第4話

「神野くん、このコーヒー香り高いよ」

「カフェって言ってくださいよ。てか秋山さんコーヒー飲めましたっけ」

「そりゃあもう社会人だからね。飲まなきゃやってらんないよ」

「深夜残業の話はやめてください」

 秋山さんは湯気の立つカフェを一口啜り「おいしい」と柔らかく微笑んだ。それを見て、今日ここに誘ってよかったと思う。

 けど、今日の目的は彼女の笑顔を見るためじゃない。

「神野くん、このお菓子もなんだかよくわかんないけど美味しいよ」

「この世の美味しいものって大体なんだかよくわかんないですよね」

「確かに。じゃあ私はこのお菓子のことを理解せずともこの幸せを享受してもいいということね」

 秋山さんはまた笑う。この笑顔が見られるだけで幸せだ、なんて。

 そんな風に言いながら僕はずっと逃げていた。

 でも、それも今日で終わり。

「そういえば秋山さん」

「ん、どうしたの神野くん」

 僕が名前を呼ぶと、彼女は口につけたカップをソーサーの上にゆっくりと戻す。

 ちらりとそのカップを見れば、彼女のカフェは半分も残っていない。残り時間はかなり少なくなっている。

「ふと思い出したんですけど」

 この気持ちは次のステージには持ち越せない。

 それなら言わなきゃ。彼女がまだ僕と同じ場所に立っている間に。

 彼女がまだプティフールを楽しんでいるうちに。

「言い忘れてたことが、あります」

「言い忘れてたこと?」

「はい。それを伝えようと思って今日は来てもらったんです」

「おやおや。これはまさか愛の告白パターンかな?」

 にやりと笑いながら茶化すような口調で秋山さんが言うので、僕は思わず苦笑した。

「まあ似たようなものかもしれません」

「え?」

 彼女の拍子抜けた声を聞きながら、カフェを一口啜る。カップに半分ほどの水面から湯気は立たなくなっていた。

「大学生の頃から、秋山さんは本当にダメダメな先輩だなと思ってました」

「それ悪口じゃない?」

「大学生の頃から、秋山さんは本当に笑ってるだけで仕事してくれないなと思ってました」

「やっぱり悪口だよね?」

「大学生の頃から、秋山さんは本当に何も考えてない人なんだなとも思ってました」

「待ってこれ何の告白されてんの? 泣きそうなんだけど」

「大学生の頃から、」

 僕は足元の紙袋から花束を取り出して掲げる。

 根元から先端に向けて、白から薄い赤へのグラデーションを彩る薔薇の花束。

 目を丸くする彼女に僕は両手でゆっくりと心を差し出した。

「秋山さんは本当に素敵な人だと思ってましたよ」

 花束が僕の手から彼女の手に移ったことを確認して。

 赤色になりきれなかった僕は口を開いた。


「結婚おめでとうございます」


 僕の告白を聞いた秋山さんは少しの間だけ言葉を失くして、それから自分の手が抱える花束を見て苦笑した。

「……そういえばそういう会だったね、今日は」

「そうだったんですよ」

 秋山さんは明日、入籍する。

 相手は同じ職場の先輩だそうだ。「先輩っていうよりも戦友って感じ」と秋山さんは言っていた。僕の知らない苦楽を共にしてきた相手なのだろう。

 じゃあお祝いしなきゃですね、と集まったのが今日の趣旨だった。

 秋山さんの結婚を祝うため。

 そして、僕がきっちりと彼女を諦めるために。

「でもまさか花束を渡されるとは思わなかったなあ」

「お祝いには花かなと思いまして」

「いい男になったねえ。独り身だったら惚れてたかも」

 さらりとそんなことを口にできるのは、その気がまったく無いからなのだろう。そのことにようやく気付けた。

 だからやっぱり彼女は悪い人なのだ。

「ありがとう。すごく綺麗」

「喜んでもらえてよかったです」

「美味しい食事に綺麗な花束、そして目の前には出来る後輩。今日は本当にいい日だよ」

「それは光栄ですね」

「あ、そういえば」

 彼女はこちらを見てにやりとした。

「おめでとうの顔、できるようになったじゃん」

 グラデーションの花束の向こうで彼女の笑顔が咲く。

 僕は返事をする前に、残ったカフェを一気に飲み干した。今にも溢れそうな言葉を芳ばしい香りとともに喉の奥へと流し込む。

 ……ああ、なるほど。

 確かに、飲まなきゃやってられないな。

「そりゃあもう社会人ですからね」

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