第8話 蜜樹(ニ)

「その……悪かった、本当に」

 いたたまれない思いに声が潰れる。蜜樹はくすくすと喉を鳴らして笑った。


「僕にとって嫌な事だったら、きちんと抵抗していたよ。そうしなかったのは……分かるでしょ?」


 気恥ずかしそうに目を細めて、蜜樹は僅かに頭を傾けた。琥珀色の瞳の前でさらりと長い前髪が揺れる様は、風雅の一言に尽きる。

 幼い頃から見目は整っていたが、歳を重ねてより美しさが洗練されている。その上、この愛嬌。もし蜜樹がここで、自分は生きとし生けるもの全てを魅了してしまう山の怪だと言っても疑わず信じる。蜜樹も蜜樹で、化けたものだ。


 にこにこと笑う側から溢れる色香に当てられそうになり、咳払いをしてなんとか持ち直す。どうにも落ち着かない。今まで蜜樹以外の誰にも特別な感情を抱いてこなかったのだ。こうして慕情を寄せる人を前にして、どうしたらいいか分からない。


 それに何年も前から、自分はもう二度と蜜樹とは会えない、会ってはいけないと思っていた。それなのに何の因果が働いたのか、突然こうしてまた出会ってしまった。

 どんな顔でいればいいのか、どんな言葉をかけていいのか、何一つ分からない。罪と血で汚れきったこの身で、蜜樹の笑顔を見れて純粋に嬉しいと感じてしまうのも気が引けるくらいだ。


「……」


 不自然な沈黙が降りる。全く情けない。自分は恩を仇で返すしか能がないのか。蜜樹が大切にしていた人を葬るわ、倒れていたのを助けられたのに黙り込むわ。かつて共に暴れていた賊の連中がこの姿を見たら呆れるだろう。参謀にもなってこれとは情けないと言う声が聞こえるようだ。


「よしよし」

「……へっ?」

 つい間抜けな声が出た。気が沈んでいる間にやんわりと抱擁されたからだ。体温を感じさせる蜜樹の匂いに気を失いかけ、慌てて遠のいた意識を引き戻す。


「な、なにを……蜜樹……?」

 強張った声はところどころ裏返っていた。蜜樹は頓着せず、抱きしめたままゆっくりと後頭部を撫でてくる。


 どこまでも優しい手付きに、吐いた息が震えた。今度こそ涙を落としそうになる。抗うように身じろぎしたが、蜜樹は腕の力を弱めなかった。


「…………蜜樹」 

「どうしてだろうね。君を見ていると、懐かしい人を思い出す。それに……君が、消えていなくなってしまいそうに感じたんだ。目を離したら、あっという間に……」

「……蜜樹」


 腕の力が強まって、微かな震えが伝わってきた。昨晩の切実な言葉が脳裏によぎる。


 一人にしないで。


「…………」


 揺らめく行灯の光と、蜜樹の呼吸音。静かな部屋を睨みながら、奥歯をギリと噛み締めた。

 人の死に慣れてしまっても、蜜樹とその家族の幸せを祈って生きてきた。蜜樹には煩わしいしがらみから脱して、幸せに生きてほしかった。


 だから、蜜樹との縁を望んで切った。蜜樹が気兼ねなく過去を徐々に忘れ、村を捨て、いつか温かな家庭を築く事を願って。その未来は潰えてしまったなど、知りもせず。

 蜜樹には蜜樹の理がある。蜜樹はこの村から離れなかった。恐らくは、蜜樹にとっての大切な存在の帰りを待つ為に。生死も分からない人をたった一人で求め続けるのがどんなに過酷かを知って尚、諦めずに。こんなにも精神を消耗させているにも関わらず。


 救えない。蜜樹をどれ程思っていようと、空回りしてしまう。蜜樹に食い込む孤独を招いた自分に対して、苛立たずにはいられない。

 奥座敷から何かを引きずるような音がしたのは、その時だった。


 ざりざり。ざりざり。


「……何の音だ」


 音の主に気取られないよう声を潜め、蜜樹の耳元で囁く。心当たりはあるかと問いかけると、蜜樹は名残惜しそうな間の後、ゆっくりと身を離した。憂いが行灯に照らされる。まつ毛の奥でてらてらと光に濡れて輝く瞳は、相変わらず麗しい。


「僕が不在の間、君は奥の部屋を片付けてくれてたんだろう?」

「……あ、ああ。まだ終わっちゃいないけどな」


 見惚れてやや返事が遅れた間に、暗闇から行灯の橙に染まった頭がいくつも覗いた。蛇だ。警戒している様子はなく、離れた場所からじっとこちらの様子を窺っている。


「蛇……」

「君があの部屋に入るなら、怪我する可能性がある物は放っておけないからね。危ない物を端にまとめさせた。その他にもいくつか用事を任せていたけど、それも終わったみたいだね。……お疲れ様。今日はもう下がりなさい」


 蜜樹がそう言うと、蛇達はするするとどこかへ消えていった。蛇と意思疎通できるのも相変わらずらしい。

 幼い頃、蜜樹は秘密だと言いながら蛇を使役する様子を見せてくれた。他所から吾緋村に越してきてから得た能力のようで、本人も蛇が従う理由が分からず、不思議そうにしていた。蛇は例外なく蜜樹の手足となり、あらゆる恵みと情報を与えていた。


 ふと違和感が走る。それが何かを確かめる前に、蜜樹が口を開いた。


「奥の部屋は、僕の内面そのものなんだ」

「……蜜樹」

「僕には弟がいたんだ。海景(みかげ)って名前の……とても、優しい子だった」


 蜜樹は深呼吸をして、俯いた。哀切に耐える仕草のようにも見えるが、蜜樹の心に渦巻いているのはそれだけではない。笑みとも怒りとも取れる語尾の震えと、両の拳に浮く青筋が、内なる荒漠の深刻さを現している。


「……あの子と過ごす時間は、本当に幸せだったんだ。野山を駆け回って、手を取り合って笑って……僕の、太陽みたいな子だった」


 ぽたり、と、震える拳を透明な雫が濡らした。それは涙ではなく、血そのものと言う方が合っている。裂けた心から落ちた、血。


「海景を失ってから、僕はこの村の全てが赤く染まってしまえばいいと思ってる。だけどその願いが強くなる毎に、海景が慕ってくれた自分が削れていくんだ」

 ぽたり、ぽたり。手の甲に、雫が落ちていく。


「あの子が好いてくれた自分を、僕が壊してしまうのは怖い。だけど、あんなに無垢な心を持つ子を追い詰めて……傷つけて……今でもあの子が話題に上がれば醜い虫けらのように貶めるこの村が、人間が」

 地鳴りのように声が揺れる。何者にも止められない天災を思わせる声で、蜜樹は言った。


「憎い。憎くて、許せない」

「…………」

 それはまるで、曇天の元で吹き荒ぶ風を一閃で裂く雷撃のようだった。


 蜜樹は人との関わりを好いていた。相手を尊重し、手を取り合い、互いに刺激を受け合って成長する日々を愛していた。芯の太い能動的な優しさを持ち、傷だらけで愛想のない相手にも分け隔てなく接した蜜樹が、憎いと言う。その情念を抱え、奥座敷で海景が知る着物をまとい、物を砕き、悲鳴で部屋を切りつけた。


 低く唸る蜜樹の体をぐいと引き寄せて、きつく抱きしめた。不変の地獄が大事な存在を軽々しく侵害する事への憤りが、果てしない憎悪が、絶叫したくなる程の悲しさが、痛いくらいに分かった。大切な存在と過ごした自分の内面が、止まる事なく歪み続け変質していく恐怖も、身に染みている。


 自分はもう、戻れない。人とは言えない鬼になってしまった。蜜樹はきっとまだ、人なのだ。だから苦しい。吹っ切れてしまうまでは、死んでしまった方が余程楽なくらいに苦しくて堪らない。それでも人でありたいと望み、それが叶う心を持つなら、そっと人の方へ押し戻してやるだけだ。


「……蜜樹。お前は大丈夫だ。何も変わらない。昔も今も、誰より海景の事を思っている。それが海景にとってどれだけ幸せな事か、分かるか」

「……」


 蜜樹は黙したまま、すんと鼻を鳴らした。安心させるように背を撫でていると、ほんの少し、蜜樹の頭がこちらに寄った。激情で強張ったものがやや緩んだ証に安堵して、再び蜜樹を強く抱きしめる。


「離れ離れになっちまったらさ、普通は関心なんて薄れるもんだぜ。会えない時間が鋭く胸に刺さるから。相手を思う気持ちが強ければ強い程、その痛みは強く、執拗になる。かさぶたが出来ない大きな生傷を抱えて生きるのは至難の業だ。だから似た境遇の奴は相手を思い出として、大事にしながらも距離を置いて生きている」


 自然と声色が明るくなっていく。蜜樹がどこまでも昔と同じままなのが、嬉しいのかもしれない。蜜樹の後頭部を撫でながら、目を閉じて笑った。


「それなのに、昔と同じ強さで思い続けてくれる事を選んだ蜜樹がいてくれてさ。それに関しては、海景はこの世で一番幸せだ。違うか?」

「……どう、して」

「ん?」

 蜜樹は恐る恐る身を起こし、柘榴を見つめた。


「君は、小さい頃の僕と……海景を、知っているの?」

「……」

 柘榴はにこっと笑ってみせた。


「いや? 吾緋村や隣村に俺みたいな遊び人がいたら、蜜樹も知ってるだろ。心当たりがあるのか?」

「いや……だけど……」


 困惑する蜜樹の頬に残った涙の筋を、昨晩と同じように用意されていた盆の手拭いで軽く拭った。蜜樹は視線を泳がせてから、困ったように小さく笑った。


「昨日と……同じだね」

「そうだな。でも、昨日より……」

「……昨日より?」

「いや、何でもない」

 肩を竦めて首を振る。昨日より良くも悪くも胸が潰れそうになっているとは、とても言えない。


「……ねぇ」

 するりと蜜樹の手が頬を撫でた。心地良さに目を細めると、蜜樹も口元を緩めた。


「君の名前は?」

「柘榴だよ、蜜樹おにーさん」

「柘榴……そう……」


 蜜樹はゆっくり微笑み、柘榴を抱きしめた。

 いくらでも甘えればいい。そうして蜜樹が少しでも安心できるなら、それでいい。後頭部から背にかけて撫でると、蜜樹はまた小さく鼻をすすった。


 本当はこの背を撫でる資格もない。それでも、蜜樹がここで安らぎを感じるというなら、応じたい。無責任な事をしている自覚はある。信用させるだけさせて、後から犯した罪が明らかになれば、蜜樹は何もかもを信じられなくなってしまう。

 その可能性を考えていないわけじゃない。分かっていて手を差し伸べたのだから、傲慢だ。


「……」


 諦めのように、そっと笑った。好きになってごめんな、と、聞こえないように呟く。友人として。片思いをしている者として。好きになってしまったから、蜜樹を自分の下るしかない人生に巻き込んでしまった。

 今更謝っても遅い。愚鈍だと、脳裏で彼岸花が嘲笑っている。否定のしようがない。

 十数年ぶりの再会は酷く穏やかで、虚しく、息苦しくて、堪らない。

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