11
トラブル起きた話は聞かされていない。慌てて携帯端末も確認してみたが、矢張り連絡は来ていないようだ。
「一体何が起こってるの?」
状況を確認したいとマイク越しに訴えるが、スピーカーの向こうから聞こえる声は更にノイズが酷くなり不鮮明になる城戸の声で、その様子から察するに大分余裕が無いことだけは感じ取れる。
『それが……あぁ! ちょっ…ゴメン! 一華サン! 後でまた……』
その言葉を最後に、方的に切断される通信。
「どういうこと? 一体、何が起こったって言うの?」
暫く呼びかけを繰り返してみたが、相手側から通信が再会される気配は無い。諦めてオフに切り替えた後、一華は椅子を引っ張り出してそれに体を預けた。
「トラブルが起こることなんて珍しくもないけれど、情報を共有出来ない程の自体ってそれほどあったりするのかしら」
思い通りに事が運ばないことなどあこって当然のこと。しかし、どこを経由して情報にアクセスを試みても、中途半端に与えられた曖昧なものに対する答えは一向に返って来ない。確かに、実験体のコンディションにしろ、この施設のシステムにしろ、絶対という物は存在はしてしない。だこらこそ、そういう事を想定してパターンを用意しているはずなのに、その全てから外れてしまった入れ牛ーラーが起こっているということだろうか。
「……運が悪かった…って言うこと?」
本来ならば事実確認をしなくてはならない。移動させた実験体を一度部屋に戻し、それからサポートに向かう。そういった措置を行わなければならないと頭では分かっているのに、押し寄せる疲れに体が動く事を拒否してしまう。どうせなら、もうこのまま瞼を閉じ、意識を微睡みに落としてしまって何もかも忘れてしまえれば良いのに。
「楽園の果実……」
何気なく呟いた言葉。それは、この部屋の空気を振るわせた後、微睡みと混ざり合い消えていった。
「一華?」
各施設と続く小部屋。今、この室内には二人の人間しかいない。一人は椅子に体を預けたまま、小さな寝息を立てる一華で、もう一人は、彼女と共にこの部屋へと訪れたネアンである。
「……寝ちゃったの?」
特にすることもなく、退屈そうにしていたネアンは、そっと一華の肩に触れる。
「珍しい。全然起きないや」
軽く揺すっては見るが、彼女は完全に意識を手放してしまったようで、ネアンの言葉に全く反応を示さなかった。こういうことは今までなかったためネアンは素直に驚きながらも、困った様に腕を組み小さな溜息を吐く。
「そっか」
することがなくなってしまった。そう理解した彼は、一度室内を見回した後、一華の来ていた白衣からカードキーを抜き取りモニタールームへと続く扉の前に立った。
「確か、コードは……」
カードリーダーに情報を読み取らせた後、八桁のパスコードを迷うことなく入力していく。女性の声を模した電子音でロックが解除されましたというアナウンスが流れると、閉ざされていた扉は静かにスライドし奥の部屋へと繋がった。
「多分、この辺に今日のスケジュールが置かれてるんじゃないかな」
この部屋に実際に入るのは始めてだ。だが、いつもガラス越しに見えるスタッフの立ち位置から、部屋の間取りは何となく分かる。見当を付け探ると、目的物は直ぐに見つかった。
「ふーん。今日はこの流れで行うのか」
書類の挟まれたファイルを手に取り紙を捲りながらネアンは呟く。
「それじゃあ、プログラムはこっちかな」
モニタールームの向こう側。いつもはそこに自分の姿がある。今日は皮肉にもこちら側に立ち、目の前に並べられた機材を見て暫し考える。
「起動の順番はこうだな。こっちを先に起動して、次がコレ……こっちでプログラムを組んで、こっちで結果を出すのか。ふーん。なかなか面白いね」
その機械に触るのは初めてではあるが、仕組みが分かれば操作は出来る。
「それじゃあ、これを開けばテスト開始ってことか。へぇ……こんな風にデータを取ってたんだなぁ」
感応式のタッチパネルを操作しながら、ネアンは独り言を続ける。
「テストなんて怠いし、適当に結果を書き込んでしまえ。ある程度数値は下げて、ミスを数回加えて……何も完璧にする必要なんて無いし、どうせ数値化された記号の羅列になるんだ。誰もわかりゃしねぇだろ」
新しく書き加えられていく記録。それは実際に計測されたデータなどではなく、勝手に作り上げられたものだ。
「この辺りでクラッシュさせておけば、強制的に止まってテストは終了だ。まぁ、こんなもんだろ」
いつもなら一時間ほどかけて行う作業は、ほんの数分で終わってしまった。即席で組まれたプログラムは、フラグを立てた時間が来たら自動的にシステムが働き結果を収集するというもの。それを行うのにエンターキーを押す必要も無い。
「後は……適当に時間を潰す方法を考えなきゃなぁ」
開かれたままの扉の向こう。一華はまだ目を覚ます気配は無い。
「取りあえず出力だけはしておくか」
そう言って探すのはプリンターだ。オンラインで出力機を指定し、聞こえた起動音でその機械の場所を探る。見つけたのは大型の複合機。紙は既にセットされているのだから、後は勝手に印刷されたものが吐き出されるまで放って置けば良いだけ。
「ふわぁぁぁ……」
一通りの作業を終えると、ネアンはこの部屋に用が無いとでも言うようにモニタールームを出る。
「これ。返しとくね、一華」
そう言って拝借したカードキーは一華の白衣のポケットに。もう一脚椅子を引っ張り出すと、ネアンはそこに腰掛け天井を仰ぎ見る。相変わらず聞こえてくるのは一華の規則正しい寝息だけだ。
「狡いよな。こういう時じゃないと一華にこんな風に触れないんだもんなぁ」
手持ちぶさた。やることが本当に無いからと無意識に伸びた手が一華の頬を撫でる。柔らかい弾力が指に吸い付くようで心地がよい。それを暫く楽しんだ後、今度は一華の頭へと手を移動させ、艶のある黒のストレートヘアをゆっくりと撫でた。
「なぁ、一華。キスって一体どんな味がするんだろうな」
彼女が買ってきてくれた本の中には、何冊か恋愛小説とよばれる本があった。結末は必ずしもハッピーエンドで終わるわけではなかったが、そこに描かれる世界は様々な色に溢れていて羨ましいと感じる。感じてみたい。触れてみたい。唇を重ねる行為で繋がりがより一層強くなると言うのならば、その先に見える物を見たいと、ふとそんな風に考える。
「ああ、そうか……俺……」
『一華の事が好きなんだ』
それを言葉にして、始めてこの気持ちが何なのかを自覚し、ネアンの顔が真っ赤に染まった。
「そうだよなぁ。じゃなきゃ、もうとっくに逃げてるし」
口元を押さえ、慌てて顔を逸らした後で繰り返す深呼吸。別にやましいことなんてしていないのに、焦ってしまう自分の心臓が、煩いほど強く鼓動を刻んでしまっている。
「なぁ、一華」
眠りの淵に意識を堕とした相手には届かないと分かっていても呟いてしまう言葉。
「一華にとって俺は……何なんだろうね?」
それに一華が答えをくれることはないと理解していても、ネアンはそれをねだるようにして彼女の手を撫でた。
夢を見ていたと思う。
それはとても奇妙な夢で。
暗闇に真っ直ぐに伸びる道を、只ひたすらに歩き続けている。
暫く歩き続けていると、いつの間にか、後ろから一匹の白い兎が現れ追い越していった。どうしてそう思ったのかは分からない。それでも、何故かその兎を追わなければならないという気持ちになり、自然と歩く速度が早くなる。しかし、白い兎の姿はどんどん小さくなるだけで、その距離は一向に縮まる気配は無い。どころかますます距離は開いていくばかりなのだ。
気が付けば、自然と息が上がり始める。早歩きは駆け足に。そして全力疾走に変わってしまっていた。
そうやって辿り着いたのは、小さなテラスのある家の庭。見失った兎の姿を探し辺りを見回すと、探していた色は直ぐに見つかる。閉ざされた門の向こう側。その家の庭に見つけた白い姿は直ぐ目の前で。入っても良いものかと思い悩んでいると、小さな音を立てて庭と道を隔てていた格子状の門がゆっくりと開いた。
「お邪魔します」
誘われるように足を踏み入れる。一華の体が完全に敷地内に入ったところで、自然と閉ざされる門。
「後悔しているの?」
突然話しかけられ跳ねる肩。声の主を捜し辺りを見回すが、どこにも人影は見あたらなかった。
「そんなに驚くことは無いじゃないか」
それでも矢張り、声がする。音の出所をたぐり向ける視線の先にあるものは、人間大の白い兎の姿。
「嘘……でしょ?」
それは、テラスに置かれた安楽椅子に腰掛けながら、髭をひくひくと動かしこちらを見ていた。
「貴方は……」
「その質問には意味が無いと思うよ」
何だ。そう問おうと用意した言葉は吐き出されないまま。先に告げられる拒絶は、思った以上にはっきりとした人の話す言語の一つである。
「だって、私というものが何なのかなんて、答えは明確じゃないんだもの」
白い兎の紅い瞳。それが青い空へと向けられ再び一華へと戻る。
「私は現象であり、偶像であり、現実である。私はそこに存在するものであり、何処にも存在することのないもの。だから私には名前がないんだ。貴方が言いかけた言葉は、実に愚問だと言うわけ」
安楽椅子が前後に揺れる。それに呼応するように、兎の体もゆらゆらと揺れている。気が付けば、一華の足は、無意識に兎の側へと地下よりいつの間にか椅子の前に立っていた。
「そんな事よりも、君は私の質問に答えてもらわなくちゃならない」
白い柔らかな毛で包まれた細い手。それがゆっくりと持ち上がり一華を指した。
「君は後悔しているのだろう? 色んな事に。そうだよね?」
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