第22話 ベガ
いつも美しい星空と花畑の風景が広がるその部屋の夜空には雷雲が広がり、時折雲の合間を縫うようにして雷光が走る。遠くで雷鳴も鳴いていた。
アルタイルは、花畑の一角に、抱いていた人魚を優しく降ろして、彼女の意識を引き戻そうとしていた。いつの間に合流していたのか、星の樹の中で時々見掛けていた、仮面姿の小さな子ども達が、アルタイルの傍らで、アークと共に、心配そうに人魚を眺めている。
「物語から出て来た、王子様とお姫様みたい……もし、あの二人が兄妹じゃ無かったら、私は彼の心に、求めて貰えてたのかな?」
その光景は、物語の一枚絵のように綺麗で、思わず零れた言葉に、ズキリと胸が痛み、立ち尽くす私の周りだけ時間が止まった。
「そうだね。今でこそ、近親婚はタブーだけれど、時代が時代なら、君が入る隙間は無かったかもしれないね。逃げてばかりで、地味で、自分に自信も無い、劣等感だらけの君の心が、美しいとは思えないよね」
後方から掛けられる声に振り返ると、其処には、小犬座の印の仮面だけが浮いていた。
「好きの気持ちも中途半端だ。力の強い彼が、現実世界に戻れたとして、彼に世間から向けられる目、期待。当然いいものばかりじゃ無いだろう。一緒に並び立つ君にも向けられるだろうその評価に、君は応える事が出来るの?」
その鈍い銀色の輝きに、私の心は段々と侵食され、背筋が凍り付いて来る。少しだけ持ち始めていた自信は萎み、逃げたいという衝動が強く沸き上がって来た。
「優秀な彼には、きっと敵も多いだろうね。彼に危険が向いた時、命を賭して彼を守る覚悟が君にはある? 君が劣等生でも、きっと彼は君を愛してくれるだろう。けど、守られるだけのお姫様じゃ、彼に見放されてしまうかも? 怖いよね? そんな中途半端で、本当に彼を好きだって言える? 君は彼に相応しくない。ねえ。今ならまだ引き返せるよ?」
色々な角度から、囁くように告げられる、私の心を試すような闇からの問い掛けに。とうとう私は震えて、動けなくなっていた。
「確かに……そう。かもしれない……私なんかじゃ……彼には……」
私が声を落として俯くと、大切そうに本を抱えた、仮面姿の小さな少女が、私の前の地面に座って、目の前で、表紙の鍵穴に鍵をさし、藍色の本を開いた。
『そこは、無数の星の子達が集うミルキーウェイ。ある者達は他愛ない言葉を交わし合い、またある者達は悩みを相談し合う。平和で穏やかな時が流れるこの場所だが、此処に住まう者は皆、互いの顔を知らないのだ』
『その一角で、憧れと未来を胸に抱く、五人の星の子ども達は出会った。アヤボシは花を、ムギボシは勇気を、ベニボシは感情を、シラホシは再会を、アオホシは約束を、それぞれ強く望んでいたが、子ども達の羽は皆一枚足りず、羽ばたく事が出来ないでいた』
星の樹の世界で何度も目にした冒頭の文章が浮かび上がり、影絵のような人形達が、穏やかな音楽と共に、小さなステージに上がったかと思うと、人形のシルエット以外は、鮮やかな花畑の風景に変化して、話に合わせて物語を穏やかに紡いでいく。
『花を愛する小さなアヤボシは、迷子の丘で星を拾った。その星は、いつも彼女の行く先を照らし、彼女の傷を癒してくれる。星と言葉を交わし合いたいと思ったアヤボシは、星の呪いを解く事を決めた。魔女の呪いで眠る星は、四人の星の子ども達の願いを叶える事で目を覚ますという。旅の途中で出会った、それぞれの星の子と絆を深めたアヤボシは、最初に、勇気を願うムギボシに、勇気と変化の翼を見つけて差し出した』
私が知っているモノとは違う物語が、冒頭に続いて、ホログラムのように、開かれた本の上に浮き上がり、展開されていく。その、綺麗で切ない物語は、私の心を大きく揺さぶって、オルゴールの音色と一緒に、沈んだ心に染み渡り、私は本へと手を伸ばした。
『共に旅をするアヤボシと星は、長い月日の中、絆を深め、お互いを強く想いあうようになり、星は彼女に、贈り物をする約束をした。ある日、それに気付いた嫉妬深い月の女神は、七夕の夜、星を樹の鳥かごに閉じ込めて、二人の仲を引き裂いた。鳥かごの鍵を、アヤボシの中に封印して、星は彼女の幸せを願って地上へと逃がした』
『季節は廻り、星の事を忘れ、地上で穏やかな日々を過ごすアヤボシだったが、記憶は無くしても、彼女の中にはずっと星が住んでいた。ある日、迷子の丘に落ちた、流れ星の雫を拾ったアヤボシは、自分の中の鍵を見つけた』
『星との日々を思い出し、星の幻影と再会を果たしたアヤボシ。月の女神から星を取り戻すことを決意して、感情の覚醒に暴走するベニボシと対峙する。氷の中に閉じ込められたベニボシの心を溶かし、ベニボシの贖罪を果たしたアヤボシは、ベニボシの感情も取り返した』
伸ばされる手に気が付いた、仮面姿の小さな少女が、開いた藍色の本を持ち上げて、私の方へ歩いて来ると、そのまま本を差し出した。
『私は知ってる。貴方は、もう大丈夫だよ』
私が本を受け取ると、両手を広げた少女の仮面にヒビが入って、星夜(せいや)と出会った頃の、小さな私が無邪気に微笑む。
『変化の翼を手に入れたムギボシ。贖罪を果たし、感情の翼を取り戻したベニボシ。再会と約束の両翼を持つ星の幻影。そして、本当の星との穏やかで愛しい日々を、もう一度望むアヤボシは、仲間から送られた花で出来た、星達の花束の翼に気が付いた。願いを叶えた四人は、月の女神を故郷へと帰し、星を、樹の鳥かごから解放する』
私が少女を抱き上げると、少女の体は桜の花びらになってかき消え、現れた金色の桜が、私の胸の中へと吸い込まれた。次の瞬間、小さな私が初めて星夜(せいや)と出会ってからの日々が、その時の想いと一緒に鮮やかに蘇り、萎びてしまった私の心に、温かな灯をともした。
『呪いが解けた星は、両翼を取り戻し、夜空に架かる天の川の橋を渡る。橋の対岸は見えずとも、その先の未来は必ず繋がっていると信じて、今はまだ、小さなアヤボシへの愛の花を、そっと大切に仕舞い込み、再会の花として、星座が瞬く夜空へと旅立っていった――』
私が本を閉じると、表紙の桜に、もう一枚羽が足されており、私はその羽に勇気づけられ、胸元に、少し汚れてしまっている本を、しっかりと抱き寄せた。
「この想いに嘘は無い。どんな未来が待っていても、もう私は絶対に逃げない。大丈夫。彼と一緒に、きっと乗り越えてみせる。こんなところで立ち止まっていられない。そんな暇ない。今はまだまだだけど、私は自分の弱さに負けない位に強くなる。此処を出て、彼の隣に相応しい女の子になる。今、決めた!」
気が付けば、私の仮面は消えており、時間が止まった部屋も無くなっていた。
私が、人魚の元に走り寄ると、人魚の尾ヒレは消えていて、何も反応を示さない、静かな少女が、アークに支えられて座っていた。
「この人魚。もしかして?」
私がアークに尋ねると、視線を落としたまま、アークが一度だけ頷いた。
「現実世界と、容姿が少し違う気もするけど、ツキカだと思う。一応目は覚ましたんだけど、本当に人形みてぇで、何の反応もしてくれねぇんだ。会話も出来ない。なんでこんな事に……」
声を落とし、悔しさを滲ませるアークの唇は引き結ばれていて、生き人形のような状態の彼女を支える手には、随分と力が籠っているようだった。
「最後の感情……恐らく嫉妬を、天女に引きずり出されてしまったんだろう。人魚は時折、嫉妬の幻獣として扱われる。きっと彼女は、ツキカが自ら感情を体の外に出すように誘導し、次の器に選んだのだろうな」
「そんな! 先輩本人の意思は?」
「そんなモノは存在しないだろう。きっと本人の意思ごと、誘導されている」
「戻す方法は? お節介でも、憎まれ口ばっかでも、アイツとのやり取りは俺の日常だ。アイツが居ない世界なんて、俺は嫌だ!」
アークの素直な言葉に、私達は頷いて、人魚だった少女を、古木の丘の根元へと座らせた。
「アーク。現実世界へ戻ったら、今の言葉を、ちゃんと本人に言ってやれ。きっと面白い表情が見られると思うぞ? ベガと天女を捜して来る。多分俺達と一緒で、この部屋に流れ着いていると思うからな」
「ん? なんでか分かんねぇけど、分かった。なんか天女、一筋縄じゃいかなさそうな雰囲気だから、二人とも気ぃ付けてな? アルタイル。ベガを頼むぞ」
「ああ。アーク。妹を頼む」
仮面の二人の子ども達とアークへ、物言わぬ少女を託して、私とアルタイルは、花畑を見回した。雷雲が少し古木へと近付いており、雷鳴も大きくなっている。
「雷の鳴る城は、確かゲームのボス戦では王道の舞台だったな? あの辺が怪しくはないか?」
「確かにそんなイメージはあるけど、なんかちょっとだけ、アルタイルが楽しそうに見えるよ?」
雷雲の方角を指差すアルタイルの声音が、少しだけ弾んでいる気がして、私が指摘すると、彼は一度瞬いて、頷いた。
「不謹慎だろうかな? だが、少しだけホッとしているんだ。ケイが居れば、ツキカは大丈夫そうだからな。当然、ツキカに感情が戻ったら。が、前提ではあるが」
「セイヤさんも一緒に。だよ? 私の成長も見て貰わないと」
「……そうだな。赤いぞ? 何を思っている?」
柔らかなアルタイルの声音に、先ほどの決意を思い出して、少し染まってしまっている頬に触れたまま彼を見上げれば、アルタイルの言葉から、仮面が消えていた事を思い出してしまう。
私は表情を隠すように俯いた。柔らかな吐息が、ふんわりと零れたのを感じて、私は持っていた本を、アルタイルへと差し出す。
「これを、何処で?」
驚いたように本の表紙を見つめ、受け取ったアルタイルは、中を確認するように、パラパラと本を捲った。彼は懐かしむように息を吐き出して。
「さっき閉じ込められた部屋で、昔の私から貰ったの。この世界の皆の本とは話が違うけど、登場人物の名前は同じだった。もしかしてこれが……?」
「ああ。君に渡そうと俺が描き、桜の古木の根元に埋めた絵本だ。半分だったはずだが……いや、まだ半分だな。少し透けている。やはりもう半分と一緒になって完成するのだろうな」
アルタイルの言葉に、本へと視線を戻すと、さっきまで輪郭を保っていた本は、触れると時折、陽炎のように揺らめく。
「消えちゃわないかな?」
「星の樹の力が失われる前に、全ての羽を集める事が出来たら、恐らく大丈夫だろう。さて、雷雲の下に向かっていたはずだが……」
いつの間にか辿り着いていたのは、押し流されたはずのプロキオンの部屋の前だった。大量の水が溢れたはずなのに、部屋中にそそり立つ、大きな氷槍が入り口を塞ぎ、他者の侵入を拒むように銀色に揺らめいて、氷壁からは冷気が零れていた。
遠くで雷鳴と雨の音、それに混じって、不思議な旋律がずっと聞こえている。
「ん? 今何か聞こえなかったか?」
「ううん。私には。雷鳴なら、ずっと聞こえてる気がするんだけど……」
扉の氷壁を眺めていたアルタイルが、ふと動きを止めて、私の方を眺めるが、私には、遠くで鳴る雷鳴しか聞こえてはおらず、首を振る。
「これは歌? いや、声か。俺を呼んでいる? この奥から」
「!!」
扉に触れたアルタイルの体が引き込まれ、伸ばした手は、僅かに彼には届かない。
「アルタイル!!」
「俺の書斎へ。これを持っていけ。君ならきっと、残りの羽も見つけられるはずだ」
今まで、ずっと私を支えてくれていた彼と引き離された不安と恐怖から、また私の中に情けない衝動が湧き上がる。アルタイルから受け取った本を、胸元に抱え直し、それを振り払うように首を振って。
「必ず貴方との日々を取り戻して見せるから、ちょっとだけ待っててね」
自分にも言い聞かせるように、氷の向こう側に呟いて、私は本を抱きしめて走り出す。
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