第22話 ベガ
「確かに……そう。かもしれない……私なんかじゃ……彼には……」
私が声を落として俯くと、大切そうに本を抱えた、仮面姿の小さな少女が、私の前の地面に座って、目の前で、表紙の鍵穴に鍵をさし、藍色の本を開いた。
『そこは、無数の星の子達が集うミルキーウェイ。ある者達は他愛ない言葉を交わし合い、またある者達は悩みを相談し合う。平和で穏やかな時が流れるこの場所だが、此処に住まう者は皆、互いの顔を知らないのだ』
『その一角で、憧れと未来を胸に抱く、五人の星の子ども達は出会った。アヤボシは花を、ムギボシは勇気を、ベニボシは感情を、シラホシは再会を、アオホシは約束を、それぞれ強く望んでいたが、子ども達の羽は皆一枚足りず、羽ばたく事が出来ないでいた』
星の樹の世界で何度も目にした冒頭の文章が浮かび上がり、影絵のような人形達が、穏やかな音楽と共に、小さなステージに上がったかと思うと、人形のシルエット以外は、鮮やかな花畑の風景に変化して、話に合わせて物語を穏やかに紡いでいく。
『花を愛する小さなアヤボシは、迷子の丘で星を拾った。その星は、いつも彼女の行く先を照らし、彼女の傷を癒してくれる。星と言葉を交わし合いたいと思ったアヤボシは、星の呪いを解く事を決めた。魔女の呪いで眠る星は、四人の星の子ども達の願いを叶える事で目を覚ますという。旅の途中で出会った、それぞれの星の子と絆を深めたアヤボシは、最初に、勇気を願うムギボシに、勇気と変化の翼を見つけて差し出した』
私が知っているモノとは違う物語が、冒頭に続いて、ホログラムのように、開かれた本の上に浮き上がり、展開されていく。その、綺麗で切ない物語は、私の心を大きく揺さぶって、オルゴールの音色と一緒に、沈んだ心に染み渡り、私は本へと手を伸ばした。
『共に旅をするアヤボシと星は、長い月日の中、絆を深め、お互いを強く想いあうようになり、星は彼女に、贈り物をする約束をした。ある日、それに気付いた嫉妬深い月の女神は、七夕の夜、星を樹の鳥かごに閉じ込めて、二人の仲を引き裂いた。鳥かごの鍵を、アヤボシの中に封印して、星は彼女の幸せを願って地上へと逃がした』
『季節は廻り、星の事を忘れ、地上で穏やかな日々を過ごすアヤボシだったが、記憶は無くしても、彼女の中にはずっと星が住んでいた。ある日、迷子の丘に落ちた、流れ星の雫を拾ったアヤボシは、自分の中の鍵を見つけた』
『星との日々を思い出し、星の幻影と再会を果たしたアヤボシ。月の女神から星を取り戻すことを決意して、感情の覚醒に暴走するベニボシと対峙する。氷の中に閉じ込められたベニボシの心を溶かし、ベニボシの贖罪を果たしたアヤボシは、ベニボシの感情も取り返した』
伸ばされる手に気が付いた、仮面姿の小さな少女が、開いた藍色の本を持ち上げて、私の方へ歩いて来ると、そのまま本を差し出した。
『私は知ってる。貴方は、もう大丈夫だよ』
私が本を受け取ると、両手を広げた少女の仮面にヒビが入って、星夜(せいや)と出会った頃の、小さな私が無邪気に微笑む。
『変化の翼を手に入れたムギボシ。贖罪を果たし、感情の翼を取り戻したベニボシ。再会と約束の両翼を持つ星の幻影。そして、本当の星との穏やかで愛しい日々を、もう一度望むアヤボシは、仲間から送られた花で出来た、星達の花束の翼に気が付いた。願いを叶えた四人は、月の女神を故郷へと帰し、星を、樹の鳥かごから解放する』
私が少女を抱き上げると、少女の体は桜の花びらになってかき消え、現れた金色の桜が、私の胸の中へと吸い込まれた。次の瞬間、小さな私が初めて星夜(せいや)と出会ってからの日々が、その時の想いと一緒に鮮やかに蘇り、萎びてしまった私の心に、温かな灯をともした。
『呪いが解けた星は、両翼を取り戻し、夜空に架かる天の川の橋を渡る。橋の対岸は見えずとも、その先の未来は必ず繋がっていると信じて、今はまだ、小さなアヤボシへの愛の花を、そっと大切に仕舞い込み、再会の花として、星座が瞬く夜空へと旅立っていった――』
私が本を閉じると、表紙の桜に、もう一枚羽が足されており、私はその羽に勇気づけられ、胸元に、少し汚れてしまっている本を、しっかりと抱き寄せた。
「この想いに嘘は無い。どんな未来が待っていても、もう私は絶対に逃げない。大丈夫。彼と一緒に、きっと乗り越えてみせる。こんなところで立ち止まっていられない。そんな暇ない。今はまだまだだけど、私は自分の弱さに負けない位に強くなる。此処を出て、彼の隣に相応しい女の子になる。今、決めた!」
気が付けば、私の仮面は消えており、時間が止まった部屋も無くなっていた。
私が、人魚の元に走り寄ると、人魚の尾ヒレは消えていて、何も反応を示さない、静かな少女が、アークに支えられて座っていた。
「この人魚。もしかして?」
私がアークに尋ねると、視線を落としたまま、アークが一度だけ頷いた。
「現実世界と、容姿が少し違う気もするけど、ツキカだと思う。一応目は覚ましたんだけど、本当に人形みてぇで、何の反応もしてくれねぇんだ。会話も出来ない。なんでこんな事に……」
声を落とし、悔しさを滲ませるアークの唇は引き結ばれていて、生き人形のような状態の彼女を支える手には、随分と力が籠っているようだった。
「最後の感情……恐らく嫉妬を、天女に引きずり出されてしまったんだろう。人魚は時折、嫉妬の幻獣として扱われる。きっと彼女は、ツキカが自ら感情を体の外に出すように誘導し、次の器に選んだのだろうな」
「そんな! 先輩本人の意思は?」
「そんなモノは存在しないだろう。きっと本人の意思ごと、誘導されている」
「戻す方法は? お節介でも、憎まれ口ばっかでも、アイツとのやり取りは俺の日常だ。アイツが居ない世界なんて、俺は嫌だ!」
アークの素直な言葉に、私達は頷いて、人魚だった少女を、古木の丘の根元へと座らせた。
「アーク。現実世界へ戻ったら、今の言葉を、ちゃんと本人に言ってやれ。きっと面白い表情が見られると思うぞ? ベガと天女を捜して来る。多分俺達と一緒で、この部屋に流れ着いていると思うからな」
「ん? なんでか分かんねぇけど、分かった。なんか天女、一筋縄じゃいかなさそうな雰囲気だから、二人とも気ぃ付けてな? アルタイル。ベガを頼むぞ」
「ああ。アーク。妹を頼む」
仮面の二人の子ども達とアークへ、物言わぬ少女を託して、私とアルタイルは、花畑を見回した。雷雲が少し古木へと近付いており、雷鳴も大きくなっている。
「雷の鳴る城は、確かゲームのボス戦では王道の舞台だったな? あの辺が怪しくはないか?」
「確かにそんなイメージはあるけど、なんかちょっとだけ、アルタイルが楽しそうに見えるよ?」
雷雲の方角を指差すアルタイルの声音が、少しだけ弾んでいる気がして、私が指摘すると、彼は一度瞬いて、頷いた。
「不謹慎だろうかな? だが、少しだけホッとしているんだ。ケイが居れば、ツキカは大丈夫そうだからな。当然、ツキカに感情が戻ったら。が、前提ではあるが」
「セイヤさんも一緒に。だよ? 私の成長も見て貰わないと」
「……そうだな。赤いぞ? 何を思っている?」
柔らかなアルタイルの声音に、先ほどの決意を思い出して、少し染まってしまっている頬に触れたまま彼を見上げれば、アルタイルの言葉から、仮面が消えていた事を思い出してしまう。
私は表情を隠すように俯いた。柔らかな吐息が、ふんわりと零れたのを感じて、私は持っていた本を、アルタイルへと差し出す。
「これを、何処で?」
驚いたように本の表紙を見つめ、受け取ったアルタイルは、中を確認するように、パラパラと本を捲った。彼は懐かしむように息を吐き出して。
「さっき閉じ込められた部屋で、昔の私から貰ったの。この世界の皆の本とは話が違うけど、登場人物の名前は同じだった。もしかしてこれが……?」
「ああ。君に渡そうと俺が描き、桜の古木の根元に埋めた絵本だ。半分だったはずだが……いや、まだ半分だな。少し透けている。やはりもう半分と一緒になって完成するのだろうな」
アルタイルの言葉に、本へと視線を戻すと、さっきまで輪郭を保っていた本は、触れると時折、陽炎のように揺らめく。
「消えちゃわないかな?」
「星の樹の力が失われる前に、全ての羽を集める事が出来たら、恐らく大丈夫だろう。さて、雷雲の下に向かっていたはずだが……」
いつの間にか辿り着いていたのは、押し流されたはずのプロキオンの部屋の前だった。大量の水が溢れたはずなのに、部屋中にそそり立つ、大きな氷槍が入り口を塞ぎ、他者の侵入を拒むように銀色に揺らめいて、氷壁からは冷気が零れていた。
遠くで雷鳴と雨の音、それに混じって、不思議な旋律がずっと聞こえている。
「ん? 今何か聞こえなかったか?」
「ううん。私には。雷鳴なら、ずっと聞こえてる気がするんだけど……」
扉の氷壁を眺めていたアルタイルが、ふと動きを止めて、私の方を眺めるが、私には、遠くで鳴る雷鳴しか聞こえてはおらず、首を振る。
「これは歌? いや、声か。俺を呼んでいる? この奥から」
「!!」
扉に触れたアルタイルの体が引き込まれ、伸ばした手は、僅かに彼には届かない。
「アルタイル!!」
「俺の書斎へ。これを持っていけ。君ならきっと、残りの羽も見つけられるはずだ」
今まで、ずっと私を支えてくれていた彼と引き離された不安と恐怖から、また私の中に情けない衝動が湧き上がる。アルタイルから受け取った本を、胸元に抱え直し、それを振り払うように首を振って。
「必ず貴方との日々を取り戻して見せるから、ちょっとだけ待っててね」
自分にも言い聞かせるように、氷の向こう側に呟いて、私は本を抱きしめて走り出す。
『確かシリウスの部屋には、私の部屋から繋がってたはず』
私は図書館内での自分の部屋の位置を思い出すようにして走る。本や装飾、ガラスの破片が散らばる、薄暗い図書館の中は肌寒く、底へと降りて行くらせん階段は、黄泉へと続いているようで、一人きりの靴音が私の恐怖を煽る。
「寒い……月の裏側って、こんな感じかな?」
改めて、皆の声や体温に頼り切っていた事を思い知り、情けない気持ちになった私の視界が不意にぼやけ、ポツリと床に染みを作った事で、私は自分が泣いてしまっている事に気が付いた。
「また泣いているの?」
気配も無く、突然聞こえた声に私が振り返ると、其処にはプロキオンの姿があり、不安と恐怖に押し潰されてしまいそうになっていた私は、彼へと駆け寄った。
「プロキオン君! 無事だったの? 小犬座の部屋で消えちゃったから、何処に行ってしまったのかって」
「君は何処までお人好しなんだ……ボクは君に、あんなに酷い事を言ってしまったのに」
彼の冷たい指先が、私の頬の涙を拭って、そっと私を抱き寄せる。
「兄さんのように、温かな指先じゃ無くてごめんね。兄さんの願いを叶えて、兄さんと君に、きちんと許して貰おうと思ったのに……ボクの弱い心は、闇に飲み込まれてしまった。いつまでボクでいられるか……」
か細く呟く彼の体は、所々透けていて、今にも闇の中に掻き消えてしまいそうだった。
「いつまで手伝えるか分からない。とんでもない羞恥を晒して、兄さんの図書館をめちゃくちゃにして、唯一誰にも言えなかった秘密まで暴かれてしまった。けどボクは、友達の君との約束を守って消えたいんだ。ボクの贖罪を自分で果たす。同行を許してくれる…かな?」
感情の起伏が少なかったイメージのプロキオンだったが、今、目の前に居る彼の言葉には、何かが吹っ切れたように、しっかりとした決意と熱を帯びていて、私は、伝えたい言葉を飲み込んで頷いた。
「……兄さんの本には、君へのメッセージが込めてある。正直に白状してしまうと、ボクは兄さんの事故当時、そのメッセージに気付いて、嫉妬に駆られ、ボクの中の闇を呼び出してしまったんだ。兄さんを巻き込んでしまうなんて思いもしなかった。あんな事になるなんて……ボクの……ボクのせいで」
プロキオンが苦しそうに低い声で呻くと、罪に震える彼の体が立ち消えてしまいそうになり、私は彼を引き止めるように抱き締めて、彼の背を撫でてやる。
「大丈夫。貴方の体が闇に眩まされてしまわなければ、きっとお兄さんとまた話せるよ。貴方が消えてしまう前に、今は私がこうして引き止めてあげるから。だから、お願い。まだ、行かないで」
器を無くし、剥き出しの彼の体はとても繊細で、少しの刺激でも、その形が崩れてしまうのだろう。何とか意識を繋いでいる彼が、また何処かへ行ってしまわないように、小さな彼の手を繋いで、その手を包み込んで、彼を見つめた。
「そう……だね。ちゃんと兄さんに、ボクが謝るんだ。ごめん。ベガ。ありがとう。もう少し、せめて兄さんのメッセージが全部集まるまでは」
胸元で手を握り込み、自分に言い聞かせるようにするプロキオンが、もう一度顔をグッと上げて、私を見据えた。
「ボクがめちゃくちゃにしてしまった図書館内は、部屋の配置が変わってしまっているんだ。だから、今の図書館内を闇雲に走っても、望む部屋には辿り着けない。けど、兄さんの本のメッセージが君を導いてくれるはずだ。ベガ、本の裏表紙を見て?」
「三角形?」
私が本の裏表紙を見ると、藍色の本には、星屑が散りばめられたようになっており、三つの穴が、三角形に並んでいた。
「そこにまだ天の川は無いよね? じゃあ、ベガ、春から始めよう」
一瞬、プロキオンの言葉の意味が分からなかったが、本の裏表紙を眺めていると、それが夜空に見えて来て、私は思わず呟いていた。
「春の大三角形? アークトゥルス?」
「そう。星座の本をよく読んでいた君には、きっと分かるだろうと、兄さんは思ったんだろう。アークトゥルスの先端の方角へと進んでみよう」
本の裏表紙の三角形の指す左側の廊下へと入ると、橙色の灯篭が道を照らして、徐々に暖かくなって来た。辿った先には牛飼い座の扉が現れて、私が触れると、簡単に中に入る事が出来た。
プラネタリウムの天井のように星々が輝く薄暗い部屋に、牛飼い座が輝いていたその部屋は、今では青空が広がっており、満開の桜の上に、白い鳩が羽ばたき、高い位置に橙色の星が一つだけ輝いていた。
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