敗走と【黒騎士】
「俺の部隊が逃げて来たアインと遭遇したのは、本当に運が良かったよな」
ナイラル侯爵邸に負傷したアインザムともう一人の少女を運び込んだのは、他ならぬナイラル家の次男であるイリスアークだった。
彼が所属する騎士団が、【雷撃団】に続く形でガルガリバンボン討伐のために王都を発っていたのだ。そして、件の大カエルが出没する地域へ向かっている途中、騎士団本隊より先行していた斥候部隊が、負傷しながらも必死に逃げる少年と少女を発見した。
深手を負った少女を背負い、自身も浅くない怪我を負いながらも必死に走る少年。
逃走に専念するため、得物はとっくに捨てている。身に着けている鎧も、何度も攻撃を受けたせいかほとんど原形を留めていない。
少年自身も体中に傷を負い、それでも必死に走り続けた。
彼らの背後には、巨大なカエルの化け物が迫っていた。化け物カエルは明らかに少年と少女をいたぶっているようだ。大カエルがその気になれば、小さな人間などいつでも殺せる。そうしないのは、必死に逃げる人間たちを嘲笑っているからだろう。
そのことに、少年は気づいていない。気づく余裕もない。
彼はただ、逃げることだけを考えていた。背中に背負った少女を守るために。仲間たちから託された少女を死なせないことだけを考えていたのだ。
魔物から必死に逃げる少年と少女を発見した斥候部隊は、すぐさま二手に分かれた。迫る大カエルを足止めする者たちと、負傷者を収容、後方へと送り届ける者たちに。
そして、後送されてきた少年と少女を見たイリスアークは目を見開いて驚いた。負傷している少年は、間違いなく彼の弟だったのだから。
「斥候部隊が魔物の足止めに成功し、騎士団本隊が斥候たちと合流してカエル野郎を何とか倒した。そして、騎士団に同行している治癒魔術師が魔力を振り絞ってアインと彼女……アルトルちゃんを治療して一命を取り留めることはできた。だが……」
イリスアークの顔が悲し気に歪む。
騎士団が二人を発見した時、アインザムとアルトルは本当にぼろぼろだった。重傷を負い、意識を失った少女を背負いながら、アインザムは必死に逃げたのだろう。
特にアルトルの怪我は深刻だった。左腕を失い、背中にも大きな傷があった。特に背中の傷は、もう少し深ければ間違いなく少女の命を即座に奪っていただろう。
騎士団所属の治癒術師が何とか背中の傷を治療し、アルトルは一命を取り留めた。だが、その治癒術師でも失った左腕を元に戻すことは叶わず、彼女は二度と弓を射ることはできなくなっていただろう。
「…………本当に……アルトルさんの腕が治るのですか?」
自身も相当な深手を負い、ガルガリバンボンから必死に逃げ回るという精神的疲労もありながら、アインザムは傍らに立つ次兄を心配そうに見る。
「まあ…………多分、大丈夫なんだろ?」
その次兄であるイリスアークも、胡乱げな視線を前方に注いでいる。
イリスアークとアインザムが今いるのは、ナイラル侯爵家の屋敷の庭であり、彼らの視線の先には巨大な鉄塊が鎮座していた。
その鉄塊──表面に女性の姿が刻まれたソレの中からは、ぐちゃり、べちゃり、めきょ、ぐきょ、ずぞぞぞぞ、うごごごごごと思わず耳を塞ぎたくなるようなおぞましい音が響いている。
「アレ…………本当に治療用の神器なんですか?」
「まあ、そうなんだろうな、多分。きっと。おそらく……な」
彼らが見つめるのは、もちろんジルガが用意した治癒用神器、「癒しの乙女」である。失った四肢や器官さえをも再生できるこの驚異的な神器であれば、アルトルを元通りに治すことも可能である。
そう。現在アルトルは「癒しの乙女」の中で治療中。先ほどから聞こえてくるおぞましい音は、「癒しの乙女」の駆動音──つまり、治療中の音なのである。多分。
鉄塊内部で拷問でも行われているような音が途絶えることなく響く中、ナイラル家の次男と三男は眉を寄せながらその様子を見守っていた。
「この鉄の塊を用意したのがジールでなければ、治療が行われているなんて信じられねぇよなぁ……」
「全くです……」
「そういうおまえの怪我はどうなんだよ? おまえだって相当な深手だったろ?」
「僕の怪我はもう治っています。さすがに消耗した体力までは回復していませんが……」
「そういや、あの野郎が怪我を治すのに体力を消耗するタイプの遺産を使うとか言っていたな」
「あ、あのイリス兄上? 王兄殿下であり姉上の婚約者でもあるあの人を、『あの野郎』呼ばわりするのはさすがにどうかと……」
「構やしねえよ。それに、それぐらいで怒るような器の小さな奴でもねえしよ」
忌々しそうに言う次兄を、アインザムは苦笑しながら見つめる。
何だかんだ言いつつも、どうやら姉の婚約者であるあの魔術師のことは認めているらしい。
アインザムは、先日初めて会った姉の婚約者である魔術師のことを思い出す。
白金色の髪と蒼玉の瞳を持った男性で、どこか線の細さを感じさせるのは母親がエルフだからだろう。
危機一髪で騎士団に救助されたアインザムは、その場で意識を失った。いろいろと限界だったのが、助かったと確信できたことで一気に気が緩んだのだろう。
そして、次にアインザムが目覚めたのは、他ならぬ彼の自室だった。周囲の光景があまりにも見慣れ過ぎていたため、逆に混乱したぐらいである。
そして、慌ててベッドから上半身を起こしたアインザムに、声をかける者がいた。
「気分と怪我の具合はどうかね? 君の姉君から借りた治癒用の遺産を使ったから、怪我の方は問題ないと思うが」
穏やかに微笑むのは、魔術師風の装いの男性。白金色の髪に白いローブを着たその男性を見て、アインザムはそれが誰なのかすぐに思い至った。
「もしや……あなたが姉上の婚約者の──」
そこまで口にした途端、妙な息苦しさを覚えてアインザムは激しく咳込んだ。
「ああ、無理をするな。今の君は遺産を用いた治療の反動で体力を著しく失っている。今は立ち上がることさえ厳しかろう」
遺産や神器を用いる際、強力な物ほど何らかの副作用や代償を必要とする場合が多い。
【黄金の賢者】レメット・カミルティが、銀の一族から逃亡する際に使用した「転移の宝珠」などはその最たる例だろう。
瞬時に移動を可能にする強力な神器でありながら、一度使用すると半年ほど魔力が回復しなくなるという呪いにも似た面も持ち合わせている。
他にも、様々な副作用や反作用を及ぼす神器や遺産は数多い。
今回、負傷したアインザムを治療する際に用いた遺産は、瞬時の治療が可能な一方で、治療の代償に治療対象の体力を失うという面も持っていた。より正確に言えば、対象の体力を用いて怪我を癒すのだろう。
そのため、怪我があまりにも酷い場合は体力を消耗し過ぎて衰弱死する可能性もある。今回、遺産を使用する前にアインザムの怪我の具合と消耗されるであろう体力を比較し、大丈夫と判断してから使用されたのである。
結果、アインザムの怪我はあっという間に癒された。反面、消耗した体力がある程度回復するまで二日ほどを要し、その間の彼はベッドの住人となっていた。
休養中にアルトルが治療を受けていることを聞いていたアインザムは、起き上がることができるようになると同時に、こうして彼女の様子を見に来たのだった。
なお、この場にアインザムが来た時、非番だった次兄もたまたま様子を見に来ていたらしい。
「ん? 音が段々小さくなってきてないか?」
「あ、本当ですね」
「ってこたぁ、そろそろ治療も終わるってことか」
どうやら次兄は、この神器に関することを事前に聞いていたようだ。改めてイリスアークに聞けば、「癒しの乙女」から聞こえてくる音が途絶えた時こそが、治療が終わった合図なのだとか。
「さて、後のことは女の使用人たちに任せて、俺たちはここから立ち去ろうぜ」
「どうしてですか? アルトルさんの治療が終わるのであれば、それをここで待っていた方が……」
「それがよ? あの野郎が言うには、治療の邪魔になるからアルトルちゃんの服を全部脱がせてからこの鉄塊の中に入れたらしい。あ、脱がせたのも鉄塊に入れたのもあの野郎じゃなくてジールだから安心しろ。で、まあ、何が言いたいのかといえばつまり──」
「あ、あ、そ、そういうことですか。で、でしたら、後は女性の使用人に任せましょう」
つまり今、「癒しの乙女」の中にいるアルトルは全裸なのである。このまま治療が終わって彼女が「癒しの乙女」から出てくれば、いろいろと問題になりそうだ。
失った腕さえも再生する「癒しの乙女」。治療のために衣服を脱がせるというのは、確かに理解できる理由ではある。
だが。
「だったら、どうしてこの『癒しの乙女』を庭なんかに置いたんですか?」
「あー、それはよ、慌てたジールが『癒しの乙女』をここに置いちまったんだ。で、ジール以外にこの鉄の塊を動かすこともできずに……」
「…………姉上、相変わらずどこかそそっかしいなぁ……。そういえば、その姉上は今どこに?」
改めて思い返せば、姉であるジールディアを屋敷で見ていない。更に言えば、姉の婚約者であるあの白い魔術師にも、目覚めたその日以降は会っていなかった。
「ジールなら、おまえが目を覚ました直後に飛び出していったぜ? どこに向かったのかは知らねえが、当然のようにあの野郎も一緒にな。あと、鬼人族の姉弟も連れていったぞ」
鬼人族の姉弟という言葉を聞いた途端、アインザムの脳裏に一人の少女の姿が思い浮かぶ。
「…………少しでもいいから会いたかったな……」
「何か言ったか、アイン?」
「い、いえ、何も」
少年が会いたかったのは、姉なのかそれとも鬼人族の少女なのか。
そうこうしている間に、「癒しの乙女」から聞こえる音が止まる。互いに顔を見合わせた兄弟は、この場を女性の使用人に任せて屋敷の中へと戻るのだった。
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