20.過去・中 ゠ 価値と救済の話

「……そんなに、おかしいですか」


 失笑と受け取りでもしたのか、少女はややいぢけたような顔になる。

 れやれ。


「ああいや、すまない。そういうわけではいんだ」


 しょしょもへこんでくれる少女がどうにもちいち可愛らしく、私はただ穏やかに笑っていたものだ。

 そのうち何かをあきらめたかのように、とりなおし少女は話を続けるが、しかしその内容はささか容易でないものだった。


「まあっきりしないって言っても、ですね」


「うん?」


「それでも貴女あなたの顔。貴女あなたの色。貴女あなたの声。それから貴女あなたの言葉。その断片だけは、しっかり記憶に残ってるんです。逆に言えば、それ以外何もおぼえてないわけですし、だから状況まではちょっと、残念ながら説明できないんですけど」


「そうか。何をおぼえている?」


「そういえば貴女あなたは……ずいぶん髪が、長くなりましたね」


「ああ。伸ばし始めたのはここ数年だが、それより前の話か?」


「はい。そのもっと、ずっと前の話です。私、死のうとした事が有るんですよ」


「……」


 魔王が、自殺未遂。

 めっに聞きそうにない話だ。


 どういった事なのかと、根掘りに突っ込んではみたかったものの、話の腰を折ってはいけないと思ったから、この場ではだまって続きをうながした。


「その時、気づけば貴女あなたに、抱かれてたんです。そして、死ぬなって。生きろって」


「……」


 いや拙為だめだ、おもい出せない。

 おもい出せないくらいなのだから、そですり合う程度の出会いだったのだろうが、だとしたなら拙了しまったと思った。


 私は事情へ深入りもせずに、そんなけいちょうはくな言葉をいてしまっていたのか。

 死んではいけないのは死にたくない者だけで、なんの手助けもしないまま死にたい者を無理に生かし、ただ苦難にさらしつづける事が、善であるはずが無いのに。


 死にたがる者に対して例えば、命より大事なものは無い、命だけは取り返しがつかない。

 そんな主張を強硬にする者はたいがい、それ以外のものをないがしろにするのが常だが、取り返しがつくものなど実際には、とんど存在しないのだ。


 たとえばっとも多感なころとされる、十六歳のだれかから何かを始める機会が、奪われたとする。

 これがもし十七歳になったとき、同様の機会にふたたびみまわれるとしても、十六歳での機会がどうやっても返ってこないのは、自明だ。

 その差は間違いなく、その後に歩むであろうしょうがいに大きく影響するばかりか、不幸にもその十七歳が、永遠に訪れない場合すら考えられる。

 命だけは、というのが誤りなのであって、命に取り返しがつかないのは本当の事だから、りたいようにせてやればよかった。

 そんな悔やみを後からてみたところで、それこそ取り返しなどつかない。

 そんなものが、簡単にりあげられてしまっていいわけが無かろう。

 実はこの機会こそが、人にとってっとも価値ある物であり、失われてはならない物なのだ。


 これに対し、人は結局物質から価値というものを得ている、ゆえに物質こそが人にとってっとも大事なのだ、とせつする者もある。

 確かに、しょくが無ければ食事はきず、つまり物が必要な箇所にじゅうとうされることで生じるのが機会なのだ、のようには思えるかもしれない。

 しかし実のところ、物だけ有ってもまず機会に恵まれなければ、肝心のその消費がきないのだ。

 たとえば満腹している者へ、もしくはえんも無理なくらい衰弱している者へ、しょくを与えたところでなんら意味など成さなかろう。

 なわち、おもとき不遂使つかえなればものつも不持もたざるにおなじという事であり、だから後から物だけ取り返せばよい、などというげんにも理不尽が有るのである。

 きっと価値というものを金額換算するから、結局に同じ物質を持てれば実質同じ、との判断に至るのだろうが、そうではいのだ。

 ゆえこそ望まぬ物に囲まれていても、幸せになど成れはしないのである。


 ひとふるいのはんだんまよったら、ひとろうればい。

 たとえば親から小遣いを与えられた子が、っかりそれを紛失させてしまえば、およそ落ち込むことだろう。

 しかしこれが、かたないなと再び与えられるかぎり、子はその無念をっさり解消させる。

 ところが、失ったのがたべものや何かである場合には、そうは行かない。

 折角に買い与えられたそれを、地に取り落として拙為だめにでもすれば、まったく同じ物がもう一度買い与えられようとも、さっきのやつがよかったんだ! とね、盛大に嘆くだろう。

 金銭の場合、それが記念へいでもないかぎり、さっきのおかねがよかったんだ! とはうそうならないのに、である。


 つまりひとぶっそんりも、かいそうしつつうかくるのだ。

 努力実らぬときに人がどうこくするのは、この機会というものをかせぬままいっしてしまったからだ。

 食い物の恨み、とよばれる物の正体もこれで、次回に同じ物にりつけてもいまいち満たされないのは、食す機会をいっしたという事実がそれで無かった事にはならないからだ。

 なのに金銭であれば、補填されるかぎり失われても痛くないのは、ほかの何かと交換しないかぎりたいけんなど与えてはくれぬゆえ、それ単体では機会たり得ないからだ。

 他方で、金銭と同じく物質であるのに、宝玉をきずつけられたら悲しいのは、それを完全な状態でたのしむことが、もう二度と、きないからだ。

 だからこそ、人より物が優先されがちである一方で、人との離別や死をもいたむのは、それがその人と接する機会のそうしつを意味するからだ。

 それでいて、死別したのが縁薄き者だった場合、冷淡にも情動をさほどられないのは、その者に起因する機会が経験されなかったからだ。

 ふんをふくめ、なにかと人が記念品をのこすのは、機会をきょうじゅできたという事実が忘却されるのをおそれるゆえに、その証拠を求めるからだ。


 要は、人が価値を物質によって得ているとしても、その価値観とは物質にではなく、機会に依存するもの。

 宝玉がいのではく、それをでることがきるのがいのである。

 そして金銭とは、このように人の認識をゆがめる物であるから、だから拝金などしたほうがいいのに、と私は思う。

 実際、金銭的に大成しすぎた者はしろ、いようのないなぞの虚無感を抱えるともうが、しかしそんな事ではい。

 全然そんな事ではいのだ。

 死にたい者はだれも、そんな話などていやしないのである。


 ごく単純な話、ものとはすなわち、なんりきだっしゅつ不遂できなもの

 それ以上でもそれ以下でもい。

 実際に救いの手を差し延べ、これを本当に救わないかぎり、その者はけっして救われないのだ。


 しばしば、死にたいと言う者はただ苦しみからのがれたいだけで、本当に死にたいわけではい。

 そんな話もこれしにささやかれるが、結局はきない理由が一掃されないかぎり、なんことし得や。

 根本的な話、へいとは るいせきするものなのだ。

 だから、死んだほうがいいのでは、との念慮を持ってしまった者を放置すれば、本当に死にたい、との願望へと何時いつへんせん

 そしてやがてに、死んでしまおう、との企図がされ、到頭には既遂に至るのである。

 段階、というものがまず有って、くだの状態は単に、企図まで到達していないだけに過ぎない。

 自助不能ならば、救出される以外に解決など望むべくは無く、そのままではこの段階が、着々と進行するのみ。

 つまり本当に死にたいかどうかなど、この際なんら問題ではいのだ。

 論点そらしである。


 ならびに、お前よりほかにもっと不幸な者はいるのだから、その程度で悲鳴などげるものではい。

 そんな比較によって、たかくくる勢力もかなかにたたかだが、これがまたにもまづい。

 基本、生理的不快とは生存上での危険をしらせるものであり、対処しなくともよい不要な感覚など、発生しないものだ。

 だから、たとえば人里離れた未開の地において、もし程度によらずこれを無視しようものなら、と簡単に命取りにまでつながる。

 それがすこしかゆい、ちょっとくすぐい、のような程度でもまたしかるもので、ないがしろにすれば重大なしっかんを看過したりも、毒虫にられたりもする。

 つまりまず、程度がどうだからどうだ、との基準がそもそも成立し得ない。

 例外的にこれを、人里においてならばある程度無視できるのは、それをおぎなうだけの手当てが期待されるからだ。

 肝心のそれをずに、ただ追い詰めるだけの言葉を放言したところで、何が解決されようものか。


 あるいは苦痛に耐え抜くよう、成長を願うものなのかもしれない。

 確かに鍛えるとはそういう事であるが、しかしそれは心身を痛めつける事には、なんら違いの無いこと。

 負傷やこうじゃくはもちろん、悪くすれば不具や死までが十分に予見されるのだから、鍛錬とはもそも元気な者にしか適応しない、限定的な手法。

 あえて他者に実施するにも、観察をけっしておこたらず、無理をきたさぬよう慎重に管理してこそなのだ。

 それを、鍛錬を要すると見込まれるくらいにはもろいはずの果物を、行きなりいしつぶてのようにあつかえばつぶれてしまうのは当然で、それをるなら故意同然の重過失。

 あまつさえ、手前はこのやり方でここまで来れたと言うに、つぶれてしまうならそれは果物のほうが悪いのだ。

 そんなごうまんな無策を、恥も知らずに誇示する者の背後を見よ、るいるいではないか。

 そういう事を、鍛錬とはわない。

 ただ雑にあつかい、そのせいで壊してしまったざんがいを、たすらあしにしているだけだ。

 どれだけ損失を出せば気が済むものか、それでは成長を願うなど、ただの口先三寸ではないか。


 大体どうして、人の悲鳴をそんなに信用しないのか。

 まずそこが、私にはわからない。

 なまける目的でうその悲鳴をげる、という者が少なからずいるから、ある程度のそれは握りつぶさねばならない、という考えは無いでもかろう。

 とはいえ、集団の一割ほどはかならなまけ者に成るもの、とは少女も言ったところで、それが性質だったらば規正せんとしても、成果はまず挙がらない。

 そしてそれ以前の話、めいとはきゅうなんしんごう当体そのもの

 たとえ必要性なき救護が発生してしまう事になろうとも、けっして無視されてはならないものだ。

 それを無条件でり捨ててしまうは、本来救われるべき受難者が、一部のずるい者のあおりで苦しみつづける、との不条理な図式にほかならない。

 いわれなき罪によって人が裁かれていいはずは無く、もしそれを承知のうえでのならば、そんなものは未必の故意。

 悪意をはらむ虐待そのものだ。


 もし救助の余力、あるいは義理が無かったとしても、それはそれでめぐり合わせであって、善悪とは違う話なのだから、むなきこと。

 そんな場合には、素直にそう述べれば許されること、許されるべき事のはず。

 ただかたないにしても、助力放棄という選択自体の責は、他者へ転科できる性質のものではかろう。

 にもかかわらず、甘えるな、ひとのせいにするな、お前には努力やにんたいが足りない。

 そんなふうに、まさに苦しんでいる者自身のせいにしてめたてるは、むごくも苦痛を上乗せする追い撃ちだ。

 仮にそれが真っ当な指摘だったとしても、相手のためを思ってのならば、その相手が弱っている最中に追撃をくり出すなど、対処として明らかに畸怪おかしい。

 それでは思いやったはずの相手がつぶれてしまう、それ以外のことなど何も起こらないのではないか。


 だれかをはなすことに対する、周囲からのしっせきが、責任の転科をうながしている。

 そういった事は、るかもしれない。

 しかし、だれかを救助したいがきない、という者だって立派な受難者のはずだ。

 はなすべからずと周囲の者が言うのなら、そう言う者たちこそが手を貸せばいい。

 それが連鎖したならば、やがては大きな力となり、最終的に救われるべきと願われた者は、しかと救われるだろう。

 集団の力とは、そういうものだ。

 なのに責任どうこうなど、そんな話は受難者には、なんら関係ない話。

 そんな事ばかりっているから、死にたいとおもう者だって出てくる、というものだ。


 生きていればきっと良い事がある、ともよくわれる言葉だが、可能性としては確かに、無きあらず。

 しかし実際、苦境に置かれてしまったそのだれかは、ともしがたい障害に苦しめつづけられ、しょうすいしきっているもの。

 その良い事とやらへと、向かう気力などとんど尽き、健常な者ならば難なくこなせるはずの問題がほぼ解決不能であるからこそ、それは苦難と呼ばれるのだ。

 しょういちまつが、も全であるかのように語ってみても、そんなものはふつう的中しない。

 理解なき励ましによって、気力でもこうしんされるならばぎょうこうだが、大抵はそうはならないわけだ。

 余計にさいなまれ、追い詰められ、良い事などというわっとした言葉とは完全ぎゃくの、わるい結果をもたらめて終わる。

 その場合についての目配りをするつもりも無いままに、そんな無責任を投げつけるのが、どれほど冷血であくらつな行為か、気づかないものか。


 つての私は、気づかなかったものか。


 人はこれこそを、ぜんっただろうに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る