02

 部屋としての面積は、ワンルームの安っぽい賃貸よりも広いとはいえ、ここは閉じられた世界。その中で【自由】を知らず暮らす相手のことを可哀想だと思ったことは無い。可哀想と思うな、それが当たり前だと。一華は常に自分に言い聞かせてきた。

 何故なら、そう思わなければ余計な感情が邪魔をするから。これが間違っていることだと頭の何処かでは理解している。それでも、知りたいと願うのはその先にあるものなのだ。

 人は禁忌を犯す。自分のエゴだけで。

 人が人を創造することは、昔から人が思い描いていた夢ではある。刻まれてきた歴史の中で少しずつ、それは現実へと近づきつつある。未だ不完全な部分があり、問題は多大にありはするものの、そうやって形作られた実験体は、実用できるレベルまでの完成度に近づいているのだ。

 自立した思考と成長する体と。見た目は限り無く人に近い。しかしそれは、意図的に作り出された模造物。

「そうだ! 一華」

 己の存在の意味を知らないのは、幸か不幸か。一華という存在に心を開き、素直に慕ってくれるネアンに対し心が痛む。そんな彼女の想いに気付くことのないネアンが彼女の側に立つと、強く握り込まれた白い手を取りそっと自分の手を重ねて笑ってみせる。

「貰った本、もう全部読んでしまったんだ」

 彼は本が好きだった。彼女と会う度、ネアンは新しい本が欲しいとねだる。

「もう読んでしまったの?」

 この前渡した本は、何巻にも渡る長い物語。一華はまだ、あの物語を冒頭の部分だけしか知らないと言うのに、目の前で困った様に笑う青年は、頷きながら読んだ世界の感想を彼女へ伝える。

「あの話は面白かったけど、少し言葉が難しかったかな」

 まだ重ねられたままの互いの手。一度触れ合った体温が離れた後、一華は掴まれた手を引っ張られ椅子から立たされる。直ぐに両脇に腕を差し込まれ宙に浮かされてしまう体。軽々しく一華の体を持ち上げたネアンはそのままベッドの方へと移動し、柔らかなマットレスの上へと腰を下ろす。

「ネアン!」

「えへへ」

 抱えられていた一華の体はと言うと、今はネアンの足の間。

「僕、新しい本読みたいなぁ」

 背後から軽く抱きしめられることで、背中越しに伝わる高めの体温。ネアンがまだ幼かった頃は、彼の方が一華の膝の上に甘えるように乗ってきたはずが、それはいつの間にか逆転してしまった。今ではすっかり体だけは大きくなった彼に、体格的に勝てない一華の方が抱きかかえられる事も少なくは無い。それでも元々ある性格は変えられないようで。未だに甘えたがりのところは直らないらしく、子どもらしさを残したままで。一華の体を抱き込みながら未だに幼子のように甘える大人。そんなアンバランスな存在は、今よりも多くの知識が欲しいと彼女に願う。

「そうは言っても……直ぐに手配出来る訳ではないんだけど」

「判ってるよ」

 振り返れば背後で微笑むネアンがこう答える。

「一華の都合の時で良いよ。だからまた新しい本、頂戴」

 そう言われて一華は戸惑ってしまった。

『アレに知識を必要以上に与えるな』

 彼女はそう、上から指示を与えられている。しかし、彼の飲み込みの早さは予想以上で、彼は最早自分の知識量を超えた知識を求めてしまうのだ。積まれた本の山はその殆どが専門書で、一華も読んだことのないタイトルの方が圧倒的に多い。そんな彼に対し、これ以上一体どんな知識を与えれば良いのだろう。

「そうだ! 一華」

 ネアンが何か思いだしたように手を叩くと、ベッドに体を倒して一冊の本を手繰り寄せる。

「僕ね、この話が一番好きなんだ」

「これ……は」

 はにかみながら彼女に手渡されたのは、少し草臥れた一冊の絵本。それはネアンに本が欲しいとせがまれた時、一番始めに一華が買って与えたものである。

「一緒に読もう? ねぇ、一華……また昔みたいに一華に読んで欲しいな」

 どこまで体が成長しても、精神がいつまでも子どものまま。閉じられた世界で暮らしている以上、コミュニケーションには限度がある。手渡された本を開いてとせがまれるから、一華は彼の指示に従いゆっくりと頁を捲った。

「あるところに、ひとりぼっちのおばけがいました」

 ボロボロになった一冊の絵本。

 子供向けの陳腐な内容が書かれているそれは、お世辞も大作とは言えないものだ。

 言葉がただ並べられているだけで、内容なんて殆ど無い。

 本当に適当に選んでしまったその本は、忙しくて本屋に行けない彼女が、たまたま露天で見つけた物。一応、彼女もこの本は読んだため内容を知ってはいるが、子どものいない彼女には、この本によって子供がどう思うのかなんて全く理解が出来てない。

 それでもネアンは満足そうに笑顔を浮かべながら、一華の紡ぐ絵本の世界に耳を傾けている。

「おしいれのなかのせかいで、おばけはずっとまっていたのです」

 ふと思い浮かんだシチュエーション。この本に書かれた主人公のおばけとこの部屋に閉じこめられたネアンという実験体が重なる。

「………っっ」

「一華?」

 突然途切れた物語にネアンは不満そうに声を上げた。

「ううん。何でもない。続けるわね」


 小さなおばけの小さなお話。

 ひとりぼっちで居たおばけ。おばけは押入の中で待っている。誰かが自分の存在に気付き声をかけてくれることを。でも誰も押入の扉を開けてくれない。だからおばけはいつもひとりぼっち。

 ある日幼い兄弟が押入の中を探検しようと扉を開けた。おばけはまってましたと言わんばかりに兄弟に話しかける。だが兄弟は驚いて直ぐに押入の扉を閉めてしまった。

 友達が出来るかと思ったおばけは泣いた。ひとりぼっちはもう嫌だと。誰か僕の存在に気付いてと。

 その声に気付いたのは、兄弟のどちらが先だったのか。

 それでも、初めは恐がっていた兄弟は、次第におばけの事が可哀想になり、恐る恐る押入に近づいた。

 そっと開いた扉の向こう。暗闇の中で小さくなったおばけが大粒の涙を流す。

『淋しかったんだ。友達になってよ』

 兄弟は迷った。だが大粒の涙を溜めた淋しそうな目をしたおばけが怖い存在だとは思えない。寧ろ友達が居ないと泣くこのお化けのことが可哀想で友達になってあげたいとさえ思った。

 兄の手がゆっくりと差し出される。おばけは恐る恐るその手に触れた。温かさと冷たさと。交わる二つの世界。

『友達になってあげる。だから此処から出ておいで』

 熱い物が込み上げてきて視界が涙で歪んだが、おばけはとても嬉しそうに涙を拭うと笑顔を浮かべた。

『うん!』


 一番最後の頁には、白いふわふわの綿菓子みたいな物体の上ににこにこと笑う表情が描かれたイラストが描かれている。この話はこれで終わり。これ以上の続きは無かった。

「最後にね、おばけはちゃんと友達が出来るじゃん? 僕、この本のそこが一番好きなんだよ」

 『友達』。独りぼっちは寂しいから一緒に居て欲しいと願う心は誰もが持っているもの。幾ら強がったとしても寂しさを隠し通すことは難しい。一華はふと有る考えに思い至る。

「……ネアンは、友達が欲しいの?」

 その言葉に深い意味は無い。何となく呟いたそれに、一華の身体を抱き込んだネアンの腕に力が籠もる。

「……平気だよ」

 その声は、とても小さくて弱い。「平気」という言葉と、それを呟いた声の違和感から、その言葉が嘘だと言う事は直ぐに分かってしまう。

「おばけと違って、僕には一華が居るから平気。一華がいるから寂しくなんてないよ」

 純粋な感情が容赦なく心を抉る。ネアンの口から出た言葉は、鈍い痛みを伴いながら一華の心臓を軋ませていく様な気がして辛い。お願いだからそれに気が付かないで欲しい。

「そう」

 精一杯の虚勢で創り上げた笑顔を浮かべると、一華はネアンの腕を解き立ち上がる。

「それじゃあ、もう行くわね。また」

 持ち込んだ機材とカルテ。それをまとめて手に持つと、返事を待たずに一華は部屋を後にした。


「一華」

 オフィスに戻るため歩いていた廊下。唐突に後ろから声を掛けられた彼女は、立ち止まり声の主を探す。

「ライリー・ハートマン……」

 廊下の角に立っていたのは、一華と同じ白衣を纏った男。ライリーと呼ばれた男が、手に持ったファイルで肩を軽く叩きながら近付いてくる。

「実験体の調子はどうだ?」

 彼の言葉に悪意が無い事は一華にも分かっては居る。しかし、先程まで言葉を交わしていた相手のことをその様な表現で言われると、実に気分が悪かった。

「今のところ異常はないわ」

 そんな考えが表にでてしまったのだろう。一華にしては珍しく、問われた事にぶっきらぼうな返答で応える。

「そうか」

 そんな彼女の態度から、ライリーは言葉を切り頭を掻いた。

「何か悪りぃ」

「構わないわ」

 用がないなら先に行くから。それだけ言うと、一華は再び歩き出す。今だけは余り、この話題に触れては欲しくない。だが、ライリーは同じプロジェクトに携わる研究員の一人なのだ。被検体に対しての質問あらば、情報を共有する必要はあるというもの。聞かれたら答える必要があることも理解はしている。

「まだ何か?」

 つかず離れず歩く距離。沈黙に耐えかねて口を開いたのは、一華の方だった。

「……聞いたぜ、献体番号N-0687の事」

「…………」

 ライリーが呟いた一言。廊下を歩く一華の足が唐突に止まる。

「近々廃棄処分……になるんだろう?」

「………ええ」

 一体何処まで話が行き渡っているのだろうと一華は思う。同プロジェクトに属する彼が情報を知っているのは当たり前だが、それ以外にもある程度の人間がこの情報を知っているのだとすれば、実験体の処分日はそう遠くないのかも知れない。限られた時間。終わりの時のカウントダウン。それは確実に始まってしまった変えようのない未来。無意識に、一華の手に力が籠もる。

「しかし、何で処分するんだろうな。データ的にも他の被検体に比べて申し分ない程の数値を叩きだしているし、状態的にも比較的安定している個体は中々作れないってのによ」

 予想外にもライリーは、対象の実験体が処分される理由を知らないようだった。彼にとってネアンこと検体番号N-0687は、最も安定している最高の個体だと認識している。それを処分という判断は未だ早いはずだと、感じた違和感を素直に言葉にしてくるのだ。

「……安定しすぎているからよ」

「え?」

 彼の問いに対する答えはそれだと。一華がそう呟いたと同時に、ライリーの肩を叩くファイルの音が止まった。

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