第9話 海景

 運命というものがあるのなら、その道は歪な螺旋を描いているのだろう。蜜樹との再会から半月は経ったが、共同生活は依然として続いていた。海景。蜜樹の心に居着いている亡霊が、柘榴を吾緋村に閉じ込めていた。


 海景について語る蜜樹は、過去の幸せを噛み締めるように、気を安らげて微笑んでいた。自然と上がる口角、ゆったりとしたまばたき。雨上がりに薫る青葉のような静けさを湛えた親愛は、快く柘榴の心中さえ潤した。


 幼い頃の柘榴が感じ取っていた以上の思いを生かし続けている蜜樹は、いつも生活の中に漂う海景の残り香を探していた。そして、ためらいがちに蜜樹は明かした。風貌も雰囲気も似ていないはずなのに、君は海景にどこか似ている、と。


 蜜樹が言わんとしている事を悟った柘榴は、微笑みながら蜜樹の切実な願いを受け入れた。海景を自分に重ねる事を、承諾したのだ。蜜樹の記憶から滴る海景を宿す依代となって、ひと時でも蜜樹が満足するのなら、それで良かった。


 穏やかなはずなのに、何かが心臓に突き刺さっている日々を過ごしていた柘榴はある日の夜、寝床に横たわりながら左手を表裏と交互に眺めた。吾緋村から離れられない理由は海景の代わりになる為だったが、もう一つあった。約束を絡める指がない手を眺めながら、柘榴は小さく首を振った。何度じっくり見ても、小指が欠けている。


 吾緋村に来る前、酒屋から出て月を眺めていた時はまだ五指があったはずだ。それがいつの間にか四つ指になっている。適切な処置を施しても、この規模の怪我ならしばらく激痛が残るものだがそれもない。強張った表情の蜜樹にどうしたのかと問われるまで、指が一つ足りない事に気付かなかった程だった。


 消化器や肺を病んだ事は一度もないのに吐血した件もある。とにかく容態を診てもらおうと、気絶した翌日には薬売りの豆助の元へ向かった。土着の村人や蜜樹以外の古馴染みと顔を突き合わせれば、思い出したくもない過去が蘇る。豆助は自分が子供の頃には村にいなかった。頼れるのは彼だけだった。


 近隣から通いで村に来る医者が不在の時、緊急時に限って代わりを務めているという豆助の優秀さは素人目にも分かった。豆助によれば既に皮膚に覆われている指の切断面に問題はなく、その周辺の状態も鬱血等の様子もなく極めて良好。腕の立つ専門医でも今の技術では再現不可能な程、懸念不要の奇麗な手だという。


 万が一痛みが来た時は鎮痛剤を服用して、様子見でいい。問題なのは吐血の方だった。吐血後の気絶での様子に、視診、触診結果を加味すると、吾緋村の彼岸花を原料とした毒が体内に入った可能性が高いらしい。


 本来、花は見頃の季節を過ぎれば麗しい姿を捨て、次世代の命を育むか、翌年の開花に備えるものだ。人と同じく時の流れに従い、変化に身を任せて成熟する。

 吾緋村の彼岸花は、違う。一年中咲いている赤は、年々、じわり、じわりと、その数を増やしている。まるで永遠の若さを手中に収めた妖女が、見た者を骨抜きにする笑みを湛えて下僕を増やしているように。美しくもおぞましい光景が、常に吾緋村に広がっている。


 その異常性が毒にも現れているのだろう。吾緋村の彼岸花は毒性が非常に強く、蛇花という異名に相応しく、臓腑の内側から食い破る蛇のようだと恐れられている。複数の原料を用意して毒性を高めずとも簡単に劇薬を作れる危険物だ。

 やじりに塗布する矢毒や拷問用として、闇市場で吾緋村の彼岸花の毒が重宝されているのは知っていた。賊仲間から使用を勧められた事も度々あったが、柘榴は使うのを拒否していた。吾緋村の、と付くだけで幼少時代の記憶が蘇って、仕事に支障が出るからだ。


 毒が必要な時は多少値が張ろうと、鳥兜トリカブトや火炎茸を主原料としたものを選び、吾緋村に関するものは情報も品も退けていた。だから薬売りを生業にしている豆助の方が、よほど吾緋の彼岸花の毒に詳しい。


 豆助曰く、通常、その毒を受ければ数十分後に死ぬ。運が良くても意識が混濁したまま激しく痙攣し、胃液と血を吐き続け、衰弱の一途を辿って数日後には死ぬ。


 拷問用として作られた毒の場合は即効性がなく、じわじわとそれらの症状が現れる。死に至るまでの苦痛が長続きするよう設計された、たちの悪い毒。

 小指を失った瞬間の記憶を喪失しているが、もしかすると今まで殺してきた人間に関する復讐の為に襲撃され、毒を受けたのだろうか。その際に一悶着あって指を失い、衝撃で記憶障害が起こったのかもしれない。


 吐血しておきながら大した問題もなく動き回れるのは異例中の異例らしく、豆助は嬉々として、面白いから経過観察させてくれ、薬や諸々の費用はいらないから、と言い出した。

 さすがに目を剥いた。せめて村人の来ない日に力仕事や薬草の採取といった手伝いをさせてくれと頼んで了解を得たが、なんとも突飛な人だった。無邪気な子犬のようというか、なんというか。


「しかし、拷問用の毒ねぇ。よほど恨まれてるんだろうが、心当たりしかないのが厄介な……」


 左手を開閉させながら、蜜樹が起きないよう小声でぼやく。吾緋村の彼岸花に対抗しうる解毒薬はほぼ皆無。体内に毒が入った直後なら効く薬はある。例外はそれだけだ。豆助から渡された薬も多少の抑制効果があるのみで、根本的な解決には至らない。


「……蜜樹とこうして会えなかったら、それを悲しいとも思わなかったんだろうな」

 乾いた自分の声に、苦笑する。鈍く胸に刺さる悲しさは、一体、誰の為の悲しさなのか。


 遠くで虫が鳴いている。目をつむり、ひと呼吸置いてから、隣で眠る蜜樹へ向き直る。清水のように降りてくる風は冴え冴えとし、耳を冷やして去っていく。寒い夜だというのに、蜜樹が穏やかに眠っている様子を触れられる距離で見つめていると、ほのかに鼓動が早くなる。


 自分の命より遥かに重く、替えの利かない存在。柘榴にとって蜜樹は、生涯の内に感じる愛情の全てを捧げても足りないと歯噛みする程の人物だった。

 蜜樹がいなければ、柘榴の人間としての情緒など育たなかった。事の是非も判らず、ささくれだった感情を後生大事に持ち歩き、暴虐の限りを尽くしてわらう鬼になっていた。


 村人達の言う通り、父親そっくりの人でなしになっていただろう。柘榴を人間にしてくれたのが、蜜樹なのだ。蜜樹が笑って暮らせるなら、その代償として自身の四肢を獣に食わせても構わない。消えかけているこの命も自分の為ではなく、蜜樹の為に使いたかった。

 隣に顔を傾けてみれば、安らかな寝息を立てているその人がいる。今この時の、そして過去の幸せへの礼になるなら、何だってしてやりたい。


「……蜜樹」

 呟いた声は、僅かに震えた。


 近頃の蜜樹は笑顔になる事が多かったが、それと同じくらい不安な表情を見せていた。柘榴の意識がふと遠くへ向かう度、蜜樹はまるで心中を見透かすかのように、目には見えないか細い鎖を柘榴の首へ掛けた。物憂げな声色で、独りにしないで、と囁いて。


 強制力が薄いはずの、言葉の鎖。それがどれほど効いたかは、柘榴が長々と蜜樹の家に腰を据えている事で言わずと知れる。独りにさせられるわけがなかった。赤の他人と化した柘榴に、蜜樹は海景の面影を重ねていたのだから。


 立派な樹も水が絶えれば干からびて、瀕死の最中に潤いを得れば、通常より多くの水を求める。それと同じだ。海景が十数年前に失踪し、孤独に晒され、弾力を失った心が、傷を埋めようと必死になっている。それを放って立ち去れるはずがない。


 蜜樹が海景をどんなに可愛がっていたかは分かっている。大切そうに見つめてくる目がいない海景を捉え、幸せそうに弧を描くのを見て、蜜樹から離れられはしない。自分が消えたら、蜜樹の心の拠り所までも消えてしまう。

 秋の風が格子窓から再度流れてくる。体温を奪われないようにと肌掛けを直してやると、蜜樹の睫毛が震えた。


「悪い、起こしたか」

「ん……み、かげ…………?」

「……」

 一瞬張り詰めた気配を悟られないように、細く、長く息を吐いて、落ち着きを取り戻す。


「……うん、おれはここにいる。だから安心して寝て。蜜樹にぃちゃん」

 努めて柔らかな空気を持たせて返すと、蜜樹は満ち足りたように夢に沈んだ。深く寝入ったのを確かめて愛刀を引っ掴み、忍び足で外へ出る。


 叫びを胃の底に封じて西へ駆け、やがて全身が軋んで息が切れる頃に、山際の芒原すすきはらが現れる。月光を浴びてしなやかになびく芒は白銀の波を生み、その奥に潜む赤を覆い隠していた。


 彼岸花。それを鞘に収めたままの刀で、一心不乱に刺殺した。茎は無残に裂け、花弁は飛沫のように宙を舞い、土の黴臭さが鼻につく。奥歯がぎしりと音を立てた。頬を汗か涙か伝ったが、そんなものはどちらでもよかった。自身の愚かさを心底軽蔑しながら彼岸花を刺す以外、どうでもよかったのだ。


 情けない。蜜樹の心が安泰になるのなら、どんなに息苦しく感じる事も甘んじて受け入れようと腹をくくっているはずなのに。蜜樹とどんなに言葉を交わそうと、求める手が伸びてこようと、望まれているのは柘榴ではなく海景なのだと意識しては悔しくなる自分が情けなくて涙が出る。


 じめついた怒りだ。吾緋村で何度となく目にしてきた、肉の脂のようにしつこくこびりつくいやな感情!


 吐いて捨てられるならどんなにいいか。醜い心を握り潰すか、あるいは引きずりだして切り捨てられたら、どんなに。

 声にならない叫びが迸る。肉親や村の抑圧から脱して、時間を掛けてようやく自分らしさを手に入れたのだ。蜜樹の知る自分さえ捨てて、それでも生にしがみついて。もう二度と顔を合わせる事もないと覚悟していた蜜樹と再会して、突きつけられたのは海景に敵わないという現実。


「……」

 肩で息をする足元に、彼岸花が散る。しかし明日の夜には、新たな彼岸花が何食わぬ顔で咲いているだろう。


 吾緋村の彼岸花は増えはすれど減りはしない。負の情念を養分としているのか、村でいさかいが起こる程にその数を増やしていく。恨み辛みが人の間で折り重なって色を濃くするのと同調するように、禍々しい赤い花は絶えず増えていく。

 胸中に渦巻く哀情あいじょうも、彼岸花の餌になるだろう。


「…………海景……」

 泥土の川で酸素を求める魚のように、天を仰ぐ。呟いたその人が、ただ、うらやましかった。

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