第9話 兄妹

 気付けば空は白み始めていて、私は家へ帰る気力も無く、膝を抱えたまま、古木の根元で雨に打たれていた。


 どれ位そうしていたのだろう。足首に温かい熱を感じて気が付くと、藍色の瞳が印象的な茶色の仔猫が、いつの間にか私の足元で暖を取っていた。


「何処から来たの? ママとはぐれた? もしかして捨てられちゃったのかな」


 私がそっと手を伸ばすと、逃げるでもなく、仔猫は大人しく私の腕の中へと収まってくれる。


 びしょ濡れのその仔猫は「にゃあ」とか細く一度だけ鳴くと、まるで私を慰めようとしているかのように、頬をペロと舐めた。その仕草に愛おしさが募り、その温もりを抱きしめる。


「こうしてると、温かいね。貴方も行き場所が無いのなら、いっそこのまま、二人で何処かに行っちゃおうか?」


 だんだん雨足は強くなり、私の肌を刺す雨粒が刺激を増して、重くなった瞼が落ちかけた頃、不意に雨粒が途切れて、私はゆっくりと顔を上げた。


「フミヅキさん。春先の雨はまだ冷たいわ。そのままでは風邪を引いてしまう。それにその子も、低体温症になっているかもしれない」


 あんなにひどい事をして、私の学校の日常を奪った張本人であるはずのこの人が、どうして涼しい顔をして傘を差しかけているのだろう。


 混乱と黒い感情が胸を覆って、綺麗な彼女を睨み付けると、彼女は悲しそうに眉根を寄せた。


「許して貰えない事は分かっているわ。けれどフミヅキさん。今の貴方とその子を、置いていく事は出来ない。目の前にある救えそうな命を見過ごせるほど、人形にはなりきれていないの。家へいらして」


 彼女の言葉に腕の中の仔猫を見ると、静かに眠っているようだった仔猫は、少し冷たくなっており、息が荒くなっているようにも見える。


 私の心情を察していてもなお、差し伸べられる彼女の手のひらと表情に悪意を感じる事は無く、私は彼女の手を取ったものの、彼女のその手の冷たさに驚いてしまった。


「ごめんなさい。冷たかったわね。すっかり冷えてしまって……貴方の心情を考えると、声を掛けていいものかと随分迷ってしまっていたから」


 案内された彼女の部屋は、街の一等地のマンションの一室で、とても綺麗に整頓されているのに、彼女以外の人の気配はしなかった。


 ほどよく暖房も効いており、しっかりとタオルドライされた仔猫は、温かそうなふかふかの毛布にくるまれ、タオルで巻いたペットボトルの湯たんぽを抱かされ、彼女が道中連絡を入れてくれていた獣医に、動物病院へと保護されていった。


「発見が早かったのが功を奏したようね。他に病気も見付からないし、今、目を覚ましたそうよ。明日食事をとれたら、三日ほど病院で予後を診て戻って来れるそうだけど、飼い主の当てはあるの?」


 有無を言わさない彼女の提案で風呂を借り、彼女の服を借りた私は、用意されたハーブティーで、雨粒に奪われた体温もゆっくりと戻って来ていた。


「母を説得するのが難しそうですが、叶うならば、家に連れて帰りたいと思っています」

「そう。では、説得が成功するまでは家で預かっておくわ。ご家族の同意が得られるといいわね。あの子は貴方の傍に居たそうだったから」


 その言葉を最後に、人形のように整った容姿の彼女は口をつぐむ。互いに無言の重苦しい時間が過ぎていき、私は言葉を探して視線を彷徨わせた。


「アマネ先輩。今日はあの二人は?」


 いつも彼女と一緒に居る二人の姿が見えず、私が尋ねると、彼女は一度瞬いて、髪束を耳へと掛けた。


「そうね。呼べば直ぐに出ては来るけれど、私はきちんと自分の言葉で、貴方に謝罪を伝えるべきだと思っているの」


 感情の波が薄く、淡々と言葉を紡ぐ彼女は、夢の中の少年を連想させていて、喉元まで出かかった名前を、私はぐっと飲み込んだ。


「来てくれる。ではなく、出て来る。なんですね。その言い方だと、彼女達が幽霊か何かみたい」

「似たようなモノかもしれないわね。彼女達は実際に存在をしているわけでは無いから」


 誤魔化そうとして、冗談交じりに言った言葉を月華(つきか)に肯定されると、背筋に寒いモノが走る。


「それってどういう……」

「此処からの話は、日常を生きる貴方たちには、信じ難い話だと思うけれど、聞いて貰えるかしら? ホシナ、ヨルハ」

「はい。此方に」


 彼女の呼び掛けに答えた二人は、ドアや窓から部屋に入って来るでもなく、イリュージョンのように、何も無いその場から浮かび上がって来た。


 それだけで、彼女の言葉の信ぴょう性は十分で、私は息を飲んで言葉の続きを待つ。


「私の父と、その家系は変わっていて、遺伝子至上主義の残る、今時珍しい考え方を持つ一族で、近親婚を繰り返していた。繰り返される近親婚で血が濃くなり過ぎた一族には、優秀なものの、薄弱児ばかりが生まれるようになってしまい、一族はどんどん短命になっていった。そこで私達の一族が、優秀で長命の血族を探して、色々な秘境を巡っていた時、彼女に出会ったの」


 私の知っている現実の常識とはかけ離れた彼女の話に、沢山の疑問符が浮かぶものの、言葉を遮るのも申し訳無くて、カップのハーブティーに口を付けながら、話の先を促すようにあいづちを打った。


「美しい彼女に一目惚れしたご先祖様は、半ば誘拐するような形で彼女と結婚したのだけれど、美しい彼女を巡って、一族同士で争った末、彼女は事故で亡くなってしまった。彼女は秘境の星見と言われる力の強い巫女で、星屑を散りばめたような銀色の髪と、褐色肌、深い藍色の印象的な瞳を持っていた。彼女の血のお陰で、人並みの寿命を手に入れた一族には、時折不思議な力を持つ者が現れるようになった」


「それって、もしかして天女とか?」


 プロキオンの物語の中の文言がふいに頭に浮かび、私が口にすると、彼女は驚いたように一度目を見開いた。


「どうして貴方がそのワードを? そう。それに近い存在だったのではないかと、一族の文献には伝わっているわ。もし、本当に彼女が天女だったとしたら、事故で亡くなった。と、いう記述も怪しいものだけど、私の兄は、その不思議な力を持つ者だったの。それだけではなく、兄の容姿は、その彼女とそっくりで、彼女と同じくらいに強い力を持っていた」


「そういうの、隔世遺伝って言うんですっけ? じゃあお兄さんは、そのご先祖様と同じ、綺麗な藍色の瞳をされているんですね」


 彼女達の先祖だという女性の容姿の特徴から、毎夜桜の古木の下で会っているシリウスを思い出し、この話が彼のモノだと確信して、切なく胸が痛んだ。


「ええ。まるで兄を見た事があるような言い回しだわ。もしかしてフミヅキさんは、兄に会った事があるのかしら?」

「はい。本当のお兄さんとは、多分そうなんだと思います。まだあまり思い出せてはいないですけど」


「そう? 私の記憶と推測が正しければ、恐らく兄も、貴方を知っているはずだわ。話を続けるわね? 初めこそ、兄の容姿に気後れしていた一族だったけれど、物心ついた兄の能力の高さに、皆兄を認めて、後継ぎは兄だと、勝手に彼に期待を寄せていた。真面目な兄はそれに応えようと、時には感情を殺して、父の後を継ぐべく、いつも堂々と一族間では振る舞っていた。けれど、きっと本当の自分に戻れる場所は無かったんだと思うわ」


 毎日期待とプレッシャーにさらされて、日々を過ごしていたであろう彼は、一体どんな気持ちだったのだろう。


 私にその気持ちを推し量れる術は無いけれど、次に彼に会った時は、その話を聞いてあげたいとも思った。


「ある日兄が、家の者に内緒で、勝手に家を抜け出した事があったの。その時は家中大騒ぎになったのだけど、その日の夜に、何事もなく帰って来た兄は、なんだか妙に機嫌が良かったのよ。それから兄は、度々家を抜け出す事が増えて来たの。恋人でも出来たのだろうかと、父と母はそわそわしていたけれど、兄から恋人を紹介されるでもなく、星祭(ほしまつり)の夜にあの事故は起こった」


 星祭。星の樹の図書館でも幾度となく出て来たその祭りの名前に、私はちょっと身構えてしまった。


「アマネ先輩。多分ですけど、私はその夜の出来事を、大まかには知っていると思います。詳細も気にはなりますけど。あの、先輩のお兄さんは、その事故の後、どうされていますか?」


 星の樹の世界には確かに存在し、現実世界の掲示板にも干渉出来ているアルタイル。桜の古木で私を見守ってくれているシリウス。


 一番知りたかった、二人の現在の安否を、私が身を乗り出して尋ねると、人形のような彼女の表情が、僅かにしかめられた。


「知っているという事は、貴方もあの本の世界の関係者なのね? 兄はあの事故の後、一命は取りとめたものの、昏睡状態に陥って、今も病院のベッドの上で眠っているわ」


 月華から告げられる彼の現実。彼がこの世界に存在してはいるのだという情報を得れば、少しだけ希望を見出せた。


「眠っているだけなら、もしかしたらまた、目を覚ましてくれるかもしれませんよね?」


「どうかしら? 私はそう思うけど、父と母は、もう諦めているかもしれないわね。最初こそ、忙しい合間を縫って、毎日兄を見舞っていたけど、数年前からそれもしなくなったし、兄の名前は、最近話題にも上がらなくなって来ているわ」


 感情の波は見えないのに、彼女の言葉には悔しさも滲んでいるような気がして、彼女の感情の欠片を見付けようと、私は彼女をじっと見つめた。


「十年前よ。その当時のツキヒコに兄が指名されて、一族一同、皆兄を誇らしく思っていた。その時ばかりは、いつも忙しい両親も仕事を休んで、私と兄を星祭に連れて行ってくれたの。まだ幼い私は嬉しくて、はしゃぎ過ぎていたのだと思うわ」


 悔やんでいるのだろうか、何処か苦しそうに言葉を紡ぐ彼女は、ずっと下を向いていて、その表情を窺い知る事は出来ず、私はただ、彼女の話に耳を傾けるしか無かった。


「数ヶ月前から、兄が仕事を早めに終わらせて、寝食を忘れて何かを書いていたのは知っていたけれど、折角家族水入らずの中で、その話ばかりを楽しそうにするのが許せなかったの。単純なヤキモチだった。本が無くなれば、こっちを見てくれると思い込んでいた私は、悪戯のつもりで、兄の本を桜の古木の下に隠した。兄が、何故あんなに必死になって、本を探そうとしていたのかを知りもしないで」


 彼女の口から語られる話は、星の樹の図書館で読んだ物語そのもので、招待状と呼ばれるその本が、現実の世界の出来事をなぞって、物語を紡いでいるのを改めて確信する。


「ツキヒコの舞が始まる時間に間に合おうと、天(てん)桜(おう)神社に向かっている途中で、お兄さんに何があったんですか?」

「前日の大雨で、荷物の搬入が遅れ、急いでいたトラックにはねられてしまったの。小さな女の子を庇って……」


 その言葉を聞いた瞬間、急に頭の中のモヤが晴れ、私の目の前を、鮮やかな赤が塗りつぶしていく。


『嫌! 嫌だよ! 起きて! お兄ちゃんの書いた本くれるって約束したじゃない! オリナまだ貰って無い! お兄ちゃん! セイヤお兄ちゃんっ!』


 けたたましく鳴り響くクラクション、救急車のサイレン音、大きくなる人々の雑踏と、急かすような時計の針が、頭の中で反響する。耳をおさえて立ち尽くす私の視界は、ブラックアウトした。

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