#2

ホテル――ハッピー·プリンスは、赤い薔薇ばら――ダマスクモダンの濃厚な甘い香りで満ちていた。


薄暗いロビーにはカウチが並び、壁には裸で向かい合っている筋骨隆々の男性の絵が飾られている。


どこか16世紀の王宮を思わせる幻想的なその部屋には何とも言えない不気味さがあって、その受付に立つ男もまた妙な雰囲気を持った者だった。


鍛え抜かれた浅黒い肌に、短い髪と綺麗にそろえられた髭。


まるで壁にかけられた絵画の男性が、飛び出してきたかのような風貌だ。


「ねえ、部屋は空いてる?」


受付の男に、ホテルに入ってきた人物が声をかけた。


カウンターにもたれながら愛想よく手を振り、ホテルの空室状況を訊ねている。


そんな愛想のいい青年――ブルーノ·キャロルの後ろには連れがいた。


物静かそうなその連れの名はジム·スティーヴンソン。


どうやらブルーノとジム二人は、このホテル――ハッピー·プリンスに泊まりに来たようだ。


「いらっしゃいませお客様。ええ、空いておりますよ」


受付の男は、そう答えるとニッコリと微笑んだ。


そんな男に、ブルーノはその端正な顔で笑みを浮かべて返していたが、ジムのほうは静かにその真っ黒な瞳を向けているだけだった。


その無表情も相まって、まるで作り物のような顔だ。


「宿泊中にベットシーツとか交換できる? 汚れちゃうかもしれないからさ」


ブルーノが再び訊ねると、受付の男はもちろんですと答えた。


それからブルーノは受付の男と親し気に話を始め、ジムはそんな二人のことをただ呆けた顔で眺めている。


二人を見ればわかるが、交渉事はすべてブルーノがこなしているのだろう。


ジムはそんな彼とは正反対で、その態度から表情に至るまでいかにも話すことが得意ではなさそうだ。


「あ、そうそう」


やっと話し終えて部屋の鍵を受け取ったところで、ブルーノが何かを思い出したように付け加える。


「オレってさ~。フィニッシュで彼のバックをガンガンつくのが好きなんだけど、結構激しくなっちゃうからさ~。隣の部屋まで声が漏れちゃうかも」


「問題はありませんよ。お客様のお部屋の隣は、現在誰も泊っておりませんので」


「そうなんだ。そいつはよかったよ。彼って、こう見えても結構感じやすいからね」


ブルーノがそう返事をすると、受付の男は再びニッコリと微笑んでその頭を下げた。


そして、顔を上げるとジムのほうへ視線を向けてまたも笑みを浮かべている。


客の性癖にいちいち反応しないところを見るに、ジムはこのホテルの質はかなり良いのだなと思っていた。


ジムは受付の男に軽く会釈すると、先に部屋へと向かっていったブルーノの後を追いかける。


「さっきのはなんですか?」


廊下を並ぶ裸の男性の彫刻を横目に、ジムは隣を歩くブルーノに声をかけた。


そういったジムの表情に変化はなく、声も平坦なので、彼が怒っているのか呆れているかはよくわからない。


「アピールだよ、アピール。こんな店なんだ。同性愛者をよそおったほうが怪しまれないじゃん?」


「そうだったんですか? なんだ、僕はてっきりこれからブルーノにお尻を掘られるのかと――」


「なんでそう思うんだよ!? さっきのが演技だってわかんないのかお前はッ!?」


ジムの納得後に続けた言葉を遮って、ブルーノのは怒鳴り上げた。


誰もいない廊下に彼の声が響き渡り、つい大声を出してしまったブルーノは、まるで飾られている絵画や彫刻に笑われたかのように恥ずかしそうにしている。


「と、ともかく、あれは演技だから。本気するなよ……」


「うん。わかりました」


ブルーノはコクッと頷いたジムを見て思う。


こいつは仕事と言われれば、本気で尻を掘られることも受け入れるだろうと。


二人の仕事とは、このホテル――ハッピー·プリンス周辺の調査だった。


19世紀末。


各国が産業革命を成し遂げ、世界中が複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた。


そんな時代に、死体が人を襲うという怪奇な事件が世界中で起こり始める。


イギリスの首都ロンドンでもその事件は起こり、英国軍人の女性――ホーリー·ドイル少将はいち早く対処すべく特殊調査隊――シャーロックを結成。


国内や海外での事件と関わりある若者たちを集め、街の調査を開始した。


特殊調査隊シャーロックのメンバーであるジム·スティーヴンソンとブルーノ·キャロルは、ホーリー·ドイル少将の命を受け、このホテル――ハッピープリンスへと泊りに来ていたのだった。


けして、同性で快楽を味わいに来たのわけではない。


「そんなことよりもエドとオウガイはどうしたんだよ? あの二人もホーリーさんに言われて来てるんじゃないの?」


「先に調査を始めているとは聞いていますが、詳しいことは僕も知りません」


「あっそ。まあ、とりあえず部屋に入って着替えますかぁ」


「え? 服を脱ぐということは……やっぱりお尻を――」


「掘らないから!」


本日二度目――ブルーノはジムの言葉を遮って唇を尖らし、目に入ったあてがわれた部屋へと入った。


持ち込んだバックを開き、これから調査に出るための準備を始める。


「うわぁぁぁッ!?」


二人が動きやすい格好に着替えていると、外から野太い男の悲鳴が聞こえてきた。


ブルーノはやれやれといった表情でため息をつくと、すでに着替えを終えていたジムが部屋の窓を開く。


「来て早々か……。ツイてるんだかツイてないんだか……」


「僕は先に行きます。ブルーノも早く来てください」


「わかってるよ~」


やる気なく返事をしたブルーノを置いて、ジムは窓から外へと飛び出して行った。

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