閑話─恋する王太子
「────今日もあの
憂いを帯びたその双瞳に、長い睫毛の影が落ちる。
沈みゆく夕陽を自室の窓から物憂げに見つめながら、彼──ガラルド王国王太子であるジェイルトール・シン・ガラルドは誰に聞かせるでもなく呟いた。
祖父である【漆黒の勇者】譲りの黒曜石のごとき両目を閉じれば、目蓋の内側に浮かぶのは一人の女性の姿。
先日、その女性の成人を祝う夜会で初めて出会った、とても美しい女性の姿だ。
以前から、その女性の噂はジェイルトーンも耳にしていた。武の名門であるナイラル侯爵家の令嬢でありながら、その美しさは王国一とまで噂されているのを。
だが、所詮は噂であり、美しいと言っても実際は王国一どころかそこそこであろうと、ジェイルトーンはその噂話を聞くたびに考えていた。
ところが。
実際にその目で見た件の女性は、噂通りに──いや、噂以上に美しかった。
艶やかな金の髪は、やや赤味がかかっていたがまるで蜂蜜のようであり、その双眸は緑柱石の如く清らかで静謐ながらも凛とした光を放っているようだった。
成人したとはいえ、まだまだ少女の幼さを残しながらも、武の名門の出身を窺わせる佇まいは、彼女の美しさを損なうことなくその魅力を数段上に押し上げていて。
言うならば、鍛え上げれたばかりの刀剣のような、鋭さと美しさを併せ持つ、実に将来が楽しみな女性だったのだ。
簡単に言うと、ジェイルトーンの好みど真ん中ストライクだった。
これで恋に落ちないわけがない。実際、ジェイルトーンはその女性に一目惚れした。彼女を一目見た瞬間、自分の
彼女──ナイラル侯爵家の令嬢、ジールディア・ナイラルから放たれた──あくまでもジェイルトーンの主観では──
ジールディア嬢の成人を祝う夜会の翌日、ジェイルトーンは早速父でありガラルド王国の現国王でもあるシャイルード・シン・ガラルドに面会を求めた。
もちろん、その理由はジールディアとの婚約を進めるように直奏するためだ。
幸い、今の彼にはまだ正式な婚約者はいない。年齢的にも立場的にも、とっくに婚約者がいてもおかしくないジェイルトーンだが、これまで婚約者を決めるのをあれこれと適当な理由をつけて先延ばしにしていた。
先延ばしにした理由は、ぶっちゃけ面倒だったから。
彼も自分の立場は理解している。将来王国を背負って立つ以上、婚約や結婚は避けて通ることができない問題である。
だからこそ、今だけはその問題から目を遠ざけ、束の間の自由を満喫したい。ジェイルトーンは常々そう考えていた。
また、その気になればいつでも婚約者を決めることができる、と軽く考えていたことも理由の一つだ。
王太子という立場上、婚約者候補はたくさんいる。それこそ毎日のように、自薦他薦問わず婚約者候補が現れるほどに。
そんな候補者たちの中から、王太子妃として、そして将来の王妃として身分も能力も問題のない女性を選べばいいとも思っていた。
所詮、王族や貴族の婚姻など利益重視の政略結婚と相場が決まっている。であれば、ぎりぎりで結婚相手を決めても問題ないだろう、というのが彼の思いだった。
しかし。
しかし、そんな考えはジールディア・ナイラルという女性を見た瞬間に吹っ飛んだ。
是非とも彼女を王太子妃に、そして、将来は国王となる自分の隣に立ってもらいたい。
ナイラル侯爵家と言えば、ガラルド王国の重鎮にして忠臣であることは非常に有名だ。その令嬢であれば、将来の王妃として身分的には全く問題はない。
ジールディアの能力面に関しては、ジェイルトーンはよく知らない。だが、昨夜少し話した感じからすると、決して愚鈍ということはなさそうだ。
であれば、これから未来の王妃としての教育を正式に受ければ、きっと彼女は問題なく王妃として自分の横に立ってくれるに違いない。
朝一番で父王と面会したジェイルトーンは、そんな考えと想いの丈を真っ向から父王へとぶつけた。
そのあまりにもな勢いと一方的な想いに、父王がげんなりとしていることにさえ気づかず、彼は自分の想いを長い時間をかけて告げたのだった。
「…………良かろう。婚約の件、ナイラル侯爵家に打診してみよう」
息子の想いの丈を一方的に、そして途轍もない勢いでぶつけられたシャイルード国王は、げんなりとした表情を隠すことなくそう告げた。
その顔には「いい加減もうこの話は終わりにしたい」とありありと書かれていたが、婚約を打診すると父に言われた息子は、喜びのあまりにそのことに気づいていなかった。
「ありがとうございます、父上!」
「だが、まだ打診する段階だ。正式にジールディア嬢との婚約が決まったわけではない。そのことを忘れるなよ、ジェイル」
「ははは、分かっていますよ、父上」
口ではそう答えたジェイルトーンだが、この婚約の話はもう決まったも同然だろうと考えていた。
普通であれば、王太子との婚約を打診されて、それを断ることはまずない。
例えば婚約を打診した令嬢に既に正式な婚約者がいる、などという場合を除けば、まず王太子との婚約を断られることなどないだろう。
そんな息子を、父の方は非常に疲れた様子で眺めていた。
彼は知っている。現ナイラル侯爵家当主であるトライゾン・ナイラルが、非常に娘を可愛がっていて、そのため娘の縁談を片っ端から断っていることを。
──トライゾンは昔っから頑固だからなぁ。あいつなら、娘可愛さのあまりに王家からの婚姻話を蹴っ飛ばしても不思議じゃないぞ。
と、内心で溜め息を吐くシャイルード。
シャイルードとトライゾン、実は幼い頃からの付き合いである。
若かりし頃は一緒になって様々な「やんちゃ」をしてきた、親友とも悪友とも呼べる間柄だ。
しかし、昔にあまりにも様々な「やんちゃ」をしてきたため、彼らは自分たちの関係を子供たちに話していない。もしも昔の「やんちゃ」をそれぞれの子供たちが知れば、父親としてのメンツと威厳が総崩れになりかねない。
さすがに二人の妻たちは自分の夫たちが非常に親しいことを知っているが、夫から「昔のことは絶対に子供たちに教えないでくれ! お願いします!」と頭を下げられたため、子供たちに夫の昔の「やんちゃ」を教えていなかった。
そのためそれぞれの子供たちは、父親同士の関係を正しく知らない。国王とその忠臣。子供たちが知っているのはそんな表向きの関係だけなのだ。
もしも子供たちが父親同士の関係を正しく知っていたら、ジェイルトーンはもっと早くにジールディアと出会っていたかもしれない。
自室に戻ったジェイルトーンは、浮き立つ心を何とか宥め、早速愛しのジールディア嬢へと手紙を書いた。
もちろん、最初の手紙に自らの想いを直接乗せるようなことはしない。当然、婚約を打診することも書かない。
まずは昨夜の夜会のお礼から。そして、さりげなくジールディアの美しさを褒め称える。
とはいえ、まずは社交辞令とも取れる程度の内容と文体で。最初から彼の胸の内にある燃えるような想いをそのまま告げてしまうと、愛しの彼女に引かれてしまうかもしれない。
それは人としての常識ではなく、愛しいジールディアにちょっとでも嫌われたくないという思いからの行動だったが、結果的に良い方向へと転がったと言えるだろう。
書き上がった手紙を、早速ナイラル侯爵家へと送る。
果たして、ジールディアはどんな返事を書いてくれるだろうか。手紙を出せば、それに返信するのはガラルド王国の貴族としての嗜みである。
余程の事情がなければ、送られた手紙には返事を書くのが常識なので、ジェイルトーンはジールディアからの返信が楽しみだった。
だが。
しかし。
待ち望んだジールディアからの返事は、三日待ってもジェイルトーンの元へ届くことはなかった。
今日もジールディアからの返事は届かない。
一体これはどうしたことだろう、もしかして自分は返事を出したくないほど彼女に嫌われているのか、と次々に湧きあがる不安を胸に抱きながら、ジェイルトーンは自室の窓から夕陽に赤く染まる城下を眺める。
いや、正確には彼が見つめていたのは、ナイラル侯爵家のタウンハウスがある方向だったが。
そんな彼の耳に、扉を叩く音と聞きなれた声が届く。
「ジェイル、いるかね? 私だ。サルマンだ。少し話があるのだが、入っても構わないか?」
よく知る声に、ジェイルはどうぞと答えた。
遠慮する素振りも見せず、彼の部屋に入ってきた人物をジェイルトーンはよく知っている。
サルマン・ロッド。ガラルド王国の筆頭宮廷魔術師にして、幼い頃の彼に学問を教えてくれた師でもある。
「これはサルマン師。お久しぶりですね」
「ああ、久しいな。元気そうで……とは言えぬようだな?」
かつての師として、ジェイルトーンはサルマンを今でも敬愛している。そのため、公ではない私的な場所では、かつての師とその教え子として振る舞うのが二人の常だった。
そんなサルマンだからこそ、ジェイルトーンが普通でないことを一目で見抜くことができたのだ。
「何があった? 陛下も心配されておられたぞ?」
「ははは、さすがは父上。気づかれていましたか」
力なく笑うかつての教え子に、サルマンはその眉を寄せる。
「ナイラル侯爵家のジールディア嬢…………のことかね?」
師その言葉に、ジェイルトーンははっとして伏せがちだったその顔を跳ね上げた。
「先程陛下の下に、侯爵家より婚約打診の返事があったそうだ」
「そ、それで侯爵家はなんと?」
「現在、ジールディア嬢は少々厄介な病に罹り、ナイラル侯爵家の領地にてしばらく療養することになったそうだ。ゆえに、婚約の件はしばらく待って欲しい、とのことだ。今頃は自領に戻るための準備中か、既に馬車の上かであろう。君が出した手紙に返事が書けないのも、その辺りが理由ではないかな?」
この時点で、サルマンはもちろんジールディアの事情を知っている。なぜか漆黒の全身鎧に見込まれ、黒鎧の呪いに囚われてしまったことを。
だが、それをジェイルトーンに話すわけにはいかない。これはジールディアの侯爵家令嬢としての体面と将来に関わることだからだ。
「じ、ジールディア嬢が病にっ!? そ、それで彼女の容態はっ!?」
「私もそこまで詳しいことは知らぬよ。だが、侯爵家の当主とは古くからの知り合いだ。彼女について何か分かったらすぐに知らせてくれるよう頼んでおこう」
「あ、ありがとうございます、サルマン師!」
自分に対して頭を下げる元教え子に、サルマンは心の中で嘘をついたことを詫びる。
今頃、ジールディアは勇者組合に所属するためにあれこれ準備をしていることだろう。そして、病ではないが呪いに囚われているのも事実。そう考えれば、全部が全部嘘というわけでもない。
「しかし、ジールディア嬢はどのような病に? 先日の夜会ではとても元気そうでしたが……」
「もしかすると、その時既にジールディア嬢は病に冒されていたのやもしれん。夜会の招待客に心配をかけないため、元気なふりをしていたのだけかもな」
「な、なんていうことだっ!! もしもその話が本当なら、僕はなんて愚か者なのだろうっ!! 君が病に苦しんでいるというのに、そのことに気づいてもあげられなかったなんてっ!!」
「…………気づくわけがないだろう」
「え? 何かおっしゃいましたか、サルマン師?」
「いや、何も言っていないが?」
思わずぼそっと零した独り言に反応されて驚くも、しれっと何事もなかったかのように答えるサルマン。
筆頭宮廷魔術師なんて立場にいる以上、これぐらいのことはできて当然である。
一方、ジェイルトーンは再び窓辺に立ち、熱の篭った目でナイラル侯爵家のタウンハウスがある方角をじっと見つめていた。
「ああ、愛しのジールディア……君の姿が見たいけど、病ならばそれも叶わないじゃないか……僕は一体どうしたら……は、そうだ!」
何かに思い至ったのか、王太子はぽんと手を打った。
「王家秘宝の『姿写しの水晶』で、こっそりと君の姿を撮ろう。そして、その撮った映像を僕の部屋の壁一面に引き伸ばして飾ればいいじゃないか! 早速、王国の諜報部に王太子の名でジールディアをこっそり撮影するように命令を──」
「ジェイル……『姿写しの水晶』は一度しか使えない王家の秘宝であり、いくら君が王太子でもおいそれと使えるものではない。加えて、他人の姿を勝手に撮るな。それも嫁入り前の令嬢にそんなことをすれば、いくら王太子といえどもただでは済まないぞ」
そういえば、この元教え子は基本的に何事においても優秀なのだが、思い込んだらどこまでも突っ走るところが唯一の欠点だったな、とサルマンは思い出した。
これはしばらく目を離さない方がいいかもしれん、とこっそり心に決める筆頭宮廷魔術師であった。
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