第13話 猫の藍丸
無事に戻って来た仔猫を月華(つきか)に預けて、勉強も手伝いも頑張り、両親を説得する事一ヶ月。私はようやく仔猫と対面する事が許されてから、藍色の瞳にちなんで、藍丸(らんまる)と名前を付け、仔猫との生活を始めていた。
戻って来た仔猫は私にべったりで、いつの間にか、私の学校のカバンに忍び込んでいた事もあった。何処にでも付いて来て、一緒のベッドでは寝てくれる藍丸だが、お風呂とお手洗いにだけは、絶対に付いては来なかった。
一緒にお風呂に入れようとすると、いつの間にか何処かに隠れ、姿が見えなくなってしまうのだ。
「ランマルは、お風呂が嫌いなのかな? 猫は水が嫌いって言うのは知ってるけど、パパとは入るんだよね」
抱いた仔猫の肉球を優しく触りながら頭を撫でると、私の掌にすり寄って、彼はゴロゴロと心地好さそうに喉を鳴らした。
「ツキカ先輩、高校には慣れたかな。連休が明けたら、またいじめが復活してたりしないといいんだけど……」
アルタイルに『もう来ない方がいいかもしれない』と、言われたあの日から、彼のミルウェイへの書込みも、星の樹への招集も無くなってしまった。
夜に古木の丘を訪ねても、此処数ヶ月、シリウスにも会えていない。彼が私の心の支えになってくれていたのだ。その存在の大きさに気付いてしまった私は、不安から弱音を吐き出していた。
「シリウスに会いたい……。 今度皆と会う日曜日には、会えるかな?」
彼に会えるかもしれない可能性に賭けて、あえて集合時間は夜にしてみたが、彼が現れてくれるとは限らない。
不安そうな顔をしていたからなのか、傍らに居た藍丸が、柔らかな頭を私の頬にすり寄せて来て、耳が触れるくすぐったさに私が息を洩らすと、彼は安堵したように身を離した。
「ありがとう。ランマル」
その日もいつも通り、一緒にベッドに入ったはずなのに、夜中にふと目を覚ますと、隣に居たはずの藍丸は、いつの間にか居なくなっていた。
「あれ? ランマルは?」
お腹でも空かせて、キッチンの方へでも行ったのだろうか。気にはなったものの、眠気に負けてしまった私は、そのまま寝入ってしまったのだった。
次の日から藍丸は、私が夜に寝入った後に、何処かに出掛けて行くようになった。ある夜思い切って追いかけてみたが、途中で彼を見失ってしまい、結局彼の行先を知る事は出来なかった。
約束の日曜日、やはり私から離れたがらない藍丸を連れて、桜の古木の丘へと向かっていると、その古木の下には既に人影があり、私は思わず駆け出していた。辿り着き、顔を上げると、驚いたような顔でそこに立っていたのは、慧(けい)だった。
「あれ? なんでオリナが此処に?」
一瞬状況が飲み込めないような表情をしていた慧だったが、何かに思い当たった風に頷いた彼は、確信したように此方を見つめた。
「ベガ?」
慧の言葉を肯定するように私が頷くと、怒ったような表情をしていた彼は、肩の力が抜けたようにして微笑んだ。
「ははっ。こんな身近なヤツと、知らずにネットでやり取りしてたんだと思うと、すっげぇ不思議だな。学校でも外でも、オリナに会えて嬉しい」
私に告白をして以来、慧は私にだけは、素直に自分の気持ちを伝えてくれるようになっていた。以前のように私から逃げようとする素振りも無くなっている。
「ああ。コイツが、最近飼い始めたって、学校で話してくれた猫? 綺麗な瞳で可愛いな」
「そうでしょ? 甘えん坊だけど、すごく可愛いんだよ」
「へえ。俺でも抱っこ出来るかな?」
彼が藍丸に手を伸ばすと、藍丸はふいとそっぽを向いて、私の首元にすり寄って来た。やきもちを妬いているようなその素振りに、思わず口許が緩んでしまう。
「あれ? もしかして俺、嫌われてる? コイツに会ったのは初めてだと思うんだけど」
「ランマル。ケイ君だよ。私の学校のお友達で、いつも仲良くして貰ってるの」
私が声を掛けても、尻尾を揺らすだけで、藍丸は慧の方を見ようとはしなかった。
「いつもは人懐っこい、いい子なんだけどなあ。なんかごめんね?」
「いや、大丈夫。猫って気まぐれなんだろ?」
顔の前で手を振って、「気にするな」と、笑ってくれる慧は、以前話した時より、少し大人っぽくなっている気がした。
「オリナ。俺、この間お前と話した後に、きちんと両親に、俺の気持ちを話してみたんだ。最初はすっげぇ反対されたけど、真剣な気持ちと、将来の事、これからの計画を一生懸命話したら、受け入れて貰えたっぽい。最後の中体連で、個人、団体共に優勝する事が出来たら、陸上の道を目指してもいいって言ってくれたんだ」
「本当に! ケイ君良かったね!」
私が大喜びで、その場で跳ねて手を叩くと、慧は照れたように自分の首元を撫でた。
「そんなに喜んで貰えると、なんか俺も嬉しくなって来た。オリナ。ありがとな。お前があの時、もう一度両親と話す事を提案してくれたから、勇気を出して話す事が出来たんだと思うんだよな」
「ううん。私は何もしてないよ。頑張ったのはケイ君だよ」
「やっぱオリナってさ。素直で可愛いよな? クルクル表情が変わって、本当に感情が豊かだなって思うよ」
彼の言葉と、柔らかく見つめられる視線。この間の返事をまだしていない事を思い出した私は、急に気まずくなり、藍丸を撫でながら言葉を探す。
慧も私の様子から、何かを感じたのか、そのまま口を閉ざしてしまった。くすぐったいような、落ち着かないような時間が過ぎていく。
「あのさ!」
「あのね!」
同時に言葉を発してしまった私達は、慌てて自分の口を押さえて、相手が言葉を発するのを、互いに待とうとしている。
「なんなの貴方達は。見ているこっちが恥ずかしくなってしまうわ。兄さんも、二人をいつまでも見守っていないで、姿を現したらどう? 揃いにそろってじれったいんだから」
呆れたような表情で、気付けばそこに立っていた月華(つきか)だけでなく、今のやり取りをシリウスにも見られていたのかと思うと、心内穏やかでは無く、彼を探す視線が震えてしまう。
「この空気で出れる訳無いだろ。オリナの気持ちがケイにあれば、そっちの方が幸せになれるんだろうし、俺は諦めるべきかとも思うけどな」
探していた視線の先では無く、とても近いところから、彼の低い声が聞こえ、何が起こっているのか分からずに、慧と月華に視線を送っていると、私の腕の中から、ひらりと地面に飛び降りた藍丸が、私を見上げて、その姿が煙に包まれた。
数秒もせずに、煙が人型を模すと、藍色の瞳と褐色肌。銀色の髪がそこに現れて、私の瞳は大きく見開かれる。
考えるよりも早く、衝動的に彼の胸の中に飛び込んだ事で、バランスを崩してしまった彼が尻もちをついて、私は覆い被さるような形で彼を押し倒していた。
「シリウス! 今まで何処に居たの? 何回も会いに来たのに、一回も姿を見せてくれなかった! まだ嵐は来てないのに、もう、会えなくなっちゃったのか、と……」
どうして彼の前では、こんなに泣き虫になってしまうのだろう。彼の体温に、声に触れると、私の涙腺は簡単に緩んでしまう。訊きたい事も、言いたい事も沢山あったはずなのに、涙と一緒に流れ出てしまったのかもしれない。
「悪かった。あの時お前があまりにも辛そうだったから、何も言えなかったんだ。お前が望んでる言葉も、掛けてやれなかったからな」
地面を支えているのとは反対の手で、シリウスは私を引き寄せると、この間と同じように、落ち着くまで背中をさすってくれた。
やはり彼は消えてしまうのだ。少しの切なさと、甘く響く鼓動。久し振りのシリウスの体温を感じたくて、私が彼の胸元にすり寄ると、困ったような表情で、彼は微苦笑を浮かべた。
「これ、知り合いに見られてると、もの凄く恥ずかしいんだな」
シリウスの言葉で正気に戻った私は、真っ赤になったまま、生まれて初めてかという位の猛スピードで後退っていた。
「いや、いくらなんでも離れすぎだろうオリナ。戻って来い」
「オリナさん。初心なのね。とても可愛らしいわ」
兄妹がニコニコと私を見守る中、余程の衝撃だったのか、慧は石化してしまったかのように、動きを止めてしまっている。
「涙は引っ込んだみたいだな。もう大丈夫か? オリナ?」
「は、はい。す、すみませんでした」
シリウスに、そっと目元を拭われた事で、思わず敬語になってしまう。上がった頬の熱が引く事は無く、シリウスと月華に頭を下げると、私は速い鼓動を隠せないまま、シリウスの隣へと並んだ。
「ケイ。大丈夫?」
固まったままの慧の顔の前で手を振りながら、月華が肩を揺らした瞬間、突然時が動き出したかのように、慧は大きく息を吸い込んで。
「な、んで! オリナの飼い猫がセイヤなんだよ! ってか、なんで猫が人型になんのっ? セイヤまだ病院だろ? えっ? 何? セイヤ猫になってオリナと暮らしてたの? そんなウラヤマ、じゃ、無くて! 色々キャパオーバー過ぎて、話が全く分からねぇんだけど!!」
一息でそこまで言うと、息を整えながら、状況を整理したいという視線を、慧が私に送って来て、私は何から説明しようかと、視線を宙に漂わせた。
「俺が説明した方が早そうだな」
そう言うとシリウスは、私の肩に軽く手を置き頷いて、慧へと向き直り、少し思案した後に口を開いた。
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