第21話 プロキオン

 目を覚ましたその場所は、水底のドームのようになっており、白い椅子が一つだけポツンと置いてある、見た事がある部屋だった。


 さきほど私を池へと引き入れた人魚の影が、悠々と鱗を光らせて、部屋の天井を泳いでいる。


『あれ? この部屋って……確かプロキオン君の……』


 私が朦朧とした意識で体を起こすと、椅子の足元には、小犬座の仮面の赤髪の少年が横たわっていた。


「プロキオン君!」


 彼に駆け寄って、上半身を起こしてやれば、彼は噎せたように咳をして、ゆっくりと目を開ける。


「兄……さん?」


「大丈夫? 突然居なくなったから驚いたよ。プロキオン君も池に引き込まれちゃってたの?」


「ああ。君かベガ…‥ごめん。ボク、途中から記憶が曖昧で。兄さん達は?」


「池に落ちた時にはぐれちゃったの。アルタイルの部屋の池と、この部屋は繋がってたんだね? 上に上がれたら、またアルタイル達のところに戻れるかな?」


 私が天井のアクアリウムを見上げると、プロキオンの横に落ちていた本が浮き上がって光だし、他の皆のものと同じように、過去へと遡ってページを巻き戻していく。


 天井の人魚が、悲しそうに涙を流して、アクアリウムの壁を内側から叩きながら、何かを叫んでいるが、その声が私達に届く事は無い。


「あれ? 彼女、何か言いたそうにしてるけど?」


「秘密だよ。本が過去に戻ってしまえば、その秘密は暴かれてしまう。本当のボクが、それを知られるのを恐れて、嘆いてるんだ」


 冷たい声音のプロキオンの口許が歪んで、本の物語が部屋の中に展開され始めた。


『星の樹での出会いを切欠に、少しずつ雪解けを迎えたベニボシとアヤボシは、歩み寄りを始めていた。シラホシの願いを叶えるべく、目的を同じとした二人は、ムギボシと共に、再度訪れた星の樹で、アオホシも交え、浴衣姿で天の川の祭りを楽しんだ。自分の中に息づく、闇の囁きに気付いたベニボシは、飲まれる前に、皆の前から姿を消した』


「プロキオン君? 何か雰囲気が変わったね?」


 初めて星の樹で出会ったプロキオンと、見た目は全く変わらないのに、その仕草や声色は、全て何処か凍り付いているように感じる。本が展開する物語を眺めながら、私は彼から一歩後退り、少しだけ距離を取って彼を見つめていた。


『雨に濡れる星の樹の下で、アヤボシと仔猫を助けたベニボシは、自分たちの真実をアヤボシへと告げる。アヤボシとの触れ合いで、迷いに決着を付けたベニボシは、新たな気持ちで星の樹の兄へと向き合おうとする。戻った仔猫が兄だと知ったベニボシは、シラホシの口止めで、アヤボシへの兄の想いを再認識し、二人を応援しようと決めた』


「ベガ、ボクが怖い? 君は感受性が強いから、ボクが別人だと感じてしまうのかな? けど、これだってボクの一部だよ? 友達になるなら、ちゃんと受け入れて貰わないと。ボクが欲しい二人に愛されている君には、こんな歪なボクは異様なんだろう? どうせ君も、こんなボクを愛してはくれないんだ」


 押し殺し、隠していた仄暗い感情を吐露する彼は、とても苦しそうで、私は思わず近付いて、小さな彼を抱き締めていた。


『土砂降りの雨の中、星の樹に呼ばれたベニボシは、木の根元でアヤボシと仔猫を見付けた。自分の罪を思い出し、立ち去ろうとしたベニボシだが、良心が咎め、悩んだ末に彼女へと手を差し出した』


「大丈夫。大丈夫だよ。皆、綺麗な感情ばっかり抱えて生きてはいけない。怒りも嫉妬も、嫌悪も我儘も、全部自分の感情だよ。私も、そんな自分が嫌いになったりする時もあるけど、でも、それでも、感情は生きてる証だと私は思うよ」


「その嫉妬は君に。嫌悪は自分に向いているんだ。君の味方になりたいのに、応援したいのに、ボクは君が許せない。どうして花を貰えたのは君なんだ? ボクは、君があの二人に出会う前から、ずっと二人の傍に居るのに……」


 怒りと悲しみが滲んだような彼の声音は、私の心にもナイフを刺して、それでも私は彼を抱き締め続けた。


『兄の元で鍵を見付けたベニボシは、罪の狭間でずっと苦しんでいた。漠然と兄を取り戻そうと、星の樹の中を彷徨いながら、自分の部屋で罪を悔いる時を過ごす。その中では母が、ベニボシの心に寄り添ってくれていた。感情を殺す事に疲れたベニボシは、母に示された通りに、感情を自分の外へと出し、二人の従者を従える事となった』


「感情を殺しても、外に出しても、ボクの中の嫉妬だけがずっと消えない。息づいて、侵食して、ボクの日常を、大切なモノを、自分で壊してしまう。そんな自分が大嫌いだ。それなのに。その闇は優しく、心地よく、ボクの心を飲み込んでいく。彼女の声は、ボクを深淵へと縫い留める。いっそ全て預けてしまえば、ボクはこの苦しみから逃れられるんだろうか」


 いつの間にか、独り言めいた言葉を呟き出した仮面の下の彼の瞳から、止めどなく溢れ出した涙が地に落ちると、その一滴が床を凍らせ、徐々に、彼の部屋と、彼の体を凍り付かせていく。


『幼馴染のムギボシを、婚約者として紹介されたベニボシだったが、ベニボシの心に、違う花が、密やかに芽吹いている事に、ベニボシは気が付いていた。ムギボシに申し訳なく、最初は距離を取っていたベニボシだったが、流れる月日の中、彼の優しさに触れていく内、彼女の花は色を変え、心からムギボシを慕っていた』


「プロキオン君。しっかりして! 全てを凍り付かせても、貴方の心の傷は癒えないし、差し伸べられる手も届かなくなってしまうよ! 逃げちゃいけないって私に教えてくれたのは、貴方だったでしょう?」


「愛されてる君には分からない! ボクの孤独も、劣等感も。どんなに望んでも、ボクは、君や兄にはなれないんだ。君が嫌いだ! ボクが嫌いだ! みんなみんな消えてしまえばいいんだ。ボクの心と体ごと、全部星の樹の、願いの養分になってしまえばいいんだよ」


 彼の言葉に、願いに反応するように、室内に次々と侵入して来た木の根が、氷の柱となって、部屋中を凍り付かせていく。


 気が付けば、抱き締めていたはずのプロキオンの体は消えていて、彼が言っていた言葉が、私の中に重くのしかかっていた。


「オリナ!」

「ツキカ!」


 ぼんやりと、空中に漂う氷の粒子を目で追っていると、後方から、アルタイルとアークの声が聞こえて、私は其方を振り返る。


『天の川の祭りの夜、小さなアヤボシに、兄の花が向いている事を知ったベニボシは、本のメッセージに気が付いていた。嫉妬に狂ったベニボシは、自分の中から闇を呼び出す。彼女はベニボシに笑い掛け、その凶刃をアヤボシへ向ける。飛び込む兄の体が裂けて、ベニボシは自分の心を知る。呪われた血を持つ彼女は、血の繋がる実の兄を、一人の男として愛してしまっていた』


 二人が部屋に入って来たタイミングで、大きく本のページが捲られ、その事実が本から告げられる。


 一瞬意味を理解出来ず、本の展開する世界に私達が見入っていると、人魚の顔が苦しく歪み、黒板を引っ掻くような不協和音が部屋中にこだまして、天上のアクアリウムに大きくひびが入る。割れたガラスから、大量の水が部屋を満たした事で、私達は部屋から押し流されてしまった。


 溺れそうになった私をアークが捕まえて、気を失ってしまった人魚を、アルタイルが抱き寄せる。私達は、水で押し流された本の波をかき分けながら泳ぎ、気が付けば、私の部屋に戻っていた。

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