振られたので腐れ縁のチャラ男に処女を捨てさせてほしいと頼んだ結果

有栖悠姫

失恋したので


「あのさ、処女捨てたいんだよね、捨てさせてくれない水城?」


「…は…?」




真柴棗ましばなつめは約10年近く幼馴染の汐見彰しおみあきらに思いを寄せていた。家族ぐるみで仲が良いこともあり小学生までは学校でも、学校外でも供に行動することが多かった。

しかし、中学校に上がったころ彰は元々の顔立ちの良さに加え成長期で著しく身長が伸びたことも重なり、女子にモテるようになった。付き合う友達もクラスでも目立つような、所謂陽キャと呼ばれる人たちと一緒にいることが増えた。


それに伴い地味でどちらかと言えば目立たないグループに属していた棗とは学校で話す回数がどんどん減っていった。それについては彰を好きな女子から、彰と仲が良いことへのやっかみから絡まれることが多々あったため、棗を守る意味合いもあったのだろう。学校の外では小学校までと同じように遊ぶことも家を行き来することもあったので、棗としてはあまり気にしていなかった。そういうものだと納得してた。



中学、高校、そして大学でもそれなりにモテている彰は誰とも付き合うことはなかった。だから棗は秘かに期待していた。もしかして、と。学校で可愛いと評判の女子よりも、モデルをやっているスタイル抜群の先輩よりも誰よりも彰と過ごした時間は長かった。たかが数度話した、サークルで一緒になった程度の薄いつながりの相手には負けるわけがない、と自己評価低めの棗にしては珍しく自信満々だった。


だから彰が二十歳の誕生日の今日、誕生日プレゼントを渡す前に今までずっと好きだったと思いを告げた。いつもはファンデーションをつけるだけの肌には化粧下地

、ファンデーション、コンシーラー、仕上げ用パウダー、そしてアイシャドウとマスカラでバッチリ決め、服も友人と気合を入れて選んだワンピースで挑んだ。自分でも気負いが入りすぎだと少し引いたが、普段の適当な化粧で行くわけにもいかない。



「ごめん、棗の事そういう目で見たことない。それに俺言ってなかったけど彼女出来たんだ」


拍子抜けするほどあっさり振られた。それよりも衝撃だったのは、誰とも付き合うことのなかった彰が彼女を作ったのだと言うことだ。


どうにか冷静を装いながらどんな相手なのか訊ねると、同じサークルの同級生だと見たこともないような、デレデレとした顔で告げた。

名前を聞いて、ああ、あの子かと顔を思いだした。ミス東栄大に一年の時に選ばれるほどの美少女で男子たちがこぞって夢中になっていた子だ。フワフワとしたセミロングヘアー、ニキビ一つない真っ白い雪のような肌に大きな瞳、長い睫毛。掴んだら折れそうなほど細い腕と引き締まった太もも。そして小柄でどこか庇護欲をそそられる。どこからどう見ても「男が好きになる」要素満載であった。


そんな誰でも選べるような子が何故彰を、と思ったがそんなことはどうでもいい。彰もやはり「可愛い子」がよかったのだ。地味で愛想のない、取柄と言えば真面目なところだけ。化粧も面倒でほとんどせずバイト代は全て漫画に費やす、こんな女と「可愛い子」、比べるまでもない。


「彼女」のことを語る彰からはそれはそれは幸せいっぱいです、と言わんばかりのオーラが全身から駄々洩れていた。彼女は人気があるから付き合っていることを公表するタイミングを伺っていたけど、棗に話したしこれを機に皆に話すよ、と棗が告白したことなんて忘れてしまったかのように軽快な口調で告げた。


誕生日は彼女と過ごすのだと、すぐに此処から立ち去らなければ行けないと言う彰に、精一杯の笑顔を向けた。


「おめでとう」


こうして棗の初恋は呆気なく散った。カバンには渡すはずの誕生日プレゼントが残ったままだった。




そんな棗の話を目の前の彼、水城大翔みずきひろとは心底微妙な顔で耳を傾けていた。「処女を捨てさせろ」のくだりで食べようと口に運んでいた唐揚げをポロっと落とし暫し口をポカンと開けていた彼は、棗が呼び出した。奢るからとそこそこ値の張る居酒屋に、二人きりで。一通り料理を頼み、値が張るだけあって美味しい料理に舌鼓を打ちながら、やけくそ気味に振られたことと彼女がいたらしいことをぶちまけると、一瞬気まずそうな表情を浮かべた大翔はこう言った。


「彰以外にも男なんていくらでもいるだろ。すぐ側にも真柴のこと好きな奴いるかもしれないし」


俺とか、等と冗談交じりの軽口を叩いたので棗も笑い返した。大翔なりに棗を励まそうとしてくれているのだろう。


大翔は高校からの付き合いだ。背が高く明るめの髪色、とにかく良く喋る性格も相まってチャラ男という印象は否めない。高校入学時隣の席になって以来、何かと縁がありクラスは三年間一緒、大学まで同じという腐れ縁と呼んでも差し支えのない相手だ。


初対面の頃から馴れ馴れしく名前で呼ぼうとするわ、明らかにカースト上位のご友人との予定にわざわざ誘おうとするわ、とお前に壁はないのかと突っ込みたくなるほどのフレンドリーさを遺憾なく発揮していた。もちろん丁重にお断りした。


棗にとって名前を呼んでいい異性は彰だけだったからだ。初めのころはやけに距離の近い大翔を苦手に感じていたが、人は慣れる生き物で今では数少ない異性の友人である。

彰と違い、去る者は追わず来る者は拒まず精神の、悪く言えば軽薄ともいえる大翔は恋愛対象外だ。仮に彰の事が好きでなくとも、棗の好みの硬派で真面目な男とは真逆である。

なので絶対好きにはなり得ないし、大翔からしてもそんな棗は面倒ごとが起きない相手として、気が楽だったのだろう。短期間で彼女が変わり、その彼女と揉めているところを何度か目撃しているから尚更である。


だから、失恋して自棄になり、「初めては好きな人と」等と今どき重い考えを持っている棗の処女も気軽に奪ってくれるのではないかと期待した。


大翔はビールジョッキを半分まで飲み干すと深くため息を吐いた。


「…酔ってるとかじゃ」


「まだ一口も飲んでいない」


そう言いながら減っていないカシスオレンジのグラスをグイ、と前に差し出す。さっきまでウーロン茶を飲んでいた。そもそもすぐに眠くなってしまうため酔う程飲むことが出来ない。つまり今は素面である。まあ、処女を捨てさせろ、等と馬鹿げたことを言うのは酔っていないと無理だと思うのは当然だ。言った棗本人も浅はかで愚かだと思っている。


「…二人っきりで飲みたいとかいうから期待したのに…」


「?何か言った?」


小声でボソッと呟いた言葉が聞き取れず、聞き返すが「いやなんでもない」と大翔が言うのでそれ以上聞くのは辞めた。


「つまり、振られたから自棄になって処女を捨ててやろうとしていると?」


棗は無言で頷くと大翔は頭を抱えた。他人の口から聞くと本当にひどい。真面目一辺倒の面白みのない20年を送ってきた棗の口から、こんな言葉が出るとは、自分でも驚いていた。


大翔は顔を伏せたままなので表情は分からないが、恐らく呆れているだろうと言うことは分かった。


「…一応聞くけどさ、何で俺に声かけたの?」


「経験豊富そうだし、他に頼める相手いなかったから」


他の奴に頼んでたらそいつ殺してるわ、とまたしても棗に聞こえない声量でブツブツ言ってる。心なしか声に不機嫌さが滲んでいる気がした。


やはり、経験豊富な大翔でも地味で面白みのない棗のような女は面倒で鬱陶しいのだろうか。彰の彼女の、あの子のように可愛い子なら二つ返事でOKしたのだろうか。


というか失念していたが彼女がいる可能性を考慮していなかった。短期間で付き合ったり別れたりを繰り返しているため、一々把握するのが面倒だったのだ。もし彼女がいるとしたら、二重の意味で申し訳ないと言う気持ちが湧いてくる。


今更聞くことも出来ないだろうし、何やら怒ってるようなので、やはりもうこの場から去ってしまった方がいいかもしれない。それに


「…後腐れのない相手ならネットとかで探しても」


それなりに賑やかな店内ではおおよそ聞こえないだろう小声で呟いた。ネットで知り合った相手なんて正直怖いが、ちゃんとしたサイトで探せばそこまで危なくはないだろう、とぼんやり考えていたことを口に出していた。


「…は?」


顔を伏せたままの大翔から地の底から這い出たような低い声が響き、棗は硬直した。約5年の付き合いの中でも聞いたことのない、普段の明るい弾けるような声とは程遠く、冷たさを孕んでいたものだったからだ。


大翔がゆっくりと顔を上げた。その表情を見た瞬間棗の喉からヒッ…と呻き声に似た何かが漏れた。大翔は、普段から見慣れている明るい笑みを浮かべていた。怒っていると思っていたのに、笑っていたのだ。しかし、背筋にひやりとしたものを感じるし言い知れぬ違和感があった。笑っているはずなら、さっきから自分の体を支配しているこの恐怖感はいったい何なのか。


(あ、目が笑ってないのか)


そこに気づいてしまえば、明るい笑みも闇を纏った昏いものに見えてきてしまう。一見すると笑っているように見えるが、笑っていないのだ。


棗は本能的に身の危険を感じ、すぐさま席から立ち上がろうとした。が、立ち上がったのとほぼ同時に大翔に右腕を凄まじいスピードで掴まれてしまう。咄嗟の事で振り払うことも出来なかった。それよりも、右腕を掴んでいる大翔の余りの力強さと相変わらず笑っていない目の中に、気のせいかもしれないが「行かないで欲しい」と訴えかけるような、縋るような熱が垣間見えた。そういえば、こんなにじっくりと大翔の顔を見つめたことは今までなかったかもしれない。この男は、こんな顔もするのか、と初めて知った。


蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった棗に大翔は話しかけた。微笑を浮かべ、底冷えするような冷たい声で。


「何帰ろうとしてるんだよ、真柴から頼んできたくせに」


話し方だけはやけに優しいのが棗の恐怖心を増大させた。


「いや、嫌そうだったから…」


「俺がいつ嫌だって言った?…いいぞ、真柴の処女貰ってやるよ」


「っ…!」


棗は戸惑い、何度も目を瞬いた。自分の視覚から入ってくる情報と耳から入ってくる情報が一致しない。今大翔は、棗の処女を貰ってくれると言った。が、表情、声色全てから大翔が乗り気であるとは思えなかった。寧ろ、嫌々なのではという疑問が湧いてくる。


「む、無理にとは言わ」


「無理じゃない。大体真柴の方から俺が良いと頼んできたくせに、今更やっぱりなしです、は聞けないからな。候補が俺しかいなかったとしても、こんな機会逃すわけない」


そう言うと半ば強引に棗を立たせ、そのままレジへと向かった。先程と違い、今度は左手首を強く掴まれる。棗が奢ると言ったのに大翔は自分の財布から現金を支払い、再びがっちりと手首を掴むと急かされるように店を出る。そのまま大翔に引きずられる形で歩き出す。会社員らしき団体、自分たちと同じような学生の集団を横目に居酒屋が立ち並ぶ通りを進んでいく。この辺りは遊びでよく訪れているため、大翔が行こうとしている方向に何があるのか棗は分かっていた。分かった瞬間心臓の鼓動が早くなる。けして引きずられるように早歩きをしているから、だけではないだろう。



「っ!…手、離してよ、自分で歩けるから」


「離したら逃げるだろ」


そう呟いた声色がやけに悲しそうだったのは気のせいではないだろう。現に一度逃げようとしている。そう思われても当然だ。だが、棗だって最初からそういう覚悟でここに来ているのだ。当初の頼みを聞いてもらったというのに今更逃げようだなんて思わない。


「逃げないわよ、今更。最初からそのつもりで来ているんだし」


きっぱりと告げると、掴まれていた左腕が自由になる。かなり力強く掴まれていたはずなのに痕は付いてなかった。あれでもかなり加減してくれたのだろうか。


ふと今自分が立っている場所を確認しようと辺りを見渡した。そこで自分達がホテルの入り口前に立っていることに気づく。この辺りはそういうホテルが多く立ち並んでいる。金曜日だと言うこともあり、ちらほらとこれから入ろうとしている男女が目に入り、自分たちもそういう風に見られているのだと思うと急に頬が熱を持つ。今更、自分がこれから何をしようとしているのか、急激に冷静になった頭には後悔の二文字が浮かび始める。



今さっき逃げないと言い切った癖にこの体たらく、我ながら情けない。目が泳ぎ始めた棗に対し、大翔は優しく微笑んだ。今日初めて見る笑顔だった。そこにはもう、先ほどの冷たさは感じられなかった。

黙ったままだが本当にいいのか、と聞かれているようだ。


こんな馬鹿げた頼みを引き受けてくれて、まだ棗に選ばせてくれている。強引だ何だと、勝手にそう感じていたがそんなことはなった。そう気づいた時、棗の中の何かが切れた。キリッと顔を引き締め、大翔の目を真っ直ぐ見据える。


「中、入ろう」





(ラブホって中、こんなにおしゃれなんだ。友達がラブホ女子会やりたがる理由が分かったわ)



シャワーを浴び、バスローブ姿になった棗は思いのほか落ち着いてた。可愛いアメニティやら、ピンクと白を基調とした内装を眺めているとこれからしようとしていることが頭からすっぽ抜けた。テレビも壁掛けタイプでかなり大きい。映画も見放題だと冊子に書いてあったし、大翔が戻るまで何か見て時間を潰すかとテーブルにあるリモコンを手に取り、電源を入れる。


すると大画面に裸の男女が抱き合っているシーンが映し出され、女性の喘ぎ声が部屋に響いた。もしかしなくてもAVだった。BLやらTLやら、かなり過激な描写のある作品を良く嗜んでいる棗もAVを見たことはなかった。漫画や小説とは違う、生きている人間の生々しい交じり合いが視覚をダイレクトに直撃し、暫く固まってしまう。


そして運悪くガチャ、と浴室へ続く扉が開く音がしてビクッと肩を震わせ物凄い勢いで振り返る。濡れた髪をタオルでゴシゴシと拭きながら出て来た大翔は棗と同じくバスローブ姿だった。大翔は部屋に響く喘ぎ声と映し出された映像を見て、目を大きく見開いた。そこでようやく覚醒した棗は素早くリモコンでテレビの電源を消す。


テレビが消えた部屋の中は暫し沈黙が支配した。それを破ったのは


「…違うから、映画見ようとしたらたまたまえ、AV入っててそれで」


「いや、分かってるから落ち着け」


ことに及ぶ前にAVを見ているだなんて、滅茶苦茶期待している、処女のくせにいやらしい等と思われたらどうしようというネガティブな事柄が頭の中を駆け巡り、恥ずかしさで頬がカァっと朱に染まる。あまりの恥ずかしさに俯いた棗に対し、大翔は呆れることもせず、優しい声で落ち着くように促す。


「…、ここは『そんなもの見ているなんていやらしい奴だな、期待しているのか』って無理やり押し倒すところなのでは」


「漫画の読みすぎだ阿保。だいたい、漫画では許されててもリアルでやったらアウトだからなそんなこと」


素早いツッコミが飛んでくる。今度は間違いなく呆れている。漫画で得た知識が無駄に豊富な棗はリアルと漫画をごっちゃにしており、その度に大翔が諫めてくれるのは一度や二度ではなかった。


深いため息を付くと、大翔は棗が座っているベットのすぐ隣に腰掛ける。大翔が座った反動でベッドが揺れる。


「入る前はあんなにガチガチだったのに、もういつも通りかよ」


「ここまで来たら緊張しても仕方ないしね、なるようになるでしょ。何?緊張して小動物みたいに怯えていた方がいいならそうするけど」


「いや、いいわ。そんな真柴想像しただけで何か笑えてくる」


「はー!?可愛げがないっていいたいの?」


そんな軽口を暫く叩きあっていると、突然大翔が真剣な顔になった。それに釣られ棗も顔を引き締める。ああ、いよいよかと思うとやっぱり緊張してきてしまう。当然ながら右も左も分からない棗は大翔に任せるしかない。漫画で得た知識などおおよそ役に立たないことは分かっていた。


初めは何をすればいいのか、それともリードしてくれるのかと大翔の言葉を待つ。暫し考え込んでいた大翔が口を開く。


「名前で呼んでいい?」


「え?」


拍子抜けした。てっきり押し倒されると思っていたからだ。このタイミングで聞くこととは思えない。


「何で名前?」


「いや、これからスるっていうのに苗字で呼び合うのもムードがないだろ。俺そういうの大事にするタイプだから」


そういうものなのか、と棗は首を傾げる。まあ経験豊富な大翔の言うことだからそうなのだろう。一度きりの事なのにムードにまで気を遣うとは、流石モテる男は違うと感心した。そもそも無理を聞いてもらっている立場なのだから大翔の頼みは出来る範囲で聞くつもりだった。


「名前くらいいいよ、好きに呼んで。というか一々許可取らなくても」


すると大翔は不貞腐れたように口を尖らせる。その仕草が子供っぽくて、なんだが微笑ましい気持ちになった。


「お前覚えてないの?名前で呼んで欲しいって散々頼んだとき『私が名前を呼ぶのも、呼んでいいのも彰だけ』って突っぱねたじゃん」


「そんなこと言った…?」


記憶になかった。確かに棗が名前を呼ぶのも、呼ばれるのも彰だけだった。棗がそう望んでいたからだ。まさかそれを、目の前の男に伝えていたと言うのか。


「出会ってすぐの頃だな。当時はクソ真面目だなって思ってたけど、後々彰の事好きだって気づいたときは色々納得した」


「…何か人の口から聞くと重くない?私」


恋人でも何でもない異性にしか名前を呼ばれたくないし、呼びたくないなんて重い、重すぎる。もしかして彰も棗のことを重い女だと煩わしく思っていたのか。恋愛対象に見られなかったのも、これが原因か。


明らかに気落ちした棗を慌ててフォローした。


「彰がそんなこと気にするとは思えないけどな。てか付き合い長いんなら棗の方が彰の事分かってるだろ」


「…そうなのかな…って、ん」


今さりげなく名前で呼ばなかっただろうか。大翔に向き直るとしてやったり、とでもいいたげないたずらっ子のような笑みを浮かべていた。さりげなさすぎて違和感も感じなかった。


初めて彰以外の異性に名前を呼ばれ、何やらこっぱずかしくなってきた。が、不思議と耳にはストンと馴染む。まるで今まで何度も呼ばれていたようだと錯覚してしまうほど。


「ほら、棗も呼べよ。てか俺の下の名前知って」


「知ってるよ、大翔、でしょ」


大きく翔ける、と書いて大翔。どんな意味を込めて名付けられたか知らないが、名は体を表すとは言ったもので、響きから何まで大翔に合った名前だと思ってた。


すると突然大翔が顔を背ける。棗は困惑した。もしかして自分に名前を呼ばれるのが嫌だったのか、と急に不安になる。自分から言ったくせに何なんだと憤りを感じ始めた時、気づいた。耳が赤くなっていることに。


まさか、女子から名前を呼ばれ慣れてるこの男、棗に名前を呼ばれ照れているのか。そんな馬鹿な、と思ったがそうでなければ耳が赤い説明が付かない。

あんなこういうの慣れています、という雰囲気を出しておいて名前を呼ばれただけで照れるなんて、と棗は揶揄いたい衝動に駆られた。そして抑えられなかった。


「ふっ!何、名前呼ばれただけで照れてんの?そんな俺慣れてますよオーラ出しといて、変なとこで純情じゃん!他の子に名前呼ばれた時もそんな反応したの?まあある意味ギャップ萌えとかは狙えてたかも」


と、とそこで言葉は途切れた。何故なら顔を背けていたはずの大翔が真っ直ぐに棗を見つめていたからだ。目に光が灯っていない、太陽のように明るい笑顔で。


(あ、怒ってる…?)


気づいたのと大翔が棗をトン、とベッドに寝かせたのは同時だった。何が起こっているのか理解する前に大翔が棗を覆いかぶさる形で見下ろしていた。


「…初めてだから優しくしようと思ってたのに、俺を揶揄う元気があるんならそんなの必要ないよな?」


物凄い笑顔を向けられた。ひっ、と小さな悲鳴が漏れる。本日二回目の本能的な危険を察知した瞬間だった。


「ち、調子に乗りました、許して」


「駄目」


そのまま強引に唇を塞がれた。ああ、キスってこんななのかという感慨に浸る暇すらなかった。そのまま流されるように思考を手放した。






「なあ、いい加減出て来いよ。悪かったよ、調子に乗って」


ジーパンに着ていたシャツ一枚羽織っただけの大翔は無駄に大きいベッドの端にミノムシのようにこんもりとしているタオルケットの塊に話しかける。ちなみにシャツのボタンは留めてないため、鍛え上げられた腹筋が見え隠れしており目のやり場に困る。腹筋どころか色んな所を見てしまった後ではあるが、恥ずかしいものは恥ずかしい。



昨夜気絶するように眠り込んでしまった棗は、先ほど目を覚ますや否や自分のあられもない姿を思い出し羞恥の余り、二人で使っていたタオルケットを強奪し頭からすっぽり全身を覆ってしまった。突然の肌寒さに目を覚ました大翔が何を言っても顔を出してくれることすらなく、タオルケットの中でプルプルと小動物のように震えていた。羞恥で熱くなった体にはそれとは別の熱が残っている気するし、下半身、主に腰に違和感があるのも考えないでおく。


大翔はさっきから調子に乗って悪かったと謝罪を繰り返していた。自覚はあったのか、と驚いた。大翔は昨夜の宣言に反し、それはそれは優しくしてくれた。流石経験豊富だなぁ、と余計なことを考えていたら即効バレた。


「他のこと考える余裕あるんだな」


等と漫画で見たことのある台詞と底意地の悪い笑みを浮かべたと思ったら、まあ処女にはハードルが高い数々のことをされた。好き勝手されてしまった。

大翔を怒らせてはいけない、と肝に銘じた瞬間であった。



時間にして約30分籠城を続けたあたりで、やっと落ち着いてノソノソと顔を出すと安堵したように頬を緩ませる。「ごめん」と小声で謝罪すると「いいよ」と軽く返してくれた。声を出すと微かに掠れていることに気づきまた体が熱を持ち始めてしまう。


大翔の顔を見ることが出来ず気まずそうに視線を宙に彷徨わせる。棗は声が掠れていることを無駄ではあるが大翔に悟られないように、小声で告げる。


「い、今更聞くことじゃないけどさ何で頼み聞いてくれたの。あれでしょ、何年も片思いしてたのにあっさり振られた私が哀れだったからでしょ」


アハハと乾いた声で笑う。口に出すとここに至るまでの自分が哀れで仕方なくなってしまう。大翔が処女を貰ってくれた理由は分からないが、憐れみでもなんでも昨夜の色んな意味で荒れていた棗を助けてくれたことには変わりはない。人助け感覚だったのかな、と適当に当たりを付けた。


しかし予想に反し、固い声が返ってきた。


「何でってそりゃ、棗のこと好きだったから」


「…はい?」


言われた言葉が理解できず、素っ頓狂な声を出した。冗談かな、という考えは大翔の真剣そのものの表情を見た瞬間、消えた。間抜けにも口をポカンと開けている棗を気にせず続けた。


「俺、好きでも何でもない奴を抱くほど軽くないから。あと経験豊富でもないから、高1の時以来してない」


「!!」


情報量が多すぎて処理が追い付かない。恥ずかしさもすっかりどこかに行ってしまった。棗は碌に働かない頭で情報を整理した。ややあって、ある一つの答えに辿り着く。


(つまり私は、気づかなかったとはいえ自分のことを好きな相手に処女を貰ってくれと頼んだと言うこと…?)


その上、経験豊富だろうからサクッと処女を貰ってくれそう、という勝手な思い込みも追加される。自分がどれだけ酷いことをしているのかを思い知り、顔から血の気が引いた。


「ご、ごめん」


「…それは告白についての返事?」


「え?…いや…ごめん、水城の事そういう目で見たことない…」


きしくも彰と全く同じ言葉が口から出た。だってしょうがないだろう。棗としては長年の片思いが砕け散った直後なのだ。言い方は悪いが一度体を重ねただけで、彰の事を吹っ切り、大翔に靡くなんてこと出来るはずもない。むしろちょっと優しくされたくらいで大翔に絆されるようなチョロい女ではないことが分かり、心底ホッとしてた。


ここまでしてくれた相手を振る形になり申し訳ない気持ちで恐る恐る相手の顔色を窺った。


大翔は笑っていた、振られたというのに。何故だか背筋が寒くなった、デジャブか。


「うん、まあ予想通り。棗の性格上断られると思ってたし」


落ち込んでいる素振りが見られず、安堵していた。


「だからこれから口説いていく。ほら漫画でもよくあるだろ、ヤってから始まる恋。俺結構しつこいから、覚悟しろよ」


「はい!?」


眩しいばかりの笑顔でとんでもないことを言いだした。何故だ、棗は重たい処女を捨てたはずなのに、別の重たいものを背負ってしまった気がする。


「漫画とリアルをごっちゃにするな!」


棗の悲痛な叫びが部屋に響いた。























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