第6話 邂逅

 次の日の夜、また不思議な子ども達の幻影を見て、私は後を追い掛けた。幻影達は桜の古木へと向かっていて、その丘の上には、子ども達よりは年上であろうシルエットが、大きく手を振っている。


 息を切らして私が辿り着いた頃には、古木の中へとその幻影達は消えていた。

 桜の古木に凭れてふと顔を上げると、不機嫌そうなシリウスがそこに居て、私をじっと見つめていた。


「あ、シリウス。ねぇ、此処に子ども達が来たでしょう? あの子達は星の樹の住人なの?」


「違う。俺の記憶の中のお前達だ。お前が思い出すまで待とうと思ったんだが、お前を此処に呼びたくて力を使った。期日が迫ってる。頼むから思い出してくれ。でないと俺は、約束を果たせないままに消えてしまう」


「思い出すって。何を? 私は何かを忘れているの?」


「約束だ。俺達の。お前がこの街に越して来る少し前、幼いお前と初めて出会ったあの時の。そのために俺は生まれて来たんだ。だからオリナ。俺を。俺の本当の名前を、俺達の約束を思い出してくれ」


 シリウスは、初めて出会ったあの夜から、私の名前を知っていた。動揺していたとはいえ、その事に何の違和感も感じる事は無く、疑問を持つ事も無く、私は彼の元へと通い、得体の知れないはずの彼を信頼していたのだ。


「そうだ……私。なんで」


 人見知りも激しく、自分から歩み寄るのも苦手なはずの私が、何故かシリウスには心を許している。


 事故のファーストキスの衝撃だけでは無い何かが、恐らく彼と私の間にはあるのだろう。そう感じるのに、思い出そうとすると、それを拒むように、何かが記憶にモヤを掛けてしまうのだ。


「ごめんなさい。シリウス。私……」

「悪い。焦り過ぎたな。そんな顔、させたかったんじゃないんだ。もう、お前を泣かさないって、あの夜、決めてたのに」


 切なげに眉を寄せた彼は、私の頬を包み込むようにして手を添えると、そのまま顎を上向かせて腰を引き寄せた。


 藍色を縁取る濡れた睫毛を伏せ、もう一度視線を絡めると、彼の柔らかな体温が、今度はしっかりと、私の唇を捉えていた。


「今日は逃げないんだな?」


 スローモーションのような時間が流れて、彼の低い声が耳に届くと、私の頭の中で、何かがパチリと音を立てて弾けた。


「ははっ。金魚みたいだ」

「き、金魚!? は、初めて奪っといてからかって来るとか、し、信じられない!」

「ま、待て、その表現は色々と語弊がありまくるだろう! と、言うか、そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味なの?」


 私が詰め寄ると、彼は困ったような表情で視線を逸らした。


「顔真っ赤にして、口パクパクしてて、可愛いなって思ったんだよ。俺は金魚が好きなんだ」


 呟いた彼の表情も、ほんのり赤みが差しているように見えて、私がその表情を眺めていると、彼は居心地が悪そうに身じろいだ。


「少し離れてくれ。お前と距離が近いと、俺が困るんだ」

「どうして?」

「好きな相手と二人きりだからだ。もう、俺もお前も幼い子供じゃない。まだ記憶を思い出していない、お前の現在(いま)の心も知らずに、キスの先を望む訳にもいかないだろ?」


『キスの……先……?』


 彼の言葉の意味がじんわりと染み込んで来ると、それを理解した瞬間、全身が心臓になったように脈打ち、ドッドッドッと壊れたように暴れ出して、私の体は急速に熱を上げていく。


 初めて感じるその感覚に、私は恐怖を感じ、胸元を押さえると、その場にうずくまっていた。遠くで雨の音が聞こえている。


「ベガ。ベガ。大丈夫かい? 今日はなんだか、君の方が具合が悪そうだ」

「えっ? 私確か、桜の古木に居たはず……」


 声を掛けられて顔を上げると、そこは星の樹の図書館の中で、目の前には、子犬座の仮面を被った赤髪の少年が立っていた。


「貴方はプロキオン君だよね? やっとお話出来た」

「君が、ボクを気にしてくれていたのは分かってた。けど、今まで君に答えられなかったのは、ボクが君に謝らなくてはいけないからだ。来て。今日はボクの部屋へ」


 淡々と話す彼の言葉の意図が分からず、瞬く私の手を、小さな冷たい手が引いていく。案内されたのは、子犬座の部屋の前だった。


 中に入ると、深い海底をイメージするような青白い部屋の中に、白い椅子が一つ。彼がそこに腰掛けると、天井に浮かび上がった子犬座から落ちた雫が、波紋のように広がり、そこに浮かんだ彼の本のページが捲られ、目の前に本の光景が広がっていった。


『元々美しい天女だったベニボシには、親の決めた婚約者がいた。幼なじみのムギボシはどこか抜けていて、世話好きな彼女は、いつも彼を助けていた。兄の事件をきっかけに、支えてくれたムギボシの世話を焼いている内に、いつしか彼女は、心から彼を愛していたが、焦がれている彼の花を、貰う事は結局出来なかった』


『兄の代りになるべく感情を沈めていたベニボシはいつも孤独で、いつしか彼女の胸の中は乾ききってしまっていた。ある日通り掛かった川辺でアヤボシが、彼の花を貰っているのを見てしまう。その瞬間彼女は、黒い感情に飲み込まれ、気付いた時にはアヤボシの花を踏みにじっていた』


「指示したわけでは無いんだ。けれど、彼女達もボクの一部だから。一時の感情に飲まれて、本当に君にひどい事をしてしまった。誰が誰を好きになろうとも、君にもその感情にも、罪なんてあるはずが無いのに。ボクは君が羨ましかったのかもしれない。兄の花も、彼の花も持っている君が」


「言ってる意味がよく分からないんだけど、その花が、私に謝りたいって貴方が言っていた事に何か関係があるの?」


 私の言葉に頷いた彼は、ゆっくりと次のページを捲っていく。


『付き従う感情の暴走で、再びアヤボシを傷つけてしまった彼女は、深い後悔と嫉妬の狭間で、感情を殺す事に疲れてしまう。人形であれない自分を責め、兄の元を訪ねた彼女は、兄の荷物から鍵を見付け、光の扉へと誘われた。無意識に、普通の少女でありたいと願って』


「兄は焦ってはいないと言っていたが、時間が無いのは確かなんだ。数ヶ月後には嵐が来る。星の樹が力を失ったら、きっと兄は、樹と一緒に消えてしまう。今の兄は、あの樹から動くことが出来ないから。君と兄へのお詫びに、ボクは兄の願いを叶える手伝いをしよう」


 歩き出した彼に手を引かれて、二人で長い廊下を早足で歩いて行く。


「ま、待って。プロキオン君。嵐が来ると星の樹が消えちゃうってどういう事。もしかして貴方のお兄ちゃんってシリウス? 彼もそんな事を言ってた。時間が無い、消えてしまうって……会えなく……なっちゃうの?」


 私の言葉を肯定するような沈黙が流れて、辿り着いたのは鷲座の扉の前だった。


「大犬座……じゃない。良かった」

「ボクの本は元々兄の持ち物だ。この本はいわばスペアキー。少し力が強いが、血の繋がるボクには扱えるはずだ。さあ、ベガ。一緒に兄の部屋へ」


 シリウスを冠する星座では無い事にホッとしたものの、図書館内でも一際大きなその扉は、秘密を秘めたように重厚で、部屋の住人以外を拒んでいるようにも見える。


「此処、本当に入っても大丈夫? 鷲座って事はアルタイルの部屋だよね? いつも穏やかな人が怒ると相当怖いってよく聞くんだけど」


 私が部屋に入るのをためらっていると、ペタペタと三つの小さな足音が遠くから近付いて来るのが聞こえた。


「しまった。守り人に気付かれた。ベガ、早く!」


 促され、飛び込んだ部屋の中は、桜の古木の丘だった。そこから見渡せる街の大通りに、青白い光の帯が揺らめいており、道沿いには赤い提灯。遠くから、川のせせらぎのように流れる音楽と、香ばしい匂いも漂って来る。


 この街の住人であれば、皆が知っているであろうその風景は、映画のワンシーンを切り取ったように美しいけれど、何処か儚さも孕んでいて、胸の奥の柔らかな部分を掴まれたように、少しだけ苦しくなった。


「これ、星祭(ほしまつり)?」


 星祭は、この街で伝統的に続く、織姫、彦星にちなんだ、工芸品の発展と、子供の芸事の上達を願う祭りだ。


 七夕の夜から、毎年二日間に渡って、街を上げて行われる、大きくて静かな祭りは、この街の名物でもある。


 星屑を織り込んだように、光の加減で色の変わる、星絹(ほしぎぬ)と呼ばれる織物で織った帯を身に着けた子ども達が、和紙の灯篭を掲げて踊る幻想的な風景が壮大で、それを目的に訪れる観光客も多い。


 行列の中心、天(てん)桜(おう)神社から出る、移動神楽(いどうかぐら)の上で踊る、星姫(ほしひめ)、月彦(つきひこ)と呼ばれる男女の舞手に我が子が選ばれるのは、この街の住人の名誉でもあった。


「確か二人の舞手に選ばれた男女は、必ず結ばれるってジンクスもあるんだっけ?」

「そうだね。けどボクは、一年に一度しか会えない恋人同士にはなりたくはないな。好きな人の笑顔は、いつでも近くで見ていたいし、もし頬を濡らしているのならば、優しく拭える距離でいたいと思う。この想いが叶わないとしても」


 他の街には無い、移動神楽という文化も、この祭りの特徴だ。移動神楽の舞手が、七夕伝説の二人を模している事もあり、いつからか年頃の少女達の間ではそんな噂も囁かれるようになった。


 美しい星絹の着物を身に纏う、星姫と月彦への憧れは、大人だけではなく、少女達にも広がっている。


「けど、どうしてアルタイルの部屋から、星祭が見えてるの?」

「兄の時間は止まっているんだ。ボクのせいで……」


 小さな彼が泣いているような気がして、その頬にそっと手を伸ばしたけれど、一瞬だけ垣間見えた彼の感情は、彼の奥へと吸い込まれていった。


「さあ、次のページを捲ろうか」


 元の口調に戻った彼が、桜の古木に触れ、本を捲ると、天井から降って来た流れ星が、金色の桜の花びらへと姿を変えて、本に吸い込まれていく。

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