16
臆病な私を許して欲しい。
そう何度も繰り返し赦しを請う。
どうして嫌だと抗えないのだろうかと繰り返す自問。
こんなにも助けたいと願うのに、その一歩が踏み出せないままで。
自分の気持ちを誤魔化してまで何がしたいと願うのか。
私は何故、また罪を重ねようとしているのだろう。
その後押しの先にある未来は、本当に私が欲しいと願ったものなのだろうか。
結局は、何処までも臆病なのだ。迷いが生まれても、圧力に逆らうには勇気が必要で。その勇気を出せない自分は、今ここに、こうやって立っている。
「ごめんなさい。ネアン」
部屋に入ると既に自分以外のスタッフが待機している状態だった。一華とネアン。この二人が揃えば、本日のプログラムは漸くスタートを切ることが出来る。
望まない手続きは、淡々と行われていき、結局何も変える事が出来ないままやってきた運命の時。ガラス越しにある姿に、何も言えず噛んだ唇から血が滲む。
苦しまないようにだなんて、偽善的な台詞を吐いたところで、命を奪うという事には変わらないのに。それでも何度も心の中で繰り返す謝罪の言葉は、自分自身が許されたいがためだ。謝ることで許してもらおうだなんて都合が良すぎる考えよねと自嘲を零しながらも、それを繰り返すことを辞められず触れるスイッチボタン。
『イ・チ・カ』
分厚いガラスの向こう側。まだ椅子に繋がれる前のネアンが悲しそうに微笑む。そっと重ねられた掌に、自分の手を重ねるようにして置けば、ネアンは一度驚いた表情を見せた後、嬉しそうに笑って見せた。
「この命の罪は全て背負い続けるから……だから」
聞こえないと分かっていても呟いた言葉。だがそれは最後まで吐き出されずに途中で止められてしまった。その理由は目の前の実験体がそれを小判だからで、小さく首を振るとネアンは自分の唇に指を当て、一華に黙るように指示を出す。それを不思議に思い相手の行動を眺めていたら、ネアンの唇がゆっくりと、一つずつ言葉を紡ぎだした。
『ご・め・ん。ぜ・ん・ぶ・し・っ・て・た』
「え……?」
触れられないガラスの内側の世界。これが最後だからと、ネアンはずっと秘めていたものを全て吐き出すことにする。
「ごめん、一華。本当は全て知っていたんだ」
本当ならば、それは誰にも告げず墓場まで持って行くつもりだったものだ。しかし、何と往生際が悪いのだろう。それが自分に定められた運命だからと理解しているつもりでも、矢張り死ぬのは恐しい。だからせめて、最後に一度だけ。悪あがきをしてみたくなった。ただ、それだけの理由で、ネアンは最後の言葉を紡ぐ。
「俺の存在する意味も、一華が何に葛藤しているのかも。そして自分の運命と死ぬタイミングも全部知っていたんだ」
見たくなくても見えるものがある。聞きたくなくても聞こえてしまうことがある。そういう風に作られた存在だからこそ、それを悟られないように必死に偽り隠し続けてきた秘密。
「俺、こんなんだから、全部聞こえてたんだ。それを一華に伝えなかったのは、一華がこれ以上苦しむのを見たくなかったから。一華を苦しめることは俺の本意じゃない。だから一華に気付かれないように必死に隠してた」
それは多分詭弁なのだろう。でも、その言葉は少しだけ本音も混ざっている。
「ごめんな、ずっと黙っていて。でも、もう、最後だから……」
きっとこの音声は、相手に届くことはないのだろう。それは少しだけ残念で、少しだけ安心出来るとネアンは笑う。口の動きだけで相手に何処まで伝わるのかなんて、はっきりとは判らない。それでも目の前で自分を見つめる一華の表情が複雑なモノに変わって居ることを見ると、多分半分くらいは伝わったのだと思いたい。言い逃げは狡いって判っていても、これくらいは許して欲しいと。それでもやっぱり、判っていて欲しいと願ってしまったから。だから、最後に一番大切な言葉だけ伝えておく事を許して欲しかった。
ネアンは再び口を開くとゆっくりと言葉を紡いだ。
『ダ・イ・ス・キ・ダ・ヨ。ア・リ・ガ・ト・ウ』
重ねられた掌から熱は伝わることは無く、ただその表面に自分の体温が移っただけ。それでも、ネアンは愛おしそうに一華の手の平を指でなぞる。まるで恋人にするようなそれに、一華はその場で固まったまま動けなかった。
「タチバナ!」
肩に手を置かれた事で我に返り振り返ると、怪訝な顔で自分を見つめる男性スタッフの姿が目に入る。
「まさか君は献体と……」
「そんなことありません!!」
反射的に吐き出した否定の言葉。実際、一華自身、この感情が何であるのかすら未だ答えが出せていないのに、それ以上があるはずなんて無かった。言われかけた言葉を強く否定し、再び視線を室内に戻す。先ほどまで目の前に居た実験体は、既に後ろを向き係員の人間に指示されたとおりに椅子に座ってしまっていた。
「君のことは高く評価しているつもりだ。期待を裏切らないでくれよ」
拘束具で固定される身体。完全に自由を封じたことを確認した後、係員の人間は二、三ネアンに呟いてから部屋を出る。スイッチを操作して下ろされるマジックミラー。本来なら相手に最期を悟られないように、この部屋に入った段階で既に下ろされていなければならないはずのミラーは、何故、今日に限って上げられていたのだろう。ふと、そんな事が気になってしまった。
「君の創り出した命だ。君の手でケジメをつけたまえ」
ボタンを押せば直ぐにガスが吹き出る。構造は至って単純で、それが終わるまでは実に呆気ない。方法は幾つかあるにせよ、大抵はこの方法が良く行われるのは、感じる罪悪感が尤も薄い方法だと思われるからだろう。今回もそれに則って処理が行われる手はずなのだ。それを押すのはたった一つの動作だけ。手に力を込めれば、一瞬で終わってしまう。それだけで、目の前にある命は呆気なく砕け散ってしまうのだ。何も恐い事は無い。初めから決められていた運命じゃないの。
「タチバナ君。どうしたのかね?」
早く操作をしろと出される催促。判ってはいる。判ってはいるんだと何度もボタンを押そうとするのに、何故この場に及んでこの手は動いてくれないのだろうか。
指が震えるせいで上手くボタンを押すことが出来ないのと。気持ちばかりが焦り喉が引き攣る。
まだ覚悟が決められていない?
ふと顔を上げて室内へと視線を移せば、マジックミラー越しに座るネアンに、とても柔らかく微笑まれてしまった。向こうからはもう、こちらの姿は見えないはずなのに、その視線は真っ直ぐに一華を捉えて離してくれない。
「タチバナ君。早くしたま…」
「私は……」
確かにボタンを押そうとしたのよ。あの時は。
でも、顔を上げ、向けた視線の先。そこに座っていたのはあの真っ白な兎だったの。
兎の赤い目が私の姿を捉えて悲しそうに揺れるから、ボタンを押すのを躊躇ってしまった。
『殺さないで』と責められているような錯覚に陥ってしまい、頭の中で誰のモノか判らない叫び声がずっとハウリングを起こしているの。
頭が痛くて耳を押さえて視線を逸らして。現実をシャットアウトしてしまえば、真っ黒な闇が世界を覆い尽くすじゃない。
そうすれば、また夢の世界へと引き戻してくれるような気がしてね。
そうやって今、この場から逃げる事ばかり考えて居たら、ふと一人の子供の泣き声が聞こえてきた気がして顔を上げたのよ。
振り子が揺れる。ゆらゆらと。
小さく軋んだ音を立て、小さくゆらゆら揺れている。
首の随分伸びた人だったモノ。
それは、体中の体液を垂らしながら、ただ揺れることを繰り返しているだけ。
それが始め何であるのかが判らなくて、呆然と見ている事しか出来ない子供。
そうだ……あれは、幼い頃の私自身の姿。
あの時に感じたのは強い孤独だったわ。
一人になるのが恐いのと。何度もそう、叫んだじゃない。
置いて逝かれるのが寂しいんだと。何度もそう訴えたじゃない。
だから一人にしないでと、何度も何度も必死に繰り返したのを忘れたって言うの?
それを認めたくなくて、もう一度リセットをするために、命を人為的に創り出すことを選択したんでしょう?
そうやって己の手で創り出したモノは一体何? 異形なの? それとも人間?
いいえ。それは既に分かっているはずよ。だって、あれは……私にとって……
「ネアン!!」
次の瞬間、一華は大声で叫んでいた。スイッチに触れていた手を素早く離すと、代わりにマイクの音声スイッチをオンに切り替え、部屋の中に居るネアンに向かって叫ぶ。
「貴方は生きたいの? それとも死んでしまいたい? どっち!?」
「俺は……」
突然、室内に響いた音声にネアンの目が大きく見開かれる。もう二度と聴くことは無いだろうと思っていた一華の声。それが自分に「生きるか死ぬか」と選択を投げかける。
「俺は生きたい! こんなところで死にたくはない!!」
言ってはいけないと思っていた言葉が漸く形となって吐き出された。一度言葉にしてしまうと、置かれた理不尽な状況から逃げ出したいと、藻掻き始めてしまう。拘束具の締め付けはきつく、体の自由が利かないが、それでも何かが変えられるのならばと必死に見せる抵抗。
「そう。ならば、自分でそこから逃げ出しなさい! 貴方には出来るはずよ! だって、私がそういう風に作ったんだもの。不可能はないはず! 貴方の持てる力を今、全て解放しなさい! 貴方自身の手で、自由を掴み取ればいいわ!」
その言葉がスイッチとなることは互いに分かった。逃げ出せと言われた事で、自分の本心を押さえる必要の無くなったネアンは身体に力を込める。
しかし、それは過ぎる迷いのせいで一度弱まってしまう。自分が逃げ出すことで一華はどうなるのだろう? そんな不安がネアンの決断を鈍らせたのだ。
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