第5話 男の正体(一)

 目が覚めたのは、日射の熱が家を温め始めた頃だった。眠りについてから一度も起きずに朝を迎えるのは、何年ぶりだろうか。まどろみの余韻を噛みしめながら起き上がり、ぼんやりした目で隣を見る。


 そこにあったはずの寝具はきちんと片付けられていた。昨晩の男の気配はない。所用で出かけているらしい。書き置きが枕元に残されていた。


「おはようって……言いたかったな」


 快眠の名残りとかすかな寂しさを感じながら、昨晩のひと時を思い出す。優しく抱きしめてきた彼の温もりが、鮮明な喜びを伴って身体に焼き付いている。朝の日差しを浴びながら、緩やかな満足をほうと吐いてみる。朝の眩しい気配と溶け合う息はただ一つ、幸せを指していた。


 身支度を整えて二人分の寝具を干しに外へ出て、その足で山際へ向かった。庭に出て気付いたが、どうやらこの体は家にある物だけでなく、木々や岩にも問題なく触れるらしい。死んだからと言っていきなり浮遊したり、物が掴めなくなったりしたら死人が困惑するだろうと天が配慮してるのだろうか。


 そんなところで配慮されるくらいなら、吾緋村を経由しないでさっさと本場の地獄に放り込むよう手配してくれた方が助かるというものだが。そうはならないのだから仕方ない。


 山に自生するカラスウリの葉やあけびを採取し、野鳥を捕らえ、軽く下拵えしてから早々に腹に収めた。物に触れるならやる事は決まっている。時間を無駄にしたくない。


 彼が帰ってくる前に、可能な限り家仕事をしておきたかった。あの男は久方ぶりの安寧をもたらしてくれた。最早傷つく事すら易くは許されない身の上の自分にだ。


 あの男の清らな幽香に触れて、二度と表に出しはしないと誓って奥底へ沈めた柔な心が、か細い光を放った。救われたと感じたのだ。礼の一つもせずに立ち去れるものか。


「ごちそう様でしたっと」


 空になった食器に両手を合わせ、素早く片付けてから裾をからげる。草刈りに薪割り、掃き掃除、食材の調達に夕餉の下拵え。探せばいくらでもやる事はあるだろう。


 言わずもがな死ぬのは初めてだ。勝手が分からない。幻影が住まう家の仕事をして意味があるのかいささか疑問ではあるが、他に当てもなかった。


 やるだけやろうと意気込んだ時、湿気た匂いが鼻先を掠めた。換気されてない暗所の匂いだ。薄く開いた襖の隙間から流れてくる。

 すらと襖を開けた。直後、眉間にしわが寄る。そこは止まった部屋だった。時節も何も感じさせない、影に影を重ねたような重苦しい闇の詰まった部屋。雨戸も隣室との境もきつく閉ざしていて、ここだけ死んだ空間のように思えた。


 風は通した方がいいだろうと壁伝いに暗い部屋に踏み込むと、素足が厚手の布の奥へ沈んだ。布は着物の感触によく似ている。まさか脱いだ物を奥座敷に放り込んで放置しているのだろうか。そういう事をしそうには見えなかったが。


 床に散乱しているのは何やら布だけではないらしい。布越しにごりごりとした異物を感じる。複数の何かが、底に転がっている。


「……?」


 いよいよ奇妙に感じて首を傾げた。今まで殺しをする際、事前に標的とその周辺を念入りに探ってきた。中には片付けが苦手で、人目につかない場所で横着する人間もいたが、彼らの特徴は整えられた場所にも出ていた。


 試しに中の間との境まで戻ってみる。寝室代わりにしていたそこは、やはりきちんとしている。楚々とした風がよく似合う自然な部屋で、日頃から綺麗な環境を作るよう心掛けている人間の気配がある。暗く淀んだ奥座敷と通じるものはない。


 もしやこの家は、自分の心中でも表しているのだろうか。ふとそんな考えが脳裏をよぎった。中の間は思い人――もう何年も会えていない――が順調に生きていた場合、部屋をこんな風にしているだろうと想像出来るものだ。そして、四方を閉めきり光の侵入さえ固く拒んでいた奥座敷は、どこか幼い頃の自分を思い起こさせる。


「……」


 幼少期の記憶が脳裏を掠め、しばし沈黙した。が、憂慮するにしても場所が悪い。開いた襖付近以外は常夜が座敷全体にこびりついているかのように黒々としていて、足元もろくに見えないのだ。


 じとりと肺の底まで湿らせるような、淀みを伴う空気も気持ち悪い。とにかく換気をしようと部屋の端ににじり寄り、雨戸を勢いよく開け放す。瞬間、しゃんと冷えた風と清い光が部屋を洗った。


 ようやく姿を現したそこは、想像を絶するほど酷かった。埃が光を受けて煌めく部屋は着物の海となり、床が見えなくなっている。何らかのしみがついた壁には亀裂が走り、掛け軸は破れ、着物の隙間には無残に砕けた陶磁器が散っていた。


「…………な、ん」


 たたらを踏みながら息を飲んだ。物言わぬ部屋一つが、こんなにも恐ろしい。

 血が出る程の痛烈な叫びが傷に形を変え、部屋に留まり続けている。陽光に照らされようと、ここに刻まれている声なき叫びの陰惨さは拭えない。光が差した事でかえって物々しさが際立ったようにすら思えた。


「……この村に地獄でない場所など、ないという事か」


 冷や汗を掻きながら薄く笑い、無言で睨みを利かせる部屋に気圧されまいと奥へ足を踏み入れた。

 柘榴の孤独な戦いは、そこから始まった。

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