第10話 紫薔薇の君とキャラメルいちごみるく
『オリナ。夏とはいえ、こんなところで寝たら風邪を引くぞ。ほら、起きろ』
『セイヤお兄ちゃん! 良かった。夢だった』
『夢? どんな夢見たんだ?』
『えっとね。忘れちゃった』
驚いた表情を浮かべながらも、思わず抱き付いた私を受け止め、星夜(せいや)は木の根元へ凭れ掛かって、私を膝へと座らせてくれる。
『シリウスせんせ。本は出来た?』
『いや、まだだな。ペンネームで呼ぶなよ。何だかくすぐったいから。まだデビューもしていない。けど、お前が帰る日までには間に合わせるよ』
『本当?』
『ああ。オリナ。約束だ。俺が書いた絵本を、お前に必ず渡すからな』
『うん、楽しみにしてる』
『完成したら、また、この星の樹の下で会おうな』
『約束ね! セイヤお兄ちゃん。指切りしよう?』
『ああ。指切った』
指切りをした後、頭をぽんぽんっと撫でてくれる星夜(せいや)の手の温もりに、温かい気持ちになりながらもくすぐったくて、私は、へにゃり、と、頬を緩めた。
十年前、両親の仕事の都合で、数週間滞在した天桜市(てんおうし)で、父と遊びたかった私は、母の静止を振り切って、暗くなってからホテルを飛び出した事があった。
仕事に出掛けてしまった父を探しに行くその道中で、迷子になってしまったのだ。
『うっ……ひっく。此処何処? パパ。パパー!!』
『ん? 迷子か? 君。名前は?』
『綺麗……貴方は星から来た王子様?』
『ああ。君は本が好きなんだな? ようこそ。紫薔薇の君(しばらのきみ)。姫の嘆きのなぐさめに、僕の考えたお話を、姫に贈らせていただきましょう』
星夜が、おどけたように王子様を演じ、声を掛けてくれたお陰で、心細さと、夜に飛び出してしまった後悔に飲み込まれてしまっていた、幼い私の心は温まり、その瞬間から、きっと彼に心を奪われていたのかもしれない。
『紫薔薇の君ってどういう意味?』
『綺麗な黒髪が濡れてしまうほど、大きな瞳から涙が零れてる。濡れた黒髪が、薔薇の花びらみたいだと思ってな。君という漢字には、姫って意味もあるんだ』
『えへへっ。そっか。じゃ、オリナは薔薇のお姫様?』
『ああ。オリナ姫だな』
迷った末に辿り着いた、桜の古木の丘の上で出会った星夜は、日本人離れした美しい容姿を持ち、出会った時からとても優しく、理想のお兄ちゃんだった。
『そうだ。少し元気が出るように、お前に特別な飴玉をやる。これは俺のお気に入りなんだけどな。美味しいぞ』
『キャラメルいちごみるく? あ、本当だ。優しくて、甘くて、美味しい! 星のお兄ちゃんありがとう』
『星のお兄ちゃん? あー、銀髪だしな。間違っちゃ無いけど。俺はセイヤっていうんだ。星の夜って書いてセイヤ』
『んとね、オリナは、オリナだよ!』
『ん、さっきも聞いた。オリナだな。それじゃ……昔々あるところに、オリナ姫という小さなお姫様が――』
微笑んだ星夜が、即興で作ってくれた話で、私がすっかり泣き止んで落ち着くと、彼は泣き疲れた私を背負って、滞在先のホテルに送り届け、次の日から、滞在中退屈していた私の、遊び相手までしてくれたのだった。
そういえば一度だけ、彼の妹と、彼の親戚だという男の子とも遊んだ気がする。
『かくれんぼしよう。かくれんぼ!』
『ふふっ。お兄ちゃんのとこに先に着いた方が勝ちよ』
『待ってよぉ。二人とも早くてズルイ!』
運動が苦手な私は、あっという間に二人の子ども達に置いていかれてしまったけど、桜の古木の下で星夜が、『頑張ったな』と、褒めてくれた事もあった。
綺麗で優しい彼に、おませだった私は、幼いながらも憧れていて、滞在中、彼に会うため、毎日桜の古木に通い続け、彼がしてくれるおとぎ話に、ワクワクしながら耳を傾けていた。
「オリナさん。オリナさん! 大丈夫?」
「アマネ……先輩?」
「ようやく目を覚ましたわね。突然意識を失うから驚いたわ。もしかしたら兄のように、目を覚まさないのでは無いかと」
月華(つきか)の声は震えていて、確かに彼女の感情の片鱗が、そこには垣間見えていた。
「私、思い出しました。今と同じだったんです。セイヤさんに、セイヤお兄ちゃんに会いたくて、引っ越して来る前も、あの、桜の古木に」
「綺麗な黒髪に大きな瞳。そう。やっぱり貴方が紫薔薇の君なのね?」
私の口から出た彼の名前に、何かを確信したように小さく頷く月華の柔らかな掌が、私の頬を包み込む。
その仕草と表情は、桜の古木の下のシリウスを連想させ、不意に蘇った彼の体温に、目頭に集まった熱が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「まあ、本当に紫薔薇の君は泣き虫なのね。セイヤに、兄に聞いていた通りだわ。『だからほうっておけないんだ』と、いつも私に幸せそうに話していた。一度だけ、どうしても会いたいと駄々をこねて、ケイと一緒に遊ばせて貰った事があったけど、あの小さな女の子が、貴方だったのね。オリナさん」
アルタイルから聞き、私達の合言葉として使われたその言葉が、思い出した記憶と重なり、自分の呼び名だと改めて気付かされれば、忘れていた後悔と、長年の想いが溢れ出して、止まらなくなっていた。
「アマネ先輩。私、ちゃんともう一度、本当のセイヤさんとお話したいです。本の中の彼等では無く、今も病院で眠っている、この世界のセイヤさんと」
「私も、ちゃんと兄に謝りたいの。叶うならば、ね。けど、もう十年も眠り続けている。兄を待ちながら、私も長年人形をしているけれど、もしかしたらあの本の世界は、兄が望んでいる世界なのかもしれない。もう、此方の世界には帰りたく無いのではないかしら? 消えてしまう運命だとしても」
「あの本の世界を知ってるって事は、アマネ先輩も、やっぱりシリウスの本の関係者なんですよね? お兄さんの事故の話は、あの本の世界で読みました。先輩は、プロキオン君なんじゃないですか?」
月華から聞いた事故の話、人形という単語から確信して、彼女のミルウェイでの名を呼ぶと、彼女の瞳が大きく揺れて、肯定するように俯いた。
「本の世界での貴方は、お兄さんの前でとても前向きでした。お兄さんの願いを叶えたいと、凄く一生懸命で。確かに言葉は淡々としていて、感情も分かりにくかったですけど、人形には見えませんでしたよ? どうして、そんなに感情を否定しようとするんですか?」
「ツキカの感情が、いつも誰かを傷つけちゃうからだよ。だって、ツキカのワガママのせいで、お兄ちゃんは眠っちゃって、ずっと起きないんだもん」
「ホシナ。自分で自分を傷付ける言い方は感心しません。私達も、ツキカ様の一部なのですから、皆、一緒に傷付いてしまいます」
月華の背後に控え、それまで黙っていた、星菜(ほしな)と夜葉(よるは)が口を開き、年不相応な喋り方をする星菜を、夜葉がたしなめている。
状況が読めず、幾度も瞬いて月華を見つめるけれど、俯いたままの彼女が、言葉を発する事は無かった。
「本の中でも聞いた気がする。『ボクの一部』って、『人形失格』って、どういう意味なの?」
夜葉が彼女を窺うと「構わないわ」と、月華は小さく呟いた。その言葉を聞いた夜葉が、私の方へと向き直る。
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