第4話 引き延ばされた命(四)

 夢でも見ているような気分だった。夜闇の暗さに干渉されてか、しっとりした官能の気配に酔いかけている。相手は男だというのに、この人であるならそのような事は瑣末事だと感じてしまう。知らぬ間に、美貌に理性を溶かされたか。あるいは。


 ――とうに俺は死んだのか。


 倒れる前に視界が真っ赤になったのは、不意をつかれて襲撃され、自分の血を目にしたのではないだろうか。そして今見ているものは、地獄に行く前のうたかたの夢。だとすれば、遠方にあったはずの吾緋村にいるのも、男に対して親しみを感じてしまうのも説明がつく。


 親指で男の頬をゆっくりと撫でながら、嘆息した。無様な人生だった。誰しもが目を背けたがる事ばかりに首を突っ込み、喜びを感じながら命を奪い続けてきた。ただれた生き方だったが、一筋だけ、清らかな思いが胸に流れた事がある。


 柘榴にとって、唯一無二の存在。その人が教えてくれた感情は、温かなものだった。常に奪われ、蔑まれる事しか知らなかった幼い柘榴に、優しい光を与えてくれた人。思えば男の柔和な雰囲気は、その人に通じるものがある。

 頬を撫でられた男は体を強ばらせたが、柘榴を拒もうとはしなかった。


 ――もし彼がこんな風に甘い情を向けてくれたなら、どんなに幸せだっただろう。


「……」


 目を伏せ、密かに唇を噛んだ。もう何年も前に切れてしまった縁を懐かしみ、胸を痛ませる事に何の意味があるのか。


「……はは、愛いねぇ。素直なのは好きだぜ」


 心中を隠して笑うと、男は恥ずかしそうに俯いた。耳まで真っ赤になっている。一回りは歳が離れてそうな男のいじらしい様子が、心を爪で引っ掻くようにくすぐる。


「あんた可愛いな。生きてる内に兄さんと会いたかったよ」

「い、生きてる内に、って……あ…………」


 男の両頬を包んでいた手を耳朶へ、それから首筋へ。雫が垂れるようにゆっくり伝わせて、再び優しく両頬を撫でる。


 そうして愛猫にするように顎先をくすぐると、男は耐えがたいものが迫り上がっているように息を詰めた。その反応に微笑んで、戯れで首を柔く締めながら額同士を擦り合わせる。男の吐息は甘く火照り始め、琥珀色の瞳は期待に蕩けている。


「続けても?」

「……ん」


 親指で目の縁をなぞると、男はふるりと睫毛を震わせた。柘榴の背筋に快感が走り抜ける。一夜限りの火遊びでは感じられない、体内で一斉に花が咲くような鮮烈な快感だった。


 指先で、唇で、男の肌に触れていく。取り憑かれたように男を求めていくのは気持ちがいい。しかし一方で、冷えた思いがスラリと心臓を刺していた。


 目の前の男からかつて愛した人の面影を探し、色めいた触れ方をして悦を得る。胸を焦がす熱は堪らなく甘いのに、虚しくてならなかった。どんなに慕情を男に擦りつけようと、本当に愛する人に思いが届く事はない。そもそも、その人の大切な存在を消し去った自分が、彼への思いを募らせる事すら罪なのだ。


 恋しさと罪悪感が喉奥に詰まりかけて、吐き出したら笑い声になった。何をしているんだと自分に呆れながら、男に縋ってしまう。こうして彼への思いを燃やしながら人と熱を交わし、夜闇に沈むのは、最初で最後だから。


「……兄さん」


 耳朶を甘噛みしながら、そっと襟の奥へ手を忍ばせる。肩から腕へと撫でさすりながら、男の寝間着を下ろしていく。


「俺と一緒に駄目になろう?」

「……ん…………」


 男は頷いた。美人が恍惚としながら密事を許すのは凄まじいものだった。色気とは乱れ髪を垂らす娘の白肌から立ち昇るものと思い込んでいたが、己の無知を恥じるばかりだ。

 男の温度の低い手のひらが、こちらの頬にあてがわれる。間近に迫る濡れた瞳と、薄く開いた唇。焦れったい僅かな隙間に、茹だるような恋をる。


「……いい子だ」


 囁きが解けるより早く、唇同士が重なり合う。喉を鳴らす音が、しとりと空間を濡らした。

 男の寝間着は脱がす手に従い滑り落ち、男の素肌が露わになる。冷えた隙間風が肌の上を掠めていくのに、体温は急速に上がっていく。男の体はほのかに強張っていた。それもくちづけを幾度も重ねる内に柔くなる。


 下唇をついばむように吸いつき、舌先でちろちろと伺いを立てると侵入を許された。柘榴の舌は男の口内を丹念にねぶり、舌を絡め合わせて吸い上げる。激しく脈打つ鼓動。淫靡な水音。男は必死に柘榴の胸元にしがみつき、着物にきつい皺を作る。


 思い人の影が重なる美丈夫と、情を交わしている。冥土の土産にしてはあまりにも甘美で、ぞくりと背筋が震えた。愛おしく思うまま男の頬を撫でさすると、指先が温かく濡れた。一つ、二つと頬を滑り落ちるそれは口内にも伝っていく。塩辛かった。

 顔を離して見てみれば、男ははらはらと涙を零していた。


「……っ」

「に、兄さん?」


 脈絡がない涙に動揺する。なぜここで泣かれるのか分からず、寝床の脇に置かれていた盆の手拭いで雫を拭っていく。


「悪い、性急だったか」

「違、違う……そうじゃないんだ……」


 男はそう言うと、涙の膜に覆われた瞳で見つめてくる。思わずどきりとした。弱々しい瞳なのに、一瞥で薄れた過去の底まで見通されたような、不思議な感覚に陥った。

 男は柘榴の肩に顔を埋めてきた。


「すまない……取り乱すつもりはなかった。だけど……」

 口ごもり、男は腕の力を強めるばかりだった。


 情事の最中、裸になるのは体だけではない。硬い殻を脱ぎ払った果実のように、心も纏う物を失くし、相手の眼前に晒される。経験が浅い程、その傾向は顕著だ。

 男は初心な様子を見せていた。心身の高揚と共に、内に秘めていたものを上手く隠せなくなったのだろう。


 無理をさせてしまっただろうか。前戯にも至らないのに泣かれてしまった衝撃で困惑するも、内心で首を振る。男の乱れた息遣いは、むしろこちらを熱心に求めていた。

 男は言葉を濁した。きっと行為そのものは涙の引き金でしかなく、口にするのがはばかられるような何かが原因なのだろう。


「……気にするな。俺の胸で良ければ貸すから」


 宥めるように背中を撫でてそう言うと、男は涙に濡れた声で小さく呟いた。


 一人にしないで、と。


 その瞬間、柘榴の息が止まった。心臓を氷の手が握りしめたように、体が冷えた。思い人と似た風体で、縋るように言われると心が軋む。自分は思い人の大切な人を、消してしまったから。

 頭を振り、深呼吸して、肺に空気を送る。半ば強引に落ち着きを取り戻しながら、柘榴は男を強く抱きしめた。


「…………分かっ、た。一緒にいる。ただ……一つだけ、頼みたい事がある」


 言いながら男を力一杯抱きしめる。男の涙の原因と、自分の胸の冷えが、互いの体温で溶けて消えてしまうよう強く。


「寂しいだとか、悲しいだとか、そういう気持ちに支配されそうになる度に、こうして俺をその腕で捕まえてくれ。そうしたら、何もしないよりかはあんたは助かるだろ」

「…………」


 しばらくの無言の後、男はじっと柘榴を見つめた。不安定に揺れる瞳に笑いかけると、男は深く、細く息を吐き出して、柘榴の額に自分の額を擦り合わせる。


「……落ち着いてきたか?」

「…………うん」

「そう、よかった」


 軽く頬に唇を触れさせると、男はやや気恥ずかしそうに目を伏せた。弱った姿を見せてしまったからだろう、羞恥が男の頬を染めている。見ているものは夢のはずなのに、その様子は妙に人間らしく現実味を帯びていた。


 柘榴が中途半端に剥いだ寝間着を整え、男は自分の寝具を敷いた。柘榴が使っていた寝具の隣に隙間なく敷き、双方の肌掛けを中央で重なるように寄せる。その際、男は時折、左手で掴んだ物を落としていた。ほんの少し前まで睦み合っていたせいで、力が入らないのだろう。


 協力して寝床を作った後、柘榴は男が貸してくれた寝間着に着替え、行灯の火を消して布団に収まった。月明かりだけが頼りの中、間近で向き合った男の呼吸は安定していた。柘榴は安堵の息をつく。


 いつ消えるかも知れない夢の中の存在を気に掛けても仕方がない。そう分かっていても、放っておけなかった。男の心が満たされて、涙の理由がなくなるまで側にいたい。そんな無謀な願いを、いつの間にか抱いてしまっていた。


「……ねぇ」

「ん?」


 視線を上げると、男に頬を撫でられた。恐る恐る硝子細工に触れるような、繊細な手付きだった。

 つい吹き出してしまいそうになる。拳で何度殴られようと壊れやしないのに、男の触れ方は大事なものに触るように丁重で、その差がおかしかった。そういったところも、よく似ていた。もう、記憶の中でしか会えない人に。

 男は瞳を潤ませて、静かに目を伏せた。


「僕は……今、夢を見ているのかな」

 男は小さく、そう呟く。


「残りの人生の幸せを使い果たしてしまったくらいの幸せを、感じてるんだ」

「へぇ? そんなに俺が好きなのか」

 からかうように囁いて男の髪を指先に絡めると、男はアッと呟いて口元を隠した。


「え、えっと……そういう意味じゃ……」


 オロオロと困惑している男の顔は暗がりでよく見えないが、きっと赤い。可愛い人だと笑ってしまう。素直で、色事の経験がないように見える。


「俺は兄さんとの口吸い、蕩けそうになるくらい良かったよ。兄さんは気持ち良くなかった?」

「そんな事はな……、……勘弁してくれ……」


 反射的に否定しようとしていた男は、困り果てたように手で顔を覆い隠してしまった。柘榴は湧き上がる愛おしさに苦笑しながら、男の手の甲にくちづけ、腕をその背に回した。


「夢だったとしても、俺がここで見て触れたもの、感じたものは全部、大切にする。だから兄さんも、これが夢だったとしても俺の事を覚えててよ」

 首元に擦り寄って甘えると、ややあってから男は深く頷いた。


「……君を忘れる方が、難しいよ」

 男は柘榴に腕を回すと、全身で包み込むようにしてきつく抱きしめた。


「どうした。寂しくなったのか?」

「いや……目が覚めた時、君がいなくなってしまわないように抱きしめてる」


 真剣な声に、柘榴は笑いながら感慨に耽った。失いたくないと切実に訴える腕に捕らえられるのは、心地良かった。


「俺も、もう少し……あんたと一緒にいられるように、願っとくよ」


 脚を男に絡ませて、腕に力を込める。

 この夢が消えるまですぐなのか、まだ猶予があるのか分からない。もし時間があるなら、この男が涙を流した原因を取り除いて、心から笑えるようになるまで、側にいたい。


 贅沢な望みを胸に、抱きしめられながら眠りについた。土間では記憶を奪う花――忘れ花の異名を持つ彼岸花が、夜風に煽られ揺れていた。


 幸せを蝕む赤が、揺れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る