第7話 蜜樹(一)

 目覚めた柘榴は、圧迫感のある黒い霞の中にいた。また知らぬ間に遠くに飛ばされたのかと落胆しながら辺りを見渡してみると、丸まった背中が目に写った。ボサボサの髪を無造作に束ねた少年が膝を抱え、俯いていた。


 少年の前方で、彼岸花が一輪咲いた。ついでいくつも同じ紅が咲く。少年は顔を上げ、彼岸花を見つめた。よろよろと力無く立ち上がり、助けを求めるような仕草で彼岸花の元へ向かう。しかし間に見えない壁があるのか、伸ばした手は宙でぴたりと止まった。


 どこかに隙間がないかと、少年は見えない壁に両手のひらを押し当て懸命に探った。しかしいつまでも進展はなく、少年の手は花に届かない。


「さっきからなんだい、あのみすぼらしい子は。じぃっと遠慮もなしに見てきて気味が悪いったら」

 彼岸花の一つが、子供を嫌がるように大きく揺れた。呼応して他の彼岸花達も揺れる。


「あれはほら、他所から来たあのどうしようもない男の子供よ。女と見ればちょっかい出して、どこに行っても喧嘩沙汰を起こす厄介者」

「ああ、そいつか。恥ずかしげもなく悪事を重ねる愚か者。あんな男の血を引く子供も、どうせ同じような出来損ないなんだろうねぇ」

「まともな精神を持ってたら、今頃耐えきれず生きちゃいないから、ねぇ。あの子供も、父親と同類よ。ろくでなしよ」

「豚の子供は豚。クズの子供も所詮クズ!」


 あはははは!


 彼岸花達は愉快そうに仰け反って嗤う。少年はとぼとぼと元の場所に戻って膝を抱えると、小刻みに震えながら、声を押し殺して泣き始めた。構わず彼岸花達はいかに少年の父親が悪人であるかを声高に語り、罵っては嗤う。

 彼岸花達の言葉は全て少年に刺さった。一方で、少年の啜り泣く声は、彼岸花達には欠片も届かない。


「そうだ!」

 彼岸花の内の一つが、いい事を思いついたと言わんばかりに声を張り上げる。


「あの男には皆うんざりしてるけど、仕返ししたって効きやしないどころか、逆効果でしょう?」

「余計に喚いて塀を壊してきたり、庭木を枯らされたりするねぇ」

 他の彼岸花が呆れたように言うと、声を張り上げた彼岸花は楽しそうに揺れる。

「だったら、身代わりに責任を取ってもらえばいい」


 一瞬の間の後、淀んだ愉悦がざわざわと空気を逆立てた。黒く塗り潰された波が四方八方に広がるように、低く唸る嘲笑はすぐさま一面を染める。壁は消え、彼岸花達が少年を囲った。


 あはははは!


 彼岸花が少年の上空から幾本も降ってきた。それらは矢のように少年の皮膚を破って頭や背、腕に突き刺さり、狂ったように嗤った。少年は苦しげにのたうち回り、必死に彼岸花を抜く。その傍らで、もっと刺せ、やっちまえ、脚も刺してもいでしまえ、と野次が飛ぶ。


 そうしている内に彼岸花の毒が回ったのか、少年はうう、うう、と呻き声を上げながら、両手で首を搔き毟り始めた。涙も唾液も絞り出して、胃から塊として吐き出したのは、真っ赤な花弁だった。少年は花弁を吐き続け、彼岸花の悪心に苦しめられては、じたばたともがき暴れる。


 少年を助ける者などいなかった。

 彼岸花達は直接手を出してくるか、遠巻きにしていい気味だとほくそ笑んでいるか、無関心か。そのどれか。

 血の通った人間など、いやしない。




「……」

 数度のまばたきの後、柘榴は時間を掛けて深呼吸をした。酷い夢を見た。幼い頃の自分は、今もなお夢で見たように苦しんでいる。

 蜜樹と出会う前の記憶が生んだ夢だった。この村が妖怪の巣窟だと言われる所以を、あの頃は嫌という程食らっていた。脂汗が滲み出る。吾緋村に義理人情などない。この村は、人でなし共の溜まり場だ。


 顔か天賦の才か、あるいは金か。特別秀でたものさえあれば、利用価値があるとして歓迎される。自分は何一つ持っていなかった。加えて己を守る盾となる言葉も、力も、知恵もない子供だった。

 母も兄姉も死んでしまって、残った肉親は、家族の死の原因になった父親だけ。生まれてしまったが運の尽きとすら思っていた。


 家の中も外も地獄だった。村人達は日常的にいがみ合い、嫉妬で他人を蹴落としては嘲笑い、鬱憤が溜まれば弱者を踏みにじって晴らす。そんな地獄を窘める者は一斉にやり込められて、早々に村から去るか、自ら命を絶つまで追い詰められるかのいずれか。

 自分は蜜樹に生かされたようなものだ。蜜樹がいなければ、自分はとっくに。


「……」

 天井を見上げながら、溜息をついた。


 自死したら、蜜樹が悲しむ。だからどんなに辛くても、生きる事を諦められなかった。そうして結局自分は、他人から富を奪う人殺しに落ちたのだ。

 当たり前に明日を迎えると思っていた人間から迸る熱い血の生臭さ、死への恐怖に見開かれた目、道連れにしてやろうと掴みかかってくる血塗れの手の凶悪さ。慣れない頃はそれらに耐えきれず、胃液を吐いては悪夢に叫び、死人の幻影に怯えて盗品の刀を振り回した。


 それも、吹っ切れてしまった。蜜樹の知る自分はもう、どこにもいない。離れ離れになってから十数年が過ぎている。

 傷つくばかりで刃向かえなかった頃の小さな自分と、哄笑しながら標的を仕留め、拷問するのもためらわなくなった自分では、体格も身のこなしも違う。中身の変容に伴って、顔つきも酷く変わってしまったように思う。


 自分らしく生きる為に、殺しを繰り返す。ついには友人が優しく守り続けていた存在さえも葬った。己の心の解放を求め、惰性で生きて、足元に広がるのは罪と血の海。こんなに醜くなった自分を、蜜樹には、見せたくなかった。


「おはよう。調子はどう?」

「…………蜜、樹」


 声のする方へこわごわと向くと、昨晩の男は労るように額を撫でてきた。その手首を掴む。緊張で震えそうになるのをぐっとこらえ、琥珀の瞳を見据えた。


「本当に……蜜樹、なのか」

「? うん、そうだよ」

 きょとんと目を丸くしながら、蜜樹は親しみやすい笑みを浮かべた。


 その笑みが蜜樹本人だと確信させた。吹き荒ぶように駆け抜けた懐古の念が呼吸を止め、蜜樹を掴んでいた手をゆっくり下ろした。幻ではなかった。その事実をどう受け止めるべきか、分からない。

 まとまりのつかない頭の隅で、理性が激しく怒鳴っていた。今すぐに蜜樹の側から離れ、二度とここに戻るなと。決して罪を忘れるな、自分は蜜樹を傷つける刃物であると自覚しろと、叫んでいる。そうしなければならないのは頭では理解している。それなのに、体がまるで動かない。


 蜜樹が、ここにいる。夢ではなく、生きて、目の前にいる。同じ空間に存在している。

 もう一生会う事もないと覚悟していたその人を前にして、長年拗らせてきた慕情と罪悪感が、ここに重い体を縛りつけていた。


 会いたかった。断罪してくれ。側にいたい。拷問でもいいから罰してくれ。胸中に飛び交う思いに際限はなく、目を伏せる。体調が芳しくないのだろうと思ったか、蜜樹はあやすように頭を軽く撫でてきた。


「僕の名前、豆助さんから聞いたんだね」

「豆助……?」

「倒れた君を介抱してくれた人だよ。女性の喪服を着ていた人」

「あ、ああ……あいつか……」

 人懐っこそうな客人を思い出す。そういえば喀血しながら倒れたんだった。


「急に……血を吐くところを、見せちまったんだったか。予想外だったとはいえ悪い事をしたな」

 上体を起こそうとすると、蜜樹は素早く背中を支えてくれた。


「あの人は腕が立つ薬屋さんなんだ。その時は驚いたようだけど、血を見るのは慣れっこだから大丈夫。僕が帰った後、彼は君の症状に合いそうな薬を持ってきてくれてね。その時にはすっかり落ち着いてたよ」

「そうか……それならいいが、後で礼をしに行かないと。蜜樹にも……世話になってばかりだな」

「いいんだよ」

 蜜樹は微笑んだ。


「数年前に父母を亡くして、この家は静かになってね。君が来てくれてから寂しさが和らいだんだ。気にしなくていい」


 そう言いながら薬を差し出して、飲むように促してくる。丸薬を口に含むと、薬草特有の苦味が脳天まで貫いた。水で流しても鼻奥に残る匂いがきつい。思わず口元を押さえると、蜜樹は背中を軽く叩いた。


 懐かしさに胸が張り裂けそうになる。蜜樹は小さな頃も、よくこうして優しく触れてくれた。滲みだした涙が雫になる前に、目を閉じて薬の後味に耐える振りをした。

 すると何を思ったか、蜜樹の両手が静かに頬にすり寄ってきた。手のひらは柘榴より柔らかく、温度は低い。


 それが肌をさする滑る度、浅く清麗な酔いを覚えた。花を愛でるようなその手が藍色の思いを払う様の美しさに、淡い夢を見ずにはいられない。

 その手は慈愛をもって頬を撫で、柘榴の思考の絡まりをそっと解いていった。次第にうっとりと柘榴の目が和らいでいくのを見て、蜜樹は柘榴の顔をやんわりと自分の方へ誘った。


 抵抗なく導かれるまま顔を上げた柘榴は、はっと息を飲んだ。吸い込まれるような、綺麗な双眸がそこにある。

 滾々と流れる清水のキンと澄んだ冷たさが指先に染みるように、蜜樹の視線は、瞳の奥へまっすぐ通る。蜜樹のこの瞳を、よく知っている。まるで目には映らない透明な血管を繋げるように、相手を慈しみながら心を通わせようとする時の瞳。


 この瞳を受け止めたら、正体を暴かれるかもしれない。蜜樹はまだ、柘榴がかつての友人だと気付いていない。あまり距離を詰められると、どこかに過去の面影を見て気付かれる恐れがある。

 それでも、拒めない。目を逸らしたくなかった。ただ蜜樹だけを感じていればいいこのひと時を、まばたきの間ですら止めたくなかった。

 蜜樹はゆっくり微笑むと、口を開いた。


「君はここにいる。死んでなんかない」

「…………な……」

 穏やかな言葉に絶句すると、蜜樹は目を細めた。


「昨晩、君が言っていた言葉が気になっていたんだ。生きている内に会いたかった……そう言っていただろう」


 確かに言っていた。蜜樹とは知らずに口説いていた時に。急速に胃が痛くなる。あの時点で相手が蜜樹本人だと察していたら、決して誘ったりしなかった。気付けなかった自分の間抜けさに目眩がする。

 蜜樹はおかしそうに笑った。


「そんなに渋い顔にならなくても……僕が見つけた時、君は倒れていたし、昨日の様子からして酔っていたんでしょう?」

「あ、あー……」


 あの時にはもう素面だった、と言うには勇気がいる。何しろ妙な事を口走っただけでなく、色事に進もうとしていたのだから。更には自分は死んだと信じ込んでいたのだから頭が痛い。

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