嘘偽りと真実

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 ──嘘偽りと真実



 やってきた客は30代前半という普通の女性だった。


「どうも、所長の奥村央樹です。ええっと、小早川さん?」


「はい。小早川明子といいます」


 奥村が狭い客間のソファーを勧めると、小早川と名乗った女性はソファーに座った。


「では、改めて依頼を確認させていただきます。旦那さんの浮気の調査ですね?」


 央樹がそう言った時、凛之助がお茶を持ってきて、ふたりの前に置いた。


 魔王である彼が今やお茶くみ係とは笑える話だが、彼はこれでもやりがいを感じていた。今は何より平和なのだ。誰かを傷つけたり、殺したり、傷つけられた李、殺されたり、そんなこととは無縁なのだ。


「それでは経緯について説明していただけますか? もちろん、心情的に喋りたくないこともあるでしょうから、話せる範囲のことで構いませんよ。ただ、情報はある方がこちらとしても調査がしやすいです」


「はい」


 それから小早川という女性は語り始めた。


 最近、夫の帰りが酷く遅いこと。スマートフォンに知らない連絡先があること。一緒に過ごす夜の回数が少ないこと。その他もろもろ、一般的に不貞が疑われるようなイベントを小早川は列挙していく。


「なるほど。ちなみに旦那さんの勤め先は?」


「大井海運です」


「そりゃ凄い。大企業だ。あれでしょう。ビッグシックスの」


「今はただの課長ですけれどね」


 ビッグシックスというのが何かというのを記憶で探る凛之助。


 六大多国籍巨大企業。


 大井海運というのは個人事業主の物流から日本海軍の艦艇運用支援まで行っている巨大企業、だと凛之助の記憶にはおぼろげにあった。何かの授業で習ったのか、あるいは夏妃に教えてもらったのか、自分から調べた情報というわけではなく記憶もあいまいだ。


 だが、社会常識ではあるらしく、央樹が指摘しても小早川は驚いた様子を見せない。


 この手の知識も必要なのかと凛之助が思った。


「収入はどれほどで?」


「確か月300万円だったかと」


「ふうむ。浮気をするには十分な金額ですね。金銭的なトラブルは?」


「そういうものは全く。ある意味では誠実な人なんです」


「だが、疑っている」


「ええ。疑いを払拭出来たら、またあの人と正面から付き合えると思うんです」


 小早川という女性はそう言って俯いた。


「では、ちょっといいですか。うちでは特殊な調査方法をしていましてね。ご協力いただけると、解決が早まるのですが?」


「構いません。どのような?」


「凛之助君」


 ここで凛之助の出番となった。


「小早川さん。もう一度事情を“正直に”話してください」


 ここから凛之助が洗脳の魔法を使う。


「……あの人の方から浮気したということにしたいの。夫は仕事ばかりの退屈な人で、だから私には別の男の人が必要だったの。どうせ夫は仕事ばかりで気づきはしないし、私にお金さえ渡しておけば、問題ないと思ってる」


 それを聞いた央樹は目を丸くしていた。


「どうせお金を払うだけの関係なら離婚してもいいじゃない。向こうから慰謝料を貰って暮らすの。今と変わらない。お腹にはもう別の人の赤ん坊がいる。早くしないと、出産時のDNA検査をされたらバレてしまう」


 凛之助はDNAという単語の記憶を辿る。デオキシリボ核酸。生物の設計図を司るもの。この世界は生物の神秘まで暴いたのかと凛之助は感嘆する。


 このような技術があれば、誰が父親なのかはすぐに分かるらしく、央樹は渋い表情をしている。どう話を持っていったらいいだろうかと考えているのがよく分かった。


「凛之助君。記憶は、その、残るのかな? 喋った記憶は?」


「消さなければ残ります」


「消せるか? ここで喋ったということの記憶全て」


「ええ」


「やってくれ」


 央樹が力なく頷いた。


「小早川さん。あなたはここで事実を話したということを忘れる」


「……あら? その、特別な調査というのは?」


 小早川は不意に思い出したようにそう尋ねた。


「小早川さん。我々は別れさせ屋はやってないんですよ。それは今の法律だと違法でしてね。一時期、脅迫めいたことも行われることになったからなんですが」


「な、何を言っているの? 私は夫の不倫を……」


「ここでのことは誰にも喋りません。守秘義務の契約を交わしても構いません。そのための書類と弁護士を呼ぶこともできます。必要ですか?」


「……いいえ。他の事務所に頼むわ」


 小早川は顔色を悪くして、事務所から出て行った。


「はあ。参ったな。マジで丸裸か。それ、悪用したら億万長者どころか、世界の支配者になれるんじゃないの、凛之助君」


「安心してください。悪用するつもりは一切ありません」


「君の良心を信じるよ」


 央樹はそう言って、深々とため息を吐いた。


「だが、いいぞ。それなら一発で言質が取れる。もっと広告を出そう!」


「しかし、先ほどのような依頼だと……」


「流石にあそこまでのは稀だから大丈夫。それにネット広告の掲載の安いやり方、夏妃ちゃんに教わったしね。奥村探偵事務所も大きく躍進するときだな」


「はあ……」


 まあ、金儲けのためとはいえ、人を傷つけるわけではないから悪用ではないかと凛之助は納得することにした。


 それから広告を見た客がちらほらとやってくるようになった。


 広告には『失せもの探しから素行調査まで』と書かれていたので文字通り、いろいろな客がやってきた。猫を探してほしいという依頼や、富豪が残したはずの遺書が見つからないという案件、そして浮気調査。


 時として凛之助は現場に赴いた。


「ここで娘が飼ってったんですけど、来客時にドアを開けたとき、飛び出ていっちゃって。見つかります?」


「お兄ちゃん。お願い。ミーちゃんは大事な友達なの」


 猫を探すという依頼が一番苦労したかもしれないと凛之助は思う。


 過去視を使って猫の足取りを追い、ようやく猫を見つけたら捕まえるまでに散々苦労した。流石の凛之助の魔法も猫には通用しない。猫とは自由な生き物なのだ。


 央樹と飼い主とで連携して、何とか猫を連れ戻した。最終的には好みのおやつで釣るというのが勝因だっただろう。


「ありがとう、お兄ちゃん!」


「次からは気を付けて」


 この力をこんな風に使えるとは思ってもみなかったと凛之助は思う。浮気や素行調査も誰も傷つけることはないが、これはそれどころか人の役に立っている。


「いやあ。大変だったね、凛之助君。凛之助君?」


 何故だか凛之助は涙が流れていた。


「え? ひょっとして君、猫アレルギーだった?」


「いえ。そういうわけでは。ただ、人の役に立ててよかったなとだけ」


「うんうん。こういう仕事もいいものだ。たまにはね。しょっちゅうは困るよ。中年はいくら循環型ナノマシンを使っていたって、歳を重ねているから……」


 明後日辺りに筋肉痛が来るんだろうなと央樹はぼやいていた。


「そうですね。たまには」


 こんな日常がずっと続けばいい。それはきっと素晴らしいものだ。


 凛之助はそう思っていた。


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