第3話

 その昔、てるが十歳の秋のことでした。

 五人兄弟の長女ということもあり、母親以上に兄弟たちの面倒を見、畑仕事を手伝い、夜は皆が寝静まった後から俵用の縄を編む。これがてるの一日となっていました。手先の器用なてるがなった縄で作った俵は、丈夫で長持ちすると評判になるほどでした。

 そんないつもの一日が始まろうとしていた早朝、

「てる! 山へむかごを取りに行ってきておくれ」

 父親に頼まれたてるは、目の細かい葦で編んだアジカを抱え、裏山へと入りました。てるは途中で拾った木の枝を片手に、慣れた山道を歩いておりました。

 その時ふと足を止めたてるは、来た道を振り返りました。道を間違えた訳ではありませんでした。むかご取りはてるの仕事であり、父親があえてそれを指示したことに違和感を感じたからでした。妙に静かな物言いもその違和感の一つでした。

 少しの間立ち尽くしていたてるでしたが、木の枝を握り直してまた歩き出しました。毎回立ち寄る最初の蔓に手を伸ばし、軽く引っ張ったてるでしたが、更に山の奥へ入って行きました。

 手に持った木の枝で、密集した葉を除け蔓を探し出すと、枝の先へひょいと引っ掛け、引き寄せて蔓に成った小さなむかごを摘み始めました。葉も黄色みを帯び、ぽろぽろと、アジカに半分ほど溜まったところで、てるは次の場所へと向かうことにしたのでした。

「ここはまだ早いな。小さすぎる。お天とさんのあるところ!」

 これはてるの口癖でした。日がよく当たっている所という意味なのです。しばらく進んだ所で、木の枝を高く掲げてまた葉を掃い、枝に蔓を巻きつけようとした時でした。

 てるは何者かにいきなり背中を殴られ、気を失ってしまいました。



目を覚ましたのは薄暗い場所でした。必死で記憶を辿り、むかごを採りに山に入ったことを思い出しました。けれどその時、てるの顔は一瞬にして血の気を失ったのでした。柱に縛りつけられていて動けない。手は後ろ手に縛られ、両足もきつく縛られていたのです。状況が理解できず、ただただ涙を流しました。「おっかさん!」と叫ぼうにも、手拭いを嚙ませられているため声になりません。

「今日の娘は辰んとこの一番上だとよ。可哀想だけんどよ、これが親孝行ってもんよ」

 外で声がします。てるにはすぐ、それが自分のことだと分かりました。男たちが入ってきたらどうしよう……殴られるに決まっていると、きつく目をつむりましたが、身体の震えを止めることができません。震える音を男たちに聞かれたら、きっとここへ入ってくるに違いない。てるは動くまいと必死で深く息を吸い、気持ちを落ち着かせようとしました。しかし十歳の子供が錯乱状態の頭の中を整理できるわけもなく、祈りながらただただむせび泣きました。

 祈りが通じたのか、話し声はそれきり遠のきました。

(男たちが居なくなった。逃げるなら今だ)

 そう思ったてるは、縛られた腕を力の限りに動かしました。けれど動かせば動かすほど、容赦なく手首に食い込み、更に背中に激痛が走りました。その瞬間、背中を殴られたことを思い出しました。

『そうだ! むかごを取っていた時、誰かに背中を殴られた』

 腹立たしさから痛みが数倍に感じられました。どういうことなんだろう? なぜ? いくら考えてもてるに思いつくはずもなく、ただただ泣きながら腕を動かし続けました。

『おっかさん助けて! おっかさん助けて! おっかさんに会いたい』

 その時でした。木の板の隙間から一筋の光が差し込んできました。そして光のその先に、見覚えのある祭り太鼓がぼんやり浮かんで見えました。

 てるは少し薄明るくなってきた辺りを見回しました。漏れ込んでくる朝陽を頼りに見ていると、少しずついくつかの物が見えてきたのでした。

 神棚、榊立てを含むいくつかの神具。

 そして神棚の後ろにあてがわれた小さな当て縄。

 自分が縛りつけられているここは、遊び慣れた村はずれのお社に違いないと思いました。周りに置いてある物全てに見覚えがありました。

 放心状態のてるの頭に、母親から聞かされた昔話がふとよぎりました。 



むかしむかし、それはそれは貧しい村がありました。田や畑は耕せば耕すほど、大きな石にぶつかり難儀をしたが、村人は諦めることなく耕し続け、芋などを作り生きる糧にしておりました。

 しかしある日、耕した畑は、なんと一晩で元の荒地に戻ってしまったのでした。それを不可思議に思った村人たちは、こんなことができるのは、きっと竜神さまに違いない。竜神さまがお怒りになっておられると思ったのでした。

 その時一人の村人が言いました。竜神さまはこんなひどいことは決してなさらない。わしらの苦労をいつも見てなさる。きっと見たこともない化け物がこの村に住みついたに違いないと。

 その意見に賛同した村人たちは、夜な夜な鎌を手に、茂みに隠れ、化け物を待ち伏せしたのでした。

 すると何処からともなく生暖かい風が吹き始め、その風はあっという間に渦を巻き、空から地へと吹き下りました。そして今度は土も石もそこらにある物全てが巻き上げられ、地へ降り落ちました。茂みに隠れていた村人数人がその渦の中に巻き込まれていきました。助かった村人が見た物は、吹き荒れる渦の中、幾重にもとぐろを巻く、おろちの姿でした。腰を抜かし、声を詰まらせ這うように逃げ帰った数人の村人は、その恐ろしいさまを皆に語りました。その話を聞いた村の長老は、おろちが村に現れたからにゃ、生娘を人身御供に差し出さなくてはならない。でないと村は、皆殺しにされてしまうと皆に話しました。

 その夜村人たちは、ほこらの柱に一人の生娘を縛りつけました。するとおろちは、すさまじい風と共に現れ、生娘を天高く連れ去ったのでした。

 暫くすると辺りは徐々に静けさを取り戻し、村に平和が戻ったという昔話でした。

 てるはきっとその人身御供に自分がされるのだと思い、縛られた腕をちぎれんばかりに動かしました。にじみ出た血が縄を赤く染め、痛みがしびれに変わった時、徐々に緩んだ縄はするりと床に落ちました。てるはすぐさま口に嚙まされていた手拭いを外すと、足を縛ってある縄の結び目をむきになって引っ張り、無理やりそれを外しました。しびれた足を擦り、血が滲む腕を押さえました。

 そしてその縄を拾い集めたてるは、突然動きを止め唇を震わせたのでした。震える唇をそのままに、声を殺して泣きました。

 端っこがぼさぼさに解けたこの縄に、見覚えがあったのでした。それはいつもてるの家の大戸の横の馬屋に引っ掛け、何かにつけ使われていた縄でした。

 そこに馬はとうに居ませんでしたが、みのや草鞋などと一緒にいつも引っ掛けてある縄でした。見間違えるはずはありませんでした。

 それはてるがなった縄だったからです。

 大粒の涙が止めどなく流れました。身体中を震わせながら、てるは涙が流れるのに任せていました。

 おっ父さんに言われてむかご取りへ出かけた。そしてその最中誰かに背中を殴られ気を失った。そしてここへ連れてこられ、柱に縛られた。しかもてる自身がなった縄で。それがどういうことか、説明は要りませんでした。

 胸が痛くて苦しくて、このまま死んでしまいたいと思いました。

 しかしその時、

「今日のおろちは隣村の高部さまだとよ」

「ばかたれ! 言葉には気をつけろ。聞かれたらぶった斬られるぞ!」

「けどよ、可哀想なもんじゃねえか。いくらで売り飛ばされるんだか。男に生まれりゃ、ちったあ良かったのによ」

 男たちの声が近づいてきます。

 てるは立ち上がると、社の北側の板を外し始めました。そこは板二枚分外れ、子供ならすり抜けられるのです。村の子供たちは、雨が降るとそこからお社に逃げ込んでは遊んだものでした。

 てるは縄を握りしめると、頬の涙を拭うことなく唇を真一文字に結び、お社から抜け出しました。

「いったいいくらで小娘は売り飛ばされるんだか、おめえ知ってるか?」

「知らねえけんどよ、微々たるもんじゃねえか?」

 そんな男たちの声を背に、板を元に戻すと、てるは村外れに向かって走り出しました。

 身体から全てが抜けていくのを感じていました。それでも足は勝手に辻へと向かうのでした。

(この辻から先へ行ってはなんねえからな)

 親にいつも言い聞かされていた、十条村の辻にいつしかてるは立っていました。

 そんなてるの前を、男と女が大八車を引いて通り過ぎて行きました。

 その瞬間、てるの足は引っ張られるように前に出ました。

 てる自身の道を選択した一瞬でした。

 もう戻る家などない。地獄へ繋がる道だとしても、この道を行くしかないと思っていました。

 大八車の二人とは少し距離を置き歩きました。長い長い距離を歩きました。

 その時、大八車を引く男がそれを押す女に声を掛けました。

「もう少しで村だからな! しんどくなったら手を離していいぞ。乗っかってもいいぞ」

「大丈夫だよ。うちは負け・ん・女だ」

 大八車の輪が石に乗っかる度に、女の声は途切れ途切れになりました。振り向いた男の額から汗が流れ、それは首に流れ落ち、着物の襟元を濡らしていました。

 そして長い坂道を上りきると、当たり前のように下り坂が待っており、男は瞬時に体制を変え、前屈みだった上体を後ろに反らせました。女は荷を留めている縄をしっかり握りしめましたが、身体は尚も前方に傾いておりました。

 てるから見える様子はこんなものでしたが、大変さは充分に伝わってきました。

 昨日までのてるなら即座に走り寄り、手を貸したに違いありませんでしたが、今日はそうはしませんでした。

 日が西に傾き、辺りはすっかり暗さを増しました。いつもなら、かまどの前にしゃがみ、粥を炊く火の番をする時刻です。その独特な匂いを思い出した時、何やら叫んだ男の声で、てるは前方を見ました。煙が立ち上る家々が何軒も見えました。隣村に辿り着いたようでした。

 着のみ着のまま、何も持たないてるの不安は、暗くなるにつれ、相当なものになっていました。

「おいで娘さん!」

 その声に視線を向けると、さっきまで大八車を押していた女が、手拭いで首の辺りを拭いながらてるを見ていました。

 長く歩いたせいで、疲れきっていたてるの足は、立ち止まったことによりじんじんと音をさせて痺れ、小刻みに震えました。右に左によろけながら踏ん張り通した足を、大きく開いて身体を支えました。

 その時女に左の腕を強く掴まれ、てるは我に返りました。

「大丈夫かい娘さん!」

 てるは少し頷いて見せました。

「娘さんだけじゃ、旅籠へは泊まれないよ。私らの連れってことにするかい? ここはいつも私らが使う旅籠でねえ。あれまあ、腕も足も血だらけじゃないか! 転んだのかい?」

 てるは咄嗟に腕を引っ込めました。それを見た女は、無理やりてるを旅籠に連れ込むと桶に水を汲み、上がり框にてるを腰掛けさせました。されるままに腰を下ろし、両手を框に掛けると、てるは勝手に揺れてしまう身体を必死に支えました。

 女は我が子の足を洗うように草鞋を脱がせ、片足を水の中に浸けました。

「誰かに縛られたのかい? でなきゃこんな所にこんな傷はつきゃしないからね」

 言いながらてるの顔を見上げた女は、すっと視線を落とし、

「言いたくないんだね。いいよ言わなくても。きっと辛い目に会ったんだ。かわいそうに……」

 てるは表情を変えることなく下を向き続けました。

 部屋に通されると、男も女も安堵の声を漏らし座り込みました。

 部屋といっても、枕屏風が置かれ、隣と区切られているだけで、他の客の様子は丸見えでした。枕屏風は一部屋に三隻置かれていました。しかし旅籠など、勿論泊まったこともなければ見たこともないてるの目には、それは新鮮に映ったのでした。

「旅籠は初めてかい? まあお座りよ。今夜は娘さんと私と布団は半分こだからね。夜食も半分ずつ食べよう。いいだろ半分でも」

 てるは慌てて首を横に振りました。

「おや、半分じゃ足りないかい? よっぽどお腹が空いてるんだねえ」

 連れ合いらしき男も、女と一緒に笑いました。

 てるはなおも首を振り続けながら、

「お腹は空いていません。おばさんが全部食べてください」

 それを聞いた男と女は言葉を詰まらせ、女の目には涙が光り、男は鼻をすすりました。

「何て娘だろうねえ、まだ小さいのに……。けどやっと喋ったねえ。よし何もかも半分こだ。布団も半分、夜食も半分こだ。ちゃんと食べるんだ。いいね」

 てるの身体から、不思議なほど力が抜けました。張り詰めていた気持ちがほぐれていくのを感じていました。

 夜食を半分もらい、布団に身体を横たえると、あっという間に深い眠りにつきました。

 その夜の夢の中、あの恐ろしいおろちが現れました。そしててるが居るお社をぐるぐる巻きに巻き込むと、空高く持ち上げました。てるはお社の中を転げ回り、

「おっかさん、おっかさん!」

 てるはそう叫んだ自分の声で目を覚ましました。

「大丈夫だよ、大丈夫だよ」

 気づけば女の胸に抱えられておりました。そのぬくもりの中、てるは声を殺して泣き続けました。震える肩は女にさすられ、いつしかまた深い眠りについていました。

 女は愛おしそうにてるの頭を撫で、肩を擦り続けてくれたのでした。それを見ていた男は涙を見られまいと、二人に背を向け眠りにつきました。

 翌日、てるは男と女に紹介された飾り物問屋を目指し、更に隣村へと歩くことになりました。

 かんざしを作る職人がおり、それを商いする問屋であるらしい。主人は人格者で村一番の大店だということでした。気に入ってもらえれば、その店で働くことができると女は言いました。

 てるの胸は踊りました。どんな重労働でも堪える自信がありました。更にその店に辿りつくまでは三人旅です。大八車を必死で押しました。男は楽ちんだと笑い、女はてるの頭を撫でました。 

 ところが別れの時はあっという間にやってきました。隣村は以外や近く、てるのひとり立ちの時はすぐにやってきてしまったのです。

 男と女とは名前すら名乗りませんでしたが、それでも生涯忘れえぬ二人になったことは間違いありませんでした。

 別れ際、てるの手を力一杯握った女の情は、てるの身体中に染み渡りました。

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