることが分かってしまう。あそこを“立ち入り禁止”にすべきだろうか。でもアパートの管理人にそんな権利ある?

「そうですね、ええ、わかりますが…。それで、もし本当にしゃべっているなら、僕が、その少し、ええ~と、関係するのかなと」

いきなり核心である。桂は怖さも忘れ、白井氏の向かいにドカッと座った。

「え、関係するってどういうことですか?あなた、まさか魔法をかけた?」

「魚をしゃべるようにするなんて、私にはできません。ただ腹話術のようなことをあの黒い布を使ってできないかと思ったんです。相棒にモルモットのヘンリー9世というのがいるんですが」

「ヘンリー9世?イギリスの王様といえばヘンリーは8世までですね。確かエリザベス1世のお父さんでしたっけ」

「よくご存じで。でもうちのはそんな大それた由縁からつけたのではなくて、鼻の曲がった変な顔なので“ヘンリー”で、9代目だから“9世”なんですが。いやそんなことどうでもいいんです。そのヘンリーを布で覆って、まるで得体のしれない何かがもそもそ動いて予言をしたら受けるんじゃないかと」

「腹話術のようにするということですか。何だかインチキ臭い。いや、こういってはいけないけど」桂の頭の中で魔法と奇術がごっちゃになる。

「腹話術なら、魔法は登場しませんよね。ヘンリー9世も黒い布もただの小道具にすぎないんじゃないですか?」

「確かに、腹話術なら問題ありません。上手ければの話ですが。私は普段目だけが出る長い頭巾を被って予言をしています。なので、最初はうまくいくと思ったんですが」

「できなかったんですか、口が動いちゃう?」

「ええ、練習しても」

「つまり、白井さんは腹話術ができなかった」

「そう、はっきり言わなくても。はい、そうです」いまや、桂が圧倒的な有利な立場に立ち、この黒くて細長い怪物はただ枯れ木のごとく手足を折り曲げていた。

「それで、ヘンリーに言葉を話させるよう呪文をかけたんです」

「え、でもさっきあなたは、言葉を話す魔法なんてできないって」様子がおかしくなって桂は慌てた。

「魚にはできませんよ、でも、僕だって魔法使いの端くれですから、予言以外にも少しは魔法は使えます」背筋に冷たいものが走る。目の前にいるのは正真正銘の魔法使いなんだ。

「ヘンリーを通じて、僕の思っていることを人間の言葉で言ってもらうんです」

「つまりヘンリー君はあなたのスピーカーになるってことですか」

「そういうこと。だから、話している内容は僕の言葉であって、ヘンリーが考えた言葉ではないです。

「つまり、ヘンリー君は会話はできない」

「そう、僕がいなければできません」

 しゃべるモルモットは出てきたけれど、それがおいて池のしゃべる魚とどうつながるのか。まだ道は長い。

 「で、白井さんは、これがおいて池とどう関連してくると思っているんですか」

 「あのですね、ヘンリーに呪文をかけている時に、風がこう、さあ~とですね吹いてきまして、窓を開けていたもんですから、さあ~と吹いてきて、ヘンリーの上に布がかかちゃったんですね」興奮したのか、身を乗り出し細くて長い腕を広げたので、危うく指の先が桂の目の前にきて、刺さりそうになった。桂はのけぞり、身体を反転するとソファの袖につかまる。まるでカニが怒って大きな鋏を広げたようだ。白井氏は怒っているわけではなく、今や少々興奮状態にある。桂がのけぞったので、長いはさみは胸元へと収納された。

 「それで、呪文はヘンリー君ではなく、あの黒い布にかかった」

 「わ、しまった!と思いますよね、そしたらその布が“わ、しまった!”としゃべったんです。つまり、そういうことです」声がだんだん小さくなり、もはや語尾は聞き取れない。

 「で、貴方はどうしたんですか」

 「だからですね、洗ったんです、洗濯機に入れて洗いました」

 「え、洗った?魔法って洗濯機に洗って何とかなるもんなんですか?」

 「こんなこと僕も初めてですから、わかりません。それで干しました」

 「それで干した。そしたら、飛んで行っちゃったんですね」

 「そうです、そうです」

やっとつながった。白井氏の方はすべてを話して、満足そうである。なんとまあ、人騒がせな!こんな見るからに陰気な格好で、暗いところでは絶対に会いたくない人に見えるのに!

 “しゃべる魚”の原因となる要素が揃ったような気がしてきた。ただ本当にそんなことが起こるのだろうか。

「しゃべる魚が現れたなんてびっくりで、僕がやっぱり原因なんでしょうか」今や長いはさみだけでなく長い足も収納され、すっかりしょげ返っている。不気味さは全く影を潜め、哀れにさえ見えた。

 「100パーセントではないにしても、原因の一つでしょうね」桂は背筋をただすと、裁判官が判決を下すときのような厳かな声で、目の前にいる被告に言い放った。

田中一郎が気になった。彼は宇宙人だ。魔法ではできなくても、高度なわけのわからない技術で何かしでかしたに違いない。

 「話は分かりました。そんなに気を落とさずに、何とかなりますよ。でも、このことは口外しないように、お願いしますね」少しの根拠もない自信を顔に張り付け、再度念を押して、桂は白井氏を玄関へと送り出した。


何とかしなければいけない。明日には専門家がやって来る。その前にもう一回田中一郎に会って話を聞かなければ。桂は“かんりにんしつ”の扉に鍵をかけると田中の部屋へと向かった。

田中一郎は部屋にいた。何やら運動でもしていたのだろうか、上下水色のスウェットスーツで、うっすら汗もかいている。

「すみません、中断させてしまいました?ちょっとお話を伺いたいんですけど」桂は“対戦”という言葉を胸に秘め、あくまでも穏やかに切り出した。

「ああ、いいですよ。でも散らかっているので…」もとより住居人の部屋に上がり込もうなんて思っていなかったので、桂はむしろ安心した。ただ、他の住人に聞かれてはまずいので、ごく小さな声で話さなければ。玄関に入り、ドアを半分だけ閉める。

「ああもちろん、ここで充分です。話というのは“おいて池”のことなんですけど」宇宙人はほんの一瞬ぽかんとした。どうやら忘れていたらしい。こんな重大なことどうして忘れるのだろう。桂は能天気な田中の顔を見て、イラついた。どうも今日は感情がころころ変わる。

「そのことなら、さきほど話したように、明日僕の友人が来れば~」

「そうなんですけどね。今ちょっと他の情報も入ってきて。まあ、それは置いといて。まず、あなたが落としたという交信用のチップなんですけど、もしかしてその通信機は、まさか作動したまま?」

「ええっと…。作動したままです。スウィッチ入れてから、落としたから」やっぱり!フツーは一応ちゃんと機能するかどうか試すと思うけど。やってくれた!しかし、それはもうしようがない。

「おいて池に落としたものですが、それだけではなかったみたいなんですね。つまり、あの池に入っちゃったのが。魔法のかかった布ということですが」田中氏はそれを聞いて少し困ったような顔になった。

「また、それは複雑ですね。変な化学反応とか起きたのかな」

「ええ、化学反応。もちろん、そんなことが起きればの話ですけど」

「起きると思います。その可能性はある。いや、これは厄介だぞ」田中氏が困ったように頭をかいた。

「元に戻ることはありますか?」期待を込めて訪ねてみた。宇宙人ならなんとかなる?

「僕にはわからないなあ。でも時間がたてば魔法って消えたりすると思うし」

「え、そうなんですか?」

「まあ、そんなに効力があるとは考えられない。誰がかけたんですか?ここの住人?」まるで自分には1パーセントも罪がないような感じだ。桂はあまり個人情報を言いふらすのは好きではなかった。管理人さんは拡声器だ、みたいなことは言われたくない。ただこれも大事な参考と宇宙人が考えているならと思い、ささやくようなごく小さな声で言った。

「白井さん」

「白井さん?白井さんですか。それなら2・3日もあれば完全に消えてしまいますよ。あの人は予知が専門で、ごく普通の呪文も軽いものです。麗子さんの方がず~と強力なの知ってました?あの人、昔は有名な魔女だったんですよ」麗子さんも気になるが、魔法が消えるということを聞いて安心した。なんだ大騒ぎする必要などなかったんだ。桂はこわばっていた左肩に右手を置いた。石のように固い。5歳ほど老けたような気がする。

「でも、僕の通信機は魚が呑み込んじゃったのかな。あれ、アキバで高かったんですよね」宇宙との交信に必要なものが秋葉原で売っているなんて。桂がアポロ11号の月面着陸をかぶり付きで観ていたのは小学生の頃。時代の速さは桂を置いてけぼりにして遥か彼方だ。

こうなると、桂のすべきことは、ただ“しゃべる魚”がいるという事実が広がらないようにすることだけ。それもたとえ漏れたとしても、しらばっくれていれば、そのうち途切れてしまうだろう。なにせ、魔法は消えて“しゃべる魚”はただの魚になるのだから。

「うまくいけば友人の方は“しゃべる魚”にお目にかかれない、ということもあるかもしれませんね」桂が希望的に田中氏を見上げた。

「ああ、確かに、そうなるといいなあ。もう、光太郎は僕のことを極悪人のような目で見て責めましたからね。白井さんが関係しているなら、大丈夫でしょう。」

“白井さん”で良かった!白井さん、万々歳である。大したことなさそうだ。今日中にもすべて決着のつく可能性だってある。大山鳴動して何とか。そう思ってちょっと横の宇宙人を見ると、意外にも深刻そうな顔をしているではないか

「どうしたんですか?まだ何か?」

「いやね、そうなるとちょっと友人の方はどうしようかと」

「専門家の方は“しゃべる魚”を見たいでしょうね。でも今日にも魔法が解けるなら、それでおしまい。仕方ないです。もしも、明日になってもお魚さんたちがまだ大いにおしゃべりしているなら、そんなこと考えたくないですけどね、専門家の方には、この情報を決して外の漏らさないようにしてもらわなくてはなりません」田中氏はもっともです、というように頷いている。しかし、何かまだ気がかりでもあるのか、目が泳ぐので聞いてみた。

「田中さん、まさか魚がしゃべっていればいいなあなんて考えていないでしょうね。騒ぎを起こしてどうするんですか。その人の期待に応えようなんて考えないでください」

「もちろんですよ。そんなこと考えていませんが、その、色々と詮索されないかなと」

「詮索されたとしても、とにかくごまかしてください。つい昨日までしゃべってましたなんて、言ってはダメですよ」

「ええ、もちろん言うつもりなんかありませんが」

「とぼけてください、とにかく。こんな遠くまでご足労かけてすみません。私の間違いでした、とか何とか言ってうやむやにするんです。お友達なんでしょ、それくらいできますよね」

「ええ、できますよ、もちろんです」人を小ばかにするようないつもの態度は、桂の今の圧によって影を潜め、田中氏は不思議そうに桂を見つめた。やっぱり地球上のこの年齢の女性には勝てない。自分の実年齢は地球人のそれとは比べものにならないのだが…。

桂は桂で、ほっとしながらも田中氏の視線を感じて、ああ、またやってしまったと思った。いつからこう命令口調になってしまったのか。若い娘が言うのならかわいらしいが、眉間にしわ寄せ高飛車に言われたら、宇宙人だって厭な気になるだろう。と、ほんの少しだけ思った。ほんの少しだけ。

「じゃあ、私はこれで失礼します」踵を返した所で宇宙人が呼び止めた。

「いや、ちょっと待ってください。確認ですが、友人が来たら桂さんも一緒にいてくれるんですよね」

意外な気がした。田中氏は私にいてほしいのか?それに私はその場にいた方がいいのか?もちろんいた方がいい。目の前にいる宇宙人が何をしゃべってしまうかもしれないではないか。明日は土曜日で、本当なら休みだが、そんなこと言ってられない。

「ええ、一緒に伺います。このアパートに関わることですから」

「よかった。では、彼が来たら管理人室の方に案内しますので」

「分かりました、よろしくお願いします」

パタンとドアを閉めるときに、部屋の奥が見えた。確かにわけのわからない機械類がごちゃごちゃとテーブルの上や床にも置いてあるが、それ以外はごみ一つない。生活感が全くと言っていいほど感じられないのだ。自分の所と同じ間取りであるはずなのに、倍も広いような印象を受ける。あの昆布のおにぎりを嬉しそうにほおばった人物の部屋とは、とうてい思えず、それもこれも、やはり宇宙人だからなのだろうか、と桂は思った。


田中は桂を送り出すと奥の部屋へと向かった。白井さんの魔法なら、本当に今晩にもとけるだろう。“しゃべる魚”については桂さんが言ったようにごまかせばいい。

ただどうも、明日の人物が気にかかる。実のところ彼は“友人”ではなく、“友人の友人の友人の友人”なのだ。つまり全く知らない赤の他人。だからもちろん顔も知らない。各国の人工衛星や宇宙ステーションに交じって、密かに活動している我々のジャンクションとの通信が上手くいかず、ついアメリカにいる“友人”に愚痴ったのが事の始まり。“しゃべる魚”もその中でつい口が滑って言ったのが、どこかに漏れてしまったようだ。まわりまわって、“是非伺いたい”との返信が来た。専門家だと称しているが、本当の所は分からない。桂さんに嘘をついた後ろめたさもあり、、一応“友人”の、それでいて実はわけのわからない“異邦人”への不安が増大した。

田中はぼんやりと、先ほど大急ぎで片づけた、玄関からは死角になる側を見やった。そこには5つほどの中身のパンパンに詰まったレジ袋が置いてある。カップ麺の残骸やらおにぎりのフィルムやら。唐揚げの入っていた袋や空のお弁当容器に空のペットボトルなどなど。それにしても玄関ドアにカメラを取り付けておいてよかった。こんなごみ部屋に住んでいるなんて、桂さんに知られたら恥ずかしい。それに間取り。住人以外の外来者に見栄を張って、207号室の都筑田さんに魔法をかけてもらい大きく見せている。つまりは目の錯覚を利用したものにすぎないのだが、ばれたら“小さい男”と思われそうだ。現に光太郎はそう言ってからかっているし。なあに、その時はその時だ。田中は“友人”のこともそれきりすっかり忘れると、先日秋葉原で買ってきた盗聴器の性能を検討し始めた。


桂が“かんりにんしつ”に戻って今日の日誌を付け始めるころには、すでに勤務時間の終了である4時半が迫っていた。ページを広げ、「今日あったこと」の欄をどのように埋めようか。さて、と思案したところで、この日誌をいつだれがどういう形で再び見るのだろうと思った。おそらく大家さんである空さんが帰ってきたら見るのだろう。それとも、住人達との集まりのようなものがあり、公表されるのか?そうだとすると、みんなに見られるわけで、あまり心配をかけるようなことは書かない方がいい気がする。明日になればおいて池の魚たちは、きっとしゃべらなくなっているにちがいない。これといったことが“明日”無いのであれば、“今日”その予定めいたことを記入することはない。そう一方では思いつつも、根っから嘘の付けない性分が邪魔をした。桂は今日の朝からあったことを時系列に事細かに書いていった。といっても、いつでも消せるように、鉛筆ではあったが。そして、“大石荘”宛の郵便物――なぜか宛先が“かんりにんしつ”でレストランやグルメ関係のDMばかり――の数も忘れず記入して、桂はページを閉じた。


 サンダルを履いて、10秒ほどの通勤時間でわが家へ到着。桂の部屋のドアノブにはレジ袋が下がっていた。中を見るとマヨネーズが1つ。門田川さんだ。申しわけない。すっかり忘れていた。大急ぎで部屋に入りお財布を手にすると、門田川さんのチャイムを鳴らした。夕飯の支度中らしく、お互いにぺこぺこと頭を下げ、“ありがとうございました”と“いえいえ”の応酬。何か聞かれる前に退散しなければならない。愛想笑いで頬の筋肉がひきつる寸前にさっさと引き上げた。どうやら、今夜のおかずは生姜焼きか。桂は急に自分が空腹であったことに気づいた。なんとまあ、慌ただしい一日だった。でも、何とかなりそうだ。大丈夫!そう自分自身に言い聞かせた。


ベランダに出て洗濯物を取り込む。洗濯ばさみから取り外したり、ハンガーごと数枚抱えて部屋に持って行ったり。バタバタする一方で、空中では他所様のワイシャツやブラウス靴下や下着類が飛び回りながら1枚1枚部屋に吸い込まれていく。もう驚かない。羨ましいが、自分にできないことを求めてもしようがない。桂はすっかり乾いて太陽の臭いのする洗濯物に満足して、部屋に入った。シャツや下着類を畳みながら、いかに簡単に手早くに夕食を作るかに、全神経を集中させる。野菜はオイスターソースでいためて、少し濃い味付けに、お豆腐はごま油をかけのりやトマト、塩もみの胡瓜をのせてこちらも中華風にしよう。

そこまで考えると、ふと明日やって来る客人のことを思い出した。田中氏は見た目“ごくふつうの人”だ。背が高くやせ形で、シャンプーの臭いのするような爽やかなイメージがある。人を見下したようなしゃべり方を気にしなければ、きっと異性にはもてるに違いない。しかし、明日来る人は?まさか足が8本あるわけではないだろう。まあ、どんな人が来るにしても、田中氏の“友人”なのだから、彼にすべて任せればよい。

白井さんの魔法はとけ、おいて池の魚たちはスイスイと静かに泳いでいるだろう。桂は自分の作った夕食に舌鼓をうち、ゆっくりとお風呂につかると、今日のドタバタはすっかり頭の隅に追いやって深い息を吐くやいなや深い眠りへと落ちていった。


第4章 田中氏の友人、来る!


 客人来訪の当日。夢も見ずにぐっすりと寝たはずであったが、やはり脳の方は落ち着かないのか、桂はいつもより15分早く目覚めた。アパートに到着する時間が分からないので、洗濯や掃除など家でのすべきことを一通り済ます。天気予報をテレビでチェックした後、桂はサンダルを履いて外に出た。予報は曇りだったが、わさび村は今日も快晴。テレビ体操第一の4番目までこなしたところで、全身紫色のジョギングスーツ、ピンクがかった金髪の縮れた髪を頭のてっぺんでお団子に結い、ピンクの小さなサコッシュを首からさげた麗子さんが出会った。道路側ではなく、アパートの裏側、つまり林からやって来たようだ。嫌な予感。「お散歩ですか?」と声をかける。

 「ええ、ええ、今おいて池まで行って来たんですけどね、ぐるっとね。おしゃべりしてたんですよ。ええ確かに」

 「え、おしゃべりって、あの」

 「魚ですよ、魚!12点とか何とか。最初は聞き取れなかったの。何か空耳じゃないかと思ったんですけどね。でもね、私、耳は確かなのよ。だから、絶対にさなかですよあれは。確かにしゃべっていたわ。とっても賑やか。お魚さんがおしゃべりしているなんて、本当にねえ、びっくり」

愉快そうに話す麗子さんに対し、桂はそれどころではない。そこまで聞くと、ちょっとすいませんと言って、おいて池まで走っていった。麗子さんも後からついてくる。まさかまだ魚たちがしゃべっているのか。絶望感を抱えながら、そうではありませんようにと祈った。

白井さんの魔法は2・3日で消えると、田中氏は言っていたではないか。不穏な林を足元に気を付けながらそれでも大急ぎで駆け抜けると、池の傍まで行くまでもなく、盛大におしゃべりをしている声が聞こえてきた。もしかしたら、もうお客さんが来たのかもしれない。声は田中氏とお客さんだ。そう思おうとする桂の目の前に池が現れた。辺りには人っ子一人、宇宙人もいない。ただざわざわと池が“にぎわって”いるのだ。桂は愕然とした。

 麗子さんがほとんど同時に、そして少しも息を切らせることなく桂の傍に立った。

 「魚がしゃべっているのよ。びっくりよね。」

 「麗子さん、このことはまだ誰にも言ってませんよね」

 「ええ、もちろん。だってまだ誰にも会っていないもの」

 「ああ、よかった。このこと誰にも言わないでくださいね」麗子さんにも念を押す。やはり池の周りを立ち入り禁止にしよう。その権利が果たして“アパートの一管理人”の有るのかどうかわからないけど。それを誰かが指摘するまで、効力を発揮してくれるかもしれない。

 「この辺ではいろいろ面白いことが起こるけど、これはまた特別ね」面白そうに麗子さんが言う。ああ、今にも他の人にもしゃべってしまいそうな様子だ。目がキラキラと輝いている。取りあえず彼女がアパートへ向かって走りださないように、留めておかなければ。

「面白いことが起こるって、皆さんどんな風に対処してるんです?」

 「対処って、そんな大げさなものしませんよ。たいがい数日で何もなかったようになるわ。一日で収まる時もあるし。真夏に雪が降った時があったけど、あれは誰かが魔法を間違えちゃったのね。でも、今回はどうかしらねえ」

 「これってそんなに不思議なことですか?もちろん私には十分不思議ですけど」一歩下がって、わざと冷静さを装う。“ここでは”この状況はどのようにとらえられるのだろう。

 「魚がしゃべるなんて聞いたことありませんよ」

 「あのね、麗子さん。今日お客さんが来るんです。この“しゃべる魚”を調査するために。その人の口からもしこのことが公になったら、大変ですよね」

「そりゃそうよ、とっても変なことですもの。あちこちから人がやってきたら、もう考えただけで、ワクワクしちゃう!」

「え、ワクワクしちゃう?」

「だって楽しいじゃない。人が大勢来て、賑やかでしょうね」

「賑やかじゃない方が良くありません。これまで静かに暮らしてきたんですよね」住人の平穏な暮らしを守るのが、管理人たる者の役目だ。騒動が起きそうなのに、抑えられなかったとなれば、解雇されてしまうかもしれない。“大石荘”は不思議な人たちばかりだけど、みんな優しくて桂は気に入っていた。路頭に迷うのも厭だけど、彼らと離れるのはもっと厭だった。しかし、麗子さんはあくまでもこの事態を、何かのイベントのように楽しんでいる。

「ええ、まあ、でも、たまにはいいでしょ」

「色々、根掘り葉掘り聞かれたりしますよ」

「大丈夫よ、すぐに元通りになるわ。桂さんもそんなに気を落とさずに、まあ、調査の人が来たら、その時はその時。その人が大宣伝するとは限らないし。この子たちだっていつまでもしゃべり続けてもいないわ」楽観的なご意見を聞いても、“その時”に対処するのはこの私なんだけど!と思うとまた気が重くなった。“その時”になったら、田中氏をひとり置いて、逃げてしまおうか。いや、彼に任せておくわけにはいかない。

 桂は池のふちまで行くと中を覗き込んだ。3匹の黒っぽい魚が寄ってくる。

 「おはよー!おはよー!」体を半分ほどあげて、元気に挨拶した。桂もつられて“おはよー”と言う。

 「あのね、お願いだから、おしゃべりやめてくれる。せめて、そうせめて一日だけでも」このままではまずい。宇宙人にしゃべる魚のことが知れてしまう。彼が帰るまで、隠すことができればそのうち魔法は消えるのだ。


 ふたり連れ立ってアパートまで戻った。一人は心配で半ば硬直して、そしてもう一人は飛び跳ねるように身体じゅうウキウキを発散して。桂はもう一度麗子さんに他言無用の念を押した。「ええ、もちろん」とは言ってくれたけど、果たして。ここは麗子さんを信用するしかない。


麗子さんが他の家のドアではなく、彼女自身の部屋に確実に入るのを見届けると、桂は急ぎ足で田中氏の部屋も前まで来て思いっきりチャイムを鳴らした。寝ていようがどうしていようが構わない。むしろこのチャイムの音でたたき起こしてやる。キンコン、キンコン、キンコンと立て続けに鳴らしたところで、下はごく薄いスウェットのズボン、頭から雫をポタポタ垂らし、それをタオルでおさえる恰好で田中氏が現れた。どうやらシャワーを浴びていたらしい。

 「どうしたんですか、こんな早く。彼はまだ来ないでしょ」桂は裸の上半身に少しぎょっとしただけで。むしろそののんきな物言いに腹が立った。

 「ええ、まだ来ていません。でも、魚たち、元気よくおしゃべりしてます。おいて池はとっても賑やか。魔法は消えていないんです」田中氏の髪を乾かす手が止まって、一瞬だが目をむいた。

 「そうですか。では何とかしなきゃならないですね」

 「いっそのこと、おいて池に連れて行かなければいいんじゃないですか。何とか言ってごまかして」田中氏の頭から顔を伝い、発達した胸の筋肉と腹筋を流れるポタポタは無視して、悪だくみに誘うように声を潜めた桂の背後から、威圧的な声がした。

 「いやいや、こちらですか、田中一郎氏のお住まいは」


第4章 ピーター・ワンの訪問


麻の長袖のスーツ姿。クリーム色が涼しげだが、上衣のマカオカラーがこのシチュエーションには何とも不釣り合い。と言っても桂がキャラクターのTシャツにジーンズなのだからしようがない。客人が来る前にもうちょっとましな服に着替えるつもりいたのだが。肌の艶かげんからまだ30代のようだが、本人はもっと年上に見られたいと思っているのか、いやに偉そうな態度で、まっすぐに田中氏を見た後、失礼にも桂を上から下へと眺めた。サンダルが決定打となり、あからさまに顔をしかめると田中氏に視線を戻した。それ以降桂を見ることはなかった。腹が立ったが、こんな格好だからしようがない。

 「わたし、ワンといいます」流ちょうな日本語ではあるが、外国人だったのか。外国人で宇宙人?それに田中氏の無表情な様子から察して、二人は初対面のよう。“友人”ではなくて?名前だけ聞いていたとか?桂は混乱する情報を何とか整理し、とりあえず彼が自分をまるでいないかのようにしているすきに、家に帰って着替えてくることを考えた。むしろこの印象が残らないように早くした方が良い。田中氏だってその格好ではダメでしょ。田中氏が慌てて、まあ中へ、とワンさんを部屋に入るよう促している間に、桂はくびすを返して、わが家へと向かった。

その時だった。ドアが閉まる直前、ワンさんが言った。

「いやあ、本当にしゃべってましたね」桂は呆然と立ち止まり、振り返ってパタンと閉まるドアを見つめた。ワンさんはここへ来る前において池に寄ったのか。聞かれてしまった。もう仕方ない。後はこの情報が外に拡散しないようにすることだけ。桂は着るものとその方策の両方を同時に考えながら、ゆっくりと部屋に戻った。


ワンさんと釣り合いがとれるよう、夏らしい水色のパンツに五分袖スタンドカラーの白いチュニックを合わせた桂と、ベージュのチノパン、萌黄色のラガーシャツを着た田中氏が “かんりにんしつ”に落ち着いたのは、それから15分ほどしてからだった。ワンさんと田中氏はお互いの友人の話をしている。友人の友人のそのまた友人の、結局は赤の他人というのが、ワンさんの正体らしい。フルネームをピーター・ワンと言い(ピーター・パン?)中国系のアメリカ人として、シンガポールを拠点に働いていると説明した。地球人ではなく、銀河系のどこかの星の調査員であるらしい。“専門家”という話だったが、この時は聞きそびれた。桂としては“魚の専門家”と勝手に解釈していたのだが、違うのだろうか。

田中氏は桂のことをアパートの“マネージャー”として紹介した。さらに、こうして“かんりにんしつ”を提供してくれるのもこの人のおかげであること、この会見にはなくてはならない人物であることを述べた。たとえそれが自分の責任逃れの一環ではあったにせよ、桂にとっては“認められた”こととして気持ちがよく、田中氏の評価にポイント1を与えた。田中氏のこの持ち上げにも関わらず、ミスター・ワンは桂の方を見て、興味なさげに小さく頷いただけで、すぐ田中氏に向き直った。今どき男尊女卑でもないだろうが、この態度の悪さに、桂は怒り心頭となった。自分の何がこれほど軽視されねばならないのか。

桂は、こと差別に関しては一家言あった。性差にはじまって、身なりや年齢、既婚未婚や子供の有無等々、数え上げたらきりがない。これまで差別される側にたってきたからだろう。今やもうばかばかしくなって、相手にしないのだが。こうあからさまにされると冷静ではいられなくなった。思いっきりにらみつける。

しかし、一方田中氏は、自己弁護の局面へと段階を踏んだようであった。

「これには訳がありましてね。僕の通信機に同じアパートの住人である魔法使いの魔法がかぶさった感じで。それで起こった、つまりは事故みたいなものなんです」田中氏が頭をかきながら説明をする。

「“事故”ですか。通信機と“魔法”の?“魔法”とは、しかし、いったい何ですか」ミスター・ワン怪訝そうに尋ねる。田中氏が説明しようとすると、ミスター・ワンが遮った。

「いや、魔法のことは知ってます。おとぎ話などでね。それに、僕の調査地域の東南アジアや中国でも、“魔法”とか“魔法使い”とかいうのを聞いたことがありますが、あんなものインチキでしょ。超人的な不思議な力を持った人々なんて、そんなものいやしません。あなたは謙遜してらっしゃる。あなたが造ったんでしょ」その態度に桂はいささかの偏屈さを感じた。今や“魔法”の存在自体は信じようという気になっている桂にとって、あたかも世界を知り尽くしているというような考えは、“思い上がり”にすぎないのだ。それをこの“わさび村”に来て知った。この人、想像以上に厄介だぞ。桂は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐いてミスター・ワンを見つめた。田中氏は依然として熱心に説をしている。

「僕が意図的に造ったのではありません。これは事故です。魚はいずれしゃべらなくなります。それに責任回避じゃないですけど、魚がしゃべるようになった大きな要因は魔法にあると思っています」桂は思わず横の田中氏を見て、この土壇場での言い逃れに大きなバツを付けた。しかし、“魔法”であり(それも専門ではない白井氏のかけたものでもあるので)いずれ消えてしまうということを、ワンさんに納得してもらわなければならない。

「田仲さんが言うように、魚はじきにしゃべらなくなります。今こうしている間にも、そうなっているかもしれません」桂も加勢した。次第にミスター・ワンの顔つきが曇ってきた。何かを思案している。

「しゃべらなくなるんですか?本当に?僕は魔法なんて信じてませんが、いずれ“しゃべる魚”はいなくなる?ほんとうですか?」

「ええ、そうです。単なる事故ですから」田中氏がきっぱりと宣言し、桂も横で頷いた。もうこれで話し合いはお終い。決して和やかなものとはいかなかったが、それはこの訪問者が田中氏の友人ではないというぎこちなさからである。しかたない。とにかく、取りあえずこれで解散と、桂は思った。

 ところが田中氏にとってまだ何かあるらしい。

「ところで、あなたはこの情報をどういう形で聞いたのですが?念のためですが」

「ステーションのカフェです、雑談をしていて。あなたの友人であるミスター・マーカスは冗談と受け取っていましたがね」

「しかし、あなたは興味を持った」

「ええ、とても面白いと思いました。で、ぜひ見てみたいと伺ったわけです。ところが、“しゃべる魚”はもうしゃべらなくなるという。本当ですか?それに“事故”とはいえ、あなたの通信機でそうなったのなら、また起こるかもしれない」

「そうなったら困ります。最初は僕も自分の通信機のせいだと思いました。それで専門家の人に調査してもらおうと思ったんです。でも、その後、魔法が関係していると分かって。ですから、これは“事故”ですし、魚はしゃべらなくなります。どうもご足労かけました。すみません」

「そうはいってもですね、一時的にせよ魚がしゃべったわけですから、これは凄いことですよ」

「まさかあなた、これを公にしようと言うんじゃないでしょうね。失礼ですが、あなたが笑われてしまいすよ」そう言う田中氏に対して、ワンは不敵な笑いを見せた。

「ワンさん、まさかおいて池でデータを取ったんですか?僕たちに会う前に、許可もなく。それは礼儀に反するでしょ」田中氏は声を荒げて詰め寄った。

「僕が着いた時、魚たちは大いにお喋りをしてましたよ。もう興奮しました。それに、“礼儀”とは、あなたもずいぶん地球にかぶれましたね。私たちは調査員でしょ。地球の様々なデータを本星に送るのが役目です。それのどこが悪いんですか?」もはや開き直りである。

 ここまで聞いて、桂はもはやしゃべらない魚の、かつてしゃべっていたというデータの価値などどれほどのものだろうかと思った。ただの研究対象でしかないのではないか。田中氏は、しかし、同じようには考えていないようだった。何か思案している。とはいえ、言うべきことは言いつくしたのだ。桂は横の田中氏を無視して、ワンいたして確認するように言った。

「ワンさんは“しゃべる魚”について、地球のデータとして送るんですね。こちらのメディアには公表しない。そう認識してよろしいですか」

「ええ、そうです。これは“我々”の問題です。このレベルになると、もはや地球人には関係ないのですよ」そう言うと、軽蔑したように桂を見た。地球人には関係ない!無性に腹が立った。ずかずかと地球にやって来てそれはないだろう。この地球外で何が起こっているのか。また何が起ころうとしているのか想像したくもないが、SF映画のようなことが実際に我々の知らない所で起こっているのだ。とはいえ、“一管理人”である桂に何ができる?地球に害を及ぼすのでもない限り、ここは黙認するしかない。

「このデータは“我々”の情報として取り扱います。貴重なデータですよ。この田中氏は、こんな辺鄙な地球で下等な人間どもに交じって“しゃべる魚”を作り上げたんですから」今や田中氏を尊敬の目で見ているのがちょっと滑稽だ。いっこうに魔法の関与を認めず、偶然が起こした“事故”という、いわば再現は不可能な事実を無視している。何度言ってもこの人は分かろうとしない。嫌な奴だが、公表しないという言葉だけは桂を安心しさせた。地球が“辺鄙”なところか、地球人が“下等”かなんて、ここは大目にみるとして、“地球ではこの情報は公にならない”、そこが一番大事なところだ。この宇宙人が何のデータを持っていこうが関係ない。そのうち魚はしゃべらなくなる。

「いや、ちょっと待ってください、ミスターワンさん。この情報どこに持っていこうとしています?まさか、GTOじゃないでしょうね」

「ええっと、まあ、そうですけど」ミスターワンが首のあたりをちょっと抑えると、視線をそらした。“GTO”って何です?桂が小声で田中氏に尋ねる。

「“GTO”というのはGalactik trading Organization、つまり“銀河系貿易組織”の略です。あそこの連中は、とにかく好奇心が旺盛でおしゃべりでその上おせっかいなんです」“おしゃべりでおせっかい”桂は混乱してきた。

「それが、あの、どういうことなんです?」ミスターワンと田中氏の両方を交互に見た。

「この地球に彼らがわんさとやって来るということです。ワンさん、あなた生物学の専門家ではないですね。調査の傍ら、旅行業をやっているのではないですか」ミスターワンは、急に落ち着かなくなり、席を立ってドアに向かおうとした。素早く田中が動き、右手でワンの左肩を抑え、左手でワンの左ひじをつかむ。ワンの態度が一変し高飛車な顔つきが、こびへつらうような“商人”のそれになった。

「へ、へ、そうですよ。それのどこが悪いんです」二度目の開き直り。

「だれだって副業ぐらいするでしょ。田中さん、あなただって」

「副業が悪いと言ってんじゃない。この情報を“GTO”のも持って行くなと言ってるんだ」先ほどまで敬語で話し合っていたのに。でもそれどころではない。この地域が宇宙規模で注目を集めてしまう。


その時だった。ドアが勢いよく開いたと思ったら黒ずくめの白井氏が慌てた様子で入ってきた。

「桂さん、大変です。おいて池が!おいて池が!」両手を広げてバタバタする様子はまるでクモのようで、桂はゾッとしながらも、その言葉に反応しサンダルをつっかけるとおいて池に急いだ。後から田中氏とミスターワンが追う。

森を抜ける手前から、バシャバシャと水の音が聞こえる。開けたところで、池は大変なことになっていた。何百何千というという魚たちが跳ね回っているのだ。跳ねながら何事かをしゃべってもいるようで、うるさいことこの上ない。

「白井さん、あなた何かやりました?」田中氏が白井を問い詰めた。

「ええ、とですね。今日あたりはもう静かになっているんじゃないかと思って、池に来たんですが、まだおしゃべりしていて」白井氏は田中氏とよりも20センチほど背が高いのだが、今や腰が曲がり猫背に目を伏せているため、同じくらいに見えた。ミスターワンは不思議なものでも見るように顔で、桂に尋ねた。

「彼はなに者ですか?」

「アパートの住人です。魔法使いです」桂は胸を張ってお応えた。実の所、この地域の人以外に、あえて魔法使いであることを言う必要はないのだが、先ほどミスターワンが“地球人”を馬鹿にするような発言をしていたのを思い出して、はっきりと言ってやった。それが“インチキ”の代名詞になるなら、この目の前の状況を見るがいい。田中氏が“これはあなたのやったこと?”と聞いてたではないか。まさしく“彼”がこの状況を起こしたのだ。しかし、当の白井氏は頭の毛を抑えながら困ったように田中氏に言った。

「それでですね、どうにかしなければと思って、自分の知っている呪文をあるだけかけたら、こんな風に」桂は音を立てて跳ねる魚たちを呆然と見つめながら、こんなにいつまでも跳ね回ったら体力も尽きるだろうと思った。死んでしまうかもしれない。これは虐待?白井氏に抗議しようと思ったとたんに、池が急に静かになった。水音もしなければおしゃべりも聞こえない。一陣の風が水面を撫でたかとおもったら、小さな波を作り縁に当たってチャポンという音を立てた。あんなに騒がしかったおいて池が、今は静けさが支配している。

「やった!僕の魔法がきいたんだ。ね、そうですよね。やった!」白井氏が有頂天になっているかたわらで、ミスターワンが頭を抱え座り込んだ。

「ああ、ツアーを計画してたのに、絶対当たると思ったのに。ねええ、何とかしてくださいよ、田中さん。いったんできたんだから、大丈夫でしょ」ワンが図々しくも田中氏に懇願し、右手で田中氏の右腕をつかんだが、田中氏はそれを冷たく払った。

「どこまで勘違いしているんだ。そういう特質ですよね。“プレイオネ”でしたっけ、おうし座28番星。その異星人博愛主義には、ほとほと嫌気がさす」田中氏がこれほど怒っているのを見たことがなかった桂は、びっくりした。これまでさんざん小ばかにされてきたが、この人、いや宇宙人がいつも冷静で、こんなに嫌悪感を丸出しにするのは初めて。で、“プレイオネ”って何?どこか遠くの星のことなら、その遠くから“観光客”がやって来るの?絶対困る!それは避けたい!

「地球人の味方をするんですか」ミスターワンもむきになった。

「では言わせてもらいますけどね。地球人の進歩なんて亀のごとく。ここ200年ほどの目覚ましさは認めますが、犠牲が大きすぎますよ。二度の世界大戦に環境破壊だ」小学生でも認識している社会の現状を、あえて教えてもらわなくても結構だ。むしろそんなところに“しゃべる魚”見たさにツアーを組んではるばるやって来る宇宙人の神経の方が問題だと思うが。それともそれほど“好奇心”が旺盛ということ?



第5章 光太郎帰る


「ただいま、いやあ、疲れた!今のすごかったですね。問題は解決しましたか?」出発した時同様、コンビニのレジ袋を下げた風魔光太郎がそこに立っていた。光太郎だけではない。麗子さんや門田川さん、トーマ君にキスケ君。大石荘の住人全員とそれから何とご近所の人たちがいるではないか。いつの間にこんなにたくさんの人が池にやって来ていたのだろう。魚たちの騒ぎで全く気が付かなかった。

「わあ、わさび村の人たみんながいるっていう感じだ!」田中氏が叫んだ。

「僕は子供たちに内緒にするように言ったんですけどね。でも、きっと話は広まると思ってました」

「桂さん、ごめんなさ~い。やっぱりみんなに秘密になんてできないわよ」麗子さんが全く悪びれもせずに言った。

「私はね、子供から聞いてましたよ。そしてすぐにおいて池に行って、わあ、しゃべってるって確認したの」門田川さんが自分の行動の速さを自慢した。

「光太郎さんと約束はしたんだけどね、でもしゃべっちゃった。学校では言わなかったけど、もうトーマが言っちゃってた。僕じゃないよ」タイチがトーマを指さした。トーマはレイちゃんと話に夢中で、「さっきの見た?見た?」と興奮状態だ。つまり、キスケ君の12点を魚に口外され、皆の知る所となっていたわけで、さぞや彼は意気消沈しているかと思ったが、桂がその姿を探してみると、事態は予想と違っていた。今や村中の人が集まったところで「キスケ12点」は有名なフレーズとなり、人々が口々に言っている。我こそは「キスケ12点」を魚から直接聞いたというカミングアウトの応酬で、挙手まで取る始末で、キスケは村一番の有名人となっていた。キスケ君の両親である川西夫妻も“時の人”となり3・4人に取り囲まれている。奥さんの方は苦笑いをしているがお父さんは何だか嬉しそうだ。

これまでの苦労はなんだったのかと桂は思った。秘密でもなんでもなく、大石荘の住人だけでなく村の人たちも知っていたのだ。考えたら無理もない。小学生が気付いたところから始まったのだから。12点を採ったキスケ君以外、“しゃべる魚”なんて面白いに決まっている。誰もがひとに知らせたくなる話題だ。最後にはフィナーレを飾るように、大ジャンプまで披露して。まるで花火大会が終了した時のように、余韻を楽しむ人々がその場から立ち去りがたくおいて池の周りを囲んでいた。田中氏は光太郎との再会を喜びながら、複雑な表情だ。

「口止めしたんですけどね。子供たちは親だけでなく、学校でも話したんでしょう。さっきは凄かったですね。跳ね返ってしゃべっているなんて。でも、良かったじゃないですか。もうすっかり元に戻ったようだし」

「みんなに知られているなんて思ってもいなかったよ。いや、予想できたはずなんだ。わさび村で秘密なんて守られないってこと。取りあえずは静かになったけど」

「で、どうなりました?専門家の友人の方はいらしたんですか?あ、こちらがその人ですか」すっかり忘れ去られていたミスターワンは、桂の隣に意気消沈した姿で立っていた。静まり返った池を呆然と見ている。

“しゃべる魚”見学ツアーは不発に終わった。せいぜい“UMA(未確認生物)”伝説のように“かつてしゃべっていた”なんてコピーで募集するしかないだろう。果たしてどれだけ集まるのか。桂がのんびりと想像している一方で、田中氏はなおも緊張した面持ちでミスターワンを見ていた。彼がどこかに行ってしまわないように警戒している。確かにミスターワンの表情をよく見ると、何かまだ奥の手があるような不敵な自信が見て取れた。

田中氏は光太郎と共にミスターワンに向き直った。

「ミスターワン、あなたが生物学の先生でないことは分かりました。どうも僕が早とちりしたのかもしれませんね。てっきりその道の専門家が来るとばかり思ったものですから」田中氏がいやに謙虚な態度に出たので、ミスターワンも胸をそらした。

「ええ、僕は“しゃべる魚”に興味があると言ったまでです。そして是非拝見したいと」

「なるほど。で、こちらは僕の友人の風魔光太郎といいます」そういって田中氏は光太郎を紹介した。光太郎はいつになく自信たっぷりな様子で、年長であるミスターワンを見据えている。礼儀正しく、特に田中氏の前では控えめな光太郎を見てきた桂にとって、この態度は意外であった。

「彼はたった今アメリカから帰ってきたばかりなんですけど、どうやらあなたのことを知っているようなんですが」田中氏がそう言うと、ミスターワンは顔色を変え、一目散に逃げだした。今度ばかりは田中氏も追いつけず、住民たちが集まっている方へ向かっている。桂はその中でもひと際大きな白士氏のグループに大きな声で叫んだ

「白井さん、その人捕まえて!」がやがやと騒がしかった空気が一瞬にして鎮まった。白井氏はクモのような長く細い腕を広げると、通せんぼするような形で、ミスターワンの行く手を阻んだ。捕獲成功。ワンはなおももがいて暴れたが、周りの人々ががっちりと取り押さえると、観念したのか抵抗するのをやめた。


第6章 田中氏、説明をする


田中氏と光太郎それに桂が追い付き身柄を確保する。するとそれまで門田川さんたちとおしゃべりしていた麗子さんが前に出てきた。

「いったいこれは何の騒ぎ?“しゃべる魚”はおとなしくなったみたいだけど。まあ、私としては残念なんですけどね」そういうと後ろを向いて門田川さんや子供たちにどういいを求めた。みんなは、そうそう、と相槌を打っている。

「この人とどういう関係にあるの?」まさかここで説明を求められるとは桂は思ってもいなかった。田中氏はどの程度まで話すのだろうか。色々と変わったところがある“大石荘”の住人たちのこと。村の人達は驚いてしまわないだろうか。

田中氏は光太郎と顔を見合わせると、意を決したように言った。

「分かりました。では初めからお話いします」そういうと、これまでのいきさつを語りだした。自分がおいて池の大木に通信機を取り付けようとして池に落としてしまったこと。白井氏の黒い布とキスケ君の答案用紙も同じように池の落ちてしまったこと。池の魚がしゃべりだしたので、自分は通信機のせいだと思って専門家の人が来るのを許可したこと。

ここまではほとんどの人が知っているようだった。

 「で、その人がその専門家さん?もう魚はしゃべらなくなっただから、問題ないんじゃない?」麗子さんが尋ねる。

 「もちろん、全く問題ありません。でもこの人、実は宇宙人で」と言ったので、桂はびっくりした。こんなところで、わさび村のほとんどの住民がいるであろうという場で言っていいのか?田中氏の正体も問われるようなことにはならないか?桂は心配で田中氏の方をのぞき、そして聞いている人々の方を見た。誰一人として顔色ひとつ、困惑のそぶりも見せずに次の言葉を待っている。これには桂が驚いた。彼らは“宇宙人”について全く違和感なんて持っていないのだ。“魔法使い”にしてもそうなのだろう。白井氏が跳ね回るしゃべる魚を“魔法で”静かにさせたことに、“すごい!”と言う賞賛(何を余計なことを、と思う人も同じほどいるみたいだが)をごく自然な形で送っているのを目の当たりにしている。もしや、このわさび村の人たちは、皆どこかしら他と変わっているのかもしれない。“大石荘”だけでなく村全体がそうだったとは。桂は自分だけ他所から来て、異邦人であることを思い知らされた。自分だけ違うということに、桂は少し寂しさを感じた。しかし、それ以上に、このわくわくは何だろう。テーマパークに来たような、いいようのない高揚感。桂もみんなと同じように田中氏の話に集中した。

「彼はプレイオネ星から来て調査をしているんですが、仕事の他に旅行業もやっていまして」

「旅行者がここに来るということ?でも、魚はしゃべらなくなったわ。意味ないじゃない」小学校の近くで小さなカフェを経営している真衣さんが口をはさんだ。

「ええ、そうなんですけどね。プレイオネというのはとっても科学の発達した星で、彼は僕と会う前にデータを取っていました。その時はもちろんまだ魚たちはおしゃべりをしていた時で」

「データをその星に送るということ?でも、データを持ち帰ったくらいじゃ、僕たちにはそんなに関係ないでしょ。それとも何かあるの?」通りを二つ隔てたところにある“バーバー石丸”の石丸徳三さん、通称“徳さん”が言った。他人の髪をじつにかっこよく整えるのが仕事の割りには、自分の方はいつもぼさぼさで、今日もあちこち飛び跳ねている。こういう髪型があるのは桂も承知しているが、彼の場合は決してそちらではないだろう。おいて池でのショウが終わりになったので帰ろうかと思っていたら、まだ何か面白そうなことが起きそうだという期待感で満ち溢れている。

「今言ったように、プレイオネは科学が発達した星で、少しのデータからでも再現してしまう技術を持っています」

「プレイオネで“しゃべる魚”を造るの?ますます面白くないわね」麗子さんが門田川さんの奥さんに同意を求めた。奥さんも、そうそうと頷いている。

「それがプレイオネではないようなんです。ここで、光太郎君にちょっと説明をしてもらいます」

「ええ、おほん。僕はついさっきアメリカの会議から帰ったばかりなんですけど、そこである重要な情報を得ました。それを皆さんに報告したいと思います」え、なになに。ここはおいて池のほとりのはずだけど、一気に村民会議のような態になってきた。桂は周りを

きょろきょろと見まわした。皆神妙な顔つきで聞いている。

「会議はテキサス州の州都オースティンで開かれたんですが、都市部から遠く離れた所に最近大きな研究所らしきものができたらしいと言うものです。最初は軍の施設ではないかと思われていたのですが、そうではないらしい。今のところ特に誰かに被害を及ぼすようなことはしていないようだけど、様子が気になるので調査してほしいと頼まれました。というわけで、僕は仲間の数人を連れて向かったわけです」忍者は情報収集が主な役割と聞いたことがある。現代のニンジャもやはりそうなのだ、と一人桂は納得した。それにアメリカでも活動しているなんて、光太郎さんってすごい!方や、田中氏はおいて池の通信機を落としてこの始末である。今後の二人の関係は絶対に逆転するに違いない。

「で、果たしてその施設は何だったか。細かいことは省きますが、そこは絶滅した動物や生物学的な変異種を研究する施設でした」

「でも、そんな施設はあっても不思議じゃないでしょ。アメリカだったらお金持ちのどこかの機関かあるいは大学の研究所かもしれない」“ベーカリーことり”の鳳さんだ。 玉子サンドが最高に美味しく、揚げたてのカレーパンはどんなご馳走にも引けを取らない。それこそ“魔法の手”を持っているのではないか(実際にそうかもしれない)と思わせるほどだが、人柄は至ってシンプル。この時も皆が思っていることを代弁した。

「そうです。研究だけなら問題はない。でも、実際に誕生していました。つまり恐竜やマンモス、雪男にツチノコなどです。働いているのは同じ“プレイオネ”という星から来ている宇宙人だということが分かりました。それに近い将来にアミューズメントパークを建設するので、急ピッチで作業を進めていることも」

「おいて池の魚もそれに加わるということ?」麗子さんが言った。

「そうなるのでしょうね。そして本星であるプレイオネからたくさんの観光客を呼ぶ。アミューズメントパークは彼らのためのものなのです。地球人ではなくね」

「何だか納得いきませんね。だってそうでしょ。自分の星で造ればいいじゃないですか」桂が思わず声をあげたので、みんなの注目を浴びた。やっぱりここでは新入りということなのだろうか。ただこの意見は賛同を得たようで、多くの人が頷いてくれた。

「ええ、そこなんですよ問題は。つまり、これはアミューズメントパークでありながらやはり実験施設なんです。環境的にそれらの生物に地球が適しているからその方がいい、ということももちろんあるでしょうね。でも何か事故などが起こった場合を考えてみてください。彼らは自分たちの星は守りたいんです。調べた限りでは、あちこちの星に彼らの研究施設があるようでした。大量の二酸化炭素とか放射線とか、害になるようなものを平気で放出したり、生態系を壊したり。問題が知られたらその時点でさっさと引き上げてしまえばいい。それが彼らのやり方のようで」

「そんな無責任な!それダメだよ!絶対にダメ!」今までじっと話を聞いていた興梠さんが急に大きな声で言ったので、みんなびっくりした。興梠さんの名前は多夢。文房具なども取りそろえたいわゆる雑貨屋さんで、真衣さんのカフェとは学校を挟んで反対側。麗子さんに引けを取らないくらいベテランの“魔法使い”だと聞いたことがある。

「何だかさあ、しゃべる魚がいるってんで、こりゃ愉快だと思っていたけど、それじゃあなにかい、魚はアメリカに連れて行っちゃうのかい。今はこうしておいて池は静かになっている。そこにいる何とかさんてえ人が持って行ったら、もうここは関係なくなっちまう。それはさあ、面白くねえなあ」そういうとみんなが、そうだそうだ、面白くない、と言いだした。光太郎さんの話の要点は、プライオネ星人による独善的な地球の環境破壊にあるのだが、どうやらそのあたりのことはすっ飛ばしているらしい。

いずれにしても、桂は光太郎さんから魚の存在を聞いて以来、この地域の“平穏な暮らし”を願って秘密にしてきたわけだが、それは全くの的外れの努力であることが分かった。彼らはむしろ“しゃべる魚”を大歓迎し、大騒ぎになることを期待していたのだ。それは同じように、このことを何とか穏便に始末しようとした光太郎さんの思惑も、外れていたことを表していた。

田中氏によってしっかりと取り押さえられているミスターワンは、こう多勢に無勢ではかなわないと観念した様子で、しょげかえっている。

「ミスターワン、データはどこに隠しました?それを提出してください。僕たちは手荒なことはしたくない。データさえ返してくれれば、それでいいです」田中氏が紳士的にそういうと、ワンは空いている方の左手を大木に向けた。急いで行ってみると、クーラーボックスよりももっと頑丈で大きな箱が置いてあった。光太郎さんが蓋を開けた。おいて池の水の中で窮屈そうに5匹の魚たちがいた。

「助けて、光太郎、助けて」魚は1匹ずつ頭をあげると訴えた。しっかりしゃべっている!自分の名前を呼ばれた光太郎さんはどこか嬉しそうである。と同時に、誘拐のようなことをしたワンへの怒りが増したのか、

「他にもデータありますよね。ここの位置を示したものとか、水質も簡単に調べたんでしょ」と、語気強く問い詰めた。田中氏が乱暴にワンの朝のジャケットの内側を探る。すると、メタリックシルバーの名刺サイズほどのものが出てきた。

「すみませんが、これは預からせていただきます」田中氏はそう言う桂に渡した。桂は見たこともない機械を手にしてびっくりしたが、これは証拠品というものだろうか、他には渡してなるものかとしっかりとパンツの前ポケットに入れた。

「今回は無駄骨に終わりましたね。いずれアメリカには本格的にGSS(銀河系宇宙局)から調査が入ると思います。今のうちに撤退の準備をした方がいいですよ」もう一度ワンの所持品を調べ、もう何も持ってないことが分かると、さっさとどこへでも行け、とばかりに放り出した。堂々と登場した虎が、鼠のように去っていく姿を桂は眼で追った。林の方ではなく、さらに向こうの大石荘とは反対の通りに出る方。彼はそこから来たのだろう。おいて池の位置は、調べ上げていたのか。それにしても、田中氏と対面する前において池に寄って魚を取ってしまうなんて、失礼にもほどがある。桂の怒りは恐ろしさとないまぜになって、ここ数日は収まらない兆しを見せた。


   第6章 田中氏の説明


 門田川さんが「あ、お昼の支度をしなくちゃ」と言いながらおいて池を後にすると、皆もぞろぞろと引き上げていった。大石荘に向かいながら麗子さんが白井氏のそばに行って何か話しているので、二人に加わるべく桂は速足で歩いた。

「しゃべる魚がしゃべらなくなっちゃったのは残念だったけど、あなたは正しいことをしたわよ。みんな賑やかなのが好きだから。ちょっと先のことは考えないのよね。私もそうだけど」一緒に並びながら麗子さんは白井氏の腰のすぐ上あたりを腕を伸ばしてポンポンと叩いた。彼女は白井氏の胸の下辺りほどしか背がない。白井氏は大魔女の言葉を厳粛に聞いている。

「何か言う人がいるかもしれないけど、気にしちゃだめよ。結局のところ、面白がって無責任なんだから。これまでだってそうだったでしょ。今回は桂さんが頑張ったのよね」からかうように桂を見てクスッと笑った。

「桂さんはみんなに知られまいとして、口をつぐんでいましたよ。あなたや田中さんが責められないように、事を公にしないように必死だったのね。私たちはとっくに知っていてワクワクしていたの。ごめんなさいね」麗子さんは桂を見てちょっと頭を下げた。“しゃべる魚”に対する認識の違いというか何というか。桂は気が抜けて白髪が50本ほど増えたような気がした。光太郎さんから話を聞いたのはつい先日のこと。でも何週間も前のような気がする。それよりも白井さんのことが気になった。白井さんは自分のしてしまったことに、大変な責任を感じていたのに。ここの住民たちはホントに…。

「のどが渇いたでしょ。管理人室でお茶を出しますから、寄っていきませんか」桂がふたりを誘った。


確かに鍵を閉めていたのに、またもや“かんりにん室”は空いていたようだ。すでに光太郎さんと田中氏がソファーでくつろぎ、朝のうちに桂が作って入れておいた麦茶を冷蔵庫から出して飲んでいた。

「ああ、やっと来た。白井さん、それにしてもすごかったですね。どんな魔法を使ったんです」田中氏がのんきに聞いた。白井さんは複雑な表情で一瞬戸惑ったように口をつぐんだ後、話し出した。長い手足は折り曲げられている。

「いや、僕はただ夢中で。それより、魚がしゃべるようになったのは、僕の魔法の黒い布が一因。そしてしゃべらなくなったのは、やっぱり僕の魔法だから」複雑な立場に立たされ、これからみんなの前でどういう顔であったらいいのか、困惑しきっている様子だ。

「僕が通信機を落としたせいでもある」田中氏が胸を張ったので、

「そこ、威張る所じゃないですよ」と、テーブルにグラスを3つ置くと同時に桂が言った。皆が笑ったので、一気にリラックスの度合いが高まった。

「そのことはもうよしにしましょう。それよりも私はプレイオネのことが聞きたいわ。あの方、ミスターワンさんて言うの。あの人がプレイオネ星人であることがどうして分かったの?それにそもそもプレイオネってどういう人たちなの?」麗子さんが田中氏と光太郎さんをかわるがわる見つめて尋ねた。

「ではまず、僕から」光太郎さんがちょっと手を挙げて名乗り出た。

「大まかなことはさっき話した通りです。あやしいとされた建物に侵入して様子を窺っていたわけなんですけど。それは砂漠の地下深くにありました。潜入するのに少し苦労しましたが、それはまたいつかお話します」いつになくヒーロー気分で鼻高々の光太郎を、田中氏は面白くなさそうに横目で見た。

「僕たちが受け取った情報は、どこかの宇宙人が地球で危険な実験をしているらしいというだけのものでした。宇宙人の区別なんて、僕をはじめ仲間にもできない専門外で、とにかくできるだけ多くの情報をもちかえって分析してもらおうと考えていたんですが」

「それなら僕にうってつけの仕事なのに、」田中氏が横やりを入れた。

「そうなんだ。君がいてくれればと思ったよ。でも、そんな心配はいらないことがすぐに分かった。僕たちは研究室や実験室、それに大きな工場らしき施設をくまなく回ったんですが、とにかく彼らはよくしゃべる。一人一人の家族構成からランチのメニューまで把握できたくらいなんです」

「地球に来ているプライオネ星人はラーメンが好きなんだ。アメリカの都市部で味を知ったのか、あるいは日本でか」

「ひとりがハカタのラーメンが美味しかったと言っていた」

「ああ、そんなことだろう。僕はすでにプライオネにラーメン店ができていることに賭けるね」田中氏がその道の専門家であるかのように大仰にソファの背にもたれたので、桂はお尻のあたり妙にもぞもぞした。他に賭ける人はいるのだろうか。否!に賭ける人はどんな根拠を持っているのだろうか。桂が変な夢想に入り込みそうになったところで、する光太郎が咳払いをしたので、我に返った。

「彼らは地球で面白い生物を集めてアミューズメントパークを造り、本星から観光客を呼ぼうと計画していたことは言いましたよね。マンモスや恐竜などすでに絶滅した生き物を復活させる。研究は地球人もやっていますけど、彼らの技術は地球人のそれよりも進んでいるように見えました。3年のうちに建設が終わりツアーが組まれるよう急ピッチで作業が行われれている。それも順調にね」光太郎さんの静かな声が管理人室全体にしみわたっていった。桂が何気に時計を見ると、限りなくたぬきに近い特大のヒマラヤンが、前足に頭を乗せ退屈そうに寝ていた。この話題はお気に召さないらしい。


「それでは次は僕の番ですね」勢い込んで田中氏が顔を前にぐいと出した。今か今かと待ち望んでいたのだろう。大方のことは光太郎さんの話で分かったのだが、礼儀正しく田中氏の言葉も聞いてみようと、桂は思った。麗子さんはすでに半ば腰を浮かして帰る体勢に入っていたのだが、また坐りなおし興味を示すように田中氏に笑顔を向けた。

「地球におけるプレイオネの活動については、光太郎の話の方が詳しかったので省きますね。僕の知っている限りでは最近ずいぶんと地球に注目しているということしか入ってきていませんでした。プライオネはとても科学の発達した星でね。そのために遅れている星人を馬鹿にするところがある。自分たちが啓蒙してあげる義務があるなんて思っているんです。」

「そんなの大きなお世話だわ」思わず桂が大きな声を出した。麗子さんが笑っている。白井氏はそんな言葉を桂から聞くとは思ってもいなかった風で、ちょっと驚いて目を見開いた。

「ワンさんは、魔法を信じていませんでしたね」桂が言った。

「そうです。そんなものは無いと思っている。でもね、今回の“しゃべる魚”に魔法の要素が入っているということが理解できたら、いずれはそれを科学的に証明してみせると思います。そんなことは彼らはやってしまうでしょう」

「マンモスや恐竜だって、もう一度再生できるなんて以前は考えも及ばなかったわ。いえね、魔法を使わないでという意味だけど。でも今は可能よね。何とかと言いていうのを取り出すとかして」細かいところはともかく、麗子さんが自然科学分野にも通じているところを見せたので、白井氏は再び驚嘆の顔をした。今回の騒動で認識を新たにすることが多くあったのではないだろうか。

「細胞核のことかな。DNAか。もちろん地球でも昨今のナノテクノロジーの発達は目覚ましいものがあります。でもプライオネははるかに先をいっていまして」

「魔法が解明されてしまうなんて、ちょっと嫌ですね」桂は思っていることをそのまま口に出した。

「私は魔法は使えないけど、何か不思議なものはそのままでいいような気がします」するとびっくりしたように白井氏と麗子さんが目を見合わせた。

「桂さんは魔法使いじゃないんですか。知らなかったなあ。今まで一度も使ったことないんですか?」カニのような長い手を広げたので、指先が田中氏の方に触れた。その議論はもう嫌と言うほど繰り返されたが、白井氏は初めてだったらしい。桂は困ったような顔をし、ただこくりとうなずいた。田中氏はそんな敬を横目で見ただけで、ちょっと咳払いをした。先を続けたくてうずうずしている。

「まあ、それはそれとして、とにかくプライオネは魔法が関わっていると知るとそれもまた解明しようとするということです。そしてそのためには、白井さん、あなたを研究材料として連れていかれる可能性だってあったと思いますよ」

「そんな。僕がプライオネに行くということですか?絶対に拒否します」いやいやと、また手を広げたので、今度は光太郎の肩にぶつかった。この人の周囲1メートル50センチは空けている方がいい。桂は、この人の占い部屋が広い空間を有していることを願った。

「拒否したって、連れて行かれちゃうときは連れて行かれちゃいますよ。まあ、プライオネのことは分かりました。これで騒動も収まったのね。この村は色々なことが起こるけど、今回はまた特別でした。失礼しますよ。私もうお腹が空いて」麗子さんが話を締めくくるように、席を立った。田中氏はもっと注目を浴びたそうであったが、光太郎がアメリカから持ち帰ったレジ袋を手にして立ち上がったので、これでお開きと悟ったらしい。桂さんに、じゃあ、と言うと二人して帰って行った。連行されたかもしれなかった白井氏は、ショックで少しぼおっとしていたが、周りに誰もいなくなり、桂も自分のデスクに戻ったのを見て、あわてて管理人室を後にした。

シンと静まり返った部屋で、ネコ時計がボーンボーンボーンと11回鳴った。そして最後に雄たけびのような「ニャアオーン」。オレンジ色の太ったマンチカンはゆっくりと立ち上がると、短い足を器用に進めてお城の大きな扉の中へと入っていった。桂はここ数年で一番の深い息をついた。「終わった~」と声に出し、机の上に突っ伏した。続けてお腹がグーとなる。そしてもう一回グー。お昼だ!今日は焼きそばにしよう!“かんりにん室”に鍵をかけ、通勤時間10秒のわが家へと帰宅した。


夏近しの暑い日差しに照らされたおいて池を、ジーンズとTシャツに着替えた桂が眺めていた。魚たちは悠然と泳いでいる。その平和な様子に桂は満足した。白井さんは拉致されることもなく今自室にいる(に違いない)。万々歳!高い木の枝にカラスが一羽、「クアー」と大きく鳴いたので、びっくりして上を見上げた。と同時に、隣に田中氏が現れた。ラフなポロシャツと綿のパンツが涼しげだ。

「ここにいたんですか。光太郎とかんりにん室に行ったんですけど、いないから」

「今日は本当は休みですよ」思い出させるように言っては見みたものの、住み込みの管理人というのは、公私の区別がつかなくなるのが厄介なところである。とりわけ大石荘に関しては、杓子定規にふるまうのは、やめた方がよいと桂は早い段階に感じていた。田中氏は、ああそうですね、と納得する風もなく、桂のこの言葉を簡単にスルーした。いつの間にか光太郎さんが隣に来て桂をびっくりさせる。ニンジャ姿ではなく、こちらも水色のジーンズにサッカー地のシャツというラフな格好。

「僕たち、昼食後すぐにまたこのおいて池に来たんですけどね。何せ白井さんの魔法ですから、魚たちがまたしゃべり出すのではないかと思って。でも静かなものでした、今のようにね」ちょっと人を見下したような田中氏言葉に、桂は少し不快感を覚えたが、ああ、そいうことも十分に考えられるなと桂も思った。人騒がせな白井さん。“火付け”であり“火消し”で、今回は随分と注目を集めちゃっている。でもね、あなたの通信機だって十分騒動の一要素なんですよ。桂は田中氏をにらんだが、この厚顔男は全く意に介していない様子だ。今度一回じっくりと思い返させてやろう。

「子供たちがいたんですよ。池を覗き込みながら、魚に盛んにしゃべりかけたりしていました」子供らしい行動に桂が微笑んでいると、光太郎が困ったなという顔つきで言った。

「彼らだって魔法が使えるんですよ」

桂はおもわず「わあ!」と叫んだ。

「そうでした、思い出しました。かんりにん室で遊んでいて。でも、魔法は効かなかったようですね」いたずら坊主の小さな魔法使いたち。今度からは注意しなければ。

「ところで桂さん、ご苦労様でした。僕が頼んだから、がんばっちゃったみたいですね」光太郎さんがすまなそうに桂を見た。

「ホントですよ。みんなに知られないようにしたのに。こんな大事件、住人の人たちにとって迷惑になるんじゃないかと思って」自分の骨折り損を思い返し、ここぞとばかり訴えた。

「子供たちには内緒にするように言いましたが、でも、実はすぐにばれてしまうのではないかと思っていました。ここの人たちは面白いことが好きだから。」光太郎さんと田中氏は眼を合わせて笑っている。

「それでもやっぱり白井さんのやったことは結果として良かったです。よくやってくれました」光太郎さんが言った。桂も大きくうなずいた。白井さんは今回のヒーローだ。



桂はおいて池の縁に立って中をのぞきこんだ。5・6匹の魚が寄ってきた。

「君たちはしゃべれなくなったんだね。これで安心。良かった、良かった」そういうと、1匹の魚が水面から頭を出した。

「そんなことない、しゃべれるよ、しゃべれる」桂は驚いて、田中氏や光太郎さんを振り返った。田中氏はお手上げという風に手を挙げ、光太郎さんは天を仰いだ。

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『わさび村騒動記』 @moomin1958

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