15

 相変わらず頭痛が続いている。この数週間で携帯するようになったのは、鎮痛剤の入った白いプラスチックの容器だ。過剰摂取をすると身体に良くないことは判ってはいるが、それに頼らなければまともに起きていることも出来ない。そのうえ、吸わないと決めて辞めたはずの煙草まで吸い始める始末。苛々が確実に溜まり続けていて気が滅入る。

「一華サン」

「何?」

 名前を呼ばれ顔を上げると、心配そうに覗き込んできた城戸と目が合った。

「大丈夫?」

 普段とは何かしら異なる雰囲気。それを感じ取っているのだろう。心配されるのも仕方が無いと覚えた反省。

「一応は、大丈夫よ」

 腰掛けていたソファの隣に座っても良いか確認されたので、言葉では答えず頷く事で返す。城戸は一華の隣に腰掛けると、持っていたコーヒーの入った二つの紙コップの内、ミルクの入っていない方を一華に差し出した。

「ねぇ、一華サン」

 手の中に収まる紙コップ。ミルクの混ざった濁った茶色を眺めながら城戸が呟く。

「人ってね、自分が思っているより強いものじゃないんですよ」

 言われた言葉に思わず反応し肩が震えてしまう。一華の持っていたコップの中身は、それに連動するように小さく跳ねた。

「どんなに頭の中でそうあろうと強く願っても、感情って自分が思っているよりも上手くコントロールすることは出来ないんだと感じたりしませんか? 複雑な様に思えることでも、本当はもっとずっと単純で。必死に隠そうと藻掻いてみても、少しずつ溢れ出してしまうものだって存在していたりするんです」

 今までは意識しなかった些細なこと。だが、今となってはその言葉は深く一華の心に突き刺さってしまう。

「僕はね、思うんですよ。今、僕たちがしている行為って、確かに許される事では無いかも知れない。だけど、それによって創り出された命に罪ってものはないわけでしょう? だからこそ、本当は救ってあげたい。僕たちと同じ様に与えられた時間を、精一杯生きて欲しいって」

 暖かいコーヒーはまだ口を付けられる気配が無い。少しずつ熱を奪われ、生温くなっていくだけで嵩の減らないコップの中身。

「僕、彼等のことが好きなんですよ。だからこうやって僕たちの都合で消されてしまうのは心が痛いと感じてしまうんです」

 この男は何が言いたいのだろう。それが知りたくて盗み見るように視線を向ければ、どこを捉えているかも判らない瞳が柔らかく細められる事に気付く。

「なので、嫌だったら嫌だと言っても良いんじゃないかなって。それは僕には出来なかったことだけれど、一華サンには出来ると思うんです」

 それは多分、隣に座る彼が一番したいと願ったことなのだろう。何となくそう思い静かに俯く。

「狡いと思われるかも知れないけど、一華がそうしてくれることで何かが変わるのかも知れないって思うんです」

 矢張りそうかと。砕かれた希望を誰かに託したい。願わくば、その可能性が実を結ぶことを祈っているんだと。言葉を紡がれる度感じる居心地の悪さ。コップの中で揺れる黒い液体が、ゆるりと波打ち波紋を広げる。

「結局は頼ることしか出来ないってことなんですけど、僕は、そんな小さな可能性の先にある未来が見てみたいって思うんです」

「……随分と勝手な言い分ね」

 これ以上その言葉を聞きたくなくて、差した水。

「判っています。自分勝手な意見を貴女に押しつけてしまっているんだってことは」

 それでも、何れはどちらかを選択をする必要があるんだと。隣に座る男は無言でそう訴える。迫るのは決断の時。与えられた選択肢は二つだけ。今、確かに立ち止まったのは分岐点で、そこに提示されているものは未来の先を示す二つの看板。その文字は、未だ不鮮明で読み取ることが出来ないからこそ、未だに悩み続けてしまう。

「私の……考え……」

 私は一体、どうしたいと願っているのだろうか。

 何処に向かえばいいのか、随分と前に判らなくなってしまっている。そんな気がして小さく溜息を吐いた後、一華は何も混ぜられていない黒くて苦い液体を喉に流し込んだ。

「このコーヒー、苦くて不味いわね」

「仕方無いですよ。だって、備え付けの安いものですから」

 その会話から数日後。予想よりも早く、唐突にその時は訪れた。

 朝から不穏な空気が漂っていたことは知っていた。それは、施設内に漂う空気から伝わる事で、部屋を出入りするスタッフの様子がやけに余所余所しい分、余計に判ってしまう。

 遂にこの時が訪れたのだと直感的に理解し曇る表情。案の定、開かれた扉の向こうに立つ一華の表情は暗い。彼女は自分で思っているよりも、ポーカーフェイスを演じることが苦手のようで。そのこと知っているのだろうかと思わず笑ってしまいそうになった。

 そんな風に落ち込まないで欲しい。だから出来るだけ人懐こい笑顔を浮かべ、ネアンは一華に甘えてみせる。

「今日は何をするんだ?」

「今日は……」

 その質問に対する答えを引き出そうとすることが、何よりも狡い事だって言うことは知っていた。別に一華を責めたいわけではない。ただ、しまないで欲しいとは思っている。ずっと考えていたのだ。自分の存在が枷になるのが嫌だということを。しかし、そんな風に考えていることは、何一つ相手に伝わることはない。

「いつもとは違う実験に付き合って欲しいの」

 表情と同じように一華の声も暗い。だから心の中でこう呟く。「うん。大丈夫だよ」と。静かに彼女の肩を叩くと、ネアンはゆっくりと目を伏せた。

 諦めることは元々得意なのだ。望んでも手に入れられないものの方が多いのだから、始めから望まない方がずっと楽で。我が儘を言うことは面倒臭いと思っているせいで、余りしたこともなかった。

「いいよ。僕、上手くやってみせるから、安心して。ね、一華」

 本当は泣きたいくらい心臓が痛む。用意された結末を納得して迎える覚悟と、それを強制的に与えあられてしまう恐怖とを天秤に掛け、何度も何度も傾きを測る自分が居て。しかし、それを目の前の相手にだけは気付かれたくなかった。

 必死に我慢し自分自身を誤魔化して。後どれくらい一緒に居られるだろう? 自分に残された時間は何秒くらいあるのかな? と過ぎる考えを振り切りながら、取り繕った偽りの仮面。本当は訴えてみたい。それは望んで居ないことなのだと。でも、それを言葉にすることはしないだろう。

 いつもと同じ廊下、いつもと同じ風景。なのに今日に限って足取りは重い。当然といえば当然だなとネアンは思う。命が消えるカウントダウンが秒読みの段階に入ったのだから、のんびりと時間を楽しむ余裕なんてものは無いのだ。

 目的地に近くなるほど雑念は増え続ける。ああ、やっぱり、本音を言えるのならば言ってみたいと。足掻けるものなら足掻いてみたいのだと。未だ見ていないものは多数にあるのだ。知りたいと願う知識や、やってみたいことも沢山ある。そして、何よりも大好きな人と過ごすことの出来る時間が、一分一秒でも多く欲しいと願ってしまう。その願いが強くなれば成る程、願ったところで手に入る訳ではないと自覚し泣きそうになる。

 もし奇跡が起こるのであれば奇跡が起こって欲しい。

 無意識に伸びた手。それが自然と繋がる。そうすることで一華は小さく身体を震わせ身を固くしたが、ネアンは構わずにその手を強く握り込んだ。


 せめて一時の夢だとしても、それが永遠であれと願うことは悪い事なのだろうか。

 神様が居るのなら、是非教えて欲しいんだ。


 そう問いかけて返される答えは沈黙。自然と悲しい笑みが零れたことは、一歩前を歩く彼女には気付いて貰えなかった。


 少しでも長く時間をと考えていたのは、何もネアンだけではなかった。一華も同じように願い、いつも以上に時間をかけて移動していたはずなのに、気が付けば目的の部屋のドアは目の前にある。

「此処?」

 扉を開くのはとても嫌で仕方が無い。指定された処理室は確かに此処なのだが、この扉を開いてしまえば、明日からこの存在はこの場所には存在しなくなる。命と代価。重さと代償。空の両手に砂粒の夢が溢れそれはさらさらと流れ出す。まるで止めることのない水のようにただ自分という存在を通過点として通り過ぎていくだけ。

「一華?」

「……え……ええ」

 運命が初めから定められているものだとするのならば、どうにかしてそれを曲げたいと願う事は罪なのだろうか。握られたカードキーは装置に通す直前で止められたまま。その場所から一向に動かす事が出来ず震えだした手。暫くその状態で止まったまま時間だけが過ぎていく。

「僕が開けるね」

 一華が全く行動を起こさないので、仕方無くネアンが扉を開くべくカードキーに手を近づけた。

「ダメよ!!」

「え?」

 渇いた音を立ててネアンの手が勢いよく弾かれる。

「一華?」

「あっ……」

 その行動は反射的で。無意識のうちにそう動いてしまっていた。

「そんな……」

 そう。心よりもずっと身体は正直なのだ。失いたくないと願うのなら、それを手に入れようと必至に動いてしまうもの。頭が弾き出した答えに逆らい、もっと純粋な感情で動く身体が憎らしいとすら感じる程に勝手に動き出してしまう。

「ごめんなさい」

 唇を噛んで俯けば、じんわりと広がる血の味。手放したい。それでも手放せない。いや、本当は手放したくない。訳の判らない押し問答がずっと頭の中で繰り返され続ける。そろそろ考える事に対して、キャパシティオーバー気味だ。もう何も考えたくないと一華は小さく首を振る。

「ねぇ、一華」

 繋がれていた手がそっと外されたことで、離れていく温もり。心地良かった熱を失った掌が、無くなってしまったものを補完しようと無意識に動くが、それを再び握り込むことは不可能だった。それよりも早くネアンの両手が一華の頬を包んだのだから。

「恐くないよ、大丈夫。一華は一華のすべきことをすればいいんだ。それによって僕が一華を責めたり恨んだりすることはないし、僕は何時だって一華の為に役に立ちたいと思っているから」

 その声はどこまでも穏やかでとても優しかった。

「一華がそう願うのなら、僕は喜んで一華の願う事をすることが出来るよ。だから……」

 ふわりと動く空気。気が付けば、ネアンの腕の中に、自分の体がすっぽりと収まってしまっている。改めて認識すると随分とその存在が大きかった事に気付き目を見開いた。

 いつの間にこんな風に成長したのだろうか。

 自分を抱き込む腕にそっと手を重ねると、確かに指先に伝わってきたのは確かに感じられる熱と弾力で、それが静物であるんだということを再認識させられてしまう。

「………っ……」


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