奇人②

 全国模試でも上位に入る秀悟が、なぜ今学期の理科の成績を落としたのか。それは彼が動物を愛する、優しさに満ちあふれた人間だったからだ。

 5時間目の理科の時間、来週は生きたカエルの解剖をすると予告された。もちろん嫌がる生徒はいたが、解剖をしないからといって成績を下げることはないと理科の

先生は言った。

「うぇー、きもちわるーい」などというありがちなクラスのざわめきはすぐに止んだ。真っ直ぐに座したままスッと挙手をする秀悟に皆が注目する。

「あり得ないですよ今どき解剖なんて、時代錯誤もいいところです。」

「それは君、考えが若いよ。命を犠牲にしないわからないことだってあるさ。」

「それってなんですか?」

「臓器というのは立体的なものだから、写真を見ただけではわからない発見がある。それに、これは来週話そうと思っていたけど、脊椎に電流を流して筋肉を動かす実験をやろうと思っている。」

「それは確かに大切な学びですが、既に分かっていることをたかが中学生が確認するためだけにカエルの命を奪うなんてやっぱり納得が行きません」


「そうだそうだ!」とヤジが入る。「だから、やりたくない者はやらなくても構わないと言っているだろうが」やや怒り出した先生は、チャイムが鳴るのもかまわず捲し立てた。

「第一な、命が大事だとかそんなことを軽々しくいうなよ。死体を見ればグロイだのキモいだのというやつになぜ命の尊さがわかる?覚悟もないのに綺麗事を抜かすな」

 この剣幕に、誰もが押し黙る。秀悟はモゴモゴと「僕は別にキモいとかじゃ・・・」などと言っていたが、先生の咳払い一つで黙ってしまった。




 先週あれだけ抵抗していた秀悟だが解剖については何も触れないまま当日を迎えた。ただ朝から何か薄気味悪い様子だったので、解剖のことかと尋ねてみても「いや、まぁ、違うけど」と、曖昧な返事を寄越すばかりだった。ところが昼休みを終えて、秀悟の姿が見えなかったので、「あいつばっくれやがった」と、直樹と笑い合いながら理科室へ向かった。

 教室へ入ると四人掛けのテーブルに一匹ずつ、ウシガエルがガラスケースの中に閉じ込められていた。べタン、べタンと跳ね回る奴もいれば、どこか諦めたような顔で喉をひくつかせている奴もいた。

 予鈴が鳴り、先生がぺた、ぺた、ぺた、とスリッパを鳴らしながら廊下を歩く音がする。先週の剣幕があってか、珍しく皆静かに座っていた。昼下がりとはいえ、黒い遮光カーテンを閉め切った理科室は生気のない蛍光灯に照らされた静寂ゆえ、どこか不気味さを醸す。


ぺた、ぺた、ぺた、ぺた


スリッパの音が近づくにつれ、俺は言いようのない不安に駆られた。眼前の蛙の飛び跳ねる音が、次第に同調するのではないかという妄想めいた不安だ。全く一体になってしまったとき、果たして解剖されるのは誰なのか。ウシガエルの、皮肉にも蛇を想起させる緑と黒の斑模様が飛び跳ねるたびに、その模様はスローに動き、美しくも妖しい残像を魅せる。リズミカルに聴こえる音に対して、溶け合った斑模様だけが妙に網膜にまとわりつく。


べタン、ぺた、ぺた、ペた、ぺた、べタン、ぺた、ぺた、べタ、ぺたン、ペタ、べタん



 ガラリ

 引き戸の音が尖り切った意識を蛙から解放させた。途端に自分の乱れた呼吸に気がついいた。あれは酸欠が引き起こした幻覚だろう。

「この野郎」

 渾身の力でガラスケースにデコピンを食らわせたが、カエルはこちらを一瞥するだけでちっとも驚いた様子はない。かえってこっちの爪が痛くなったじゃないかとひどく腹が立った。だが、奴はこれから俺の手で腹を切り裂かれるのだと思えば、にわかに黒い喜びが湧き上がった。


 本鈴が鳴り、先生がプリントを配り解剖の手順を説明し始めた。妙な興奮で話に集中できない俺は、手足をモゾモゾとさせ教室を見回しては全ての蛙に敵意剥き出しのガンを飛ばしていた。すると理科室の端、電子黒板の横にある理科準備の扉がぬぅっと開くのが見えた。中からしゃがみ込んだまま這い出て来たのは秀悟だった。誰も気づいていない。なんだか面白そうなのでそのまま見ていると、片手に持ったスマートフォンを電子黒板に接続した。ディスプレイの電源を入れると画面がパッと明るくなり、さすがに何人かの生徒が気がついた。だが秀悟が口元で人差し指を立ててシーとやるので、怪訝な顔をしながらも誰も声を出さなかった。


 画面には横たわる赤ん坊が映し出された。冷たいステンレスの台に素っ裸で寝かせられ、柔らかそうな脇腹にはラベルが貼られている。【MB458831】

 映像に音はなく、先生は説明に夢中で気がつかない。赤ん坊を横から映していたたハンディカメラは正面に周り、血の気のない胸元を映す。ふと、画面に手首までを覆う白いゴム手袋と青いガウンが映り込み、手には鈍色のメスが握られていた。切っ先で当たりをつけると、喉仏の下にずぶりと沈み込んだ刃は抵抗を失っただらしのない皮膚を臍の下まで一気に引き裂いていく。意外にも血は出なかった。少し赤みを帯びた透明な体液が皮膚の断面から滲み出る。ここに来て、ようやく事態が飲み込めた生徒たちは悲鳴を上げ始めた。鼓膜が破れるほど大騒ぎの現実をよそに、無音の世界では引き裂かれた皮を広げ内臓をあらわにし、まだ頼りない肋骨をメスでバキバキと容赦無く割っていく。


「なんだ!」先生が異変に気がつき、慌てて電源コードを引き抜いたときには時でに遅し。肋骨が剥がされ動かない心臓がむき出しになった赤ん坊が、全員の網膜に焼き付いていた。

「だれだ、誰がやったんだ」先生の怒声も、あちこちで泣き喚く声に混じってはあまり目立たない。吐き気を催して地面に伏せた俺は視界の端で、這うようにこっそり教室を去ろうとしている秀悟を認めた。


「おい、寺田、止まれ」

 先生が秀悟を呼び止めた。振り返った彼の表情は珍しくこわばっていた。先生は何事 か喚いていたが、あまり覚えていない。しばらく黙っていた秀悟は徐に立ち上がって、「なんで動画を止めちゃったんですか」というようなことを言った。「こんなもん見せられるわけないだろうが」と、もっともな言葉が返ってくる。すると秀悟は震える声で反論した。


「グロイとかキモいとかじゃないって言ったのは先生の方じゃないですか」


「馬鹿かお前は!いきなりこんなもの見せつけて、学びになるわけがないだろう。お前のこれは生命の侮辱だ」


 「侮辱じゃない」


 秀悟はシャツの左袖を捲り上げ、ズボンの右ボケットから取り出した短いナイフで手首を真一文字に切り付けた。不気味に透き通る白い肌をかき分け、見る間に溢れ出た鮮やかな赤色は、急速にその勢いを失い下へ下へと肘をねっとり伝う。ワナワナと震える腕を垂直に高く掲げながらつぶやいた。「これだけやってもまだ、命を奪うには足りないでしょう」


 一変、静まり返った教室の埃っぽい床に滴る鮮血を見ながら、俺は鼓膜の内側で聞こえるはずのないドクドクという音を聞いていた。

 突如、背後で誰かが動く気配がした。臆することなく秀悟の元へ歩み寄ったのはやはり、直樹であった。


「ばーか。こんなところで死ぬなよな。寂しいからさ。うわ、もう俺ほんとに血苦手なんだからな、あー無理無理」くしゃくしゃになったポケットティッシュを乱雑に手首へ押し付ける。


 「バカはお前だよ、こんなんじゃ死ねないんだから」秀悟のうわづった声が聞こえても、俺は二人の表情を見上げられずにいた。ただ這いつくばり、無色透明に変じたしたたりを見ていた。

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