22.悪口・後 ゠ 和義と理想の話

 そんな事を思っていたら、女侍従がひとめ息つきつつ、忠告をしてきた。


「だからスィーエさんも、心の準備はしていてくださいね」


「心の準備?」


「そうです。そういう人たちはこれからも、そういう態度この人に取りつづけると思いますし。スィーエさんもその飛ばっ散り、受けると思います」


「そうか。しかしなんだ、このまま私がここに居続ける事は、もうふつうに前提なんだな」


「あら。違いましたか?」


「いやまあ、気が進まないという事は無いが」


「じゃあいじゃないですか」


 うむ、うむ。

 理解した。

 かなかだ。


「あと、ルワリンからの風当たりも強いと思いますよ。意中の人が別の相手向いたら、憎まれるのってその相手のほうですからねえ」


「それは気が重いな」


「あのの持ち場的には、ほんのたまにくらいしか行き会わないとも思いますけれどもね。じゃあ私本当に、これで。失礼します」


 ──がらがらがらがら……ばたん。


 今度こそ、女侍従は出ていった。


 いや、苦労の絶えない魔王ではある。

 まあかすれば、つらが気に入らないとは単なる口実で、本当は少女のりように異議がるのだ、というのが本当のところなのかもしれない。

 しかし何にせよ、そのようにくさった連中がいて出るのは、この少女がそれらに対し、無害な存在でいるからだ。

 普通ならそんな事は、有り得ない。

 王のげきりんに触れたなら、ほふられほろぼされようとも何も畸怪おかしくはなく、そこに文句をけるようなからもそうは出ないはずだからだ。


 つまりおうおうは、なりちからことひつようなのである。

 なにやら無法状態であったのを、幾多もの規則で縛りいた、との話。

 しかし、どれほど立派な規則とも、取り締まる威力が存在しなければ無いも同然、そうそう守ろうとはれないだろう。


 時折、人の勝手にもうけた法などという物に縛られるはんざりだ、力によって支配がつかさどられる構造こそっとも合理的で、自然の摂理にもかなうはずだ。

 そんな主張も散見されるが、これはとらえ方が間違っていると私は考える。

 だいたい暴力など、手足が自由ならばいつでも好きな時にふるえるはず。

 そうしないのは法そのものでなく、取り締まりの威力によって返し討たれるを、単におそれての事でしかなかろう。

 これだけでもう、力による支配は成立していると言えるわけだが、そうとはなく、もっと根本的なところで取り違えが存在するのだ、と考えるのである。

 それは、法というものがなぜ通用する事になったのか、という話だ。


 そもそも、力が求められる理由とは何だろうか。

 もちろんそれは、自身が盤石でるため、自らが侵されないためだろう。

 人がそれを求めるあまり、弱肉強食という様相へとまず至った。

 実のところこれは、他の動物にはめっにみられぬ様相で、たとえば弱いおおかみが強いそれにしいたげられているかと言えば、そんな事は無い。

 みだりにちょいを入れないかぎり、放っておかれるだけだ。

 ここに、人の異常な狂暴性というものがうかがえ、あるいはなくていい争いを、浅ましくもているのではないか。

 そう疑われもするものの、異常ならば異常で、もうそれはかたが無い。

 侵されぬがためには、勝たねばならないわけだ。

 そして個人に持てるものに限りが有る以上、人の持ちうる力でっとも強い力とは、武力でも知力でも財力でもなく、人脈となる。

 その当然の帰結として、弱肉強食の果てに勝ち残るは個の集団、という結果にちついた。

 たらばその最強の力たる、集団というものを維持していくには、どうすべきか。

 くよく共存することだ。

 だからそのための方法として、めんどうごと不可べからず、という約束が追求されていった。

 その成果物が、つまり法であるのだ。


 ゆえに、平和が国是とされていたならば、その国内で面倒事を意図して起こす者は、規模にかかわらず文句なしの国家はんぎゃく者。

 あわせ、現行では禁止の規定にない行為としても、あるいはその規定自身としても、面倒事へと発展させるものならまたしかり、という事にもなる。

 そして共存こそ至上要件、これにのっとるならば人をくるに理由は要らず、人をつるほうに理由が必要、ともまた言えた。

 つまり死んではいけないのではく、死なせてはいけないのだ。


 もとより人は他の動物とくらべて、孤独に置かれる人こいしさ、認められんとする承認欲求など切実に抱え、他者に強くすがりがちなである。

 また、その他者を犠牲とする考え方を非道、非道をゆく者を非人ひとでなしとし、仲間の死や迫害に対して敏感で、これが救われんと強く願うでもある。

 おそらくは、そうでなかった者らが弱肉強食のもたらす生存競争に、およそとうされたというのが、そのよし

 ゆえこそ、善や良心とよばれるものもまた、集団の維持にっとも寄与するものへと収束するのだろう。

 そうだ、ぜんとはしゅうだんすがめのせいろんことなのだ。

 進化の指向性として、この善を定然的に獲得するのが、個の集団というものの本質なのだと、そう私は考えるのである。

 もっとたんなく言ってしまえば、これに順応しないでいる者は、劣等であると。

 あつれきを産むが本分たる勝ち負けという概念を、未だ固持する個体は知恵がおくれている、とも思うのだ。


 対し、弱虫がどれだけ集まろうがんにも成らない、脅しておびえさせれば何ひとつきやしない、そう豪語する者もいる。

 しかしまず、なぜに脅しまでして、折角そこにある力をざわざ無に帰さねばならんのだ、という突っ込みがとりあえず一つ。

 そして他の脅威から、そいつに立ちかわなければみなごろしにするぞ、とでもいいつけられたらば、自身らがどれだけで相手がどんなだろうが、お構いなしに襲い掛かるだろう。

 そも、一般にうところの強者弱者の決定的な違いとは、その他害性、なわち気概だ。

 身体はくっきょうなのに人へは手が出せない、そんな被虐者が当たり前にみられるように、両者が物質的にそう大差するわけではい。

 だからどんなごうわんとも、破れれの多勢に取り囲まれてしまえば、その突破は無茶ではなく、不可能なのだ。


 これについて英雄たんを好む者は、無敵のぎょうゆうをまこと気軽に夢想するかもしれない。

 だが人は、とっとして役に立つ物を、両手両足の四系統しかそなえておらず、うち少なくとも一つは、体勢支持をになわねばならぬもの。

 つまり、三手を超えた同時攻撃をなしきる手法を、人は持ち得ないのだ。

 逆に集団は、単純に手数が多く、多重攻撃など簡単に実現できる。

 やりや弓などでの遠隔攻撃ともあわさらば、単独の相手が手傷負わさるは完全不可避、それがるいせきすれば最終的に、かずの多いほうが定然ぜったいに勝つ。

 一騎当千の英雄なんてものは、現実にはり得ないのだ。


 もしも多勢のほうが、ばっばっさとり捨てられていたならば、それは愚かにも一人ずつ掛かるなどして、数の力を殺している場合だろう。

 少数の騎兵隊が、多数の歩兵隊を下すにあたうのだって、馬の勢いをもって突入しこれを分断少数化、ないし高速にまわり込んでの背面攻撃、などの作戦が実行可能だというだけのこと。

 単体での攻撃力的には正直、そこまでの違いは無い。

 つまり基本、個々の戦闘力にて発揮される戦術などより、作戦をもって遂行される戦略のほうが、ずっと威力は高いのだ。

 さらには、その騎兵隊すら物量で囲ってしまえば袋のねずみとなるように、手数が多ければ多いほど、戦略も千態万状に組めるのである。


 だから盤石でりたいならば、どんな者をも大切にして、少しでも大きな集団に成りあがったほうが良い。

 能力、性格、そんな事は第弍にのつぎだ。

 そしてその団結のためには、をもってしとす、という約束がもとめられるのである。

 まあ否定は衝突を生む、という原則が存在する以上は、横暴を否定してもまた和を乱すだろうから、それすら正義そのものとは言いきれない。

 それでも生き物の本分が生存であるかぎり、この考え方こそがどうしても、っとも正義に近い。

 そう思われるのだ。

 逆に言えば、だれかを排除する、などという考え方は極力、とおけたほうがいいのではないか。

 排除に固執する者が出たときに初めて、その排斥主義者こそを排斥するかどうかが、致し方なく審査されるべきではないか。


 ちからさいこうほうなのであって、これの求めらるるこそが自然の摂理。

 法とはその最強の力の権化なのであり、それが通用しているならそれは、最強の力でもって支配構造がつかさどられている状態そのもの。

 さきに出したとらえ違いとは、こういう事である。


 とは言えど、残念ながら法自体は、単なる約束ごとに過ぎない。

 思慮の至らぬあらくれどもが、じつにっさりこれをふみにじってくれるのだ。

 難しく考えなくともん殴ってしまえば、気に入らない奴なんか目の前からなくなるだろう、とたまうわけである。

 これは部分的には正しい。

 実際そのとおりだからだ。

 だがこの理屈は、自身より強き者からん殴られた場合に、何ひとつ仕事をしない。

 もちろんその相手は、単数とは限らない。


 つまり、大事なのはどんな場合でも、総合的に見てどうか、ということ。

 局所的な理だけ通せたところで、全体的な理が通せていなければゆがむ一方。

 それではなんのあくも払えないどころか、よりそれをこゆくさせ、ろくに先もとおせぬようになるだろう。

 にもかかわらず連中が、みだりに横暴を働くのは、なぜ不許だめなのか、との説明が尽くされていないせいではないか。

 そう踏んだからこそ私はつて、理由をこうして考えてみたわけだったのだが、いや。

 ある程度予想はしていたものの、私の言葉に対してなど、だれも耳なんかかたむけやしなかったのである。


 つまりそうなのだ、ひとそもそはなし不聞きかない。

 ここに諸悪の根源は、結局存在した。


 性質にさからえば、事はうまく運べない。

 そんな話も出たが、かすれば人の性質とは実際、そんな上等な、的なものではいのかもしれない。

 他の動物などにくらべれば、多少は器用なこともってのけるが、しかし本質的には獣の域を、出ない存在なのかもしれない。

 理性という物こそ、人の性質には適合しないのかもしれない。

 おくれているとはいったん思ったものの、それは逆の事であるのかもしれない。


 へいがいねんじんるいにははやぎる、のかもしれない。


 だからこそ、約束が守られないからこそ、理によるうったえがそもそも無力であるからこそ。

 この至上の約束を、かば強制的に保障するために、威力によっての取り締まりもまた、もとめられる。

 残念ながらそれが、精いっぱいの所なのだ。


 ここは、安易に武力はいぜつを唱えるような平和主義者が、よく勘違いを犯す点だ。

 それはとても素晴らしいように語られるが、しかし武器とは身を守るための物でもある、という事を忘れていないか。

 まさか、身を守ってはならぬという主張ではいだろうが、現実には武器をけてくる者が、そこにるのだ。

 物理的な威力はもちろん、言葉のやいばに至るまでだ。

 なのに武器を下ろしてしまっては、おのれが害されて終わるのみ。

 黙ってられるのがいやならば、自分も武器をかかげるしか無い。

 あるいはいっせいのせいと、総員そろって武器を下ろすに成功したとしても、後日まただれかが武器をかざしてしまえば、ろくに防御もできぬ惨状へとおちいるだろう。

 こと言葉のやいばに関しては、下ろすりにとどまるに決まっている。

 そんな合図に意味は無い。


 人へ武器をける、という考え方がいちばん最初に発明されてしまった時点で、このじゅばくからのがれるのはもうほぼ無理、と言える。

 先に武器を下ろさないかぎりかいじゅはされず、しかして先にかいじゅされないかぎり、武器を下ろすわけには行かないからだ。

 はいぜつすると言うはやすしだが、具体的なその実現方法は、未だ考案されおおせていない。

 めては、その武力でもってまずすべてを平らげつくし、最後の勝者がにらみを利かせ、暴挙を許さぬよう警察する。

 それくらいが次善策として考えうるのみで、そのためには武力というものを結局、欠かすことがきないのである。


 私がこのようにからだを鍛え、武術をみがいてきたその動機も、要するにそんなところ。

 もう二度と、この身をひとのいいようにはせぬ。

 そうちかっての事だった。

 まあ私のそんなもくみは、つい昨日、この少女にうち破られてしまったわけだが。


 とはいえ、その少女からは昨晩、物に当てるものしを大量にもらった。

 そこでは、政治とは欲深い連中をいさめる仕事、との言葉もまたひらかれわけだ。

 しかし王とは、そのかん作業を担当する警察の、後ろ盾なのではなかったか。

 つまり是も非もなく、この業務を満足するだけの武威を、まず標準で持っていなければならないのではないか。

 またこの魔王、もそも征服とうよりしろ平定を、っているのではないか。

 かつ明哲な少女ならば、平和維持の要件にくらいなど、っくの昔に考え至っているのではないか。

 にもかかわらず、せっかくの強大な魔力を行使しないなど、そんな制約をずから課すは、なんがためか。


 ……拙為だめだ、わからん。


 少女から聞きたいことを全部聞き出すには、ひと日まるまる、朝から晩までの全てを費やしてもまだ、足りないのではないか。

 そんなふうにあやぶんだが、当の少女はまだまどろみのなか。

 私も考え疲れたし、眠くもあったから、差しあたり眠ることにした。

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