14
「いいえ、怒ったりはしないわ。それよりも、私が眠っている間に誰か来たりしたかしら?」
意識を手放してからどれくらい時間が経っているのだろう。そんなことを考えながら問えば、ネアンは軽く首を横に振ることで答えを返す。
「誰も来ていないし、誰からも連絡は無かったよ」
「そう」
ポケットに入れっぱなしの携帯端末。ディスプレイを点灯させデジタル表記された時間を確認すれば、トラブルが起こったと連絡を取ってから既に一時間以上は経っているようだ。
「まだ対処に手間取って居るのかしら」
ここまで音沙汰がないと覚えるのは不安だ。
「困ったわ……どうするべきかしらね」
この場合、どういった行動を取るのが正解なのだろう。提示された選択肢の中から最も最善なものを選ぼうと思考を巡らせるのに、考えは上手くまとまってくれない。本当は考える事を放棄したいんだと心が訴える。このままこの部屋から出て、家に帰りシャワーを浴びる。サッパリしたらそのままベッドに倒れ込んで眠りにつきたかった。今の気分は最悪。夢見も悪ければ寝覚めも悪い状態である。
「テストデータだったら、これ……」
「え?」
まとまらない考えに嫌気が差し首を左右に振った時だった。そっと差し出されたのは数枚の紙束で。白かったはずの紙面には、見慣れた数値と文字が印字されている。
「これは?」
それが何かの記録であることは理解は出来たが、誰が用意した物なのかが分からないため一華は戸惑う。
「今日行うはずだったテストって、これでしょ?」
そんな一華の不安を感じ取ったのだろう。困ったように眉を下げたネアンが、実験場を指さしながらそう呟いた。
「……ゴメン。一華の持っていたファイルに今日の内容とのスケジュールがあったたから、それを見て……その……」
それを勝手に行うことは、いけない事だとネアンにも分かっては居るのだろう。本来ならば、この行動に対して怒ることが正しいはずだと。「何故そんな勝手なことをしたのだ」と叱ることで、立ち入ってはならない境界があるのだということを自覚させる必要があると、何度も繰り返された警告。だが、今の一華はというと、不思議なことにそのつもりはなかった。ネアンが行った行動に対して、それを怒る気にはどうしてもなれない自分も居る。ただ、反対に褒めてやりたいのかと、言うとそういう訳でもないのだ。
「…………」
正直に言えば、ネアンの行った行動に対してどう反応して良いのか判らなかった。取りあえず差し出された結果は受け取りはしたものの、手元の紙束を凝視したまま固まることしかできない。
「一華?」
ネアンの声が不安そうに揺れる。それでも、一華の思考は、まだ現実に追いつかない。
「結果……やっぱり水準以上は出るのね」
ネアンの勝手に行ったテストの結果は申し分ないほど最高の数値を叩き出している。これなら、上も納得はするだろう。それが残された時間の喪失を加速させるものだとしても、もう止める事は出来ないのだと。
「ネアン」
顔を上げたところで視界に入る淡い碧色。思った以上の至近距離。そこにネアンの顔があり、一華は大きく目を見開き驚いた。
「一華」
そっと伏せられた瞳。気が付かなかったのだが、随分と睫が長いのねなど、妙な事を考えてしまうのは多分、この状況を認めたくないと脳が必死に逃げ道を探しているからに違い無い。だがそれが夢ではなく現実だと言うことが伝わる感触で判る。
『何故?』
その行動の意図は分からない。そっと触れたのは唇でそれは直ぐに離れてしまったが、暫くその感触だけは、確かにそこに残りつづけた。
「……そうか。キスってこんな感じなんだね」
済まなさそうに笑う顔。随分と儚げに見えるそれは、まるで夢の続きを見せられているようで、矢張り感情は追いつかないまま。
「ごめんなさい。でも、知りたかったから」
知識を求める大きな子供は、日々新しいことを知りたいと望んでしまう。
もうとっくに自分の持ちうる知識量を凌駕し、膨大な数のデータをその頭蓋の中に収まる脳という器官に収集し蓄積しているはずなのに、本当に些細な事は何一つ判らない。
それは、教える必要が無いと排除した情報で、それを与える機会は作らなかった。だからこそ、目の前の擬似的な模造品はそれを渇望してしまうのだろうか。今はそう言う日常的な、小さな事を知りたいとねだられ、求められる。それに対して何を返せば良いのだろう。感情は揺れる。
『コレは……本当に、人ではないのだろうか』
ここ最近繰り返される疑問。少しずつ、確かに何かが壊れ始めて居る事だけは朧気ながらに感じ取れてはいた。
人と、人では無い模造品。
その境界は非常に曖昧で。
人形かと言われれば、それとも異なる自立した思考。
誕生させるために用いたものは冷たい機械とそれを操作する人の手には違い無いが、個体の形成が済み外気に触れた時から、それは単一のものとしてこの世界に存在をしてしまっている。
やがてそれは自分の足で立ち、触れることを覚え、知識を得て考え始める。自我を形成し、自ら選択し行動を起こす。それが当たり前におこなるようになった今では、それは何ら人と変わることのない生物としてこの場所に在るのだ。
生き人形は時を刻む。不完全故に脆い部分がある個体もあるが、人と模造品の差などそれくらいしかない。もしかしたら、そういった物が社会に紛れ込んでいたとしても、誰一人としてその存在に気が付かない可能性もある。それが人工的に作り出された個体であると疑念を抱くことも難しいかもしれない。
それくらいまで上手く人の形を模した創造物は完成されてしまっているのだ。
人のようで人では無いもの。その線引きの基準は、受け入れる側の主観にしか過ぎない。引かれた境界線は罪の呵責から逃れるための言い訳で、それを償う方法など無いということはずっと前から気付いていることなのだ。
『人は人でしかない。神には成り得ないのだよ』
自分達の手で意図的に命を作り出す行為の向こうに何が見える?
かき集めた知識で禁忌を犯しその扉をこじ開けた先に見えるのは一体何だ?
それは絶望の詰まったパンドラの箱と同じ。ならば其処にたった一つだけ残った希望を見つける事は出来るのだろうか?
「……頭が痛い」
相変わらず、答えの見えない疑問が堂々巡り。結果だけを求めていれば良かった自分が置き去りに、考えるなと目をそう向けていた思考ばかりに囚われ雁字搦め。この状況は良く無い。
「一華?」
決断が出来ない自分が一番情けないんじゃないかと一華は笑う。受け入れる事も突き放す事も出来ず、逃げる事ばかり考える自分が一番狡いんだと。責任を取るのは恐い。だから必死に其処から目を背け続けてきたのに……もう少しで自分の気持ちに整理が付くだろうと。もう自分に嘘を突き通すのに限界が迫っている。そろそろ逃げる事は出来ないのかも知れない。
「命の重さ……かぁ……」
誰も来ないモニタールームで二人きり。ただ、静かに時間だけが流れていった。
朝の青空は何処へやら。気が付けば薄い雲で覆われた空が、少しずつくすんだ灰色へと変化し始めている。頬を撫でる風は生温く、湿度を含んだ空気から匂う水の香り。暫くすると、雨粒が空から落ちてくるのかも知れない。
立ち上る紫煙をぼんやり眺めながら転落防止柵に身を預けついた溜息。少しきつめの煙草は、ただフィルターを燃やし続け灰に変わっていく。そう言えば喫煙するのは久しぶりだ。未だ吸うことが出来たその味は思った以上に苦くて不味いもので。だが、頭の何処かはスッキリとしてくるから不思議である。
「…………」
吸い込まれた煙が肺を通りゆっくりと吐き出される。身体に害をなす成分しか含まない不健康なそれを、一華はじっくりと味わうように吸い続けた。
「そろそろ、行かなきゃいけないって分かっているはずなのに」
やらなければならないことは沢山ある。現実から逃避する様になってから後に押してしまった雑務が溜まり続けているのだから、それらを片付けなければと気持ちはあせるのに、気力はどこかに忘れてきたまま。
「いつまでこうしているつもりかしらね、私は」
一度建物の方へと向けた視線。閉ざされた扉の向こうに待つのは、彼女が生きる現実。今は未だ、その扉を開く気にはなれない。
「チクタクチクタク」
時は進む。やりきれない思いだけを残したまま、戻れない過去をその場に残して。
白い白い部屋の中。壁に駆けられた時計は、同じように時を刻んでいる。
「チクタクチクタク」
直接触れることの出来ないそれの形をなぞるようにして動かす指。文字盤をカバーするためのガラスには、蛍光灯の光が反射し眩しかった。部屋の主は先程から一人、刻まれる音階に似た音をただひたすら繰り返し呟いているだけ。
「チクタクチクタク」
忙しなく動く時計の秒針。
「チクタクチクタク」
目盛りが回れば単位が変わる。
「チクタクチクタク」
進めば近づく未来の形。
「チクタクチクタク」
そして遠ざかる過去の形。
「……今日はまだ、一華が来ない」
夢の終わりは必ず来る。それに気付いているからこそ、少しでもその甘い夢に囚われていたいと願うのは悪いことなのだろうか。
君の生きる現実が
君を傷つけ哀しませることしか出来ないのだとしたら
せめて夢の中だけでも
君が笑っていられるように僕は祈るよ
だからお願い
早く気付いて欲しい
僕が声を出せなくなる前に
僕の声にどうか気付いて……と
「チクタクチクタク」
時計は回る。
「チクタクチクタク」
残された時間と、先の見えない終わりに不安を抱えて。
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