シャーロック·ミッション~英国街の悪夢
コラム
#1
しかるに、ある結果だけを先に与えられた場合、自分の隠れた意識の底から、論理がどういった段階を経て発展して、そういう結果にいたったのか、それを分析できる人間はほとんどいない。
(アーサー·コナン·ドイル『緋色の研究』)
――青年が地面に這いつくばっていた。
その周りには同年代の若者らが数人おり、立ち上がろうとする青年の顔を蹴り上げてはまた倒して笑っている。
すでに何度も手や足を出されているのだろう。
青年の顔は紫色に腫れ上がり、実に痛々しい姿だ。
そんな彼らを遠くから、男たちを引き連れて歩いてきた女性が一瞥する。
女性の名はホーリー·ドイル。
英国軍少将である彼女は、軍に新たな部隊を作るために、この志願兵を集めた養成所へと来ていた。
「なんだ、あれは?」
ホーリーが足を止め、引き連れていた男たちに訊ねた。
彼女が連れている男たちは、この養成所の教官たちだ。
彼らはホーリーに
集まった志願兵には孤児院出身や職を求めてやって来た両親のいない労働者階級の若者が多く、日々の訓練や授業での苛立ちを自分たちよりも弱い者にぶつけているのだと。
彼らのしていることは、礼儀も矜持も持たない下層階級らしい光景なのだ。
話を聞いたホーリーは、どうでもよさそうにその場を通り過ぎようとした。
弱者がさらに弱者を叩く。
そんなことは学校や職場、そして軍隊でもよくあることだ。
上司や上官に追い詰められているのようなら問題だが、彼女の価値観からすれば、やられている青年のほうが悪い。
立場も後ろ盾がないという背景も同じならば、いくらでもやり返しようがある。
自分の腕力がないのならば知恵を使えばいい。
口八丁で自分を庇ってくれる仲間を集め、手を出されないようするなど、立ち振る舞いを変えればあのような目には遭わないはず。
何も手を打たないあの青年が愚かなのだと、ホーリーは思う。
「おい、お前たちいい加減にしろ! 少将殿の目の前だぞ!」
ホーリーの引き連れていた教官の一人が、青年を囲んでいる若者らへ声を荒げた。
彼らは大慌てでその場を去って行き、残された青年は、フラフラと立ち上がって背筋を伸ばして敬礼をする。
教官が早く自分の部屋へと戻るようにいうと、青年は小さいな声で「はい」と答えた。
そのときだった。
ホーリーは去って行った青年とすれ違ったとき、彼の真紅の瞳と、その腫れ上がっていたはずの顔が綺麗に治っていることに気が付く。
「ちょっと待て」
気になったホーリーは、青年に足を止めて自分に顔を見せるように促した。
そして、振り返った彼の顔をもう一度見る。
やはり傷や青あざがなくなっている。
まるで何事もなかったかのように消えている。
そこに見えるのは、物静かそうな無表情があるだけだ。
「もういい。さっさと行け」
ホーリーがそういうと、青年は再び背筋を伸ばして敬礼し、彼女に言われた通りその前から去って行った。
青年は先ほどは立っているのがやっとという様子だったが、力強い足取りで走っていく。
そんな彼の背中を見て、ホーリーは教官らに訊ねる。
「“あれ”の名はなんだ?」
訊ねられた教官たちは互いに顔を見合わせ、気まずそうにしていた。
それから彼らは答えた。
この養成所には志願兵の数が約1万9千名はおり、正直な話、余程優秀な者でもない限り名前も顔も覚えられないと。
「ですが、名簿を見れば写真と資料があると思います。すぐにでも用意できますが」
「ああ、頼む。今日はそのために来たのだからな」
ホーリーの言葉に、教官たちはまた互いに顔を見合わせて小首を傾げていた。
彼らは、ホーリーが新たな部隊を作るために、この養成所へと来ていることを知らないのだ。
本来ならば将官の仕事は、長期間にわたり単独で作戦を実施することが期待される部隊を指揮することである。
そんな少将という立場である彼女が、わざわざ養成所へ来るとは――。
教官たちはにホーリーの意図が読めなかったが、彼らは「少将殿はずいぶんと熱心な方だ」と思うようにしていた。
「少将、先ほど者に何か気になることでもあるのですか?」
「いや、大したことではない。それよりも早くその名簿が見たいな」
「はッ! では、こちらへ」
教官たちは敬礼をすると、ホーリーの前を歩き出した。
だが、ホーリーはすでに小さくなった青年の姿をまだ眺めている。
青年が完全に見えなくなるまで、彼女がその場にから動くことはなかった。
「これは思わぬ拾いものだ。“あれ”ならば私の計画に……」
彼女は嬉しい誤算とでも言いたそうに口角を上げると、教官たちの後を追いかけた。
これが特殊調査隊シャーロックの結成と、そのメンバーとなる青年――ジム·スティーヴンソンとホーリー·ドイルの出会いである。
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