第4話 だって、コロナだもの的な雑談


マスクコミュニケーション


私が子どもの頃の遊びと言えば、近所の公園や空き地で仲間たちと夕暮れまで遊ぶか、友だちの家でファミコンをやるか漫画を読み過ごすことだった。自宅には遊ぶ物が無かったので、友だちだけが頼りだった。その時代にコロナが押し寄せていたら・・想像するだけでも恐ろしい。


臨時休業中、子どもたちは、オンラインゲームやSNSで仲間とつながり、自由に動画を見ながら、自宅で過ごすことは平気なように見えた。私たちは、そんな子どもたちの適応力に少し安心していた。


臨時休業明け、子どもたちは慣れないマスクを当たり前のように着用していた。昭和に子ども時代を過ごした大人たちは、マスクに抵抗感があった。体温計で熱を測ることも、これまでの人生で何回あったか。手指消毒やソーシャルディスタンス、世の中のルールは大きく変わった。マスクから鼻が出ていると、お互いに注意する子も多くいる。時々、マスクの着用を忘れるのは大人の方が多かったと思う。子どもたちは、うろたえる大人たちをよそ目に先を歩いていた。


成長段階にある子どもたちがマスクをし続けることは、心肺機能への負担や心理に与える影響など未知数だ。人は、表情や身振り手振りを生かしたジェスチャーなどの、ノンバーバルコミュニケーションを多用すると言われている。特に感情が現れるのは顔であり、マスクにより顔半分が隠されている状況では、お互いの心が読みにくくなる。マスクを外すと誰だか分からなくなる現象も起きている。職員同士や保護者・地域の方々とも同様だ。子どもたちからすれば、妙な気遣いをされずに安心という側面もあるだろうし、表情や態度で、思いを伝えられずにいる子もいるだろう。コロナうつや引きこもりになる若者が増えていると聞くと、子どもたちは不安の中堪え忍び、心理的負担を抱えていたことを想像する。


子どもたちは、マスクを介して、様々な言葉でコミュニケーションを工夫していた。「ぴえん、キュン死、それな、くさ、しか勝たん、おし」はコロナ禍以前から使われていたが、特徴的な言葉として残っていった印象がある。SNSで短い言葉を交わす習慣が、マスク着用によって加速していったのでないか。複雑なコミュニケーションで成り立つ現代社会で生きていくために、それが、どのような影響を及ぼすが分からないが・・。マスクに押さえ込まれた思春期の子どもたちは、表情を隠し、暗号のような言葉を駆使しながら、エネルギーの出口を探しているようにも見える。


戯画スクール

  

ギガスクールが一斉に導入され、未知なる学習活動への不安は、子どもたちには少ないように感じた。 

ICT教育は世界を見渡しても、現代の子どもに適合するような気がする。今までの学校教育に風穴を開ける可能性もあるかもしれない。しかし、子どもたちがどう受け入れるかは、よく観ていかないといけない。


平安時代末期に描かれた日本最古の漫画と言われる「鳥獣人物戯画」を高山寺のHPから眺めた。いずれ、コロナ禍中の人々を描く人が現れたら、子どもたちをどう描くだろう。インターネット端末を片手にゴロゴロする姿か、端末をその辺に放り投げ、仲間と取っ組み合い遊ぶ姿を描くか。成長段階で子どもが必要としている本質的なことは、今も昔もそれ程変わらないような気がする。


目の前の子どもたちはあと十数年後には社会で働く存在となる。製薬会社がつくり出したワクチンや新しい生活スタイルにより、コロナは終息を見せるかもしれない。コロナ禍、周りの大人たちが行ってきたことが、いずれ子どもたちに評価される時が来る。  


大人は世界が混乱しても、「余裕をもって私たちに寄り添い、希望を語ってくれた。」のか、「おもちゃを与えられて、お茶を濁された。」のか。「だって、コロナだもの」が、逃げ道にならないように、自分自身、子どもたちから日々学び、共に未来を創れたらと考える。

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