12

「……後悔……」

 ゆっくりと閉ざされる視界。視覚から入る情報が遮断された時点で、思考は自分の内側へと向かう。次から次へと浮かぶのは疑問と、それに対する気持ちという答え。「後悔しているのか?」と問われれば多分、後悔はしていると答えるのが正解なのだろう。「それは一体何に対してだ」と問われれば、全てに対してだということは朧気ながらに分かってはいる。

「確かに、後悔はしているかもしれない」

 だからこそ、その問いの対してはこう答えるしかなかった。

「そう」

「でも、私は間違ったことをしていたつもりは無いわ」

 後悔をしていると答えはしたが、それを肯定するつもりは無いと続ける言葉。

「知りたいと願うことを、悪い事だとは思っていないんだもの」

「へぇ」

 言葉を選びながら口を動かし続けるのは、多分それを認めてしまうことが恐いからだろう。だからこそ、自分を肯定する言葉を、先ほどから必死に探して音にする。

「探求すべき対象があるのならば、それを突き詰めて解明することは、研究者として当たり前のことでしょう? 作り出さなければ見つからない答えがあるからこそ、それを作り出すことが罪だとは思いたくないの」

 そこで一度、一華は言葉を切り俯く。

「でも……」

 先ほどよりも随分と弱く震えた声。彼女は口元を押さえながら、時間をかけてこう続けた。

「……それは今……根底から覆され始めている。判らないの、何が正解なのかが」

「…………」

「自分の築いてきたものが、音を立てて崩壊していくのは恐い……そう言う意味では、自分という存在が其処に在ることに対して、後悔を感じているのかもしれない」

 言葉にすればするほど判らなくなっていく複雑なもの。確かにそれを掴み取ったと思ったのに、それはするりと手の中から逃れ霧散して無くなってしまう。

「つまり、叡智を求め方法を手に入れることによって、色々な枷が外されてしまった状態ってことかな。何て愚かなんだろうね、貴女は」

 一華の言葉に興味が持てないと。そんな風に一蹴すると、兎は抑揚のない声でそう呟き、音を立ながら椅子を揺らす。

「そうだ。こんな話はどうかな?」

「……話?」

「そう。むかーし昔、神に創られた人間が犯した罪のお話。貴女はそれが何か知っている?」

 突然の謎かけ。その問いは随分と具体的で、古い書物に記されている事柄の事を指しているのだということはすぐ理解出来る。

「それは、知恵の実を手に入れたということね」

「その通り」

 予想は的中。矢張りその内容は、かの有名な物語の中で語られている内容の一部で間違ってはいなかった。兎が体を動かす度、安楽椅子の奏でる規則的な音。それに兎の声が重なり、この不思議な空間に広がっていく。

「アドナイはアダムに知恵の木に成る実だけは食べるなと約束させたよね。でも、後から作り出されたイシャーは蛇にそそのかされ、アダムにそれを食べる事をねだった。その結果、二人は禁を破ることになったと、その物語では語られている」

 幾ら信仰が違うといえど、その話は一華でも分かった。兎の言葉に同意するように首を縦に振ると、一華は兎の言葉を受け続きを話す。

「知恵の実を食べ知恵を得たことで、アダムは神に嘘を吐いた。これが、彼が犯した罪の内容。神を裏切った人は、神と同じ知恵をもった事で神の制御から外れてしまう。それを嫌がった神により楽園を追放され、死という呪いを掛けられた。……有名な話よ。私だって知っているわ」

 その答えに満足したのだろう。兎は嬉しそうに頷くと、ゆっくりと安楽椅子の揺れを止め一華を見た。

「人の欲ってね、終わりがないんだよ」

 確かに、それに終わりというものを見つけるのは難しいのかも知れない。

 枯渇することのない欲というものは、満たされたと感じても直ぐに枯れ果て、次に乾きを満たす何かを求めてしまう。更なる知識を。更なる刺激を、と。それに果ては存在しないからこそ、それを求めて手を伸ばすのだ。

「そんなのってさ、愚かだと思わない? 人が神になる事はあっちゃだめなんだって、何で気付かないんだろう? 人は神には成り得ないのにね」

 呆れた。そんな風に兎が言から、一華は思わず反論を述べてしまう。

「でも人間は、人を超えたものであろうと望むわ。より理想に近いものへと知識を広げ、理解を求めて考える。そうやって答えを導き出すの。次へと繋いでいくために」

 そこまで言った時だ。兎は嫌そうに溜息を吐くと、真っ赤な瞳で睨み付けるようにしてこう吐き捨てた。

「それを傲慢だと言ってるの。人の犯す罪の中で、尤も醜く重たいものは傲慢だよ!」

 興奮しているのだろうか。兎の鼻は忙しなくひくひくと動いている。

「罪ってさ、階級と七つの名前が有ることは知っているよね? 貴女なら」

 次の問いかけ。それの答えは多分これだと一華は答える。

「……七つの大罪のことを言っているのかしら?」

 そう答えてやれば、兎は楽しそうに目を細めて深く頷いた。

「博識で好ましいよ。そうさ。それは七つの大罪と言われていて、人の犯す罪の内、一番罪が軽いものから並べると、色欲、暴食、強欲、怠惰、憤怒、嫉妬、傲慢と続いていく」

 髭を小さな指で撫でながら兎は挑発的にこう続ける。

「さて、ここで問題だよ。この七つの罪だけど、何で傲慢が一番罪が重いのか知っている?」

 これは多分、試されているのかもしれない。直感的にそう思い、慎重に言葉を選んで返す答え。

「詳しい事は判らないわ。何故なら、その基準がどのように設けられたのかを知らないもの。だから正確なことは言えないけれど、そうね……色欲は子を成す為の本能故に一番低いんだと考えられるわね」

「へぇ」

「他者と交わることで命を形成し、それを産み落として連鎖を繋げるのだとするなら、『色欲』とは、生物が生きていく上で重要な過程の一つだと言えるでしょう?」

「そうだね。それじゃあ、その他はどう答える?」

「そうね……」

 この謎解きに何の意味があるのだろう? 頭を過ぎる疑問に不快感をあらわにするが、その謎かけを断る気がまるでない自分も、確かに其処に居るのだ。兎の挑発に上手く乗せられたとでも言うように、一華はさらに言葉を続け、問いかけに答えを返す。

「次は暴食ね。これは、食事を取るという事だから、人が生きる過程で必ず必要となるプロセスだわ。食べるという行為は生命を維持するための行動であり、それを止めてしまえば、肉体を動かすエネルギーが失われ、やがて全ての機能が停止し肉体は死に至る。よって食べると言う事は罪ではないの」

「そうだね」

「でも、食べるという行動はイコール、他者の命を奪うことにも繋がっている。無駄に食べるという行為が生産性のない行動と考えられるから、暴食になると積み重ねる業が増えてしまう。その欲求は次に繋げるための欲よりも利己的で身勝手だわ。だから、暴食は色欲よりも罪が重くなる。そう言う事かしら?」

「成る程。コレはコレで面白い発想だね」

 兎は両手をゆっくりと挙げると、優雅な手つきで手を叩いてみせた。

「さぁ、続きを聞かせておくれ」

 更に続きをと。兎が先を催促してくる。

「次は強欲。欲とは、行動を起こす上で尤も強い働きをもつ感情値ってことかしら? 全ての行動は欲によって動かされており、欲を持たない者など、この世の中には存在しないでしょう。どんな些細な事でも、最終的に行き着く先は『欲』という感情がある。ただ、多くを求めるのは余りにも醜いことも違いないわ。必要じゃないものを得ても無駄が増えるだけだもの」

「そうだね」

「よって、種の保持や生命活動維持に直結する『色欲』や『暴食』よりも罪は重くなってしまう。そう言う風に捉えればいいのかしらね」

「ふむふむ」

 全ての答えを導き出すまで、この会話の終わりを見る事はないのだろうか。ならば、と、一華はその他の罪に対しても一気にまとめ上げ言葉を紡いだ。

「次に怠惰だだけど、要するに怠ける事でしょう? 何もしないということはつまり、命を繋ぐことも生きることすらも諦めてしまう状態ってことよね。生きることを放棄してしまえば、その系譜はそこで途切れ、その時点で全てが終わり先が消えてしまう。これでは意味が無くなってしまうわ。だから『強欲』よりも罪は重くなるのね」

「うん」

「憤怒はとても強い感情よ。それは時には恐ろしい程の力を発揮することもあるけれど、殆どは他者を傷つける為にしか働かない。また、常に冷静で有ることを基本とするならば、憤怒は冷静の対極にある感情だとも言い切れるわね」

「そうだね」

「正常な判断を下せない以上、憤怒に取り憑かれた状況が良い方向に働くとは考え難い。そう言う意味で今まで上げてきたものよりも罪が重いって事になるんじゃないかしら」

「それじゃあ嫉妬は?」

「嫉妬はイメージとして、ハヴァをそそのかした蛇に直結するものがあるわ。ハヴァが蛇の言葉に耳を傾けてしまった結果、アダムは誘惑に負け禁忌を犯した」

「嫉妬は蛇のイメージから答えを導くの? それは今までと少し雰囲気が異なるね」

「そうね。でも、蛇がイメージでなくても、嫉妬は醜い感情の一つとして扱われることが多いのは事実よ。嫉妬によって様々な負の感情が連鎖することは多いでしょう? 例えば……嫉妬したことにより憤怒に取り憑かれ他者を殺めるとか、嫉妬したことにより吐き出せない欲求が暴食へと繋がるという感じで、様々な感情と結びつき連鎖を作る。嫉妬そのものは小さな感情でも、それと結びつく者によってもたらされる厄は大きくなる事が考えられるから、『嫉妬』は『憤怒』よりも罪が重んじゃないかしら」

「流石だね。中々良い解答だったと思うよ」

 兎の浮かべる奇妙な笑顔。兎が再び身体を動かすと安楽椅子が小さく音を立てて揺れ始める。質問に対する答えはあと一つ。これでこの奇妙な問いかけも終わると、一華が口を開いた時だった。

「では、最後に傲慢についてだけど」

 一華の言葉を遮る様にして、兎の方が先に喋り始めてしまった。

「え?」

 傲慢についての解答は求めないのだろうか? 不思議そうに兎を見ると、小さな手を広げて教鞭を振るようなジェスチャを加えながら、兎はゆっくりと話始める。

「貴女は気付かない? 今まで上げてきた罪の形には、全て共通する事が有ることに」

「共通する事?」

 今まで解答を求められたのは、『七つの罪』の内の『六つの罪』まで。今し方、兎はこの罪に共通する事があると確かに言った。用意していた答えを口に出すことを辞め、改めて投げられた問いに対しての答えを考える。果たしてそれは何だろうと思考を巡らせていると、徐々に見えてくる答えの形。そこで、ある一つの考えへと辿り着いた。

「六つの罪は、生物が本来持ち得る『本質的な要素』。そう言う事?」

「その通りだよ」

 色欲・暴食・強欲・怠惰・憤怒・嫉妬。これは全て、生物というものが元々持ち合わせている、本質的な要素の一つ。罪の重さは何であれ、これらの要素が生物から消えて無くなると考える事は難しい。それはどんな生物にも等しくある感情の一部なんだと。兎はどうやらそう言いたいらしい。ならば傲慢は…と言いかけたとき、何かが一華の中で弾けた。

「そうか! 傲慢は、人が知恵の実を食べたことにより得た最後の罪だわ! だから一、番罪が重い……そう言う事ね!!」

「漸く気付いたようだね」

 意味の分からなかった謎かけ。その答えが、漸くハッキリとした形を持って一華の前に現れる。

「ならば改めて聞こうかな? 貴女は何を欲し、何を成す為にその行動を起こしたの? 貴女の求める欲の形は一体何だろう? そして、何故それに対して後悔をしているのかな? 一つずつ紐解いていこう。君は一体心の中に何を隠しているんだい?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る