バレちゃった【黒騎士】
「そろそろ日が暮れるね」
ライナスと共に馬車の御者席に座っていたレアスが、赤味を帯び始めた空を見上げながら呟いた。
「そうだな……早めに野営に適した場所を探すとしよう」
ライナスは御者席から見える黒い背中に声をかける。
「今日の移動はここらまでにしないか?」
「それもそうだな。暗くなる前に野営の準備をした方がいいだろう」
ジルガは自分の隣を歩いていたレティルへと目を向ける。彼女はジルガの言いたいことを理解すると、元気よく駆け出した。
近くで野営できる場所を探すために先行したのだ。
足音をほとんど立てることもなく、軽やかに疾走するレティル。その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
鬼人族という種族特性に合わせてジルガたちと出会ってから今日まで、様々な経験と鍛錬を積み上げてきたことで、まだ幼いと言ってもいい彼女の実力を相当高めていたのだ。
「レティルが……あそこまで成長を……」
ゴーレムが牽く馬車の中からその様子を窺っていたストラムは、走り去る娘の姿から、自分たちが傍にいない僅かな時間で彼女が成長していることに気づいて目を丸くする。
我が子の成長を喜ぶと共に、自分が知らない子供らの成長に戸惑いを感じるストラム。
「子供は親が知らぬ間に成長するものだよ、ストラム殿」
「…………ライナス殿は、もしや子を育てた経験がおありか?」
「いや、俺は未婚で子供はいない。ただ、子供たちがどんどん成長していく姿を見たことがあるだけさ」
「……ライナス殿……もしやあなたは──」
ストラムがそう言葉を続けようとした時、レティルが元気よく戻ってきた。
「この先に、川と野営に良さそうな広さのある場所がありました!」
「そうか。では、今日はそこを一夜の仮宿としようか」
ジルガが同意を得るために振り向けば、ライナスはそれに頷くことで応える。
そんなライナスを、ストラムは何か言いたそうにしながらも黙って見つめていた。
レティルが見つけた場所には、過去に野営で使われた痕跡がいくつも残っていた。
街道からほど近い所まで森が迫り、その森から流れ出る川には綺麗な水が流れている。
おそらくこの小さな川は、下流でテグノ河に合流しているのだろう。
適度に開けた空間があり水場もあるため、ここは街道を往く旅人たちにとって格好の野営場所と言えた。
今日は他の旅人の姿はなく、この場を利用するのはジルガ一行のみ。早速、彼らは手分けして野営の準備を進めていく。
レティルとレアスは近くの森で食料を調達し、ジルガは次元倉庫から保存食を取り出し、ライナスはその保存食を利用して料理を作っていく。
ストラムとハーデは自分たちも何か手伝うと提案したのだが、ジルガたちからやんわりと断れて彼らが準備をしているのを眺めているばかり。
「レティルとレアスは、本当にいい人たちと巡り会ったのだな」
「本当に……ジルガ様もライナス様も、とてもいい人よね」
我が子たちの様子を見れば、ジルガとライナスの人となりは一目で分かった。レティルとレアスがあそこまで懐いているのは、相当よくしてもらったからだろう。
全くの無償で自分たち夫婦を助けてくれたことからも、彼らが本当に優しく性根の正しい人物だということが知れる。
「レティルとレアスが連れ去られた時、俺はこの世に存在する全ての人間を憎んだものだが……」
「人間も悪人ばかりじゃないということね」
まだ完全に体調が戻らない妻の傍に寄り添いながら、ストラムは過去の認識を改めるのだった。
野営の準備がほぼ終わった時、空は赤から群青へと移り変わろうとしていた。
陽は間もなく完全に落ち、空の色は赤から群青、群青から黒へと変化するだろう。
そんな中、ジルガは用意された食事を持って立ち上がる。
「では、私はいつものように」
「ああ。君なら大丈夫だとは思うが、周囲には気をつけるようにな」
食事を摂るためには、鎧を脱がなければならない。だが、鎧を脱ぐと全裸になってしまうジルガは、食事をする際には皆から離れる必要がある。
「私もご一緒しましょうか?」
「いや、レティルはご両親と共にいるがいい。その方がお二人も安心されよう」
鎧の中身を知るレティルは彼女と一緒に食事をしようと提案するが、それはジルガに断られてしまう。
ジルガとしてはレティルとレアスを、ようやく会えた両親と少しでも一緒にいさせてやりたいのだろう。
そんなジルガの気持ちが分かるので、レティルも彼女の言葉に頷いた。
そして、一人森の中へと姿を消すジルガ。
「ジルガ様はどうされたのだ?」
「ジルガさん、実は呪われていて……」
「の、呪いだと……っ!?」
「じ、ジルガ様は大丈夫なのっ!?」
呪いと聞き、顔色を変えるストラムとハーデ。
そんな彼らに苦笑しながら、ライナスが呪いについて「人前で鎧が脱げない」と簡単に説明する。
「そ、それだけ……?」
「僕も最初はそう思ったけど、ジルガさんにとっては重大なことなんだって。それで呪いを祓う方法を探して旅をしているらしいんだ」
呆然とする父に、どこか自慢そうに説明するレアス。両親が知らないことを自分が知っていることが嬉しいのだろう。
「ジルガのことは心配ない。俺たちは食事を進めよう」
ライナスの提案に従った一同は、ゆっくりと食事を楽しむことにした。
「僕、ちょっと用足し」
食事の後、尿意を催したレアスが仲間たちから少し離れて森へと入る。
日は完全に落ち、周囲は僅かな残照が残るのみ。
だが夜目が利く鬼人族は、この程度の暗さは問題にならない。
そして自然と共に暮らす鬼人族は森を恐れない。まだまだ幼いレアスも、その例外ではなかった。
念のために得物である弓と矢を携え、森の中で用を足す。
そして用を足し終えた後、鋭い彼の耳が何かを捉えた。
「これ……歌……か?」
どこからともなく聞こえてくるのは、美しいメロディ。特に歌詞のようなものはないので、誰かが口ずさんでいるだけのように思える。
──こんな時間帯に森の中で歌声?
ここは街道からそれほど離れていない森だ。だが、既に日が暮れようとしているこの時間帯に、誰が危険な森の中に入り込むだろうか。
自分たちのような鬼人族であればともかく、人間がこんな時間帯に森の中に入るとは思えない。
それとも、この森には自分たちと同じ鬼人族が暮らしているのだろうか。
それともそれとも、魔物が自分を誘っているのか。
魔物の中には、歌声や匂いで獲物をおびき寄せるものがいると、レアスはライナスから教わっていた。
──どこのどいつがこんな時間に森の中で歌っているんだ? ちょっとだけ様子を見てやろう。
本来であれば、ここで引き返して仲間たちにこのことを伝えるべきだ。
本当に歌声の主が魔物であれば、自分一人では危険すぎる。だが、自分が成長しているところを両親に見せてやりたいという思いが、この時のレアスを衝き動かした。
彼は慎重に足音を殺し、弓を構えつつ歌声のする方へと移動する。
やがて、木々が途切れて川に突き当たる。歌声は川の上流から聞こえてくるようだ。
川べりに生えている木々に隠れつつ、レアスは上流を目指す。
慎重に丁寧にゆっくりと移動していくレアス。そして、彼の目にその光景が飛び込んできた。
それは、一人の女性が水浴びをする姿。
色素の濃い自分たち鬼人族ではあり得ない、輝くような白い肌。そして、薄暗闇の中でもはっきりと分かる、やや赤みを帯びた長い金の髪。
木の陰から盗み見るようにしていても、その女性が極めて美しいことがよく分かる。
そして何よりもレアスにとって衝撃的だったのは、その女性が一糸纏わぬ全裸だったこと。
水浴びをしていたのだから当然と言えば当然なのだが、その女性は一切の服を身に着けていなかった。
たとえまだまだ幼いと呼べる年齢であるレアスでも、その裸身が極めて美しく魅力的であることを男の本能が理解した。
と、その時。
それまで聞こえていた歌が突然止まった。
この時になって、レアスはようやく目の前の全裸の女性が先ほどまで聞こえていた歌の主であることを悟る。
「──誰かいるのですか?」
レアスがいる方に背中を向けてしゃがみ込み、視線だけを向けた女性が誰何する。
鋭い視線を向けながら、それでいてちらりと見える頬にはうっすらと紅が差していることを、レアスは鬼人族の鋭い視覚で捉えていた。
「え、えっと、あ、あの…………」
どういう態度を取っていいのか全く分からず、それでも水浴びを覗き見てしまった罪悪感もあり、レアスは告げるべき言葉を探しながら木の陰から進み出た。
「ああ、レアスでしたか。でも、女性が水浴びしているところを覗くのは男性として感心しませんよ? こういうことは二度としてはいけません」
背中を見せてしゃがみ込んだまま、女性は安堵の息を吐きながらそう告げた。
突然感じた何らかの気配に、女性は体を隠しつつ川の中にしゃがみ込んだ。そして、気配のした方へと視線と誰何の声を上げてみれば、そこにはよく知った少年が木の陰から出て来るところだった。
気配の正体がよく知る少年だったことに安堵しつつも、女性は羞恥を覚えながら少年に男性としての注意点を説く。それがまだ幼くて知らないことの多い少年に対する、大人としての務めだと思ったからだ。
「今回のことは、レティルやご両親には秘密にしておいてあげます。ですから、二度とこんなことはしないと約束できますね?」
相変わらず背中を向けたまま、女性がにこりと微笑む。
その女性に対し、レアスは眉を寄せて首を傾げた。
「おまえ……どうして俺や姉さんの名前を知っている? それに、父さんと母さんのことも……何者なんだ、おまえは?」
警戒の色を濃くするレアス。手にした弓こそ構えていないが、いつでも戦闘態勢に移れるぐらいには、目の前の女性を訝しんでいた。
こんな森の中、しかもそろそろ夜になるという時間帯に、人間の女性が一人で水浴びなどしているわけがない。
まだまだ人間の社会に疎いレアスでも、それぐらいのことは分かっている。
──もしかして、こいつ魔物か? 確か、女に化けて油断させてから人を襲う魔物がいるってライナスさんも言っていたよな。
ライナスの言葉を思い出し、レアスは静かに腰を落とす。いつでも、そしてどんな状況にも即座に対応できる戦闘の基本姿勢であり、ジルガによって叩き込まれたものだ。
そしてレアスがいよいよ弓を構えようとした時、いまだ川から立ち上がらない女性が、何かを思い出したかのように呟いた。
「ああ、そうでした。この姿ではレアスが私を分からなくても仕方ないですね」
「……は? 何を言っているんだ?」
訳の分からないことを言う女性に、レアスの警戒が更に強くなる。
だが、次の瞬間にはその警戒はどこか異次元の彼方まで吹っ飛んでいくことになるのだが。
「〈閉門せよ。難攻不落なる黒き砦〉」
女性がレアスには理解できない言葉で何かを呟いた。すると、それまで女性がしゃがみ込んでいた場所に、彼もよく知る漆黒の全身鎧が現れたのだ。
「これなら私が誰だか分かるだろう?」
ざばり、と体のあちこちから水を滴らせながら、悪鬼のような意匠の黒い全身鎧が立ち上がる。
そして、数日前に王都の〔黄金の木の葉亭〕において彼の姉が上げたような、驚愕の声をレアスもまた上げるのだった。
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