#8

エドワードが脱け殻のようになっていたブルーノを連れて去っていくと、ジムは抱いていた猫――ジキルとハイドを床に下ろす。


それからオウガイのほうへと振り返り、彼に向かって敬礼。


表情もいつの間にか、いつもの無表情に戻っている。


「今日もよろしくお願いします」


「承知した。では、試合場へと上がろう」


オウガイがコクッと頷くと、二人はロープの間を通り抜けてリングへと上がった。


その様子を見ていたジキルとハイドは、互いに身体を重ねたままゴロゴロと移動し、ジムたちが上がったリングへと近づいていく。


二匹の視線の先には、互いに向かい合っているジムとオウガイの姿があった。


二人は数回言葉を交わすと、互いに身構える。


これはジムがオウガイにいつも頼んでいることだった。


トレーニング後に二人は、必ず実戦形式のスパーリングをおこなっている。


当然、体内に設置された蒸気機関を起動させなければ、オウガイに実力で劣るジムに勝ち目などない。


彼にはオウガイのような格闘のセンスも――。


エドワードのような聡明さも――。


ブルーノのようになんでもこなせる器用さもなかった。


だからこそジムは、少しでも実力を上げようと日々奮闘している。


「では、参る」


「ぐはッ!?」


開始と同時に、オウガイの拳がジムの頬に突き刺さった。


ジムはなんとかこれを堪えて再び前を向いて手を出す。


左ジャブを積み重ね、距離を詰める。


ジムも体格がいいほうではないが、オウガイのほうが小柄だ。


インファイトならば強引に押し切れると、ひたすら前に出る。


「その意気や良し。だが、遅い」


「くッ!?」


だが、当たらない。


ジムの拳はオウガイには届かない。


目の前にいるというのに、オウガイはなんなくジムの攻撃を躱していく。


オウガイは日本で数少ない忍者の末裔――舞姫流の忍だ。


その体術はたとえ素手でもアンデッドを翻弄し、打ち倒すだけの実力を持っている。


「うおぉぉぉッ!」


ジムが身体ごとぶつけてオウガイの足を止め、ゼロ距離からの腹部へボディブロー。


しかし、その攻撃は読まれていたのか、オウガイはボディブローが当たる前に肘打ちを返す。


カウンター気味に側頭部に入った肘打ちに続き、オウガイは跳躍。


後退したジムの顔面に宙で身体を捻り、回し蹴りを喰らわせた。


この一撃でジムはダウン。


リングにバタンと倒れると、オウガイがそんな彼を見下ろしながら腕を組む。


「どうした? もう終わりか?」


「まだまだ……。もう一度お願いします」


そして、ジムはフラフラと立ち上がると、再びオウガイへと向かっていった。


それからもスパーリングは続いたが、ジムの攻撃がオウガイに当たることはなかった。


これ以上はジムにダメージが残ると判断したオウガイが、そこまでと叫ぶと稽古を中止する。


「今日も一発も当てられなかった……。やっぱり強いです……」


腫れ上がった顔を濡れたタオルで冷やしながら言うジム。


そんな彼の足には、近づいてきたジキルとハイドが絡みついていた。


慰めているのだろうか、二匹とも自分の身体を擦りつけながら彼の足をペロペロと舐めている。


一方のオウガイは汗一つ掻いておらず、肩を落としているジムの姿をただ眺めていた。


「朝昼に体術、夜には勉学……。毎日欠かさず続けているお主は大した努力家だ。尊敬に値する」


ジムが自分の足元にいた二匹の猫を抱き上げると、オウガイが彼にそう声をかけた。


それはお世辞などではなく、オウガイの心からの言葉だった。


彼の言葉を聞いたジムはさすがに少し驚いたのか、いつもよりも両目を大きくしていた。


「そんな……それならオウガイだって……」


拙者せっしゃは身体を動かすのが好きだからな。だが、お主はそうではないように見える」


「僕……そんなふうに見えましたか?」


ジキルとハイドを抱きながらオウガイへと身体を向けたジム。


オウガイはそんな彼の視線に応えるように口を開いた。


まるで苦行に耐える山伏やまぶしのようだと。


ジムに山伏がなんなのかはわからなかったが、オウガイが言わんとしていることは理解できた。


「見抜かれてる……。僕も修行が足りませんね」


そう答えたジムはオウガイに背を向けると、腕の中にいるジキルとハイドがミャーミャー鳴き出した。


トレーニングが終わったのなら早く食事へ行こうとでも言いたいのか。


二匹はジムのことを急かすように鳴き続けていた。


そして彼は、出入り口のドアへと歩を進めていくと、背を向けたままオウガイに言う。


「さあ、僕らも行きましょう。エドとブルーノが待ってますよ」


「そうだな。午後はこちらが世話になる。まだこの国の言葉を、完全に把握できたわけではないからな」


「もちろんです。それじゃあ行きましょうか」


それから地下室にあったシャワールームで汗を流し、二人はエドワードとブルーノがいる店へと向かった。


その移動中、ジキルとハイドが鳴いているだけで、二人の間には一切の会話はなかった。

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