第4話

「おてるちゃんっていうんだね」

「はい。お願いします」

「私の名前はしず。旦那さまの名前は清吉。おてるちゃんには、トシがいろいろ教えてくれますからね」

「私はもう年寄りだから、手伝ってくれると助かるよ」

「はい。お願いします」

「しっかりとした面立ちの器量良しさんだこと。おようさんたちと出会えて良かったわねえ」

 その時初めて助けてくれた大八車の女の名前を知りました。『おようさん』忘れずにおこうと思いました。

「おてるちゃん、旦那さまですよ」

 その声に振り返ったてるの目に、主人の清吉は大層立派に見えました。女房のしずは若く、整った顔をしています。自分が住んでいた村の人々とは身なりも顔立ちも、まるで違って見えました。

 てるに仕事を教えてくれるトシという人は、店の雑用ばかりでなく、職人たちの世話までしていました。なかなか厳しいトシでしたが、てるは必死に覚え三日が過ぎる頃には、一日の雑用をこなせるようになっていました。

 朝早くから夜布団に入るまで、働き通しでしたが苦労だなどと思ったことは一度も無く、職人たちが細工する綺麗なかんざしを見ることもできる、それは幸せな日々でした。

 そんな穏やかな日々が続き、半年が経とうしたある夜のこと。

「誰だお前たちは!」

 主人の鬼気迫る怒鳴り声に、てるは布団から飛び出しました。この家に居るのは主人夫婦と職人四人と下男二人、そしてトシとてるです。

 聞いたことのない、すさまじい物音と怒号と悲鳴に、てるは混乱し背戸近くの土間に、うずくまっておりました。何が起こっているのか分からず、震えが止まらずただただうずくまっておりました。何か恐ろしいことが起こっていると、てるは直感しました。

 その内に家の中は静まり返り、今度は不気味なほどの静けさに包まれたのでした。

 その静けさの中、もたつく足元で障子や襖につかまりながら、倒れ込むようにトシがてるの前に現れました。暗くてはっきり見えませんでしたが、確かにトシでした。

 てるは微かに差し込む月明かりを頼りに、トシを探しましたが、襖につかまっていたトシは、もうそこにはおらず、暗闇の中、畳の上に正気がなくなったトシが横たわっているのを見つけました。

そしてトシの唇が微かに動き、

「逃げて! 早く」

 そう読みとったてるは、頷くと一目散に裏戸から逃げ出し、木戸を開けると走って走って走りました。恐ろしくて振り返ることなど到底できません。

 村の中ほどを流れる川にたどり着くと、橋のたもとに逃げ込み、身体を小さくし頭を抱え続けました。どうぞ見つかりませんようにと祈り続けるてるの歯は、震えでカチカチ音を立てました。

 そして辺りが白んできたと思った時、道行く人々の活気ある声がし始め、てるはふらふらとその人並みの中に出ました。

 その中をぼんやり歩くてるの耳に、突然信じられない言葉が飛び込んできたのでした。

「大変だぞ! 佐田屋が強盗に押し入られたぞ! 皆殺しだとよ」

 てるの足はその場に止まり、がたがたと震えました。トシは自分を逃がすために、最期の力を振り絞ってくれたに違いないと思った時、せきを切ったように涙が溢れ出し、てるは泣き続けたのでした。

 どのくらいの時間、道の隅に座り込んでいたのか、てるは人込みを避けるように賑やかな通りを背に、歩き出していました。

 次から次へと起こる不幸な身の上を呪い、自分など生まれてこなければ良かったと思いうのでした。  



家一軒ない道をふらふら歩いていたてるに、

「おい邪魔だぞ! 避けろや」

 てるが道の端いっぱいに寄ると、旅芸人の一行が通り過ぎました。

「あの、どこへ行くんですか?」

「日本橋だが」

「私もついて行っていいですか?」

 荷物を押さえながら歩いていた男は、てるの頭から足の先まで眺め、

「ああ、手伝ってくれりゃあ握り飯くらい、喰わせてやるよ」

 てるは男のその言葉にすがってしまいました。疑う余裕すら無いてるでした。

 地獄に続く一本道だなど、知る由もなく。

 しかし一行との道中は、それはそれで楽しいものでした。

 そんなてるの目に、今だ目にしたことのない賑わいが見えてきました。

(これがお江戸日本橋)

 てるの胸は高鳴りました。ここなら働く所もたくさんあるはず。胸躍らせて辺りを見回した時、見知らぬ男が二人近づいてきました。そしていきなりてるの腕を掴むと、てるを引きずり始めたのでした。抵抗しても叶うはずもなく、土ぼこりだけが立ちました。

「座長さん!」

 てるの声に耳も貸さず、座長は男たちから受け取った金子を数えております。

「座長さん!」

「さあこっちへ来な!」

 両腕を掴まれ、あっという間に連れ込まれたその店には、独特な異様さを感じました。

「今日からお前はここで客をとるんだ。いいな! ふざけた真似しやがったら、ただじゃおかねえからな! おとなしく客の相手をしていれば、綺麗な着物着せてやるからよ」

 客を取るの意味など知るはずもありませんでしたが『今度こそ終わりだ』とてるは、半ば諦めに似た感情を抱きました。

 そしてとうとうその日の内に、てるは客を取らされました。岡場所という地獄でした。

 涙で瞼は腫れ上がり、噛み締めた唇は紫色に変色しました。

「あんた新人かい? ここに来たからにゃ諦めるしかないんだよ。少しでも多くの客の相手をして、お足をふんだくれば良いんだよ。ここへ来る男なんざ、ちょろいもんだからさ」

 諦めたように、ぼんやり外を眺める女たちの一人が、吐き捨てるようにそう言いました。てるはその部屋の隅に横たわりながら、

世の中にはこんな所があるのだと知りました。そこは異様な雰囲気と例えようのない臭い。ここへ連れてこられてから、たった一日しか経っていないのに、何年も何年も過ぎた程の喪失感を感じておりました。

「おちよ! お客さまだよ。おちよは器量が良いから客がよくつく。頑張っておくれ」

 暗い表情の女が隣の部屋から出てきました。二階の部屋に続く階段の下まで、下働きの女に見送られ、おちよはポンと背中を押されました。その瞬間、着物の裾をまくり上げると、突然裸足のまま無言で外へ駆け出しました。

「ちよが逃げたぞー。足抜けだー」

 男たち数人がすぐさま女を追って行きました。結果は言わずと知れたこと。女はすぐに連れ戻され、奥の部屋に引きずり込まれました。女の悲鳴が店中に響き渡り、てるは堪えきれず耳を塞ぎました。

 悲鳴が聞こえなくなり、男たちが薄暗い部屋から出てきた時、

「おめえも逃げれば同じ目に会うからな」

 そう言って、男はてるの肩をつきました。男たちが姿を消したのを見届けると、てるは気付かれないように、そっと奥の部屋を覗きに行きました。女はぴくりとも動きません。

 その時、人の気配を感じ、てるは身構えました。下足番の年老いた男でした。

「心配せんでいい。こう見えてもわしは奴らとは違う。かわいそうに、いつまでもつか」

「ちよさんのこと? もつって?」

「いつまで生きていられるかってことだよ。かわいそうに。おまえさんも早く戻った方がいい。ここに居ることが分かったら痛い目に合わせられる。早く行きな」

 血の気が引き、言われるままに、てるは部屋に逃げ込みました。

 そんなことがあった日から、はや数ヶ月が過ぎていました。ちよという女の顔は、あの日以来見てはいません。誰も口にもしません。ここはそういう所のようでした。

 それから一年が過ぎ、諦めが身についたある日。 

「みんな聞いてくれ。今日からここで働くおつうだ。姉さんたちに挨拶しな」

 また新しい女が連れてこられました。

 つうは誰の顔も見ることができず、下を向いたままでした。

 その夜、てるはつうに声を掛けました。

「いくつ?」

 七歳と聞いて、てるはひどく驚きました。自分が村を出た年より三歳も年下だったからです。

更に驚いたことは、

「私がおろちから逃げたことが分かれば村に天罰が下る。だから村へは二度と帰れません。私はおろちに連れて行かれる前に、助け出されてしまったから……」

 つうは人身御供の話を信じきっていました。てるは自分とまったく同じ境遇だと驚きました。

 おろちから助け出すと見せかけて、茶くみ女や飯盛り女、遊郭や岡場所へ売り飛ばし、水揚げ料を稼ぐ。

 口減らしのために幼い娘を手放した親の元には、水揚げ料の内の少しの金子が渡されたという。

 おろちでも何でもない。親に売り飛ばされたというのに……。 

 もっとも、本当の真実を知ったのは、てるもここに来てからでした。

 てるは自分と同じ境遇の娘たちが、たくさんいることを知りました。

 しかしそんな感傷はここでは全く通じず、考えても意味のないことでした。



「てる! ちょっとこっちへおいで」

 岡場所の雇われ女は、真新しい着物を衣紋掛けに掛けながら、てるを見て薄笑いを浮かべました。

 てるは小間物問屋の手代と名乗る客の座敷へ上がることになったのでした。手代はてるを見るなり一目で気に入り、座敷を掛けてきたということでした。

「お前は色が白くて器量が良いから、いい客がついた。いいかい! 怒らせるようなことをするんじゃないよ! 可愛がっておもらい。小間物問屋の手代さんだからね」

 その夜、言われた通り緊張気味に座敷へ上がると、そこには気のよさそうな男が座っておりました。苦労知らずといった感じの、その小間物問屋の手代の第一印象は、別段嫌な感じではありませんでした。

「みやげを持って来たんだが……」

 その手代はいきなりそう言うと、上質なふくさを開いて見せました。そこにはきらきらと輝くかんざしが包まれていました。

「綺麗!」

 思わず言葉にし、てるはかんざしに顔を近づけました。

「挿してあげよう」

 手代はかんざしをてるの髪に挿しました。

「よく似合う」

 てるは無邪気に笑い、手代を喜ばせました。そして二人の仲は近づいていき、上質な着物、様々なかんざし、更には金子を直接握らせてくれることもありました。

 それからというもの、手代は度々通ってくるようになり、毎回てるが座敷へ上がるようになりました。

 てるも正直、手代が来るのを心待ちにするようになっていたのでした。

 しかし会えば会うほど、不思議に思えることが増えていき、この男は手代などではなく、小間物問屋の息子なのではないかと思うようになっていたのでした。

 なぜなら、この男がやってくる時は、必ず身なりのきちっとした年配の男が付き添って来ます。

そしてその男が迎えに来ると、一緒に帰って行くのです。しかも店に金子を払うのは、決まってその年配の男でした。

 問屋の手代がこんなに羽振り良くできるものか……あり得ないと思うのでした。

 てるは一計を案じました。

 甘えた声で言い寄り、自分を見受けして欲しいと持ちかけてみたのです。

 自分は本当は商家の娘であると嘘もつきました。店の借金の形にここに売り飛ばされたのだと嘘を重ねました。こんな所はもう耐えられない。どうか私を助けて欲しいと懇願し甘えました。

「毎日一緒に居たい」

 てるは一筋の涙を流して見せました。

 すると男は、てるを抱きしめてこう言ったのでした。

「よし、分かった分かった」

「一日も早く」

 分かっているよと言わんばかりに、男は頷き続けました。

 てるは男がいつもやって来る、暮れ六つを待ちわびるようになっていました。

 そして二日後の暮れ六つ過ぎ。

 その日はいつも連れ添って来る年配の男だけが、店にやって来たのでした。いつもと違う成り行きに、てるの不安は胸が裂けそうなほどになり、身を乗り出して二階から帳場を覗きました。

 年配の男は、店の主人と何やら話をしています。すると店の主人はてるを見上げ、下りて来るよう手招きをしました。

 てるをは着物の裾を捲しあげて階段を下りると、不安で血の気を失った顔を二人に向けました。

「支度をしてきな!」

 店の主人の言葉でした。あまりに唐突で理解できずに立ち尽くしているてるに、

「何をしている! 湊屋さんがお前を見受けしてくださるんだ。お礼を言いな」

 てるは慌てて深く頭を下げ、二階へと駆け上がりました。

 荷物といってもそれほどありはしません。風呂敷を広げ、手代から貰った着物や帯、かんざしをそれに包みました。そして一番のお気に入りの着物に着替えると、急いで階段を下りました。

「ほう! 見違えたなあ。本当にてるか?」

 店の主人は高笑いをし、こう付け加えました。

「お前のような果報者はそうそう居やしないぞ!」

てるは頷きはしましたが、ここを出ることができるという嬉しさで、胸はいっぱいでした。

 思いがけず、すんなり受け出されたてるは、小間物問屋湊屋の別邸に囲われました。てるの身の回りの世話をする女たちも付けられました。てるの境遇は一変したのでした。

 やはりてるが思った通り、手代は湊屋の一人息子の幸助でした。幸助は三日と空けず、てるの元に通って来ました。

 相変わらず穏やかな幸助のことを、てるも今日か明日かと待ちわびるようになっていました。

 不自由の無い、それどころか恵まれ過ぎている日々が、一年ほど経ったある日のことでした。

 てるの存在が湊屋の主人の知るところとなり、別邸から出て行かねばならなくなったのでした。

「息子には何も言わず、ここから出て行っておくれ。それなりの金子は渡す。分かったな! お前には私が何を言わんとしているか、理解できるはずだ。見れば息子が見初めただけのことはある女子と見た。生まれや育ちをけなす訳ではないが、一日も早く出て行っておくれ。良いね」

 てるは無言のまま畳に額を付け、湊屋の主人を見送りました。

 てるが生きてきた日々を思い返せば、ここでの暮らしは身分違い分不相応でした。

 湊屋の主人が言わんとすることは説明など要らず、てるはここを出て行く覚悟を決めていました。

 上等な着物やらかんざしは、全て金子に変えました。

 一人で生きていくために、まずてるが手掛けた仕事は、逃げたい女を探すことでした。

 岡場所で飽きるほど見てきた女たち、限界を越えて働かされている女たち。

 一目見るだけで、てるには分かるのでした。てる自身に染み付いた習癖のようなものでした。

 岡場所に出入りしていた商人の中でも、信用できる店に、こうした女たちを雇ってもらう。尼寺へ頼み込まねばならない女たちもいました。

 そうしたてるの誠実さは、頼りにされる一方、命を脅かされることもありました。

 身体に染み付いた感を頼りに、ありとあらゆることをしました。人に言えないことも、

平気でしてきました。

 そんなてるでしたが、一貫して貫く理念がありました。

 それは『お天とさんのあるところ』

 子供の頃の口癖です。

 そうしたてるの性分は、口伝えに評判を呼び、今の仕事である、口入れ屋を始めるきっかけになっていったのでした。

 地獄をくぐり抜け学んだ悪賢さと、持ち前のきっぷの良さで、てるは押しも押されもせぬ、女主人になっていました。

 そして財力を身につけると、岡場所からつうを見受けし、更に似た境遇の女たちを次々に受け出し、自分の店で面倒を見るようになりました。

 てるの口入れ屋に女がわんさか居るのは、そうした理由からでした。

 てる二十七歳の秋のことでした。




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