初出社
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──初出社
凛之助は制服でもなく、ラフ過ぎでもない洋服を選ぶとそれを纏った。
「お弁当持った? ティッシュは? ハンカチは?」
「持ったよ、夏姉。じゃあ、行ってくる。夏姉も気を付けて」
「うん。リンちゃんも気を付けて」
この世界のことについては生活に違和感が出ない程度には学んだ。タブレット端末とネットを通じて知識を手に入れ、貪欲に学習した結果だ。
それから凛之助についてもかなり記憶を取り戻した。
連想ゲームだ。ひとつの物事について思い出す。例えばスマートフォン。そうするとそこから派生してスマートフォンで連絡を取り合う交友関係や、スマートフォンでやっていたゲームなどについて思い出す。
そうやって少しずつ凛之助の記憶を取り戻していった。
ただ、夏妃については依然としてあまり思い出せていない。
凛之助にとって夏妃はとても大切な人間だったということは分かっている。だが、夏妃についての記憶は凛之助というその人格が失われたことで思い出すことができなくなっている。こればかりは連想ゲームを頼るしかない。
スマートフォンの連絡先から思い出せたのは凛之助の交友関係は狭く、ほとんど姉とばかり連絡を取り合っていたということ。
凛之助は孤独な人間だったらしい。学校でも友達らしい友達はいないという記憶を取り戻している。だが、それは今の凛之助にとってはありがたかった。事情を説明しなければいけない人間の数は夏妃以外にないに等しいのだ。
「さて、少しずつ思い出していこう」
少しずつでも思い出して、本来の凛之助に近づこう。もちろん、彼自身になれないことは今の凛之助も理解している。人格が丸々違うのだ。同じになれるはずがない。
だが、記憶が戻れば、少なくとも夏妃に寂しい思いをさせることは少なくなるだろう。夏妃は今の凛之助を拒絶するどころか支援してくれている。優しい女性だ。彼女のためにできることがあるならば、それを行うべきだ。
凛之助は歩いて30分ほどの距離にある奥村探偵事務所を訪れた。
「おはようございます」
「おう。おはよう、凛之助君。今日から働いてもらうよ」
央樹はペットボトルのコーヒーを飲んでいた。
「具体的な仕事内容について教えてもらってもいいですか? 私の能力が活かせるならそれはそれでいいし、雑用が必要ならそれも行います」
「しっかりしてるね。夏妃ちゃんの教育がよかったのかな」
「そうでしょう」
少なくとも元の凛之助は姉に多大な影響を受けていたらしく、コンピューターについての知識はかなりあった。その知識は本に書かれている知識と同じで、使い方が分からない今の凛之助の役にはあまり立たないものの。
「うちは今、2つ依頼を抱えている。素行調査とSNSのトラブル解決代行だ。SNSの方は夏妃ちゃんにも手伝ってもらっている。俺も刑事としてネット関係の知識はあるけど、夏妃ちゃんほどじゃないからね」
「素行調査の方は?」
「今度、結婚する予定になっている新婦のご両親の依頼で、新郎の方を調べている。金銭的トラブルや人間関係のトラブル、過去の犯罪歴の調査までいろいろと調べる。うちは尾行して調べるような探偵らしいこともするし、オープンソースの情報からの分析もやる。過去の新聞やWebニュース、SNSのデータを夏妃ちゃんが開発してくれた解析AIに調べさせて、事件やトラブルに関わっていないかを調べる」
「すると、自分は何をしたら?」
「まずは事件ファイルの整理をしていてもらおうか。パソコンは得意だったよね?」
「ええっと。まあ、ある程度は」
「うちは全部電子化してるから、ファイルの名前を整理して、後はAIに任せとけばいい。それよりもだ。今日、新しい依頼が来る。浮気調査だ」
「ふむ」
「そこでこの間見せてもらった能力で依頼人から気づかれないように情報を引き出してもらいたい。この手の調査は依頼人が正直じゃない場合があるんだ」
浮気を捏造して、相手に慰謝料を支払わせて別れようとする場合があると央樹は語った。それが事実ならば、確かに依頼人の誠実さは疑ってかかるべきだろう。
「それで依頼人が正直なら、今度は捜査対象に接触して、また情報を引き出す。録音した記録があれば、言い逃れはできないし、そうでなくとも物的証拠を押さえる機会はできる。いやあ、探偵事務所にとっては実に良い能力だよ、それ」
「平和的に使えるなら何よりです」
これまで魔法が戦いに使われてきた。他人を傷つけるために使われてきた。他人を殺すために使われてきた。洗脳の魔法は勇者の身内を裏切らせ、勇者を殺させるために使われることがほとんどだった。
それが不貞の調査に使われる程度ならば、喜んで力を貸そうと言うものだ。
「じゃあ、依頼人が来るのは14時だから、それまでファイル分けよろしく」
「はい」
何とこの世界のほとんどの書類や本はこのパソコンやタブレット、スマートフォンと言った電子機器に電子情報として収められているのだ。それを知った時、凛之助はひどく驚くと同時に、恐ろしく効率的だと思った。
電子媒体ならば夏妃のような高度な攻撃者がいない限り、書類を盗み見られる可能性は低い。それに加えてデータの劣化がない。書物は長い年月を得れば紙が劣化し、写本を必要としていた。だが、電子データならばすぐにコピーでき、かつ紙の劣化や火災などで失われる可能性は低い。何せクラウド化というもので、ネットワーク上にデータを移せるのだ。それはまさに究極の図書館だった。
その上、どこに何か記述してあるかも、AIに頼めばすぐさま割り出してくれる。凛之助は昨日、AIに何度も質問して、この世界で暮らすうえで必要な情報を集めた。夏妃が電子の女神ならば、AIは電子の妖精だ。
ここまで効率のいい社会を作り上げたこの世界の文明に敬意を表するとともに、やはり自分ではこのような発想はできないという敗北感とやりきれなさを感じた。
どんな勇者と戦ったときもここまでの敗北感は受けなかった。神はバランスを調整する。勇者が安易に魔王に勝利できないように、魔王が安易に勇者に勝利できないように。あの作られた箱庭はそうなっていた。
だから、凛之助がここまで打ちひしがれるのは初めてのことだ。
しかしながら、奥村探偵事務所での仕事には幸いなことにマニュアルがあったし、作業支援AIによるバックアップがあった。なので凛之助は元の凛之助が有していた最低限のパソコンの知識を使って、作業を進めていけた。
「昼飯は準備してきたかい?」
作業が順調に進む中で、央樹がそう声をかけてきた。
思わず作業に夢中になってしまったが、もう12時30分だ。
「ええ。姉が弁当を」
「夏妃ちゃんの手料理か。羨ましいなあ」
切りのいいところで終わらせてお昼休憩入ってと言われたので、凛之助は作業を中断すると夏妃の弁当を広げた。夏妃は料理が得意だそうで、昨日はピザだったが、今日の弁当は手作りだ。卵焼き、ウィンナー、ポテトサラダ、そしておにぎり。ポテトサラダは冷凍しておいたものを解凍したもの。
事務所の電子レンジを借りて温めたのちに食べるが、実に美味い。シンプルだが、やはり平穏と安心の中で食べる食事は味が違う。
もう誰かを殺さなくてもいい。もう誰かに殺されなくてもいい。
そして、自分を愛してくれる人がいる。
それだけで食事の味すら変わるものかと思う凛之助だった。
「そろそろお客さんだ。お茶、準備できる?」
「多分」
「じゃあ、お願い」
まあ、お茶を淹れるごとくらいできなければと凛之助は給湯室に向かった。
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