17
「大丈夫よ」
それを即座に感じ取った一華はもう一度大きな声で叫ぶ。
「私の事は気にしなくて良いの! 罰を受けなければならないのなら、私はそれを受け入れるだけ。貴方が気にすることは何も無いの!」
そう言って勢いよく振り上げる手。空中で拳を作り力任せに振り下ろしたのは、ガスを発生させるためのスイッチではなく、部屋のロックを解除するためのものだ。
「だから貴方は自由になりなさい! 躊躇っちゃ駄目! さっさと動いて!!」
「何をするんだ!! タチバナ!」
突然の事に、その場に居た一華以外のスタッフが慌てふためく。統括責任者を務める男は、怒りで顔を真っ赤に染めながら、彼女の腕を掴みこう怒鳴った。
「馬鹿な事は止めろ!! 気は確かか!?」
強い力で引っ張られるからだ。操作パネルから無理矢理引き剥がされると、一華は後方へと突き飛ばされる。
「やめて!!」
急いで再ロックを掛けようと操作を始める上司に飛びつくと、彼女は必死にそれを阻止すべく藻掻く。力の差が歴然でも、それを諦める事だけはしたくないと。数人のスタッフに羽交い締めされ無理矢理引き離されても尚、彼女は上司の動きを止めようと藻掻き続けた。
騒然とするモニタールームとは異なり、動きが全く無い処理室。マジックミラー越しに聞こえるのは音声情報だけで、向こう側の状況は上手く把握出来ない状態。しかし、一華の身に何か危険が迫っていることだけは、音を通して理解する。
「一……華……」
彼女が必死に叫んでいる。それは、自分の命を助けるためにしていることだ。
そう思ったら居ても立ってもいられなくなり、ネアンは無意識のうちに身体を動かしていた。
「一華!!」
完全に解かれることは無かった拘束具は、未だ身体に巻き付いたまま。それを外そうと藻掻く度、手足に走る鈍い痛み。だが、身体に感じる痛みなど気にしている場合ではない。
腕を拘束していたベルトを無理矢理引き千切り両手を解放してから、急いで両足の拘束を解く。上げられることのない鏡には自分の姿しか映らず、一番知りたいと思っている相手の姿が見えないことが不安で仕方無い。早く、早くと気持ちだけが焦ってしまう。
「早く行かないと」
とにかくこの部屋を出なければ。先ほど解除してもらったドアに駆け寄ると、レバーを掴み無理矢理開き廊下へ出る。
「そん……な……」
だが、そう簡単にはこの場から出ることは不可能なようだ。二重構造になっているこの部屋の処理室側のロックは外されてはいたが、廊下側のロックが外れていないことに気が付きネアンは焦り出す。どうにかしてこの部屋から出たいのに、その術が見つからない。それが余計に混乱を起こさせ、発狂しそうになってしまう。
「一華! 大丈夫!?」
一度部屋に戻りながら叫ぶ相手の名前。自分の声が向こうに届いているかどうかなんて考えもせず、ただ、ただ無事を祈り声をかけ続ける。
「頼む、無事で居てくれ」
何かしら、方法はあるはずだ。冷静になれ。そう自分に言い聞かせ、部屋全体に彷徨わせる視線。何処かに必ずほころびはあるはずだと、もっとも破壊しやすそうなポイントを探り方法を模索する。
「やっぱりここしかない」
この部屋に於いて一番壊せる確率が高い場所が何処かは考えなくとも直ぐに見当はついた。この部屋で一際目立つ大きな鏡面。そこに強い衝撃を加えれば、それは砕け散り向こう側へとつながるだろう。相変わらずスピーカー越しに聞こえる口論。迷っている暇は無い。仕方無くネアンはミラーの前に移動すると冷たくなめらかな表面にそっと手を重ねた。
「……一華に当たらなければ良いんだけど」
向こうの状況が確認出来ない以上、目標とする対象物を除けて破壊することは困難。だからこそ、相手に当たらずに破壊することが出来るのかどうかは大きな賭だ。
「悩んでいる場合じゃ無い」
助けたい。助かりたい。何よりも、もう一度彼女の隣で、共に過ごす時間を取り戻したい。だからネアンは行動を起こす。
次の瞬間、分厚いガラスが大きな音を立て、無数の罅が表面に走った。
「なんっ……」
その音に気付いた全員の視線が大きなガラスへと向けられる。
「まさか……」
幾ら何でも有り得ない。その場に居た全員が、今、目の前で起こる非現実的な光景に言葉を失った。常識では考えられない事が、今現実として目の前で起こっている。それは分かるのに、その事を認められないと誰もが寄せた眉間の皺。
ネアンの手が触れた箇所から走る細かい亀裂は、幾重にも重なり奇妙な模様を描いていく。全体に罅が行き渡った所で、向こう側に有るはずの鏡が粉々に砕け散った。キラキラと煌めく鏡の破片。それが、その場に立つネアンへと降り注ぐ。
「嘘……よ……」
『一華!!』
間髪入れず、ネアンの手は防弾硝子に触れる。
『今、そっちに行く! だから』
先ほどと同じように、分厚い硝子にも走り始める罅。触れた手の部分から伸びる亀裂が、もう暫くすれば砕けて降り注ぐのだということを物語る。
「まず……い……」
このままだと硝子の雨を頭から被ってしまう。一華は拘束が緩んだスタッフの腕を乱暴に振り払うと、着ていた白衣を素早く脱ぎ、頭からすっぽり被り走り出す。目指すのは、この部屋の中で硝子ともっとも対極の位置に有る場所。急がないと間に合わない。
一華の履いたヒールの音と、ガラスに入る罅の音が重なる。その音はやがて、背後で大きな破裂音となり部屋中に響き渡った。続いて耳に届くのは人々の絶叫。しかし、今の一華には振り返ってそれを確認する勇気など無い。兎に角一秒でも早く、降り注ぐ破片逃れなければと足を動かす。背中に幾らか細かな硝子が当たる感触。大きなものが当たらない事だけを祈りながら部屋の隅に到着した一華は、上がる息を整えるようにして呼吸を繰り返す。幸いにも、振った破片の中に大きなものは無いらしく、皮膚を傷つけるまでは至らなかったようで吐く安堵。胸に手を当て一度深く息を吸った後、ゆっくりと振り返ると分かる状況に、一華は言葉を失ってしまった。
「…………っ」
先程まではとは全く異なってしまっている室内の状態。飛散したガラスは足元に散らばり、蛍光灯の光を受けて反射している。床にまで到達出来なかった破片の一部は、その場に居た人間の顔や身体を傷つけてしまったらしく、患部を押さえて悲鳴を上げるスタッフの姿が目に入った。傷つけられた皮膚から滲む赤い色は、徐々に来ていた白衣を紅く染め上げ面積を広げていく。
「……そんな」
頭から被っていた白衣を払いながら、どう言葉を掛けるべきかと必死に考えを巡らせる。たった一つの決断。そして、その選択によって招かれた結果がこれなのだ。何が良くて何が悪いのか、その境界線が判らなくなり頭が混乱してしまう。
「一華?」
その声は、少しだけ悲しそうな柔らかいもので。声の主の方へと視線を向ければ、心配そうにこちらを伺う実験体が立っている。視覚が確かにそれの存在を捉えるのに、沸き起こるのは安心や喜びなどではなく、純粋な恐怖心。何をこんなに怖がっているのか分からないが、自然と身体が震え出すのを止められなかった。
「私……私は……」
『なんてモノを作ってしまったの』
その時始めて、己のしていたことにハッキリと、強い後悔を覚えた。
ただ純粋に一つの命を救いたいと思っただけ。
いいえ。本当は、自分の作り出したモノを失いたくないと願っただけなのかも知れない。
だから、行ってきたことを全て正当化しようと躍起になっていた。命を奪う事が罪だとしても、救うことは罪ではないじゃないと。だから救うことで自分の罪が赦されると、何故そう思ってしまったのだろう。
そんな考えなど、始めから間違っているのに、何故かボタンを押したときはそれで良いと思い込んでいた。
だが、実際はどうだ? 自分を信じて行った行動は結果として、一を救って十を傷つけるという結末が待っていた。
何故、こうなっってしまったのだろう? 私は一体、何がしたかったというの……
「一華が俺に『生きろ』って言ってくれたんだ」
目の前で実験体はそう訴える。
「だから俺は、『生きる』事を選択した」
確かにあの時はそれが最善だと思ったっていたわ。だって、例え作られた存在であったとしても、『生きる』という事は等しく与えられた権利だと思ってしまったのだもの。
「行きたいと願ったから、一華の隣に行こうと思ったんだ」
そうね。それは私が与えた選択の結果。でも、もし、あの時違うボタンを押せていたら、異なった未来が見えていたはず。
「君がそれを選ばせてくれた」
一を失い、十を救う。それもまた一つの可能性という未来の形。
「俺は、一華の隣に居ても良いんだよね?」
「分からないわよ!!」
判らない。どの選択が正しかったのか、何一つ判らない。答えなんて、見えてきやしない。自分が引いた引き金が打ち出した弾は、一体誰に当たったの? 何を失い、何を手に入れたっていうのよ。と一華は激しく首を振る。
『いや。寧ろ、全てが消えてしまったのかも知れない』
「っ!?」
『君はこれから大事なモノを失う』
あの時兎に言われた言葉がゆっくりとリフレインする。
そうよ。あの時、兎はなんと言っていたの?
その言葉よりも後の言葉を思い出せと気持ちが焦る。
思考の糸を手繰り寄せ、必死に掘り起こす記憶の欠片。
そう、兎は、確かあの時……
『君が背負う罪の形は君にしか判らない』
そう言ったんだわ。
その時に言われた言葉に対しての答え。あの時は分からなかったが、それが今になって漸く理解ができた。目の前に広がるこの光景が行いに対しての断罪で、自分が創り出した生物兵器という名の模造品が罪の形なのだ。
目の前のモノが始めて、異質なモノに見えた。
姿形は確かに見知ったモノの筈なのに、その本質が全く理解出来ないから。
明らかに人とは異なる生物は、一体何に属するのというのだろうか。
その命の重さは本当に、私たちと同質と呼べるものなのだろうか。
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