臥龍岡夏妃
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──臥龍岡夏妃
自宅の住所は記憶にあった。
家族構成も把握できている。凛之助は姉と二人暮らしだ。
両親は事故で他界したらしく、それ以降は成人した姉が家庭を支えていた。
名前は臥龍岡夏妃
それ以上の知識はない。
いや、記憶はあるのだが、引き出せない。記憶と結びついている人格が消滅したのだ。開かない金庫のようなものである。何かの切っ掛けがあれば、思い出せるかもしれないが、その切っ掛けが必要な時に訪れるとは限らない。
それに加えて、今の凛之助の行動パターンは大きく変化しているはずだ。ちょっとした癖から言動のひとつひとつに至るまで、元の凛之助の記憶だけが受け継がれ、人格が消滅した今、変化していないはずがない。
「ここか……」
臥龍岡家はマンションの一室にあった。
セキュリティの充実したマンションだったのが困ったことだった。凛之助は生体認証スキャナーを通さなければ、マンションの正面ホールにすら入れないということを思い出すまで、かなりの時間を要した。
思い出したときには日暮れが近づいていた。
凛之助は生体認証スキャナーで網膜、掌紋認証を行うと、ようやく中に入れた。
それからは同じ要領で自宅の扉のカギを開ける。
さて、どうするかだと凛之助は思う。
いきなり説明するか、それとも違和感を悟られたら説明するか。
真摯なのはちゃんと最初から説明することだ。バレたから説明する、では信頼性も疑われてしまう。ちゃんと最初から説明するべきだなと凛之助は思った。
「ただいま」
自分の城ではない場所でそう言うことの恥知らずという思いが凛之助を苛む。
「おかえり、リンちゃん!」
やがて、奇妙な機械音とともに臥龍岡夏妃は姿を見せた。
夏妃は美しい女性だった。
これまではあまり見たことのなかった濡れ羽色というべき艶やかな黒髪を背中に流している。切れ長の目は凛々しく、自信を感じさせる。化粧はうっすらとしているようだが、そんなものは必要ないくらい色白の肌だ。
だが、彼女には足がなかった。
奇妙な機械音は無限軌道式の車椅子の音だった。いくつかの転輪が回転し、履帯が彼女を望む方向に進めている。そして、足は膝から先が存在せず、ひざ掛けのブランケット越しにもそこに何もないことが示されていた。
「どうしたの? お姉ちゃんに惚れちゃったかな?」
悪戯気な笑みを浮かべて夏妃がそう言う。
「まずはあなたに謝罪しなければならない」
「……え? どうしたの、リンちゃん……?」
この時点で夏妃は目の前にいる凛之助が、自分の知っている凛之助ではないことが分かったようだった。先ほどまでとは違う、警戒するような視線を、凛之助に向けてくる。
「私は、私の精神はあなたの弟のものではない。私はクリフォト。かつて異世界で魔王として輪廻を繰り返し続けていた存在だ。今はあなたの弟の体を器とし、この世界に転生してきている」
「……元のリンちゃんは……?」
「私が転生したときには既に死んでいた。何ものかに殺害を依頼されて」
凛之助は正直に全てを喋る。
「じゃ、じゃあ、クリフォト君だっけ? 魔王なら魔法とか使えるでしょ? やって見てよ! そうしたら信じるから!」
「分かった」
凛之助は買ってきたプリンを手の平に乗せるとゆっくりと浮遊させた。そしてそのまま夏妃のひざ掛けの上にそれを乗せる。
「地味だが、魔法だ」
「え、ええ。本当に種も仕掛けもない……」
夏妃はそう呟くと、俯いた。
「リンちゃんは蘇らないの? 魔法とかで……」
「無理だ。死者を蘇生する魔法はない。死者の肉体だけを蘇生できても、魂を蘇生することはできない。魂のない存在は死んでいるのと同じだ。そのような行為をしても何の意味もないどころか、死者の尊厳を犯している」
「……たった21グラムなのに……」
夏妃が呟く。
「分かった。リンちゃんは死んだ。受け入れる! ……ごめん、やっぱりまだ受け入れられない。だって、リンちゃんはこうして私の目の前に立っているんだもん」
夏妃が顔を上げたとき、その瞳は涙に溢れていた。
「すまない。本当にすまない。私はあなたの弟の代わりにはなれないだろう。なろうと努力することもできるが、あなたを失望させるだけに終わると思う。私はこの少年の記憶の一部を持っている。だが、あなたについての記憶はまだほとんど引き出せていない」
「いいよ。あなたが悪いんじゃない。あなたが殺したわけじゃないでしょう?」
「そのはずだ。だが、見てくれ。この手の甲の印は昔からあっただろうか?」
凛之助はそう言って、手の甲の魔王の刻印を見せる。
「そんなものはなかった。それは何?」
「魔王としての刻印だ。私の魂に刻まれ、神々が押す烙印。これがあるから私は狙われてきた。今回もそうなのかと思ったが、この少年には生まれたときはこのようなものはなかったのか。そうか」
「自分のせいでリンちゃんが殺されたと思ったの?」
「そうだ。私のせいかもしれないと、そう思った」
凛之助は素直にそう認めた。
「大丈夫。あなたのせいじゃない。他のどこか悪い人間の仕業。そういうところはリンちゃん似ね。リンちゃんもすぐに自分が悪いと思っちゃうタイプだったから」
そう言って夏妃は小さく笑った。
「これまではあなたに養ってもらっていたようだが、これからはその必要はない。私は出ていく。あなたに私を養う義務はない。もう私の中身はあなたの弟ではないのだ」
「ダメ。それだけは絶対にダメ」
夏妃が強くそう言う。
「そもそもどうやって暮らすつもりなの? 魔法で手品師として動画配信者にでもなるの? その機材も拠点もないでしょう? 大丈夫。お姉ちゃんはたとえ中身がリンちゃんじゃなくても、あなたのことをリンちゃんとして扱ってあげる。だから、いかないで。悪いと思うなら、ひとりにしないで……」
夏妃がそう言って凛之助の手を強く掴む。
「分かった。ここにいさせてもらおう。私もあなたの弟として傍にいる。その役割が果たせるかは分からないが……」
自信は正直なところ全くなかった。凛之助には夏妃の記憶がないのだ。どこかですれ違うことになる。それがいずれ盛大に破綻しないと誰が言える?
「じゃあ、リンちゃんって呼ぶね。それからプリン、ありがとう」
「この程度のことでよければいつでも」
「そういうわけにはいかないでしょう? 今、夏期講習だし」
「私は正直、この世界でこの世界の文明を学ぶのは無理だと思っている」
「え? 学校辞めるってこと?」
「ああ。私はこの世界の文明に興味はあるが、まるで理解できないというのが正直なところだ。記憶としては確かにこの世界の知識があるが、発想が、考え方があまりにも違う。このスマートフォンという板を見て確信した」
「そっかー。じゃあ、どうする?」
夏妃はあっさりと凛之助の言い分を聞いて、そう尋ねた。
「働くことでこの世界のことを知りたい。少なくとも私には魔法がある。この世界にはないものだ。それを使って働いていきたい」
……………………
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