第17話 窮地

 青白い、冷たい光に包まれた部屋に叫ぶような女の声がこだました。


「さあ奴らを引き裂け! お前たちのような、社会のはみ出し者に打ち殺される絶望をとくと味合わせてやれ!」


 言葉を受け、怪物――先ほどまではどこにでもいるようなゴロツキであったが――はミーナたちに襲い掛かると思われた。エリーとジェフは武器を構え直し、ミーナも一応、構えを作った。

 だが、最初に怪物が狙いを定めたのはその背後に居た老女だった。


「な、なにを……!?」


 化け物は振り返ると、司書の喉を締め上げつつ体を持ち上げ、そのまま力を込める。司書は枯れ枝のような細い指で、自分を押さえつける手を必死に振り解こうとした。

 だが、抵抗むなしく、あたかも詰まった排水管が出すような、濁った音の断末魔のうめきと共に、何かが砕ける音が響いた。それとほぼ同時に、僅かながらに抵抗していた老婆の動きは完全に止まった。


「自我や知性が、僅かかもしれないけれど残っているのね。自分が侮辱された事を理解しての行動よ」


 短剣を構えたままにエリーが呟くと、ミーナとジェフは余計に青ざめた。


「獣を相手にするよりも、よっぽど質が悪いって事ですね」

「殺されずになまじ捕まったら……」


 これ以上の想像は無用だった。無用な恐怖は判断力を鈍らせることになる。

 怪物は手にした死体を投げ捨ると、おもむろに振り返る。そして、仕切り直しとばかりに再度、階上にまで響くのではないかという咆哮を上げた。

 改めて対峙するその巨体は、少女の二倍はあろうかという大きさだった。そんな怪物を眼前に、ミーナもジェフも、そしてエリーですらも震えが止まらなかった。


「ち、ちっくしょおおお!!」


 数秒、双方はにらみ合っていたが、緊張に耐えられなくなったジェフが、大上段に剣を振りかぶったまま飛び出す。

 大振りの一撃は空を斬り、避け際に繰り出された怪物の拳が少年の体を捉えると、その威力は少年の体を壁際まで弾き飛ばした。


「ジェフ!」


 悲鳴にも似たミーナの叫びが響くと、エリーは覚悟を決めたかのように唇を噛み締めた。


「ジェフくんを連れて逃げなさい!」

「で、でもエリーさん!」

「いいから! 早く!!」


 躊躇う少女を怒鳴りつけると、彼女も負けじと雄叫びを上げながら怪物へと斬り掛かった。




 壁際に倒れ、微動だにしない少年の元へと駆け寄ったミーナは、その体を抱き起こす。あらぬ方を向いた左腕と、折れた鼻からの出血、見て取れる負傷以外にも怪我がありそうだった。


「ジェフ! ねえジェフ!」


 少女の問い掛けに反応は無く、ジェフは完全に気を失っていた。


「連れて逃げろって言われても…」


 少女は震える腕で幼馴染を抱えたまま、エリーの戦いに目をやった。




 戦況は芳しくなかった。荒い息遣いと顎から滴り落ちる汗が、彼女の消耗具合をはっきりと物語る。

 怪物の、大振りな攻撃の間を縫う様に斬撃を放っても、それは僅かに表皮を傷つけるのみ。かといって、距離を置いて放つ火術も、その強化された肉体には何の意味も成さなかった。

 エリーの動きも徐々に鈍くなり、放つ火球も小さく弱々しくなっていく。


「はぁ……はぁ……」


 息も絶え絶えに、やがて防御一辺倒になった彼女は、石壁に退路を断たれる。




「どうしよう……」


 自分に出来る事は何か、ミーナは未熟な自分を呪いつつも、必死に何かをしようとした。

 そして見様見真似だが、一応、知識としては持っている回復術をジェフに施そうと試みる。


「生きとし生けるもの、全てを守り包み込む水の癒しを今この者に与え給え……」


 高々と掲げた両の手から滴り落ちる湧き水の如き光が、優しく少年の体を包み込む。その光は、かつて少女が見たものと比べれば、ほんの僅かでしかなかったが、彼の意識を取り戻させるには何とか事足りる力ではあった。


「うぅ……」

「ジェフ! ねえ起きてよ!」


 力量に見合わない高位の術のせいで、少女は軽い吐き気すら覚えた。だが、それよりもジェフの意識を取り戻させる事で頭がいっぱいだった。そして、何度か声を掛けると、やがて少年は少女の名を呼び返した。

 良かった――、だがそう思ったのも束の間だった。背後から乾いた音が響き、振り返ると、そこには窮地に追いやられたエリーの姿があった。




 手から滑り落ちた短剣は、乾いた音を響かせて石造りの床へと落ちた。エリーは首を絞め上げられたまま壁に押し付けられ、その両足は地を離れる。


「はな……し……な……さいよ……」


 異常に節くれ立ち、肥大化した怪物の指に手を掛けて振り解こうとしても、人間のそれを遥かに超えた怪力に抗う術は無かった。

 けれども、死を覚悟した彼女の予想とは裏腹に、とどめを刺しに来ない怪物は、口角を上げ、目を細めて不気味な笑みを浮かべた。それがどういう事なのかを悟ったエリーは、化け物の思い通りになるくらいなら、と自身に残された全術力を使い、己の生命を使い果たしてでも一矢報いることを考える。

 だが、首を締め上げられた彼女の意識は徐々に薄れ、引き剝がしに掛かる手も痺れ、やがてその腕も力無く垂れ下がった。その姿を見た怪物は、増々好色な笑みを浮かべたが、それも束の間、不快な感触を背に受けて顔を向けた。


「エ、エリーさんを放せ!」


 震える手でパチンコを構えたミーナはそう叫ぶと、振り返った怪物の顔面目掛けて、もう一度小石を放った。

 楽しみを邪魔された化け物は、こめかみに青筋を浮かべながら怒りに震えた。少女が再度放った小石は額に当たったが、それは怪物を刺激し逆上させるにしかならなかった。

 だが、怒り狂った怪物はエリーから手を放し、この時点でミーナの目的は一つ達成された。


「や、やば……」


 ごく低音の唸り声と共に睨みつけられたミーナは、次弾を構え直すと、再度狙いを定めた。次こそは目を潰して、と考えている間に怪物は少女目掛けて突進する。


「ひぇええ!」


 構えを解いたミーナは間一髪、その攻撃を避けると、続けざまに繰り出される猛攻を必死に避け続けた。小柄で身軽な彼女は、宙を舞う木の葉の様に嵐のような攻撃をかわし続けたが、それは逆を言えば、その体が怪物の一撃にはとても耐えられないという事であった。

 右に左に、時には化け物の股を抜けて身をかわすミーナ、伊達に野山を駆けていない体力と身のこなしだった。

 とはいえ、避けていてもどうにもならない事は明白で、負傷した二人とともに生還するには、眼前の怪物を殺さないまでも、行動不能にする必要があった。

 そして好機は訪れた。如何に怪物といえどもその巨体を動かし続けるのは相当に疲労する。疲弊し、動きが止まったその一瞬を、ミーナは見逃さなかった。

 今度こそ命中させてやる、強い意志は手の震えを一時だけれども抑えてくれた。引き絞った弦から放たれた小石は、甲高い風切り音と共に怪物の眼球を直撃した、ように見えた。

 命中の瞬間、常人よりを超える反射神経の怪物にとっては瞼を閉じ目を守る事など造作も無かった。もっともただの人間ならば瞼を閉じた所で、一時的とはいえ視力を失う程の威力はあっただろう。だが強化人間たる怪物には単に痛みを与えるのが関の山だった。


「だ、だよね……」


 怒りに燃える怪物は、痛む瞼を擦りながら少女を睨む。秘策と思っていた一撃が通じず、ミーナはひきつった笑いを浮かべるほかなかった。

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