第8話 秘密

 誘われるように手を伸ばしかけたが、先ほどのアルタイルの、氷のような苛立ちを自分へと向けられるのが怖くて、私は反対の手で、伸ばそうとしていた手を胸元に縫い留めた。


「アルタイルは、あまり知られたくなさそうだった。そんな勝手な事をしたら、彼に嫌われてしまうかもしれない」


「兄もだけど、君も相当だね。ねぇ、ベガ。兄には時間が無いんだ。星の樹の魔法は、次に嵐が来たら解けてしまう。君ももう、自分の心に気付いているでしょ? 大切な人の最期の願いを叶えてあげる事も出来ずに、悔いを残させたまま別れるつもり?」


 相変わらず淡々とした口調で紡がれる彼の言葉、認めたくない可能性を告げられれば、彼の口調も相まって、私の中に冷たい感情が溢れてくる。


「あ、嵐が来るなんてまだ決まってないでしょ? それにあそこはアルタイルの、鷲座の部屋だった。シリウスの部屋は、大犬座のはずだし、二人は年が離れているもの。それにシリウスは、仮面も被っていないじゃない!」


 二人が同一人物である可能性を否定しながら、駄々をこねる子どものように逃げ出そうとする私の腕を、小さな冷たい手がしっかりと掴んで。


「ベガ! 逃げ出してばかりでは、本当に大事なモノに、気付けないまま失ってしまうよ。逃げるのも時には大事かもしれない。けどね、逃げた事で永遠に戻って来なくなってしまうモノも、更に失くしてしまうモノだって存在するんだ。本当に大切な事には、ちゃんと向き合わなければ、未来を生きる事も、失う前に気付く事も出来なくなってしまう。取り返しがつかなくなってからでは、どんなに嘆いても、後悔しても、もう、手遅れなんだ……」


 無感情に、けれど悲痛な響きを纏う彼の言葉が、私の胸を刺し、私は腕を力なく下ろした。それを確認すると、彼はもう一度本のページを捲った。


『責任感の強いシラホシは、本を抱えたまま、役目をきちんと終えるべく、天の川の中心へと急いだ。川を横切ろうとした手前で、通り掛かったアヤボシがシラホシに気付き、笑顔で駆け寄ろうとした瞬間、突如荒れ狂った濁流に、アヤボシが飲み込まれそうになり、彼は必死で彼女を突き飛ばす』


『連日の創作でいつもより弱っていた彼の体は、そのまま濁流に飲み込まれ、彼の本は二つに裂け、呪いと共に、深い水底へと沈んでいった』


「二つに?」


 本が示唆するその可能性に、私は膝から花畑に崩れ落ちた。もしもこの本がただの物語では無く、現実世界と繋がっているのだとしたら。


 そんな予感が首を持ち上げるも、まだ確信は持てず、逃げ出したい気持ちを抑え込みながら、プロキオンに視線を送る。


「続きは? アルタイルはどうなったの? 呪いって?」

「さっき言っただろう? 兄の時間は此処で止まっているんだ。この先は白紙。何度か試そうとした事はあるけど、一向にページが増える気配も無い」


 この不可思議な世界と物語に、私はどうして招待されたのだろう。本の持ち主が生きていれば、きっと物語は続き、本が完成して願いが叶うのだろう。では、その逆はどうなるのか。


「そんな……だって、私この間も話してるし、さっきも会ったじゃない。それに、ミルウェイの掲示板でもやり取りしてるのに」


『稀に完成しない時もある』


 その時、頭に浮かんでしまった、招待状を受け取った時のシリウスの言葉。一つの信じたく無い可能性に辿り着いてしまった私の頭は、それを拒絶するように、鈍く痛み出した。


「兄は此処の管理人だし、確かに此処には存在してるんだ。現実世界の掲示板であるはずのあの板にも干渉出来ている。あの事故の後からも。だからボクにもよく分からなくて。この図書館の何処かに続きがあるのか、それとも別の部屋が存在しているのか」


 もしも彼が本の通り、仮に現実世界に存在していないのだとすれば、何故こんな事が出来るのだろう。疑問は浮かぶものの、直ぐに辿り着けそうな答えでは無く、私はぼんやりと星空を眺めていた。


「ベガ。もしかしたら君の本に、何かヒントがあるかもしれないよ」


 彼の秘密が書いてあるかもしれない自分の物語、モヤが掛かった記憶の扉を開くのはとても怖かったが、シリウスとの別れが避けられないものだとすれば、彼の望みを叶えたいという気持ちもあり、私は白紙のページを開いた。


 本が浮き上がれば、無数の流れ星が、桜の丘から文字の形を成しながら降り注いで、私の本をゆっくりと藍色で染めていく。


『アオホシの不思議な輝きに魅入られたアヤボシは、日常から逃げ出して、毎夜彼の元へと通う。花々の世話は疎かになり、アオホシの光しか見えなくなった彼女は、ムギボシの花を見失った』


『逢瀬を重ね、心地好い時間を過ごす二人の絆は深くなり、かつてのシラホシとの思い出をなぞるように、アヤボシはアオホシに、益々惹かれていくのだった』


 本を読んでいた私は、思い当る記憶から、この物語が現実世界での出来事を投影している事を確信して、本を捲る指先を止める。


「やっぱりこれは……。 私とシリウスの物語なの? 確かに私は、何故か彼に、強く心を惹かれている。この想いが最近のモノじゃないのだとしたら? 彼が思い出して欲しいと願っている昔の記憶から、ずっと続いているもの。なのかな? 人見知りの激しい私が、あんなに彼を信頼しているのも、私が彼をよく知っている……から?」


 自分の中で自問自答しながら、心の中を整理していると、頭の中でクラクションが鳴り響き、時計が逆向きに回り始めたような気がした。


『焦れたアオホシの暴走で、大河に誘われ、飛び込み掛けたアヤボシを、再び助けてくれたのはムギボシだった。彼は彼女に後悔と謝罪を伝え、改めて花を手渡した。彼の心と過去に触れたアヤボシは、今度は花ではなく、勇気を贈った』


「じゃあこっちは、ケイ君との事? ムギボシはアークだから、彼がケイ君?」


『アオホシの力に誘われ、星の樹を再び訪れたアヤボシは、暴走する彼から、思い出の箱を頼まれる。しかしアヤボシは、鍵の行方をどうしても思い出せないでいた』


『アヤボシの涙の気配に、我に返ったアオホシは、過去の誓いを胸に、暴走する心をいさめ、平静を保とうとするものの、一度溢れ出した彼女への想いをせき止める術はなく、消える運命の自分の花を、とうとう彼女に手渡してしまった』


 はっきりと物語に浮かび上がった悲しい現実に、また力が抜けそうになると、遠くから四つの足音が近付いて来る。


『長年大切に育てられたアオホシの美しい花に魅せられて、彼女は自分の本当の想いに気が付いた』


『ベニボシの深い後悔と罪を知ったアヤボシは、ベニボシの計らいで、シラホシの過去を知り、二人の願いを叶えるべく、それを受け入れる覚悟をして、星と花々の部屋の扉を開いた』


 浮かび上がった物語は、やはり現実世界での出来事とリンクしており、その登場人物も繋がってはいるものの、まだ彼の望む記憶へのヒントは見付けられない。


「まさかこの歳で、追いかけっこをする事になるとは思わなかったが、この部屋だったな。やっと追いついた。さあ、プロキオン。ベガ。そろそろ朝が来る。お前達は、ちゃんと家に帰るんだ」


「今帰ったら、次はいつ来れるか分からない。此処は、望んで来れる場所じゃないんでしょう? まだ私は、貴方との約束を思い出していないのに、目的も果たせず帰れないよ」


 私の言葉に、彼の動きが止まる。仮面の下側に見える歪んだ唇が、アルタイルの切なげな、苦しそうな表情を連想させて、私は彼が守っていた何かを壊してしまった事を知った。


「ベガ。君は何処まで知ってしまったんだ?」


「数か月後の嵐で、貴方が消えてしまう事、私の記憶が、貴方の願いを叶える鍵である事、貴方が現実には存在しないかもしれない事、貴方とシリウスが、本当は同一人物である事……」


 知ってしまったからには、もう逃げる事は出来ない。私が答えると、彼は唇を噛み締め、諦めたように肩の力を抜いた。


「もう、そこまで知られてしまったのならば、これ以上の隠し立ても出来なさそうだな。この先にあるのは、俺達の思い出と、真実のみだ。もし、それを知るのが怖ければ、君はもう、しばらく此処には来ない方がいいかもしれない。俺は、こんな形で、君の記憶を無理矢理引きずり出すような真似をしたくは無かったんだ」


 妙に冷静なアルタイルの声が、頭の中で反響して、伸ばされた腕から逃げ出した私は、部屋の中の古木の根に足を取られて、そのまま倒れ込んでしまう。


 体がまたゆっくりと透けだして、意識が遠のく瞬間に、私の手が触れたのは、古木の根元にある、大犬座の印の扉だった。シリウスを冠する大犬座を表す扉だ。


 古木の根元で会ったシリウスの言葉と、物語の世界、現実の世界とがパズルのように組重なっていき、その部屋の中にあるのであろう真実を予感させ、じわじわと胸を凍らせていく。


 真実を知る恐怖に飲まれそうになりながら、一瞬だけ見えた部屋の中に、驚いた顔のシリウスが見えて、必死で伸ばした私の手が空を切ると、冷たく張り付く布地の感覚で目が覚めた。


「嫌っ、シリウス待って! 私、まだ貴方に訊きたい事が沢山あるのに。消えちゃうって本当なの? もう会えなくなっちゃうの? そこに居るんでしょ! ねえ、出て来て! シリウスっ! シリウスってば!!」


 別れを否定して欲しくて、ありったけの声で彼を呼び、古木の根元を叩いてみたが、そこに大犬座の扉があるはずも無く、両手に薄っすらと血が滲むだけで、彼が姿を現してくれる事は無かった。

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