第6話 男の正体(二)
「だーもう、終わりが見えねぇ!」
黙々と部屋の片付けに勤しんでいた柘榴は、ついに涙目で苛立ち混じりの悲鳴をあげた。せっかく分けて並べた衣類をひっくり返しそうになる。
奥座敷は風通しの悪い暗所特有の臭いがしたものの、虫の湧くようなごみはなかった。しかしとにかく衣類が多く、それらを中の間で広げてみれば、砕け散った陶磁器やら、ひしゃげた鈴やら、幼子が宝物と称して掻き集める我楽多がこれでもかと溢れ出た。どれも意図的に破壊されていた。
小物は邪魔ではあったが、掃いて一箇所にまとめておけばさほど気にならない。問題なのは衣類の方だった。量の多さが片付けの手を鈍らせているが、それ以上の問題があった。床を覆い隠していた着物は、子供用の物や演舞用の緞子ばかりだったのだ。
「……もう見る事はないと思ってたんだがな」
舌を打ちながら、並べた着物を見下ろした。再会するとは夢にも思わなかった着物達を。
子供用の着物の大半は昔、友人が着ていた物だった。演舞用のは、散楽者として身を立てていた彼の父が使っていた衣装だ。
やはりこの家の部屋は、自分の心中と深く関わっているのだろうか。この村から離れた後も友人への思いを手放せず、幼い頃の最悪な記憶から逃れられない心。それらが部屋となり、目の前に現れたのだろうか。
「よりにもよって、どうしてこれを……」
苛立ちを溜息と共に吐き出して、どかりと腰を下ろす。仕舞い込んでいた弱さを眼前に突きつけられて、いい気分ではいられない。
友人は生涯で一人しか出来なかった。かけがえのない人だった。友人と過ごしていた頃の自分は誰を信じる事も恐れ、人の気配に怯え、決して目を合わせもしない、無愛想で臆病な子供だった。
友人はそんなのは
当時の自分は、愚直なまでに彼らの幸せを願っていた。この村を出たのも、粗暴な父の子供として冷遇されていた自分と好意的に接した彼らまで、村から白い目で見られ始めていると分かっていたからだった。
馬鹿な人間だ、自分は。己の幸せを捨ててでも、友人が幸せになれるならそれでいいと思っていたくせに、友人が大切にしていた人を殺したのだから。
殺さざるを得なかった。そうしなければ、共倒れになっていた。それでも友人が知らない内にその人を葬ってしまったのだから、赦されるべきではない。友人はきっと今も、自分の大切な存在がどこに消えたか知らない。知ってしまったら、友人の心は砕け、死ぬだろう。
「……」
余計な念を振り払うように、着物を掴んで広げ、温めていた火熨斗でしわを伸ばしていく。
友人からすれば、自分は大切な人を手に掛けた仇だ。あれ程愛情を掛けてくれた友人に顔向け出来ない事をして、その上自分は身の程知らずな事に、恋をしていた。
あまりにも馬鹿げている。惨めで愚かしくて、どうしようもない。地獄に行くのがお似合いというものだ。
「……」
しわを伸ばした着物を畳んで、天を仰いだ。じとりとした汗が垂れるのは、きっと、火熨斗の熱のせいだ。
作業の手を止めさせたのは人の気配だった。遠くに聞こえた乾いた砂利を踏みしめる音が、次第に大きくなっている。音の立つ頻度から窺える足さばきは女性のものだ。
火熨斗を手早く片付けて、早足で土間へ向かう。ここらは山々に囲まれていて、目に入るものといったら
戸締まりをしてすぐに、門戸を叩く音がした。
「おう待ってな、今開け……る……」
言いながら門戸を開いて、つい、困惑で視線を泳がせた。
中途半端に開いた戸の向こう、柘榴よりやや背高の客人は女物の喪服を着ていた。その上、地に擦りそうな黒い絹を被り、女面までつけている。
客人は柘榴を認めると、愛想良く頭を下げた。
「おや、初めまして。あなたはもしかして……いえ、いきなり踏み込んだ事を聞くのは失礼ですね」
仮面でくぐもった声は気さくだった。男の声だ。不審に思いよく見れば、手や首には晒しが巻きつき、肌を覆っている。これが喉仏や手の筋張りを隠す為の物ならば、客人は徹底して、女、という衣を被っている。
予想外の姿に面食らってしまったが、この格好には心当たりがあった。吾緋村では毎年、村のけがれを祓い、豊穣を祈願する秋祭りが行われる。
そこで演じられる里神楽は祭りの花形であり、千年程前にこの地で生まれてから今日に至るまで、伝統として吾緋村で脈々と受け継がれている。
神楽に登場する姫は実在した人間だ。客人の奇特な格好は、この地に眠る姫の念を鎮める儀式の為のものだ。
「鎮魂の儀か。蛇姫の」
客人は感心したように嘆息する。
「ははぁ、よくご存知で。ご覧になった事が?」
柘榴は首を振る。
「ずいぶん前に小耳に挟んだだけだ。蛇姫は筋金入りの悪霊で、定められた装束にならなければ祟られるのだと。それがどんな姿なのかはその時に聞いたが、こうして実際に着込んでいるのを見たのは初めてだ」
「そうですか、そうですか。ああ、ほら、ちょうど儀式の後の歓談を終えた村人達が来ましたよ。ご覧になりますか、あの列を」
客人は人差し指で山を示す。言われるがまま外へ出ると、ジャリ、ジャリン、と耳に障る鈴の音が遠くに聞こえた。
目を凝らした先にいたのは十数人。神事に用いる大幣や、神楽鈴を引きずって歩いていた。背格好を見るに男も女も混ざっているようだが、誰もが客人と同じ格好をしている。
活気なくぬらぬらと砂利道を進む彼らの最後尾は、山肌に設えられた石の階段を降りている。鬱蒼と茂る山の奥に、俗世から隔離された社が潜んでいるのだろう。
風に乗り途切れ途切れに聞こえるのは溜息や、何かを嘲笑う声。物々しい空気を放つ彼らが、邪を祓う神具を握りしめているのが不気味でならない。あれではまるで百鬼夜行だ。
「あれをどう見ますか、あなたは」
悪しきものだと言いかけて、咳払いでごまかした。
神具を平気で引きずって祭る神を冒涜しているというのに、咎める者が一人もいない。本音を言えば嫌悪が強いのだが、彼らと同じ姿の客人に伝えるのは気が引ける。
「あー、まぁ、そうだな。ああやって列を成して帰る様子も伝統の一部だろうし、いいんじゃないか。貴重なものが見れた」
「ふふ、流石流石。あなたは賢くていらっしゃる」
客人は体を揺さぶって笑うと、仮面を外した。現れたのは、好奇心に満ちた目。遊び相手を求める子犬のような目が、柘榴を捉える。
「では次は、正直に。遠慮なさらず、さあ、さあ」
「なんだよ、熱心に聞いてくるじゃねぇの」
つい眉を下げて笑った。悪いやつではなさそうだが、間合いを詰めるのが子供ばりに早い。人懐っこい変わり者といったところか。
客人はワクワクと胸躍らせているのをおおっぴらにしながら、うんうんと頷いた。
「それはもう、あなたに興味がありますからね!」
「どうして?」
腕を組み、軽い気持ちで問いかける。大した事はない、ただの話の接ぎ穂のつもりだった。
興奮で頬を赤くしている客人は、嬉々として身を乗り出した。
「もちろん、懇意にしてもらってる蜜樹さんの家にいる人だからですよ。あなたがどのような人なのか、もう気になって気になって」
「…………は?」
どくん、と、心臓が大きく震えた。
蜜樹。鼓動を乱すその名前が、しつこく頭の中で反響する。客人の声は遠のき、まるで耳に入らない。血の気が引き、足から力が抜け、体温は下がっていく。寒いくらいに、急速に。
「……みつき。蜜樹、蜜樹だって……?」
絞り出した声は掠れていた。蜜樹。それは自分の、唯一の友人の名前だ。
客人はうんうんと首を縦に振る。
「ええ、蜜樹さん。男でも見惚れてしまうくらいの美形ですが、ちょっとズボラなんですよねぇ彼。私の薬を定期的に飲みなさいよと言ってるのに、少し確認を怠るとすぐ飲み忘れちゃって」
「蜜樹……ああ……蜜樹、そうか。ああ、俺は……俺は…………どうしたら」
「……もし?」
客人は怪訝そうに小首を傾げ、直後、引き攣るような悲鳴を上げた。赤い、赤い鮮血が、柘榴の口から溢れたのだ。
何事かを叫びながら駆け寄る客人が、闇に飲まれていく。ここで消えてしまえ、今すぐに消え失せてしまえと己を呪いながら、意識はふつりと途絶えた。
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