番外編
番外編1 毒薬令嬢
ドルバック男爵家。
ガラルド王国に属する貴族であり、王国内に数多く存在する下級貴族のひとつである。
代々の当主がおおらかな気質で、また領地も辺境にありそれほど広くはないことからか、領民たちとの間の垣根がとても低かった。
実際、ドルバック男爵家は貴族でありながらも、代々の当主は自ら畑を耕すことに喜びを見出すほどである。
だが、そんな辺境の男爵家でありながら、財政はかなり豊かだった。
広くはないが土地自体はとても肥沃で、また森林や山地も豊かで木材やそこに棲む野生動物や魔物から様々な富を得られるからだ。
特にドルバック領産の薬は王国内でも有名で、王家を筆頭に数多くの上級貴族の顧客を有している。
代々の当主は薬学・薬草学を深く学び、様々な薬草の栽培にも成功していて、中には他では見られないような珍しい薬草も栽培され、魔術師が魔術の触媒に用いるような品種もあるほどだ。
貴族としての地位は低いものの、財力に関しては中級貴族以上のものを誇り、それでいて当主一家は驕ることもなく、日々薬草の研究と栽培に明け暮れている穏やかな一族。それがドルバック男爵家であった。
ガラルド王国の王都、セイルバード。その中心に聳えるは、国王とその家族が暮らす王城。
その王城の庭の一角を、一人の少女が彷徨っていた。
「もうっ! ここ、どこよっ!? いくら国王陛下が暮らすお城だからって、広すぎじゃないのっ!?」
誰に聞かせるわけでもなく、少女は言葉を吐き出す。
そうしないと、不安で圧し潰されてしまいそうだから。
彼女の名前は、ナタラーシャ・ドルバック。ドルバック男爵家の長女である。
肥沃な大地を象徴するような、濃い茶色の髪と同色の瞳を持つ、ちょっとキツめな印象ながらも美しい少女である。
言うならば、仕事のできそうな大人の美人。そんなタイプだ。
背丈は女性にしては高い方か。やや細めの体を緑の艶やかなドレスに包み込んだその姿は、どこからどう見ても貴族の令嬢だった。
彼女が周囲を見回す度に、癖のない真っすぐな長い茶髪がさらさらと左右に揺れる。
「このお城、ウチの家の何倍ぐらい広いのかしら……?」
彼女の実家であるドルバック男爵邸は、お世辞にも広いとは言えなかった。領地にある屋敷も、王都の貴族街の片隅にある別邸も、どちらも貴族が暮らす家とは思えないほど小さい。
王都のちょっと裕福な庶民の家よりも小さいほどなのだから、その大きさも知れるというものだ。
そんな彼女がどうして王城の庭を彷徨っているのかと言えば、早い話が迷子になっているのだった。
先日、領地にあるドルバック男爵家の屋敷に、王家からの使者が訪れた。
何でも、国王陛下の義理の姉に当たる方がご懐妊され、
そこで、悪阻に効果のある薬──もちろん、胎児には悪影響のないもの──を王家が求めているらしいのだ。
それを聞いたナタラーシャの父であり、当代のドルバック男爵は、早速悪阻に効果のある薬を調合し、王城まで届けに来たのである。
そして、その父にくっついて来たのがナタラーシャだ。
これまで、数度だけ王城を訪れたことはある。社交の時期に家族と共に何度か夜会などに参加したことがあった。
彼女には兄が一人いて、その兄が将来家督を継ぐ。そのため、そう遠くない将来に彼女はどこかへ嫁ぐことになるだろう。
夜会には、将来の伴侶を探し出すという側面もある。今のところ彼女に正式な婚約者はいないが、両親としては少しでもいい相手を見つけたいという思いがあり、毎年の社交の時期には王都へ出向き、夜会などにも精力的に参加している。
もっとも貴族の中でも最下級であるドルバック家は、王家が主催するような大きな夜会には数度しか参加したことがなく、王城へ来たことも数えるほどしかないのだが。
それも決めたられた場所にしか足を踏み入れたことがないため、ナタラーシャの王城に関する知識は極めて狭い。
父が国王陛下と悪阻の薬に関する話をする間、彼女は王城の庭などを見学させてもらっていたのだが、気づけば完全に迷子になっていた。
彼女もまた、ドルバック家の者。薬草や珍しい草花には興味があるため、王城の庭に植えられた花々を観察することに熱中してしまい、いつの間にか見知らぬ場所へと迷い込んでいたのだ。
「それにしても、確か国王陛下ってもう四十歳を越えておられるはずよね? 義理とはいえ、陛下の御姉様が妊娠って……大丈夫なのかしら?」
人間の平均的な寿命は六十歳ほど。それを考えれば、四十過ぎでの妊娠は相当な高齢出産となり、出産の際は母子ともにかなり危険なことが予測される。
ナタラーシャもドルバック家に連なる者として、薬学と医学の心得がある。その彼女からすれば、四十過ぎての出産はまず考えられない。
「いくら我が家の薬でも、高齢出産の危険まで緩和できないし……も、もしかして、本当は悪阻の薬ではなく、お腹の子を堕胎するための薬をご希望されていたりして……」
薬も調合次第では毒となることは有名だ。特にナタラーシャは、毒薬とその解毒薬の研究に熱心だ。
解毒薬を作り出すには、まず毒についての知識が必要となる。
解毒薬について研究していくうちに、毒薬にも詳しくなったナタラーシャ。そんな彼女のことを、【毒薬令嬢】と呼ぶ者たちもいる。
辺境の小貴族でありながら、豊かな財政を誇るドルバック家。そのドルバック家をよく思わない貴族は、それなりにいる。そんな貴族たちから、彼女は嫌味を込めてそう呼ばれている内に悪名が広まってしまったのだ。
日々毒薬の研究に明け暮れ、様々な毒薬に通じる女性。そして、自分で調合した毒薬を誰にでも高額で売り付ける。
ドルバック家の財政が豊かなのは、彼女が高額な毒薬を売っているからだ。
と、いう噂を信じている者も一定数いるほど。
もっとも、実際に彼女は様々な毒薬に通じているし、彼女が調合する解毒薬──さすがに毒薬は売ってはいない──がドルバック家の財政に大きく影響しているのも事実ではあるので、全くでたらめな噂というわけでもない。
そして、【毒薬令嬢】という悪名が、十八歳を過ぎた今でもナタラーシャに正式な婚約者がいない理由のひとつでもあった。
十八歳にもなって、迷子になるなんて。
その事実は、さすがに気恥ずかしい。だが、このまま迷子になっているわけにもいかない。
できれば、父親と国王陛下との話が終わるまでに何とかしないと、迷子になったという事実が明らかになってしまう。それだけは、何としても避けたいナタラーシャである。
「誰か……衛兵とかいないのかしら?」
ここが王城である以上、警備の衛兵がいないわけがない。それに、侍従や侍女などの王城に勤める人たちだっているはずだ。
誰でもいいから、出会った人に道案内をお願いしよう。そう考えながら王城の庭を彷徨うナタラーシャ。
そんな彼女の視界に、よく見慣れた物が映り込んだ。
「あれは…………温室?」
ガラスなどを用いて室内の温度を外よりも高く保ったり、もしくは様々な方法で温度管理を行い室内の温度を一定に保ったりする、植物の栽培に用いられる小屋。それが温室である。
高価なガラスを数多く使用することから、当然ながら温室というものは総じて高額なものである。
よって、貴族でもそれなりの家格でなければ所有することは難しい。
当然ながら、薬草が主産業のドルバック男爵家は温室を複数有している。その中には、温度管理用の遺産を用いる最上級のものまで有するほどだ。
そのためか、ついついナタラーシャは温室へと足を向けてしまった。王城にある温室に興味があったし、その中で何が育てられているのかも気になってしまったから。
温室に到着したナタラーシャは、まずは外からゆっくりと見て回る。
この温室には、かなり高質な透明度の高いガラスが用いられている。それだけでも、この温室がかなりの高級品であることが分かった。
そんな透明度の高い高質ガラスを用いているのだから、外から中で育てられている植物がよく見えた。
「え…………? う、嘘でしょ…………?」
ナタラーシャは温室の中を覗き見て、思わず目を見開きながら呟いた。
そして、温室の入り口を探して走り出し、その入り口を見つけた途端に温室の中へと足を踏み入れた。
入口には特に鍵などはかかっておらず、ナタラーシャは先ほど目にした温室内で育てられている植物の前にしゃがみ込む。
ドレスの裾が土に触れて汚れるが、そんなことは全く気にもしない。
「こ、これ……カエンホウシャ
ナタラーシャは立ち上がり、周囲をぐるりと見回す。そして、そこで栽培されていると思しき草花を見て、改めて呟く。
「どれもこれも……我が家でもまだ栽培に成功していない草花ばかり…………しかも、
そう。
彼女が言う通り、この温室で栽培されているのは全てが取り扱いの難しい、危険な毒草ばかりだった。
もちろん、毒草とて調合次第では薬となる。だが、薬に調合するために栽培しているとしても、これだけ猛毒な種類ばかりというのは異常だろう。
「も、もしかしてこの温室……王家のヤバい裏側に関わる場所なんじゃ……」
政治というものが、綺麗ごとだけではないことはナタラーシャも知っている。
彼女の生家であるドルバック家とて、薬だけではなく毒を販売することもある。さすがにその毒がどのように使われているのかまでは知らないが、ある意味で貴族と毒は切っても切れない関係でもある。
それに、危険な魔物を退治する際に毒が用いられることだってあるので、毒の販売自体は決して犯罪ではない。
もちろん、調合・売買が禁止されている類の禁制品も存在するが、それらに関してはドルバック家でもさすがに販売はしていない。
実は研究用に調合されていたりはするが、研究目的であると王国に正式に届け出ているので、罪に問われることはないようだ。
王城の庭の目立たない場所に建つ温室。そしてその中で栽培されているのは全て危険な毒草ばかり。
もしかすると、ここにある毒草は王国の暗部が使用するために、密かに栽培されているのかもしれない。
だとしたら、この周囲に衛兵などが配置されていないのも頷ける。侍従や侍女たちの姿がないことにも納得できる。ここが王国の「闇の部分」だとしたら、衛兵などがいないのも当然だ。
「…………これ、ちょっとマズいかも……」
自分はかなり危険な場所に入り込んでしまったのかもしれない。急いでここから離れなくては。
そう考えて温室の入り口へと振り向いた時。
ナタラーシャの双眸が大きく見開かれた。
「ここで何をしているのです?」
温室の入り口に一人の男性が立ち、そう誰何してきたのだから。
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